昭和30年代〜の思い出

私が、記憶のうっすらある昭和30年代の面白い思い出です。
古き良きどこか暖かみのある時代です。ラジオから話題離れますが。
ヒーロー漫画 郵便ポスト 正義の味方「月光仮面」 富士重工「スバル360」、ダイハツ工業「ミゼット」
力道山 私が小学生の頃、和歌山本町公園にプロレス巡業で、かの「力道山」が来ました。
 当時、大変な人気でして、前評判もすごい状況でした。 勿論前売り券、入場券は高価ですから、多くの人は、なんとかお金を払わず「無料」で見ることを考えます。場所は急こしらえのテント小屋です。幕で周囲を覆っているだけで、天井はありません。従って幕より高いところからは見れます。
「無料」で見るいろんな方法
1)ビルの屋上から見る。といっても当時は適当なビルはあまりありません。 また、会社、銀行ですから、勝手に入れません。

2)近所のアパートから見る。知り合いの部屋に押し掛ける。近くに1軒しかなく、4階建てですが、見晴らしでは4階でないと無理です。  たった2軒が対象です。

3)幕より、周囲を伺い切れ目を探し、黙って入る。 見張りの人に見つからないのが前提です。 子供は成功率高かったと思います。

4)ダンプカーの荷台に人をのせ、持ち上げる。 このとき、滑り落ちないように注意する。(本来良く滑るようになっています。荷台でバタバタして大人が滑り落ちるのを見た子供は大笑いでした。) 当時公園内に車乗り入れは、物理的に出来たと思います。 これが、もっとも確実な「ただ」で「良く見えた」見る方法でした。 監視の人も、多勢に少数ですし、警察も取り締まりできません。 運転手の方には御礼を込め,いくらかお金を払ったでしょう。

5)公園の中の公衆便所の屋根に登る。考える事は皆一緒です。既に多くの人が登っていました。臭いのを我慢すれば可能です。

6)自転車の荷台に登る。昔の重量級自転車なればこそ可能です。

7)肩車する。子供は可能でした。人間ピラミッドで順番でしていたのもあったと思います。

8)私と友達はどうしたか? 近所のアパート2)の屋上から、望遠鏡で見ました。何人か先客はいました。下調べは事前にしていました。力道山の空手チョップを見て感激しました。相手は「ブラッシー」だったと思います。
家の引っ越し 家の引っ越しを見たことがありますか?私は2回記憶があります。
家が移動するのです。 1件目は、和歌山少年補導センターが本町公園の端から端へ移動、2件目はお店が道路を横断し対面に180度向きを変えて移動です。
 先ず家を土台から浮かし、台を引きます。台と地面の間には丸太(コロ)を敷き詰めます。
 ロープをもって引っ張る人と、丸太をローテーション(動いた後、出てきた丸太を先回りして敷く。)する人の絶妙なタイミングになります。ゆっくりゆっくり動かしますが、圧巻でした。
サーカス 毎年、正月には、本町公園にサーカスが来ます。急こしらえの丸太にテント張りの小屋です。ライオンさん、虎さん、像さん、熊さんが来て、盛大な賑わいになります。
 また、一団が和歌山 本町公園に来るとき、車で隊列を組んできます。この隊列の時期、師走も押し迫り、もうすぐ楽しい楽しいお正月です。
物心ついたとき、非常に心配なことが、ありました。ライオンさん、虎さんが檻を破り逃げ出さないか?です。私の家は近くでしたし、子供はやはり新鮮でおいしいでしょうから、このとき、どうするか?良く、小学校で友達と話題になりました。 死んだふりは、お召し上がり下さい・・でしょうし。まあ、何事もなかったですが。
 一度、小学校校庭で集会中のとき、この隊列が通りました。 なんとトラックの屋根の上で白人金髪のお姉さん2人がこの寒いのに、金色/銀色レオタード姿で笑顔を振りまき手を振っているではありませんか。 生徒達は一斉に駆け寄っていきます。お姉さん達は微笑んでいます。先生は行きたいのを我慢し、そちらを凝視しながら、「そっちへいってはいけない。」とがなりたてますが、誰も言うこと聞きません。集団の力の怖さを感じた最初です。
芝居小屋と
女子プロレス
小学校低学年 まだ性に目覚めていない頃でした。 正月、本町公園に芝居小屋が来ました。2人の女性が中心で、芝居をします。何幕かありまして、衣装を替えては、チャンバラから、人形劇、ロマンスものまで演技しました。
 出演男性はいませんでしたので、演技者女性だけの劇団でしょう。(裏方は男性いました。)
でも女性は美人でスタイル良かったのは、小学生低学年の私にも分かりました。途中で母親が家に帰り、妹と2人で見ていました。 当時プロレスの言葉を聞いた頃ですが、出し物に女子プロレスが有りました。 プロレス初めて見る私は緊張しました。プロレスて何?でしたから。

