●「となりの山田くん」のテーマを考える
Think About the Context of "My Neighbors The Yamadas"

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●「となりの山田くん」が描かれた時代 1999/07/23




●グローバル・スタンダードとは何か 1999/06/26




●「となりの山田くん」は日本のスタンダードか? 1999/07/01









 
●「となりの山田くん」が描かれた時代



「となりの山田くん」で描かれた家族像は、どのようなものなのだろうか。
 プレスシートの作品解説によれば、「となりの山田くん」を世に送り出すにあたり「日本人はこう生きてきたし、いまもこう生きている、これからもこれでいいんじゃない?」と問いかける。そして、どこにでもいそうな山田家を登場させ、全体を貫くストーリーはない代わりに妙味の効いたエピソードを積み重ねて一本の映画にまとめている。山田家は、伝統的な家父長制に基づく古い家族像ではない。夫婦が互いに対等で独立した関係を作る新しい家族像でもない。そういう範疇には含まれない家族の日常生活を描写して、観る人に「もっと気楽に生きようよ」と呼びかける。「これが日本のスタンダードだ」、と。

 その呼びかけには、原作の漫画に着目した鈴木敏夫プロデューサーの理想の家族像が反映されているものと思われる。また、それをアニメーション映画に仕上げた高畑勲監督の理想の家族像も反映していると思われる。ここでは、山田家を分析することで、両氏がいつ頃のどのような家族像を理想としていて、それが映画の中に反映されたのかについて考えてみたいと思う。


山田家の家族形態
 まず、山田家の家族としての形態を確認しておこう。山田家は、年齢の高い順から山野しげ(祖母)、山田たかし(父)、まつ子(母)、のぼる(長男)、のの子(長女)の5人で構成されている家族である。しげとたかしの姓が異なることから分かるように、二人は血がつながっているわけではなく、しげとまつ子が実の母娘の間柄である。つまり、たかしは妻の母と同居している形態をとっている。

 このような同居の形態は、妻方居住婚(uxorilocal marriage)と呼ばれる。結婚後、夫婦が妻の親族集団と同居もしくはその近くに住む結婚形態である。これは、妻の家を相続・継承することを目的としている婿養子とは異なる。たかし・まつ子夫婦は、あくまでも夫の姓である「山田」を名乗っており、たかしが「山野」姓を継ぐわけではないからである。

 原作の設定では、たかしは次男であるから、婿養子になっても良かったのかもしれないが、自らの「山田」姓を名乗っている。しげが所有する敷地にたかしが屋敷を建てて同居しているのであるから、この同居形態は終生継続するものと思われる。


山田家は多数派?少数派?
 山田家は、一家5人で構成される3世代家族である。5人という世帯人員は、ちょうど日本の近代化が始まった明治・大正・昭和初期の頃の平均世帯人数と一致する。普通世帯の平均世帯人員は、1955年頃までは5人前後を維持していたが、1990年代に入って3人を割り込んだ。世帯人員の構成比を見ると、1953年の時点では6人以上の世帯は全体の約40%弱を占め、5人世帯も17%を数えていた。

 いっぽう、その頃の2人世帯は9%程度、1人世帯は5%ほどに過ぎなかった。これが1994年になると、6人以上の世帯が5%程度まで減少、5人世帯も10%を割り込み、逆に2人世帯は23%、1人世帯も20%弱まで増加している。(1) また、核家族率も1960年の63.5%から1990年には77.6%まで増えている。(2) すなわち、山田家のように3世代が同居する拡大家族は現在では少数派であり、さらに減少の傾向にあることがわかる。

 つまり、1990年代において、山田家は比較的大きな大家族であり、現代では少数派となった3世代同居家族(拡大家族)であると見ることが出来る。「となりの山田くん」では、山田家はあたかも日本における最も典型的な家族であるかのような印象を受けるが、実際は全世帯の一割にも満たない少数派の家族形態である。

