まあ、氣をつかめる速度がわかれば、気道は手を振るだけでも開き、動けば即それ気功となるわけであるが、そのためには、全身の氣道があらかじめ開かれていなければならないのである。 矛盾しているわけである。 氣道を開くためには、氣道が開いていなくてはならないのであるから、その氣道を開くために必要な氣道を開くメソッドが必要になってくるわけである。 生まれつき氣道が開きやすい者や、気功、ヨーガ、太極拳など、氣に関する経験により氣道が開きやすい方は、べつに、氣道を開こうとしなくても、意識を送るだけで、氣道は開き、身体の周囲に充満する氣の海を捉えることができるのである。 しかし、まあ、象気功をお読みの多くの氣に関する初心者あるいは未経験者の場合は、どこへどう意識を送ったらいいのかなんてことはわかるはずもないのである。 その氣道を意識で開く方法が「神が体内に宿る」ということであるのである。 しかし、またこれも氣がわからないものには、なんのことか理解できないことであるのである。 どこをどうしたら、神が体内に宿るのか、そのこと自体がわからないわけである。 神はこの世に厳然と鎮座ましましておられるわけであるが、その鎮座ましましておられる場所がわからないのであるから、それをどう体内に呼び込むのか、宿らせるのか、わからないわけである。 その神の鎮座ましましている場所は「想う」ということであるのである。 「神を想う」のである。 神は想えばそこに鎮座ましましておられるのである。 体内に想えば体内に鎮座ましますのである。 神をあなたが想ったとき、あなたの身体は神体となるのである。 これがつまり、神の社(やしろ)である。 あなたが神を想ったときに神は神の社(やしろ)であるあなたの神体に瞬時に鎮座ましまされるのである。 そのとき神はまさにあなたと共にあるわけである。 神とあなたは一体であるわけである。 あなたが神であり、神があなたである。 しかし、神を想ったときにその神が鎮座ましましておられる場所は体内ではない「神の場所」である。 あなたが神を想い、あなたの身体が神体となり神の社(やしろ)となったときにあなたの身体に鎮座ましましておられる「神の場所」はあなたの身体ではないのである。 しかし、同時にあなたの身体は神体となり神の社となるのである。 これはつまり、あなたの身体が「神氣の通り道」となるということである。 続く。 |
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