アナウンサーが出てきまして、リングの上で紹介します。「***ミシン店(実家もこの店でミシン購入)提供 女子プロレス、赤コーナー△△△、青コーナー□□」その時です。大人の男の人が人を押しのけ、リングの周囲に勢い良く走り寄ったのは。
 僕は、お菓子くれるのか?と思い皆と行動共にしました。  お菓子は無かったですが、大人の男の人はいかにもうれしそうです。でもお母さんらしき人(女性)はいないです。その時です。先程の美人女性2人が、水着姿で現れました。 組んずほぐれずで戦います。当時私は、まだ興奮する年でなかったかと思います。小学校2年生?でした。
私は、プロレスとは、こういうものか?と納得した次第です。今見ると、感想は違うでしょうね。 「 レズリング?」
市内電車(和歌山
電気軌道)の脱線

家の前を,市電が走っていました。 交差点で、直角に曲がる部分があります。時々、高速でTry する運転手がいらっしゃいました。 
 そのとき、まれに脱線して野次馬が集まり大騒ぎになります。そのとき、どうするか?私の記憶ですが・・
 まず外れたパンタグラフをきっちりと電線に併せます。
次に短いレールを車輪にあてがい,少しずつ電車を動かします。
前進,後進 少しずつ繰り返す。 レールの上まで来たとき,足で電車の車輪を蹴り、レールにきちんと車輪を入れる。 (人が蹴れば、入りました。)後は何事も無かったように、電車を運転します。
車(3輪)の転覆 家の前が交差点です。車は、当時3輪自動車が多く、しかもバーハンドルです。(バイクと同様)時々、交差点をスピード落とさず曲がるものですから、よく転覆します。そのとき、人が集まり、自動車を起こします。普通は怪我もなく、運転してその場を立ち去ります。
 4輪自動車は、その後急速に普及し、3輪は今では見かけません。3輪の最後のヒットは先代「ダイハツ・ミゼット」でしょう。
TV 30年代の最初の頃です。家の近所の人が TV を購入しました。アメリカ製で20万円。当時の日本の労働者給料は、数千円ですから、いかに高価かわかるでしょう。
 夜放送が始まると、その家(お菓子屋さん)の前の電車道は黒山の人だかりでした。
 その次、TV 購入されたのは銭湯です。月光仮面の放送時刻は、ちびさん達で待合室満員でした。お母さん連中も月光仮面のもっこりにそそられた・・・というのは、後の雑誌で知りました。でも月光仮面、今は年齢70才位でしょうね。正義の味方ですが足腰は大丈夫でしょうか?
 TV、次に入ったのは、クーラーと同時期に散髪屋だったと思います。散髪屋のTVは、鏡に映って正しく見られるようTVは鏡像画面になっていました。(水平偏向コイル逆)
正義の味方
スーパーマン