 さらに、3世代が同居する家族の中で、夫型居住婚(夫の親と同居する形態)と、妻方居住婚(妻の親と同居する形態)の割合を調べた統計は特に見当たらなかったが、日本社会における3世代同居では前者が圧倒的に多く、山田家のように妻の親と同居する例は少ないであろう。山田家は、ただでさえ少数派である3世代同居家族の中でもさらに少数派である妻型居住婚をとっているという、きわめて珍しい形態をとっている家族であるといえる。

 したがって、数の上だけからいえば、山田家の家族形態は日本のスタンダードでも何でもなく、むしろ例外的存在なのである。(後述するが、スタンダードなのは意識の上での家族像である)


現実の家族は多様化しつつある
 第二次世界大戦以降の日本家族における最大の変化は、「家」制度の崩壊であった。高度経済成長が始まる頃には、同じ土地に居続けなければならいない制約が薄れ、都市圏の工場などで大量の労働力を必要としたこともあって、農村地帯の余剰人口が大量に大都市圏に流れ込みんだ。この、農村から都市への人口移動の中心となったのは、主に次男・三男であり、彼らは親と同居する必要がないから、そのまま近郊の住宅地で核家族を形成した。団地が「若夫婦と子供たちの街」ともてはやされたのもこの頃であるが、団地の主役は、まさに地方出身者による核家族によって占められていた。

 核家族化の進行は、自動的に世帯人員を減少させた。結婚しても子供を作っても、大体は2人までと子供の数が減少したことによって、世帯人員はさらに減少することになった。そして、高度経済成長が終わり、社会が成熟してくるにつれて、これまでの「家族」のイメージではくくられにくい、家族像の多様化もまた進行しつつある。
減少した家族像 伝統的な3世代同居型の家族
定着した家族像 核家族(夫婦と未婚の子供で構成)
増加しつつある家族像 単身世帯(若い世代の晩婚化、単身赴任、高齢者のひとり暮らしなど)
恋人がいるのに結婚しないカップル(選択としてのシングル)
結婚しても子供を作らないカップル(共働きで子供なし=DINKS)
離婚による単親家族(母子家庭)
継子のいる家族(子供のいる再婚家族)
他人家族(特に血縁のない他人同士が同居する)

 要するに、山田家で繰り広げられる日常的なエピソードの断片の幾つかは、どこの家庭にでも思い当たる身近なものであるのだが、現実の家族は多様化が進んでおり、山田家の持つ要素は伝統的な家族像としてのモデルと見なした方が適当である。


作品中の山田家は「現実の家族」というより「意識の上での家族」
 こうして見ると、山田家の家族形態というものは、多様化する家族像の中では古典的な範疇に含まれることが分かる。しかし、それが古典的であるがゆえに「家族」としての伝統的なイメージを代表して意識されている。

 家族は、現実に存在する家族と意識の上での家族という、二つの面で認識される。現実がどんどん変わっていっても、意識の上ではなかなか変わることがない。「家族は現実よりも多く意識の中に存在する」のである。(3) 実際には多様化した様々な家族形態をとっていても、「家族とはかくありたい」という理想としての家族規範が、ながく人々の意識の中に残りつづけている。その「意識の上の家族」像の最たるものは、3世代同居の大家族である。実際に3世代同居をするとなれば世代間の価値観の違いが表面化したり嫁と姑の戦争が勃発したりすることが分かっているからまっぴらご免という現実派も、意識の上ではやはり3世代同居の大家族を一つの理想形態として認識しているのである。

現実の家族像=多様化が進んでいる
意識の上での家族像=3世代同居の大家族を理想とする

 すなわち、山田家を日本のスタンダードとする思想の背景には、家族=3世代同居の大家族という古い「意識の上の家族」が反映されているのだ。これまで、スタジオジブリの作品は常に時代をリードする作品を作ってきた。時代を先読みし、長い制作期間を経て作られた作品でもなお、時代をリードしてきた。しかし、「となりの山田くん」の場合、そこに提示された家族像は過去のものであるといっても差し支えないかもしれない。(その意味では、映画の冒頭に出てきたボブスレーも、いささか時代の後追い的な印象を免れない。別にボブスレーそのものが時代遅れというつもりはないが、普通の人々にとってはボブスレー=長野オリンピックであって既に過去のものという感覚である。表現技法の違いが分かる一部のファン層はボブスレー編を見て感動するかもしれないが、普通の人にとっては今更ボブスレーを見せられても特に新鮮味を感じないばかりか、流行遅れのものを見させられているという印象すら抱くかもしれない。)

