外観である内観 まあ、メディテーション・瞑想、座禅てなもんに「内観」という方法があるわけである。 まあ、お釈迦さん以降の仏教におけるヴィッパサナー瞑想(観行)や白隠禅師の内観法、吉本伊信の内観法(内観療法)てなところが有名であるが、これは心理学でも自分自身の精神状態を観察する方法としての内観という方法がある。 つまりは自分の心の中を覗き込んで「なーるほど、おいらの心の中はこーなってるのか、ほほう」と観察する方法であるのである。 まあ、どの方法も、だいたいがそれによって、不安定な心を操作して安定させることを目的としているわけであるのである。 それで、これは心の中つまりは内部を観るという作業をするわけであるので「内観」というわけである。 内なるものを観るわけでであるが、これ、それではどこから観るのかというと、これ、外から観るのである。 自分の意識が外にあって、そこから自分の心の内部を観るわけである。 つまり、内観は外観であるわけである。 自分を外側から観るのである。 ここがね、わかったようでわからないところであるのであるが、実に重要な問題があるのである。 まあ、この自分の内面を客観視するという作業はこれ、人間以外の生命体にはない作業であるのである。 これは地球上の生物で脳が人類に一番近い類人猿のチンパジーやオランウータンでも不可能な作業であるのである。 まあ、いってみれば人間だけに与えられた非常に高度な脳の機能であるわけである。 この作業には大脳新皮質の内側前頭前野つー部位が活性化するのであるが、それを恒常的に行えば当然その部位が肥大し、その能力が高まるのである。 まあ、その自分を客観視するということは、あなたの中にもう一人の自分を置き、それがあなたを観るということでもあるので、あなたは別のもう一人になるということであるのである。 まあ、いわば意識のクローンであるわけであるが、その意識のクローンにより、本体のあなたの内部を観察し操作することが内観てなことであるわけである。 まあ、たとえば上がっている気を丹田と足に下げたり、緊張している意識や身体を緩めたり、あるいは特定の部位に気を送り覚醒させたり、つまり本体の精神と身体を操作するてなことであるわけである。 気がわかるようになると、さらに自分のクローンである想念としての自分を外に出して、本体からそのクローンである想念としての自分を操作するということもできるのである。 本体からの操作されている自分のクローンである想念は、取りも直さずその操作しているはずの本体でもあるので、自分のクローンである想念を操作することは本体を操作しているということでもあるのである。 つまり、客観は主観であり、主観は客観であるのであある。 この作業によりさらに内側前頭前野は活性化され、客観視の能力は高まるわけであるが、それで何か超能力が備わるとか、未来がわかるとか、神に近づくとかてなことではないのはもちろんであるのである。 |