月光仮面 他

30年代ヒーローは、カラフルなコスチューム着て、マント翻しているのが多いですね。しかもマントで「空」を飛べる。何れも正義の味方で力持ちです。困った時、呼べば直ぐ助けに来てくれます。
 代表はスーパーマンです。 スーパーマン、ナショナルキッド、遊星王子、海底人8823、スーパージャイアント、鉄腕アトム(劇もありました。)等の方々は空を飛べます。まねして高いところから飛び降り怪我、あるいは不慮の事故になった方もいました。
 私も本当に飛べると錯覚したことがあります。崖から飛ばず良かったのですが・・・ちなみに月光仮面、七色仮面、まぼろし探偵、少年ジェット等の方々は残念ながら飛べません。七色仮面は風貌からは飛べそうに思えませんが。(記憶違いですとすみません。) まぼろし探偵、少年ジェットは、運転免許、銃免許あったのか、今から思えば・・・
 後に月光仮面は、80年頃、復活映画のプロモーションで和歌山市内バイクで走り警察に道路交通法違反で逮捕された?という話記憶しています。(月光仮面、警察に逮捕される。)定かでありません。単車ナンバープレートがなかったとか。
 当時は塗り絵から漫画、お菓子など、何れも凄い人気でした。また月光仮面は、風呂敷で、仮面が出来、これに¥10で駄菓子屋でサングラス購入し、もう1枚風呂敷マント代わりにし、自転車に颯爽とのれば少年月光仮面の完成です。
 かなり後になりますが、8マン は、全速力で約8KM助走すれば、飛べると番組で放送していた記憶あります。(飛行機と一緒です。ジャンボ機より滑走距離は長い。)
これらの、ヒーロー詳細は、インターネット検索すると、かなりのH.Pあります。
人力車と牛車と馬車と
ロールス・ロイス
1)人力車は,昭和30年代半ば迄見た記憶あります。羽織袴をまとった恰幅良いお医者さんが、往診に使っていらっしゃいました。自動車は合わなかったのでしょうね。
 注)往診:医者が、患者の家へ出向いて診察すること。


2)牛は、私が幼少の頃、肥(雲古と小便を熟成したもの)の樽を積んで、各戸廻り肥を集めていました。 当時,立派な肥料です。畑に行けば野壷がありましたし(落ちた子供もいました。)・・当然お金は、肥料代として支払ってもらったと聞いています。バキュームカーは、こちらが肥を出してお金を支払います。バキュームカー肥の行き先は、過去は、船に積んで海の沖合だったと思います。プランクトン、魚のえさになり、その魚を・・・

3)ロールスロイスは、30年代和歌山市に1台ありました。その静粛性,スムースな動きには驚きです。 いつか僕も成功の暁には・・の決意も今は空しく。 染物会社社長がいつも後部座席に座っていました。景気良かった時ですね。

4)馬は、風呂屋が近くに有りまして,燃料のおがくず(今は重油)を,馬が運んでいました。馬,牛の欠点は、場所をわきまえず、脱糞,放尿することです。道は臭いし、滑るし、踏んだら踏んだでからかわれるし、交通ルール、信号は無視するし。 (すみません。信号できたのはもっと後です。)
東京***
何時だったか忘れましたが、近くにお風呂屋が出来ました。東京*** という名前だったと思います。
 東京へのあこがれは、地方都市では、それはそれは強烈なものがありました。蒸気機関車の引く1〜2両の夜行列車(大和号)が和歌山〜東京(勿論日本国有鉄道(国鉄)です。)に運行されたときも話題になりました。(東京の方は記憶あるでしょうか?)各地方都市経由で、客車増結連結、機関車を電気機関車か、ディーゼル機関車に交換し東海道本線経由で東京に行きます。・・