 ともあれ、「となりの山田くん」で提示された家族像は、多様化している「現実の家族像」ではなく、人々の意識の中に残存している、古い「意識の上での家族像」と呼び起こさせるものでしかない。山田家は、現実に存在している家族のリアリティを追求するものであるというよりは、現実には存在しない一つの理念型、意識の上の家族幻想を表明しただけのものであるとも考えられるのである。


山田家が代表する「時代」
 けれども、意識の上の家族とはいえ、それなりに時代を反映したものであることは確かである。例えば、同じく家族の日常を描いた「サザエさん」と比較すれば、山田家は明らかに新しい時代の家族像が反映されている。「サザエさん」で描かれる磯野家は、「家」制度としての伝統的な家父長制の名残が色濃く残っているからだ。

 家長である波平の権威は絶対的であり、家庭内の意思決定の最終権限を握っている。妻のフネは常に従順で、家族の中での存在感は極めて希薄である。カツオ・ワカメの子供たちも従順で、逆らうということをしない。マスオも、当然波平には頭があがらない。家族の中心にいるのは波平であり、誰も波平に逆らったり反対したり、意見を述べたりしないことで平和が保たれている。(4) 磯野家は、(マスオから見れば)妻の両親と同居するという、当時としては珍しい家族形態をとっているのではあるが、その内部の構造は家父長制の古い「家」と同じである。現実には「家」制度はなくなったが、意識の上での「家」制度が残りつづけていたのが「サザエさん」が生まれた時代だったのである。

 これに対して、山田家の場合は、この種の「古さ」というものはない。よって、権威と名の付くものがない。山田家には波平に相当する祖父はいないが、しげはマイペースであるし、たかしはマスオに輪をかけて権威がない。家族でデパートにいってもイニシアティブはとれない、家族で初雪をバックに写真をとろうと提案しても無視される、キャッチボールをしようと息子を誘っても面倒くさがられて拒絶されるありさまである。

 たかしの悲哀さは、都合のいいときだけ一家の大黒柱になりたがるという性格のせいもある。しかし、たかしのポジションは(家長の権威が意識の上では残っていたサザエさんの時代=1960年-70年代からさらに下って)意識の上でも家長の権威が消滅してしまった時代=1980年-90年代を反映していると考えた方がふさわしい。

 だから、その「となりの山田くん」といえども、既に多様化しつつある現実の家族像からは取り残されつつある。たとえば、若い世代の夫ほど、家庭を重視し家事や育児を積極的に分担することに抵抗がない。(5) たかしのように、家事を手伝うこともなく家でゴロゴロしている父親像は、どんどん時代遅れになりつつあるのだ。その古い家族形態とともに、山田家における家族像は既に現実を反映するものではなく、意識の上で存在する記憶になりつつある。(といっても、家事をしない夫が依然として多いのも事実なのだが。)

 将来の家族像は、多様化が進んで単純な枠組みでは捉えにくくなりつつあるが、少なくとも古い「家」制度の名残である伝統的な夫・妻の役割分担に回帰することはないであろう。「友達夫婦」に代表されるような、互いに対等で自立した存在であることを前提にした役割分担によって再構成される新しい家族像が主流になっていくものと思われる。
 
   1940-1950年代 1960-70年代  1980-90年代
現実の家族 家父長制型

高度経済成長時代型
=山田家
成熟社会型
=多様化した家族
意識上での家族 家父長制型

家父長制の遺制
=サザエさん
高度経済成長時代の遺制
=山田家
※現実の家族はどんどん変化していくが、意識の上での家族は約20年遅れて変化する。



「日本のスタンダード」とされた時代=高度経済成長期の時代
 結局、「となりの山田くん」で描かれた家族像は、決して日本の標準的な家族ではない。家族のあり方は時代によって大きく異なっているし、現実と意識の間でタイムラグによるズレが存在するからだ。したがって、山田家が日本のスタンダードとするならば、それは決して現実に存在する家族の最大公約数なのではなく、意識の上で理想とされる家族像を投影しているに過ぎない。さらに言うならば、意識の上でも戦後日本のある時期の間だけの、きわめて短い過渡的な時期に意識された家族像に過ぎないのだ。

