象気功
本日の御神託



人生がうまくいかない場合の対処法その2


ということでその2である。

まあ、この世で人生がうまくいってると思ってる人はほぼいなくて、ほとんどの人が「ああ、なんて自分は運が悪いんだろう」と何かにつけ嘆いているわけである。


だからどこの神社仏閣も老若男女にかかわりなくお参りの人が絶えず、神さま仏さまは大忙しである。

金が欲しい、地位が欲しい、学歴が欲しい、健康が欲しい、長寿が欲しい、安全が欲しい、妻が欲しい、夫が欲しい、子供が欲しいと、あれこれ勝手なことを神仏に願ってお賽銭を投げ入れたり、お守りを買ったり、お札を受けたり、祈祷やお祓いを受けたりしてるわけである。


もちろん、神さま仏さまの方も「氏子でも檀家でも信者でもねーのに、困ったときだけ来やがって」と、にべもなく願いにはこれでもかと神罰仏罰を持ってお応えになるわけである。

神社仏閣で願い事をするのは禁忌である。


すべからく「ありがたいありがたい」とお礼を申し上げるのがご利益を受ける正しい作法である。

まあ、そんなことはどーでもいいが、おいおい、どーでもいいのかよ。


とにもかくにも、つまり、神社仏閣における願いごとは、どれも「欲」である。

この「欲」こそが人生がうまくいかない原因である。

欲を捨て、今の自分に満足することこそ人生の奥義である。


そこかよ。

「自分の才能を見極める方法」はどこへ行ったんだ?

そんなもんあるわけねーだろ。

おいおい。


つまり、「才能」は自分ではわからないように神という名のろくでなしにプログラミングされているわけである。

それが簡単にわかってはこの世は成功者だらけという実にアンバランスでナンセンスなことになるのである。

自分の欲と才能が一致する一握りの成功者と、自分の欲と才能が一致しない大多数の失敗者がいて、この世はうまく機能するようになっているのである。


もちろんその成功者の「人格」とは関係なくて、非人間的なものが為政者あるいは支配者となり、非人道的な行いの限りを尽くしてお楽しみになる場合も多々あるのは歴史上も現在もおなじみのあれこれである。

まあ、そんなことはいいとして、よかねーだろ、ハイハイ、えーとなんだっけ?


とにもかくにも自分が「欲と才能が一致しない失敗者」の方にプログラミングされた人間であると気づくことである。

まあ、それを言っちゃ元も子もないので、あたしらごみ屑は何をもって生きるよすがとするのかということである。

「神のお告げ」に頼ることである。


たとえばご存じの方はご存じの通り、あたしは子供のころからの重度の喘息だったのであるが、豊川稲荷に行く途中の古い油による食あたりによってリノール酸の害を知り、気功に出会ってその過程で氣道をつかみ、胸の網目状の氣道を開くことによって完全に治ってしまったのである。


胸の網目状の氣道の狭窄あるいは閉塞に喘息の原因があるとは医学会も知る由もないわけであるが、あたしは神のお告げでやってみたら治ってしまったわけである。

重度の喘息患者の方はご理解いただけると思うが、これ「人生がうまくいかない」どころではないのである。


重度の場合は日常的に何かにつけ喘息の発作が起きて、眠れない歩けない走れない動けないは元より、常に死と隣り合わせの絶望的な毎日である。

それが完全に治ってしまったのであるから、その後は何があろうが天国極楽である。


ということで調子に乗ったあたしは気功を教えるかたわら競技ダンサーとなりA級となってある意味栄耀栄華の日々であったが、ダンサーの職業病で椎間板ヘルニアになり激痛で身動きが取れなくなってしまったのである。

誰がダンサーだ。

まあ、とにかくまた歩けない走れない動けない日々の再来である。
人生は苦あれば楽あり楽あれば苦ありである。


そんなのんきなことを言ってる場合ではなく、ヘルニアはどんどんひどくなり、ご経験の方はご存じの通り、歩くのも大変で、100円ショップで買った杖をついて、夜は寝返りさえもきつく、朝は壁につかまって立つのも大変で、腰の周囲が腫れてパンツもはけない状態で、「ああ、人生は終わった、これはもう、手術するしかない」と絶望していた折にひょんなことから家庭菜園に出会い、これが楽しくて、死ぬほど痛いのを我慢してしゃがんで草むしりをしていて、頭を下にし尻から立ち上がったら痛くないのである。


「えええええええ?あららららら?ヘルニアはどこへ行った?どうなったんだ?」と大げさでなくそのとき心底驚愕したのであるが、治ってしまったのである。

しかし、しばらくすると元に戻って、いててててと歩くのも四苦八苦であったが、草むしりして頭を下にして尻から立ち上がるたびに治って、これがどんどん良くなって、その後ほぼ完治してしまって、腰に一番負担のかかるスコップまたはシャベルでの穴堀りや土起こしをしてもなんともないのである。


これ、何が言いたいかというと、すべて「出会い」であるということである。

あたしが気功に出会って氣道の存在がわからなければ、おそらく喘息の発作で息が詰まってとうの昔にお亡くなりになってるだろうし、家庭菜園に出会わなければ激痛で歩けなくなって手術台に横たわって泣いていたわけである。


人生がうまくいくいかないどころではなく、生死の分かれ目、人生の危急存亡の時を、気功と家庭菜園に出会っていきなり天国極楽への道となったわけである。

こほどさように何かにつけ、人生がうまくいかなくて困ったときは、しばらくすると神のお告げで解決してしまうのである。


つまり、「神のお告げ」とは「出会い」である。

「人生がうまくいかないときの対処法」は「出会い」のサインを見逃さないことであるが、ところがこれもみごとに見逃すように神という名のろくでなしにプログラミングされているので、たいていの場合、そのままお亡くなりになったり、手術してもたいした効果はなくて歩くのも苦労する人生になったりするのである。


運命はなるべくしてなり、ならないべくしてならないようにできているのである。

なるものは放っといてもなるし、ならないものはどんなに足掻いてもならないのである。

流れにまかせて現在を生きることである。


現在の状態があなたの「才能」ということである。

欲しても願っても努力しても行く末は同じであるし、欲しなくても願わなくても努力しなくてもなるものはなるのである。

ちゃんちゃん。

それいらねーったら。

しょーがねーな、ハイパーグラフィアはよー。
(2021・12・22)


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