話がそれました。さてお風呂にしては、大きな煙突なく、「ゆ」のれんもありません。大人の男の人だけが嬉しそうに入っていきます。しかも噂によると、たいそうリラックス出来るとか。でも大人専用で子供は「だめ」ということで、どんなところかますます子供心に興味がわきます。早く大人になりたいと友達と話したものです。
PS:この頃発明された「す○○椅子」、今は老人ホームでも活躍とか?
   色んな発明・開拓品、敬服します。あくなき追求でしょう。
ストリップ劇場
宣伝車
当時和歌山市には、2軒のストリップ劇場がありました。中之島劇場・・某小学校前にありました。早くに閉館されました。
 八光ミュージック・・「ハッコウミュージック」と読みます。東京から和歌山に出張に来られ、看板か新聞か評判聞いてか「はちひかり」を接待で要望された方がいらっしゃたようですが、読み方が間違っています。言われた方も、最初は判らなかったようです。2003年3月末閉館までは、和歌山を代表する劇場でした。和歌浦等への観光客減少も閉館に影響しているようです。
 昭和39年〜41年頃、その宣伝車が、大きな音量で、街を走行します。特に中之島劇場はすごかったです。学校の先生、警察管が好きだったかどうかは知る由がないのですが、授業中に学校正門前に停車し「ヌードの季節(・・て何時?)となりました。」と大音量で拡声器から流します。いつも春にこの車が季節の到来と共に来ましたので、今も春になると「ヌードの季節」を思いだします。 警察署が学校の隣でしたので、何故取り締まらないのか不思議でした。
 むっつりスケベの先生は、にやつくし、若い女性教師は顔を赤らめるし、年増の先生は無視するし、生徒ははしゃぐし、面白いひとときでした。でも授業中どんなところか、先生に聞いても明確な回答は無かったです。
生徒の目があるので、先生も容易に行けなかったと思います。指導的見地からかどうか判りませんが、冗談言わない学究一筋の先生が、成人映画館の前を行ったり来たりして、最後にとうとう入ったという情報が中学校の話題になったことは、あります。
夕涼み 夏,夕方になりますと、各家は、道に水をまき,長椅子を持ち出します。
今ほどコンクリート多くありませんから、かなり過ごしやすく なります。やがてお月さんや、お星さんも出てきます。蚊取り線香はします。 子供から年寄りまでくつろいだ時間です。花火なども楽しいひとときです。 蚊や,蛾など虫には悩まされましたが。 当然クーラーなどは、一般民家にはなく、銀行,デパート等限定されていまし た。 また寝る時は、蚊を防ぐため、蚊帳(かや)の中で寝ます。
銭湯 と 行水


今では、家庭に風呂がありますが、当時はあまりなく、 お風呂は、銭湯に行きます。小さいころは、男湯,女湯どちらにもいけます。 男と女,大人と子供の体の違いに気付くのもこの頃です。
 男湯では、入れ墨を入れた方もたくさんおられました。 なかには、非常に立派なものもありました。
 社交場です。和気藹々としていました。 石鹸,シャンプーなどの貸し借りも頻繁でした。背中の流しあいも頻繁でした。小学生になりますと、友達と時間決めて行くこともありました。待合い室には、当時珍しい「TV」があり、月光仮面放送時間は子供達で満員でした。
 夏は、各家で,行水です。庭に大きな「たらい」をおきます。 「かまど」で湯を沸かし,たらいに水と湯をいれます。 夕方,行水をするのですが、非常に心地良いです。勿論,若い女性は、見られないように細心の注意を払わないといけません。
家庭に風呂が普及すると、この光景はなくなりました。
総天然色カラー
 と 白黒
TVは、カラーTV,カラー放送 になるまでは、白黒です。(当然ですが)美智子さんの御結婚の時に白黒TV の普及が、東京オリンピックの頃より カラーTVの普及がされたと思います。
 映画は,総天然色カラーはその旨記載していました。メジャーな映画は殆ど カラーだったと思います。成人映画は、部分的にカラーになりました。(昭和40年代はそうでした。) 大蔵映画などは、ストーリー部分は白黒で、大事な場面はカラーに 切り替わるなど、でしたから。
蒸気機関車客車


昭和40年後半まで、蒸気機関車は現役でした。現在も一部では観光用にあります。 その迫ってくる迫力、力強さ、は圧巻でした。機械ですが、一生懸命動いている姿を見ますと、人間らしさ、親しみがわいたものです。
 難点は、煤と煙です。客車の窓から前を見ますと煤が目に入り痛いのと、顔に煤が付き黒くなります。勿論服も汚れます。
1) 煤は機関車の燃料 石炭の燃えかすです。

2) 蒸気機関車は石炭を燃やし、水を蒸気(約15気圧)にし、外燃機関の蒸気機関で動きます。 火はいつも絶やさず燃やしておきます。後に煤が少なく火力の強い重油併燃式に改造されています。

3) 坂道にさしかかりますと、線路に滑り止めの砂を機関車がまきます。また、蒸気圧を上げ、一生懸命あえぎながら登ります。機関手、機関助手は大変だったでしょう。

4) トンネルでは窓を閉めないと大量の煙が入ってきます。忘れていると、おじさんが怒って飛んできます。 夏は冷房ないので蒸し風呂になります。
客車は、特にデッキ(扉)には注意しないといけません。通常、扉は開いた状態ですので、飛び乗り、飛び降りが出来るのですが、走行中は危なく、命の保証はありません。蒸気機関車加速は遅いので、出発時走って飛び乗る人はかなりいましたが。