 それは、「家」制度が存在していた戦前の家父長制の時代ではない。もちろん予測出来ない未来ではないし現在でもない。すなわち―。それは家父長的な権威の時代と対等な共働き夫婦の時代に狭まれた、わずかな期間だけ出現した時代=高度経済成長期の時代であった。経済は右肩上がりで、モーレツに働いていればいい時代。妻は家事に専念し、自分は家でゴロゴロすることの出来た時代。「家」制度=家長としての権威はふるえなくなったが、その権威が意識の上で残っていたために大黒柱にはなれた時代であった。

 つまり、1960年代から70年代の、日本が高度経済成長を遂げた時代に、現実の山田家が存在しえたことになる。既に核家族化が進んでいたものの、まだまだ3世代同居の大家族も多く残っていて、そういう大家族が理想の家族像とされた時代であった。そして、1980年代から90年代、社会が成熟化して家族のあり方も多様化してきたが、意識の上ではまだ高度経済成長時期の理想の家族像が残っている。「となりの山田くん」は、意識の上での山田家として漫画になっているのである。

 結局のところ、 「となりの山田くん」で描かれている山田家は、多様化する家族の中で、意識の中に残っている高度経済成長期の家族像であった。 その時代は、「となりの山田くん」の劇中で挿入された「若者たち」「月光仮面」などの歌が流行した時期と一致する。さらに、高畑氏、鈴木氏が結婚し、家庭を築いた時期とピタリと重なる。両氏は、理想の家族像を、長い日本の家族の歴史の中で極めて短い期間にしか出現しなかった、この高度経済成長の時代に見出したのだろうか。 自らが歩んできた、偉大なる時代の記憶。その時代があまりにも光り輝いていたがゆえ、戦後日本を代表する意識として「日本のスタンダード」と称したのであろう。

(1)『年表女と男の日本史』藤原書店,1998.363P
(2)比較家族史学会編 『事典 家族』 弘文堂,1996. 112P
(3)上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店,1994.5P
(4)村松泰子他『メディアがつくるジェンダー』新曜社,1998.107P
(5)『若者ライフスタイル資料集98』食品情報流通センター,1998.376





 
●グローバル・スタンダードとは何か


 『となりの山田くん』の合言葉に「くたばれ、グローバル・スタンダード」がある。国際化が一段と進行し、日本人もグローバル・スタンダード(世界標準)に適応することが迫られているのであるが、『となりの山田くん』ではあえてその流れに逆らって、「くたばれグローバル・スタンダード、これがジブリのジャパン・スタンダードだ」というメッセージを世界に向けて発信することを目指すという。

 「くたばれ、グローバル・スタンダード」というメッセージは、グローバル・スタンダードに日本も適応しなければ取り残されるのではないかという不安感のアンチテーゼであるかのように見える。確かに、世の中は規制緩和に金融ビッグバンで「第二の開国」が叫ばれているが、未だはっきりとした先行きは見えてこない。折しも長引く不景気で、リストラの嵐も吹き荒れている。自分の将来がどうなるかも分からない、果たして自分が必要とされているかさえ分からない…。

 しかし、そこで浮き足だったり焦燥感に駆り立てられても仕方がない。いま、こういう世相の中で最も必要なものは、「家庭」であるとする。本当にくつろげる場所としての家庭、無駄話が出来たり、感情をぶつけられたり、安らぎとしての場所、裸になれる場所としての「家庭」見つめ直そうというのである。「日本人は今までこう生きて来たし、今もこう生きている。これからもこれでいいんじゃない?」という疑問は、どこにでもありがちな山田家を描くことによって答を出そうとした。山田家の日常生活こそ、「日本のスタンダード」なのだ、と主張するのである。

