象気功
気功の穴
象気功

本日の御神託
うずらとガマガエルの不思議な話



彼岸である。

抹香くさくて、人によっては興味のない 鬱陶しい話ではあると思うが、まあ 、 あたしも 神も仏もない無神論者とは言いながら、そこはそれ、戒名等を調べて分かっているだけでも鎌倉時代以前から 方丈の流れを汲む、700年以上続く一族の総本家当主として、親族 親戚 並びに ご近所世間様とのあれこれのそれこれがあるわけである。

それでお彼岸になると、まず墓のお掃除に行かなくてはならない のである。

これが、一般の墓のように霊園や寺墓地であれば管理費用を払えば お掃除もくまなくしてもらえるので問題はないが、我が家の墓は、場所は旧鎌倉街道から奥に入った所有地内の裏山の上で、前述の通り 北条の流れを汲む700年以上続く一族の総本家であるので、50坪ぐらいある とんでもない広さで、巨大な黒御影石のカロート(納骨室)を中心に、誰の墓石かも判然としない 古い墓石が数十基もあるような広さである。

50坪というのは少なく見積もった広さであるが、実はこれが現在の広さで、その前はもっと だだっ広くて、その三倍ぐらいあったのである。

あたしの幼少のみぎりに覚えているのは 、その頃の葬儀での近所の組合と言われる人たちの仕事は 土葬のための墓穴掘りである。

どこの僻地かと思われるような話であるが、 もちろんあたしは江戸っ子で、東京都の話である。

土葬の墓穴の深さは2メートル以上としなければならないと法律で定められている都合上、棺桶ごと埋葬するため、棺桶が丸々入るほどの穴が必要になるので、実際には深さ3メートルぐらいの巨大な穴を泥だらけになって 掘らなければならないのである。

それでその苦労に報いるために、葬儀の後の食事会、いわゆる「お斎(おとき)」と呼ばれる精進落としお清めでは飲めや食えやの大接待の 下にも置かないもてなしで、 家族が亡くなって不幸のどん底にある施主の家族とすれば、面倒くさいことこの上ない仕組みであったのである。

もちろん 古来より土葬であったので、700年の時を経て 墓地が果てしなく広がったわけである。

それを、石屋さんを頼んで墓を掘り起こして、 誰のかわからん骨を一緒くたに集めて、それを火葬場に持って行って まとめて焼却して、ううむ、焼却ではゴミか、まあいい、 基本的にはゴミみたいなもんだし、おいおい、まあとにかく、膨大な量の骨を焼いて縮小して、一緒くたにまとめて長四角の大きないわゆる骨壷に入れて、カロートに納めたのである。


それであちこちに点在していた 数十基の墓石を墓地内に適当に配置して、崩れてわけのわからなくなった墓石は一箇所に集めて縁石で囲って、墓地の周囲を白御影石の羽目・欄間・玉垣等で囲んで、先祖代々の中で分かっている皆さんの名前と没年月日を刻んだ墓標と墓前灯篭を建てて、階段と敷石・拝み石と物置台の石なんかを設えて、周囲には徹砂利・玉砂利を敷き詰めて、入り口両サイドには玉柘植を植えて、その費用が 家一軒建つようなアホみたいな金額で、あたしみたいなろくでなしからすると非常にばかばかしいあれこれであるが、そんな家に生まれてしまった当主として 神の思し召しは実にありがたい限りである。

話の脈絡が見えませんが、何言ってるの ?

さあ あたしにもよくわかりません。

とにかく、その広さであるから、一日がかりでほうきと熊手と植木鋏と草刈り機を持って、さらに水のタンクと雑巾とバケツとタワシとあれこれ持って、狭い道路の先にある墓の掃除に行くために買った軽自動車に乗って、お掃除に行くのである。

もちろん 盆暮れ彼岸がないと あたしみたいな神も仏もないろくでなしは 墓の掃除も墓参りもするわけがないので、特に親族関係者が 否応なく大挙して墓参りに押しかけて来る 総本家としての我が家の退っ引きならない事情も含めて、 彼岸とお盆は実にうまくできた墓掃除のシステムということになるわけである。

こっちはたまったもんじゃありませんが。

まあとにかく ここまでは話の枕である。

長げー枕だな。

本題はここからで、まあ これ何かの折にもネタにしたことであるが、 お彼岸ではなく お盆の時の墓掃除の話である。

実に不思議な話で、墓地の前には 車1台が通れるか通れないかの広さの いわゆる 参道があって、数年前に 墓掃除のために そこを掃除道具を持って歩いていると、目の前の藪の右側からうずらが出てきて ひょこひょこと 歩き出したのである。

その後から そのうずらの子供と思われる小さなうずらが数匹ちょこちょこと ついて行くのである。

あたしがいても構わず、 例のカルガモの親子のように連れ立って 反対側の藪に入って行くのである。

「はて不思議なこともあるな、これは何だろう」と思って、見に行くと、うずらが出てきた 藪の中で大きなガマガエルが座って あたしを見ているのである。

ガマガエルは、まあ カエルについて詳しくないので ヒキガエルかもしれないが、とにかく その大きなカエルは逃げることもなくあたしを見ているのである。

いずれにしても、あたしはうずらにもガマガエルにも興味がないので、そのまま掃除道具を持って墓掃除を済ませて帰ってきたわけである。

それで 翌年 墓掃除に行くと、同じ辺りから またうずらの親子が出てきたのである。

あたしもさすがに あーら びっくりねであるが、 出てきた 藪の中を見ると、やっぱり ガマガエルがお座りしているのである。

一年365日のうちの同じ日の同じ時間に、つまり千載一遇の時間と場所に、 二度も 偶然にうずらの親子がひょこひょこと歩き出して、その奥に偶然にガマガエルがお座りしているということは、どういう生態系の問題なんだろうかと いくら思案してみても、 丸いケーキを三つに等分できないIQ140の境界低知能のあたしには さっぱり理解できないのである。

それで 今年もお盆に墓掃除に行くと、やっぱりうずらがひょこひょこと歩き出したのである。

それで その先にはやはり ガマガエルがお座りしていて あたしを見学しているのである。

まあつまり 毎年同じ日の同じ時間に墓掃除 に行くので、 子育ての都合で毎年 ちょうどその時間に うずらがヒナを連れて 何かの訓練に出かけるということかもしれないわけである。

また ガマガエルは そこに巣穴があって、出たり入ったりしてるのかもしれないのである。

これが世代を代えて引き継がれていると考えるのが妥当である。

しかし、当事者のあたし的にはどう考えても お盆に帰ってきたご先祖様が、うずらとガマガエルに乗り移って、だだっ広い墓の掃除に辟易しているあたしに「今年もご苦労様」と言って 出迎えてるとしか思えないのである。

無神論者の面目丸つぶれである。

ありがたいありがたい。

一応ご先祖様にお礼を言っておくのである。

一応 かよ。

何事もやらないよりマシである。

そらそうだ。

それで 図鑑で調べてみると、うずらと思い込んでいたが、ひょこひょこと歩く時の首が長いので どうも土鳩の親子らしいのである。

もちろん どうでもいい話である。

(2023・09・25)


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