5) 生理現象ですが、客車各車両に「トイレ」はついています。下は線路です。そのまま下に落ちます。線路は便器から見えます。駅、市街地では用を足さないのがマナーです。走行中は、巻き上げて後方に飛沫が飛びます。
煤と一緒に黄色い汚物が飛んで来ますので、窓を開け弁当食べる時、特に注意が必要です。先ほどトイレにいった方の・・・かもしれませんので。(黄害です。)
線路に落ちた固形物(とは限りませんが)は微生物が分解します。線路沿いに住まれてた方は大変だったと思います。畑は肥やしになるのですが。
北京放送局 と
モスクワ放送局


初めてラジオ組み立てた時、地元 和歌山放送WBC は強力ですが、北京放送局、モスクワ放送局も強力でした。内容は難しくてあまり聞かなかったですが、調整確認には使用しました。(中波帯 MW)
中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦 の日本語放送局です。
中国は、文化大革命の最中でした。北京、モスクワ共、米国帝国主義を批判し、マルクスレーニン主義をたたえて宣伝していました。北京放送局は過激な方でしてプロレタリアートとか人民解放軍とか、帝国主義とかが何度も出てきました。
流暢な日本語でしゃべりますので聞かれた方もいると思います。混信の原因でしたが。
中学入学当時、共産主義に興味を持った先生がおられ、共産圏の授業は多いですが、米国はさらっと流した方もおられました。政策論争は多かったと思います。私はあまり興味なかったですが。
社会主義 実践の結果は、現在明らかになっています。詳しい事は判りませんが、貧富の差が少ない平等社会で成功したのは「日本」との話は聞きますし、海外出張等では実感します。見方はいろいろあるでしょうが・・・
修学旅行

皇居 二重橋の前で


私の義務教育の時の修学旅行ですが、観光バス、修学旅行専用列車共、クーラーありません。また新幹線は小学校の時は建設中、中学校は開通していましたが、在来線を使用しました。記憶もかなりあいまいですので、間違っていれば御指摘を・・・なお、修学旅行の状況は、地元「和歌山放送」でアナウンスされました。「無事**につきました。」程度ですが、両親にとっては、貴重な情報源です。

1)小学校6年(昭和38年)・・・京都 観光バスにて移動。一泊2日
和歌山→服部緑地→大阪空港→高槻「サンスター」見学→京都市内観光→京都・三条泊、夜は、グループで自由行動。河原町彷徨しました。2日目は、京都市内観光→帰路和歌山だったと思います。京都市内は、清水寺、二条城、平安神宮、金閣寺、比叡山延暦寺 等です。
開通した名神高速道路は、走行しています。また、新幹線線路は、期間限定し阪急電鉄が使用していました。