 ところで、グローバル・スタンダードとは、どのような意味で使われているのであろうか。まず、「グローバル」(global)という言葉を広辞苑 五版(岩波書店)や新明解国語辞典 五版(三省堂)、カタカナ語辞典 二版(小学館)で調べてみると、「世界全体にわたるさま。世界的な。地球規模の。」「世界的規模で行われる様子。」「世界的な規模であるさま。また、全体を覆うさま。包括的。」と書かれている。おおよそ「世界的な、全世界にわたる」という意味が与えられていることが分かる。次に、「スタンダード」(standard)という意味は、「標準。基準。標準的。」「標準(的)」「標準的であるさま。正統的で常識的であるさま。標準。基準。」とある。これも、おおよそ「標準、基準」という意味である。これを結合してグローバル・スタンダード=世界標準となる。

 globalは、地球を意味するglobeをその語源としている。グローバルは、単に世界的という意味だけではなく、グローバリズム(globalism=国の利益よりも全世界としての利益を優先させる考え方)やグローバリスト(globalist=世界を一つの市場とする国際企業で、どこでも同じ販売方法が採られ、国ごとに異なる販売戦略を用いることはない)といった派生語に見られるように、全世界的な視点から包括的に物事を考えるというニュアンスを含んでいる。

 standardは広く日本語化しており、「標準」という意味で使われる。が、もともとのstandardの意味にはもう少し幅があって、標準=「権威ある」という意味あいを含むことがあれば、単なる「並」という意味でも使われる。標準の参考書とか標準の発音という時のstandardは前者であり、権威あるもの、公認されたものとしての手本としてのニュアンスを持つ。一方、卵の品質を表すときのstandardは3等級の中間、果物や野菜では3等級の一番下を指す。このような使われ方をするstandardは後者であり、「上中並」の「並」であり、「松竹梅」の「竹」か「梅」クラスのニュアンスである。(リーダーズ英和辞典、リーダーズプラスを参照した。)

 グローバル・スタンダードの具体例を一つ挙げてみよう。例えば、インターネットではTCP/IPという通信プロトコルが採用されている。これは、コンピューターとコンピューターが通信するときに、どのような手順で行うかを取り決めた約束事のようなものである。このプロトコルに準じていない機械はインターネットにつなげることが出来ないから、通信を行うことも出来ない。つまり、TCP/IPは通信プロトコルのグローバル・スタンダードであると言える。その意味では、グローバル・スタンダードは必要にして不可欠な要素であることが分かる。

 私達がコミュニケーションによって意志を疎通させることが出来るのも、言語という共通の約束事を介しているからであって、言語が違えば当然のことながら意志疎通は出来ない。世界には数千もの言語があるから、世界中の人々とコミュニケーションをとるには数千もの言語を覚えなければならない。しかし、実際にはある共通語を解すること、現実には母国語の他に英語を覚えるだけで事が足りる。英語は、国際コミュニケーションを図る上でのグローバル・スタンダードである。

 しかし、グローバル・スタンダードと言っても、それは必要とされる最小限の共通化が実現すればそれで良く、あらゆる要素を統一する必要は。例えば、インターネットを構成するコンピューターは全てTCP/IPという共通項を持つが、それ以外の規格はとやかく問われない。逆に言うと、TCP/IPさえ使えればAT互換機であろうがマッキントッシュであろうが個人で開発した独自のアーチテクチャであろうが、コンピューターの種類を問わずインターネットにつなげることが可能である。同じように、国際的なコミュニケーションも英語が出来ればとりあえず不自由しないというだけのことであって、それぞれの母国語はそれぞれに尊重されて良いのである。

 要するに、グローバル・スタンダードというものは、何でも共通化・標準化しようとするものではない。共通化・標準化するべきところと、しなくてもよいところを明らかにする存在なのである。最小限の約束事さえ決めれば、その他の要素の独自性は、相互に尊重されてよい。それこそが、グローバル・スタンダードの本当に意味するところであろう。

