刑法 昭和60年度第1問

問  題

 甲女は、生後四箇月の実子Aの養育に疲れ、厳寒期のある夜、人通りの少ない市街地の歩道上に、だれかに拾われることを期待してAを捨てた。そこを通りかかった乙は、Aに気付き、警察署に送り届けようとして、自己の自動車に乗せて運転中、過って自動車を電柱に衝突させ、Aにひん死の重傷を負わせた。乙は、Aが死んだものと思い、その場にAを置き去りにして自動車で逃走したところ、Aは、その夜凍死した。甲女及び乙の罪責につき、自説を述べ、併せて反対説を批判せよ(道路交通法違反の点は除く。)。

答  案

一 甲女の罪責

1 甲女が生後四箇月のAを捨てた行為はAの生命、身体を危険にさらすものであるから「幼年者」を「遺棄」したものといえる。甲女はAの母親でありAを「保護する責任のある者」であるから(監護義務、民法八二〇条)、甲女の行為は保護責任者遺棄罪(二一八条)の構成要件に該当する。

2 この点、甲女はAを「厳寒期のある夜、人通りの少ない市街地の歩道上に」捨てており、Aの死の危険を生ぜしめたものと認められるので、殺人罪(一九九条)の責めに問うことも考えられなくはない。
 しかし甲女は「だれかに拾われることを期待して」Aを捨てており、Aが死亡する蓋然性を認識していない。したがって甲女には殺人罪の故意(三八条一項)が認められず、殺人罪は成立しない。

3 ところで、本件ではAは最終的に死亡している。そこで、甲女に保護責任者遺棄致死罪(二一九条)の責めを問えないか。本件では甲女の遺棄行為とAの死亡との間に乙の行為が介在していることから「よって人を死傷させた」といえるのか、遺棄行為と死亡との間の因果関係が問題となる。
 この点、刑法上の因果関係の存否については、実行行為と結果との間に「あれなければこれなし」という条件関係さえあれば足りるとすれば、本件でも甲女が遺棄しなければその後の乙の一連の行為によるAの死亡という結果も生じなかったであろう以上、甲女の遺棄行為によってAを死傷させたといえることとなろう。
 しかし刑法上の因果関係は実行行為をした者に結果を帰せしめるのが適当かという法的帰責の可否の問題であり、自然的因果関係の有無の問題とは異なる。また、条件関係さえあれば足りるとすると、極めて偶然に生じた結果についても行為者に帰責されることとなり、処罰範囲が広きに失し適当でない。刑法上の因果関係の存否は条件関係の存在を前提として、行為から結果が生じることが一般人の社会生活上の経験に照らして相当といえるか否かで決すべきと解する。
 それでは右相当性はいかに判断すべきか。
 思うに、本件のように行為後の事情が介在する場合の因果関係の存否は、問題となる結果が行為者の結果に帰せしめることができるものかそれとも介在事情に専ら起因するものかという問題である。
 そこで、因果関係の相当性については(ア)行為自体の結果発生の確率の大小(イ)介在事情の異常性の大小(ウ)介在事情の結果発生への寄与の大小を総合的に考慮して決すべきと解する。
 本件では、(ア)厳寒期の夜に人通りの少ない市街地の歩道上に生後四箇月の幼児を捨てる行為は死亡結果発生の確率の高い行為といえるが、(イ)子供を拾うような徳心ある者が事故を起こしその上子供が死んだものと勘違いして子供を置き去りにすることは極めて異常といえるし、(ウ)乙の置き去り行為はAが凍死する直接の原因であり結果発生への寄与度は極めて大きい。
 したがって甲女の遺棄行為から本件結果が生じたというよりも、一般人の社会生活上の経験に照らせば、その後の事情から生じたという方が適切なので、因果関係の相当性は認められない。
 よって甲女の遺棄行為と死の間には因果関係が認められず、甲女は保護責任者遺棄罪(二一八条)の責めを負うにとどまる。

二 乙の罪責

1 乙がAを自動車に乗せて運転中、過って自動車を電柱に衝突させ、Aにひん死の重傷を負わせている点、業務上過失致傷罪(二一一条)の責めを負う。

2(1) 次に、Aを事故現場に置き去りにし、その夜Aが凍死している点は、保護責任者遺棄致死罪(二一九条)の客観的構成要件に該当する。なぜなら、乙は幼児Aの生命を自らの手で支配下に置いている点及びAに重傷を負わせている点で「保護する責任のある者」といえるからである。

(2) しかし乙は、Aが死んだものと思っており、幼年者を遺棄するという認識がない。このような乙には保護責任者遺棄罪の違法性を意識して行為を取りやめることをしなかったからといって非難することはできない。
 したがって保護責任者遺棄罪の故意(三八条一項)が認められず、同罪は成立しない。
 ただ生者を死体と誤信することは重大な過失ゆえ、重過失致死罪(二一一条後段)が成立する。

(3) この点、死体遺棄罪(一九〇条)という罪を犯す意思で保護責任者遺棄致死罪(二一九条)という罪を犯しているのだから「罪を犯す意思」はあるとして、せめて軽い方の犯罪である死体遺棄罪の成立を認めようとする見解も存する。
 しかし死体を遺棄したと評価できないのに死体遺棄罪の成立を認めるのは罪刑法定主義に反し適当でない。

3 以上から、乙には業務上過失致傷罪(二一一条前段)と重過失致死罪(二一一条後段)が成立し、併合罪(四五条)となる。

以 上


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