◆修行とマインドフルネス 「修行」は、仏教における精神の鍛錬に関する用語である。 まあ、この修行てなものは、数日間飲まず食わずで過ごすとか、寒空にお外で冷水を浴びて身体を清めるとか、洞穴やあばら家でお座りしたり寝起きしたりとか、うろうろ歩き回るとか、てなことであるが、まあ、言ってみれば貧困層あるいは路上生活者の皆さんの日常の生活である。 修行という観念自体が、托鉢だの何だのと言っても、基本的には食うに困らないごく恵まれた者の発想であるので、恵まれない者から見ると、それのどこが難行苦行なのかさえわからんものが多いのである。 修行どころではない極貧層から見ると、死ぬまで続ける当たり前の生活である。 仏の教えとされるものも、元来が、小国とはいえ王家にお育ちで何不自由なくお暮らしのボンボンが、当時は一般的であった貧困層の路上生活者の生活はどんなもんかと始めたレポートみたいなもんである。 それで、路上生活を始めてみたら、仕事もないために、やることもないわけである。 とにかく暇なので、修行という名目で木の下で目をつぶってお座りしてたら、いわゆる瞑想による効果を発見して、お悟りであるてなことを言い出したわけである。 まあ、左脳がお休みして、自分がすべてと繋がり、この世は一体であるということをご理解なさったわけである。 しかしその結果、貧困層の日常生活とも言える難行苦行には修行としてはなんの意味もなく、お座りして左脳をお休みさせるあれこれのテクニックが重要であると喝破なされたわけである。 まあ、いわば大金持ちのドラ息子の道楽による偶然の発見である瞑想の効果であるが、これが、昨今は宗教色を排したマインドフルネスてなことで、医療にも応用されて迷える衆生に光明を与えているわけである。 勘違いされると困るが、ご存じの方はご存知の通り、あたしは某禅宗寺院の総代も努めた護持会役員で、ボンボンのお弟子さんと言い張るホラ吹きが書いたティピタカのヴィナーヤ・スッタ・アビダンマをこよなく愛読する敬虔な仏教徒である。 完。 |