 さて、 『となりの山田くん』は、その合言葉として、「くたばれ、グローバル・スタンダード」を掲げていた。とはいえ、まさかグローバル・スタンダードの存在そのものを否定しようとするものではあるまい。「これがジブリのジャパン・スタンダードだ」と言っているくらいであるから、日本の常識を世界の常識にしようとする野望を抱いている訳でもあるまい。ただ、方向性を見失っている日本人に「家庭」というキーワードを元に日本人がこれまで暮らしてきた社会、現在暮らしている社会を見つめ直そうとしているだけに過ぎない。日本での暮らし方を再確認することによって、世界での暮らし方を相互に尊重する、そういう方向性を見いだしていくことも可能である。

 さて、日本人は、とかく回りに合わせなければならないという「横並び意識」が強いと言われている。例えば、銀行業界における利息やサービスは、基本的に横並びである。好景気の時は横並びで不動産業界にカネを貸しまくり、不景気になればやはり横並びで公的資金の注入を受ける。どこかがリストラを行えばこぞって追随し、どこかが執行役員制を導入すれば、残りも一斉に右へ倣うという有様である。これは、本当に自分の所でリストラが必要か、執行役員制が必要かという考慮よりも、同業他社に後れをとらないようにしなければという「横並び意識」の方が強く働いた結果であると言われている。

 グローバル・スタンダードというのは、横並びの共通化でなければ一律の均一化でもなかった。必要な共通点を確認しながら、相互の独自性を尊重することであった。すなわち、「くたばれ、グローバル・スタンダード」というのは、「横並び意識」から決別し、それぞれに独自性を出すべきだというように読み替えることも出来る。相互の独自性の尊重から始って共通の理解が生まれ、共通の認識が生まれるように、それぞれの独自性を発揮する中からこそ、真のグローバル・スタンダードが生まれるのである。

 『となりの山田くん』に込められた「くたばれ、グローバル・スタンダード」というメッセージは、グローバル・スタンダードの否定ではなかった。家庭での生活を大事に思うことは、日常の暮らしを再確認することは、実はグローバル・スタンダードの尊重にもつながっていたのである。

※「グローバル」も「スタンダード」もよく知られた単語であるが、両者を結合した「グローバルスタンダード」という言葉は、1998年改訂の広辞苑 五版を含むどの辞書にも載っていなかった。確かに、この「グローバルスタンダード」よく聞く言葉なのではあるが、世間で思われているほど標準的な言葉ではないのかもしれない。





 
●「となりの山田くん」は日本のスタンダードか?


 『となりの山田くん』には、「これが日本のスタンダードだ!」というメッセージが込められている。日本の標準的な生活スタイルとして山田家の日常を描き、それが日本の標準=スタンダードであるとしている。

 さて、「スタンダード」には、「権威ある標準」と「単なる並」という二つのニュアンスがあったが、『となりの山田くん』で語られる「スタンダード」は、明らかに後者を指向しているものと思われる。山田家の日常生活はあまりに平凡すぎるので手本にはなり得ず、牛丼の「大盛り」に対する「並」のように、決して背伸びをしない普通の生活が、『となりの山田くん』そのものであり、表現の全てであると言える。

 それは、少し背伸びした世界を描いたトレンディドラマと比較すると、その対照が鮮やかに浮かび上がる。いわゆるトレンディドラマにも「普通の」日本人の暮らしぶりが描かれる。それもまた、一つの「スタンダード」と形作っている。ブランドものに身を固めたスタイルの良い男女がリッチでゴージャスなアーバンライフをエンジョイし、それこそドラマのような大恋愛を演じきる。

 俳優達のファッションは常に流行の最先端をゆくように仕掛けられ、俳優達が使う小道具も流行の先鞭をつけるものが慎重に選ばれる。ファッションの流行は、ドラマで描かれた世界の少し後を追うのであり、1990年頃のドラマでコードレスホンが多用されると家庭の親子電話が一斉にコードレス化し、1995年頃のドラマから携帯電話に切り替わると、街中にも携帯電話&PHSがあふれるようになるのである。

 もちろん、トレンディドラマが常に流行と普及を牽引するものではなく、流行に便乗する形で作られるドラマもある。けれども、少なくとも、進んだ暮らしぶりとしての権威ある「スタンダード」という要素をトレンディドラマは持っており、消費生活におけるある種の手本としてのカタログ的要素に、その存在理由を見いだすことが出来る。