2) 中学校3年(昭和41年)・・・東京観光です。
1966年11月9日〜12日 3泊4日(車中1泊)
中学入学当時より、お金は積み立てます。
早朝5時頃、和歌山市駅集合 15学級 約750人(すごいでしょう!マンモス中学です。)
列車は、修学旅行用の専用列車です。定期列車の間に入るのですから限られた時間内に乗り込み、乗り換えせねばなりません。
蒸気機関車の牽引する客車に乗ります。次の駅で隣の中学校が乗ります。(先生の心配事は、中学同士の喧嘩、迷子、女風呂の覗き、夜寝ずにはしゃぐこと・・・です。)
○11月9日(水)
和歌山市駅発  6時50分
京都駅着    12時11分
京都駅発    12時25分 修学旅行専用電車 わかば号
小田原駅着   17時54分
伊豆箱根鉄道バス  小田原駅前 18:30 〜旅館着 19:20
旅館       箱根 芦ノ湯 湯の花ホテル
・和歌山線を蒸気機関車で走行し、橋本からは、後ろに補機がつきました。
(勾配があるため)当時の文献?確認すると、C11型蒸気機関車です。
京都で、修学旅行専用電車「わかば号」に乗り換え、京都→小田原・・・バス(伊豆箱根鉄道)で、箱根芦ノ湯「湯ノ花ホテル」泊
○11月10日(木)
伊豆箱根鉄道バス 箱根7:00〜箱根回遊〜小田原〜鎌倉〜
(学生会館昼食)〜横浜〜17:00東京
宿泊: 文京区湯島 長保楼    本郷 つたや
富士山かすかに見えましたが 芦ノ湖→十国峠→鎌倉大佛→茅ヶ崎(遠くに加山雄三邸・・当時若大将や「君といつまでも」で絶大なる人気!)→横浜→川崎→東京着。宿舎は、本郷でした。夜は帝産バスにて東京夜の観光ありました。(ネオンの明かり、車の量、洗練された女性には圧倒されました。さすが日本の首都)、当時は、三田明、加山雄三、ブルーコメッツ(青い渚)などが流行っており、ジュークボックスでは同級生の女の子が「ゴーゴー」を踊っていました。私は、踊り知らず参加出来ませんでした。
○11月11日(金)
(帝産オート)旅館7:00〜都内見学〜(昼食東京タワー)〜羽田空港(夕食)〜20:30東京駅
東京駅発 21:15 修学旅行専用電車 わかば号
東京観光(皇居・二重橋、国立競技場、NHK、国会議事堂、浅草神社、、科学技術館、東京タワー、武道館、羽田空港、etc) 修学旅行専用列車(夜行)で京都まで戻り、京都から蒸気機関車の牽引する客車で和歌山線経由で和歌山に帰りました。
○11月12日(土)
京都駅着 6時52分 のりかえ
京都駅発 7時10分 桃山駅朝食弁当積込 7:25
和歌山市駅着 13:26
A先生 中学校で非常に謹厳実直な先生がいました。
但し先生には、一点持病があります。
長年「タムシ」を患っておるとの噂です。あだ名は勿論「・・・」です。
(誰も実際は見ていないのです。状況証拠のみです。)
授業中患部を、多分痒いため強烈に掻くのです。
1) ズボンのポケットに手を入れて掻く。この時さりげなく、用もないのにハンカチ取り出すとか。
2) 教壇の角、いすの角で掻く。この時、体をよじらせます。
3) 何回掻くか?何時掻くか? おっ、掻いた!と目で合図したものです。
  非常にまじめな授業であり、これくらいしか面白いものありません。

ある時、先生の教え子であった教育実習生(大学生)が来られたのですが、その方の時もそうでしたので、少なくとも5年以上患っているのでしょう。
困ったのは、授業参観です。我々中学生の前では許せるとして、まだ若いお母さんもおられるのでどうしたものか心配でした。
しかし、当日先生は、こらえきれず、ポケットに手をいれてハンカチ取り出す時に掻いたり、机の角で身を捩らして掻いています。後ろでは、笑いを必死でこらえたお母さん方が・・・
生徒は一斉に後ろを振り返りました。笑いが爆発しないか心配で心配で。多くの生徒は、後で判ったことですが、事前にお母さんに言っていたようです。さすが、人生経験豊かな方々です。ハンカチで口を覆って、体を揺すっていました。
もう一つの心配事は、先生の美人の奥さんには移っていないのか?です。丁度そういう知識のつく頃ですから、盛んに生徒同士議論したものです。タオルで覆って・・・ではないか?との意見に一致したものです。

後日談があります。
私は、全寮制の学校に進学しましたが、見事に「タムシ」になりました。
薬局に買いに行くのですが、「ああ、紅顔の美少年」が、若い女性店員いない時を見計らい、行きます。お店の方がいろいろうるさいんですよね。
店 > どうしたの?
私 > 「タムシチンキ」下さい。
店 > 何でいるの? タムシ? 水虫?
私 > 水虫です。(タムシは名前からしてかっこ悪い!)
店 > 若いのに! どんな症状? かさかさ、じゅくじゅく?
私 > いえ、軽いです。
店 > 症状聞いてるのや。薬が症状によって違うのや。みせてみ!
私 > いえ、とにかく頼みますから売って下さい。
なお、「タムシチンキ」塗るときは、「うちわ」は必須アイテムです。
パンツを脱いで、すっぽんぽんになり「うちわ」で扇ぎながら患部に「タムシチンキ」を塗るのです。強烈にしみます。風呂上がりは強烈でした。
会社に入社し、一人暮らし始めると自然と治りました。結婚前に根治出来良かったです。「タムシで離婚」は様になりません。
瓦斯冷蔵庫と瓦斯炊飯器 実家では、昭和30年代後半から ガス冷蔵庫(冷媒は、アンモニア)と
瓦斯炊飯器を使用していました。(現在は電気冷蔵庫と電気炊飯器)

