神とはなんであるか。 宇宙とはなんであるか。 生命とはなんであるか。 存在とはなんであるか。 それを問うために人はこの世に現されるわけであるが、誰もそれを体現することなく、人生をあっという間に終わるわけである。 まさに、「あっという間」であるのである。 何も考える暇もないくらいの一瞬である。 この「一瞬」ということは生を終わる間際に認識できるのである。 生命とは一瞬の閃光である。 その閃光を捉えることが、人がこの世に現された所以(ゆえん)であるのである。 これは、総てを諦めたときに捉えることができるのである。 総てを諦めるということは、総ての欲を捨てることであるのである。 完全に無欲になるということであるのである。 総てを諦めること、つまり、総ての欲を捨てることが煩悩からの脱却であり、悟り、解脱であるのである。 しかし、この諦念ということができないように、人間のDNAは設計されているので、誰も総ての欲を捨てることは、できないようになっているのである。 DNAとは欲望と同義である。 だから総てを諦めるというのは、つまるところ現世を終わるということである。 生というのは言い換えれば欲ということである。 だから、この世に生あるものには、神も宇宙も生命も存在も、それがいったいなんであるか永遠にわからないのである。 つーことで、神のお告げお授けも閃光とともに線香花火のごとくパチパチはじけて雲散霧消とはかなく消えて、蛍の光に団扇の風で風安曇、わたしのこころはあらいやん。 だめだ、やっぱりお笑い霊能芸人だから、文章に詩心がないよね今ひとつ。 ううむ、このくそ忙しいときに、1台のパソコンは完全に壊れやがるし、そうこうしているうちにもう1台の方もぜんぜん動かなくなってきたので、しょーがないから、リカバリーディスクを探し出して、工場出荷状態てな状態にしたらば、ぜんぜんインターネットにつながらなくなって、あれこれやってたらなんとかつながって、それから、使える状態にするまでに3日もつぶれてしまったのである。 リカバリーすると3日つぶれるということがわかったのであるが、さすがにそれ以前とは動作が比べ物にならないくらい快適であるのである。 いわゆる超サクサクであるのである。 超の上にサクサクであるのである。 クサクサでもいいのである。 なんならクササクササでもいいのである。 さらになんならああくっさーでもいいのである。 もちろんやけくそであるのである。 ううう、どーでもいいのであるが、とにかくリカバリーはあとの処理がものすごくめんどくさいのである。 さてさて、それで、本日のお題の「氣をつかむ速度」であるのである。 本日は氣をつかむには時速何キロぐらいの速度にすればいいのかというよーなことで、一席お伺いするわけである。 何を時速何キロにするのかというと、身体を動かす速度であるのである。 氣をつかむには特に「手」が重要である。 「手」に、この世に充満する「氣」あるいは「プラーナ」あるいは「クォーク」あるいは「霊気」あるいは「神気」あるいは「霊波」あるいは「波動」を捉えなくてはならないのである。 手による「感覚」を脳で認識するということが気功であるといっても過言ではないのである。 それで、その動く速度の典型が太極拳であり、気功の八段錦の動きである。 まあ、太極拳なんかは、その技を習得、修練する過程でこの「速度」ということに気がついたわけである。 だから、太極拳というのは気功としても大変すぐれたメソッドであるわけである。 これは、武術太極拳でなくても、いわゆる格闘技としてはなっちゃない健康太極拳でも氣をつかむということに関しては、効果は同様である。 いえい。 しかし、その動きの「速度」が氣をつかむことができる速度でなければならないのである。 これは遅い分にはいくら遅くてもかまわないのであるが、速さということになると、ある一定以上の動きの速さは、「氣をつかむ」ということに関しては限度があるのである。 ある一定以上の速さになると氣をつかむことができなくなるのである。 これは、各種気功法でも同様である。 その「速さ」は自分で試して確認するしか方法はないのである。 ここが、「氣」のどうにもならない部分である。 かの、伝説の大達人の王向斉(おうこうさい)大先生も「氣を教えることはできない、自分でつかむしかない」てなことを喝破なされているのである。 まあ、結論からいうと、できるだけゆーっくりと動けばよろしいっちゅーことであるが、いつもいう通り、それで氣をつかめるかとどうかはあなたの神様、DNAの思し召し次第である。 象気功はメソッドを提示するだけである。 ちゃんちゃん。 いらんだろ。 いえい。 さらにいらんだろ。 続く。 |
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