 これに対して、『となりの山田くん』はトレンディドラマとは徹底的に反対の世界が描かれる。「並」の日本人の「並」の暮らしを淡々と描写することを指向している。そこにはブランド品がなければ流行の匂いもない。主人公はカッコよくなければヒロインに色気もない。(そもそも、誰をヒロインと呼べばいいのかさえ分からない。)山田夫婦にもあったはずの恋愛はとっくの昔に過去のものとなって化石のように日常生活の中に埋没しており、子供達の恋愛はまだまだ先のものである。ときめく恋愛の要素は全くといっていいほど描かれず、その代わり「今日の晩ご飯のおかずは何にしようか」といった、退屈で面白みのない泥臭い日常生活を端的に表現するセリフが全編を貫いている。『となりの山田くん』の世界は、牛丼の「大盛り」に対する「並」のように、飾らない、背伸びをしない生活こそが「スタンダード」であり、『となりの山田くん』の存在理由でもあると主張するのである。

 すなわち、トレンディドラマが「憧れの対象」であり「権威ある手本としてのスタンダード」を指向した作品であるとするならば、『となりの山田くん』のそれは「日常の現実」であり「並の生活としてのスタンダード」を代表する作品であると言える。(ただし、山田家の日常は必ずしも現在の現実ではなく、意識の上に残存した過去の風景をノスタルジックに描いて見せるという傾向が見いだされる。)

 その意味では、『となりの山田くん』は、『となりの山田くん』の前に連載されていた『フジ三太郎』に似ているかもしれない。『フジ三太郎』の主人公は、並の会社の並の社員であった。とりたてて特技も特長もなく、平凡な家庭の平凡な暮らしを営んでいた。憧れの対象にはなり得ず、目標にしたいような流行を引っ張っていくという先端性もなかった。そして、『フジ三太郎』では、流行は常に一番最後に描かれた。逆に言うと、流行描かれる頃には世間での流行は既に一段落していた。すなわち、トレンディドラマが「流行の始まり」を仕掛けるものであるとするならば、『フジ三太郎』は「流行を終わらせる」または「流行の終わり」を確認するという機能を有している訳である。

 少なくとも、流行の点に関しては『となりの山田くん』も同じように考えられるだろう。例えば、山田家の誰かが携帯電話&PHSを使い始める頃には既に世間に広く普及した後であろうし、山田家にインターネットが導入される頃には、大抵の家にインターネットが普及した後になるだろう。

 視点を変えてみると、トレンディドラマは「人々が将来実現したいと思っている生活」が描かれ、『となりの山田くん』では「人々が現在実際に営んでいる生活」が描かれた作品であると言うことが出来る。専門用語では、前者を準拠集団、後者を所属集団という。大雑把であるが、この文脈では以下のように考えて差し支えない。

   準拠集団=憧れをもって手本にする集団。自分が将来所属したい集団
   所属集団=自分が実際に所属している集団。自分が将来脱出したい集団

例えば、現在自分が「ブランド品を持っていない生活」「携帯電話を持っていない生活」レベルに所属していて、ドラマなどで描かれている「ブランド品に囲まれた生活」「携帯電話を駆使する生活」(準拠集団)に憧れるならば、実際にブランド品や携帯電話を購入することによって、憧れの生活レベルに近づこうとするのである。

 そういう視点で『となりの山田くん』を見れば全く期待を裏切られることになってしまう。山田家は、あこがれの準拠集団どころか時代遅れの感さえ漂う現実の所属集団そのものだからである。日本のスタンダードというには、あまりに生活臭に満ちているのだ。

 まとめると、『となりの山田くん』には、不景気や規制緩和・ビッグバンで先行きが見えない時代だからこそ、自らが所属している集団を見直そうとするメッセージが込められている。憧れをもって手本にするべき目標があれば、それに向かって邁進するものである。しかし、目標を見失ってしまえば、まず自分の足元を見つめ直すことから始めなければならない。その流れの中で、『となりの山田くん』は、最も基本的な集団である「家庭」に回帰し、ありふれた日常の中のささいな喜びを描こうとしているのであろう。






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