SVA東京市民ネットワークNEWS LETTER準備号第1号

『文化・開発・NGO』ティエリ・ヴェルヘルト著を
読んで思ったこと

田之畑高広

 近頃SVAから足が遠のいていて、兼ボラについて意見をいえるような立場ではないのですが、本の感想と合わせて僕が考えていることを二、三書いてみます。
 この本の著者はキリスト教系のNGO「プローデルリーク・デーレン」に属し、すでに15年以上にわたって第三世界諸国の開発援助に携わってきており、また「文化と開発・南北ネットワーク」の所長をつとめている人です。僕のように本の帯に書かれている“「援助大国」日本に最も欠けている理念、情報、ノウハウ”という文字を見て手にとった方も多いだろうと思います。まえがきでも書かれている通り何よりもNGOに向けられて書いたものであり、とりわけ進歩的な開発援助機関に呼びかけています。
 第三世界のここ数十年での貧困と食料不足と人権侵害の拡大の現状をあげながら、これまで開発に大きな位置を占めてきたロストウの「追い付き理論」をきわめて純粋な欧米の自文化中心主義の理論であり、欧米モデルを普遍的な問題として提示していることに批判的検討を要請しています。しかし筆者が肯定するフランクやアミンらが唱えた世界経済は中心と周辺との組織的な搾取関係と説明する「従属理論」も開発を単一的文化に捉えており、土着文化に対するこのような無意識こそ、これまで行われた開発の努力が直面した失敗や困難の根本原因の一つだと指摘しています。筆者は土着社会の文化は複数中心的な権力分散モデルやコンセンサスに基づく民主主義の萌芽を、その内に秘めている西洋文明とまったく異なったものであると考え、むしろ行き詰まった西洋文明よりも可能性に満ちていると指摘しています。
 わかりやすい例を引きながら多国籍企業や国連、世界銀行・IMFの問題などに触れ、ラテンアメリカの「解放の神学」や信仰が必然的に社会的、政治的行動につながったヒンドゥー教に根づいたガンジーの例を引きながら民衆の生活と精神的伝統に真に根を下ろすことによって、人々を解放し、動員することができる可能性を述べ、「第三世界」では否定的な意味で使われることになってしまったが、開発とは文化的とでもいうべき総合的な課程であって、経済的活動、政治的決定、団体生活、技術的手段などに意味ある方向を与えるものであって事実、文化こそが開発にその存在意義と目的を与えると指摘しています。
 この本は1990年にイギリスで出版されたものです。この本の中でも高く評価されているような識字を通した民衆を自立させるためのパウロ・フレイレの教育論や従属的な民衆を生み出す産業化された学校や病院や文化を批判してきたイバン・イリイチなどが日本ではずいぶん読まれてきたと思いますが、「単純にルーツに回帰する(伝統主義や懐古趣味)ことではなく、ルーツに帰依しつつ、各民族がその遺産のなかに生きがいと、生きる手段を見出し、アイデンティティを回復し、必要であればさらに変革する」というこのような問題意識は、はたして現存の「進歩的な開発援助機関」NGOの多くに欠けているのか特に日本の場合は議論になるところだろうと思いました。個人的な意見を言えば、僕はSVAのようなNGOはこのような文化の問題を非常に重視しているように思えます。これは著者が西洋の文化で育った人であり、僕たちが比較的アジアの文化を理解しやすい環境のなかで育ったためと思われるのですが。むしろ僕は日本のNGOは世界経済の「先進国」と「第三世界」という生活のなかにしっかりと組み込まれた構造的な問題の把握の方が弱いのではないかと考えています。そのためには2か月に1回くらいの学習会ができればと思います。
 また、「第三世界」の文化を一枚岩的なものに考えたり、希望を簡単にそこにたくすような立場で見るのではなく、この本の第四部のように支配者の文化の権威と民衆の文化の長い時間をかけた日々の「闘争」を通して民衆の不定型な常識のうち良質な部分を自発的な行為まで高めていくような対話による民衆の交流の手段が大切なのではないだろうかと思っています。その点、この本の中で現代もアフリカで多くの女性に行われているような割礼の問題などは筆者の立場がはっきりしないと思いました。
インドの社会活動家の「まず自分の国で戦うべきです。われわれの問題の根はその多くがあなた方の国の体制、制度にあるのですから。」ということばが印象に残りました。


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