大阪・朝日放送テレビ、部長刑事のスポンサーが大阪瓦斯でした。
毎週土曜日 夜 7:30だったかと。そのコマーシャル効果大きかったです。
電気は、ランニングコストも高かったかと思います。

瓦斯冷蔵庫、ガスバーナで、アンモニアを熱し熱交換します。(気化吸収型)
理屈は、インターネット等で詳しく記載されています。
熱力学(カルノーサイクル)等、御参照下さい。
バーナー点火が厄介でした。 寝そべって鏡を引出し、
マッチを点火口にもっていき、バーナーに無事点火したか
確認するのが大変だったのを思い出します。

電気冷蔵庫に対しては、可動部なく非常に静かで、ランニングコストも
安価だったとは思います。当時電気冷蔵庫の騒音は大きかったです。
瓦斯冷蔵庫、火を使用するので、埃、換気等注意必要でした。
当時は、家屋の隙間多く、いつも換気されているようでしたが。
業務用大型は、現在もありますが、家庭用瓦斯冷蔵庫、ポータブル等
除き、今は販売されていないと思います。

瓦斯炊飯器は、現在も継続しています。瓦斯は火力が強い分
ご飯はうまく炊きあがりました。現在、電気はIH等で相当火力強いですが
当時は、供給困難だったかと。
 つづり方兄妹
1958年 文部省特選映画
 1958年この映画、2回見に行った記憶あります。学校からと母親と文部省特選映画でした。当時小学校1年で僅かですが覚えています。
私の行った映画館は『和歌山市築地・帝国座』でした。

小学校の修学旅行(京都)の帰路、休憩でこの香里小学校でトイレ休憩、その時、先生からつづり方兄妹の学校と伺いました。

枚方市香里団地、戦前は陸軍香里製造所で、爆弾製造拠点でした。
現在は香里団地に生まれ変わっています。木は桜並木で、春は素晴らしいです。緑が多く、落ち着いた地域です。
当時の遺産は、現在水道局用地となっている妙見山配水地に旧製造所汽缶場の煙突が残っています。女学生が動員されていたと聞きました。
「在りし軍国少女非戦の誓い」の碑が、旧汽缶場前にあります。
この近くに、「つづり方兄妹」の家族が貧しいながらも平和に暮らしていました。兄妹は作文が得意でモスクワ国際つづり方コンクールで第一位となっています。詳細は、Webで「つづり方兄妹」で検索下さい。

ふうちゃんの書いた作文は、モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になりましたが、その連絡あったとき、残念ながら病気で亡くなっていました。日本が、戦後の貧しい時期の出来事です。(ふうちゃん1948-1957)のお墓は交野市私部共同墓地にお墓があります。
私部共同墓地を訪れたとき出会った妙齢のご婦人、映画のロケは良く覚えてると仰っていました。
私は、大阪府、枚方市香里団地、交野市、寝屋川市に長年居住、つづり方兄妹の場所の近くにいました。


 
 61式中戦車 (日本ホビー)   零戦52型 (三共) 
     
 
模型用 マブチモータ      田宮模型戦車『デストロイヤー』
     
 雑誌「ぼくら」付録  1960年頃
 
 週刊誌 少年マガジン 折り込み付録 1960年頃
 
 
初歩のラジオ 1964年6月号   ハム用通信型受信機と送信機の製作 1967年 
 
昭和40年代頃より、若者に人気のあったユース・ホステルパンフレット。
学生、社会人は、国鉄周遊券とY.H で安価で有意義な旅行をしたものです。
 
 
昭和35年頃購入
サンヨーTV 14−FR1型 真空管白黒TV 外装箱です。 
OFF - TV - Radio MW - Radio SW - PU 切り替えでした。
シリーズモデルで、レコードプレーヤ付きもありました。 
  
 
 
 中学校3年 修学旅行 行程表 1966年11月
 
 
 ボイラーに水を入れ、火置き皿にローソクをセット、点火します。
ボイラーが熱くなると、ポンポンと音を出しながら走り出します。