●日本の「家族」とは何か
Considering about Japanese Family

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●「となりの山田くん」で意図された家族像とは何だろうか? 1999/07/11



●現代の家族が抱えている問題には何があるだろうか? 2000/10/20



●21世紀の家族にとって「気楽に生きる」ための鍵とは何だろうか? 2000/10/20



●付録:「家族」の描かれ方に見る「となりの山田くん」と「カードキャプターさくら」の対比 2000/10/20









 
●「となりの山田くん」で意図された「家族」とは何だろうか?


 「となりの山田くん」は「日本人の大半がかつてそうであり、実は今もそうであるはずの『庶民』を描いた作品」であるとされる(1)。山田家という家族は、日本のどこにでもいそうな庶民を描いた作品だというのである。確かに、山田家が織りなすエピソードの数々は、私達にもどこかで身に覚えのある日常生活と重なる部分が多い。鈴木敏夫プロデューサーは語る。「この漫画には、日本がなくしかけた『家族』がある。不況とかリストラとか、みんな深刻な顔をした今こそ、ホッと出来る作品が必要だ」(2) 現代の庶民が、家族がなくしかけているものとは、何を意味するのだろうか?そして、「となりの山田くん」に込められたメッセージとは何なのであろうか?

 朝日新聞に連載されていた「となりの山田くん」をジブリの長編アニメーションとして映画化しようと強く推薦したのは、プロデューサーの鈴木敏夫氏であるとされている。「となりの山田くん」が初めて企画に上がったのは1993年暮れにまで遡る。その時は鈴木氏と高畑氏との間で短い会話があっただけで、それを検討する前に「もののけ姫」の制作が繁忙を極めるようになり、一度は忘れ去られてしまった。

 当初の高畑氏は、「もののけ姫」の後に作る作品として「となりの山田くん」ではなく、平安時代を舞台にした古典「長谷尾草紙(はせおぞうし)」の映画化を考えていたという。これは、妖(よう)術・反魂の術により死体を集めて生まれた美女を巡る幻想的かつ怪奇な物語である。しかし、「なぜ平安時代を描くのか。作る意昧が見いだせない」(高畑氏)ため、この企画はつぶれてしまった。(3)

 そこで、一度は消えかかっていた「となりの山田くん」の企画が復活する。「ジブリのイメージではない」「長編アニメーションに向かない」「描きにくい」という理由で反対する声が多い中、鈴木氏は高畑監督を延々と説得したという。 高畑氏も「人の内面・心理ばかり描くドラマが氾濫している今、見事に人の外面・現実しか描かない『山田くん』をやる意味はある」と納得し、正式に企画がスタートした。

 「高畑氏は、作品に着手する前に2つの意味を求める。それは『作る意味』『新しい映像技法を開発するというテクニック上の意味』だ」(鈴木氏)。(4) 後者は言うまでもなく制作過程のフルデジタル化である。そして、前者としては、いわゆる「癒し」に対するアンチテーゼとして「となりの山田くん」を作る意味を見いだしたのである。

 高畑氏の嫌いな流行り言葉は「癒(いや)し」であるという。高畑氏は語る。「今、精神の病がすごく増えているじゃないですか。(←…じゃないですか、という表現も流行り言葉なんですけどね) 人々が病気じゃないと『癒し』なんて言葉は出てこないはずですよね・・・・・・今の日本は『いい家族でいたい』『いい父を演じたい』というプレッシャ−ばかりがあふれていて、それが高じて突然、キレたりする」(5) 要するに、「癒し」を求めるのはそれらのプレッシャーに依然としてとらわれているからではないか、そのプレッシャーが家庭をも蝕んでいるのではないかという現状を、高畑氏は憂慮しているのだ。

 プレッシャーなど受け流そう、心の呪縛から自由になろうと高畑氏は呼びかける。そして、「もっと楽に生きたら…」というメッセージを「となりの山田くん」の中に込めようとしたのである。

 だから、山田家の人々は、夢という名の幻想とも、希望という名の向上心とも縁がない。高畑氏はこのようにも語る。「山田家はお母さんを筆頭にだらしない人が多いんだけれど、だから居心地がいいという面もある。理想ばかり見てダメな部分を責めず、ダメな者同士許し合っている風がある。情けないかもしれないが、あったかくて僕は好きですね。実はそこに家庭を崩壊から救う知恵があるとも思う。ちゃんとした人はかりじゃ息がつまっちゃうでしょ。その意味で、山田家には夢なんかひとかけらもなくていいんです」(6)

 つまり、高畑氏の家族観を要約すると、次のようにまとめられると思う。

  家庭を崩壊から救うのは、何よりもあたたかさである。
  理想ばかり見ない。ダメな部分を責めない。
  ダメな者同士を許し合う空気が、居心地の良さを醸し出す。
  情けないかもしれないが、そこにあったかさがある。
  日本人はこう生きてきたし、今もこう生きている(はずだ)

 山田家の人達は、高邁な目標や大義を掲げてそれを達成するべく必死の努力をしたり、今の私はまだ本当の自分ではないと言って自分探しを始めたりもしない。そのうち何とかなるだろうという歌のフレーズのように「いい加減」に生きている。こういう生き方をしている山田家を描くことが、「日本人の大半がかつてそうであり、実は今もそうであるはずの『庶民』を描くこと」なのであり、そこに日本がなくしかけた『家族』の姿が見いだされるというのである。

(1)「となりの山田くん」プレスシートより
(2)1999年6月27日 朝日新聞「ひと」
(3)(4)1998年7月24日 報知新聞「今作る意味を考えた」
(5)1998年7月25日 報知新聞「親子に気遣いもプレッシャーもない」
(6)1999年5月10日 朝日新聞夕刊「緻密すぎるアニメに異議! ダメな家族のあったかさが好き」






 
●現代の家族が抱えている問題には何があるだろうか?


 近年、子供の数がみるみる減っている。かつて、一人っ子という言葉はどことなく「兄弟がいなくて寂しそう」という響きを伴って語られたものである。しかし、それは兄弟が多くて一人っ子が珍しかった時代の名残であって、今では逆に三人以上の兄弟姉妹を持つ方が珍しくなった。

 兄弟の数が減っているのは、一人の女性が一生の間に生む子供の数が減りつづけていることに起因する。1989年の合計特殊出生率は1.57となり( 100人の女性から157人の子供しか生まれないということを意味する)、「1.57ショック」という流行語にまでなった。この率が2.08以上ないと現状の人口を維持出来ないと言われているから、日本の人口は将来減少に転じるのは確実な情勢になっている。この率は現在も下がり続けているが、あまりに低下慣れしたのか、昨今ではニュースにさえならないありさまである。(注:合計特殊出生率は、結婚しない女性も含めて計算している。結婚した女性は平均2人以上の子供をもうけており、これは最近数十年あまり変わっていない。つまり、子供の数の減少は、子供を産まなくなったのではなく結婚しない女性が増加していることによっている。)

 兄弟の数の減少は、長男の増加、次男以降の減少に直結する。長男の数がどれだけの割合で存在するかの詳細なデータはないが、ざっと見て男性の4人に3人以上が長男である。(兄弟姉妹の数は二人として長男の割合を求めると、単純計算で75%になるから。実際は一人っ子も多いので長男の割合はさらに高まる。)

 いっぽう、結婚相手として長男が敬遠される傾向は強まりつつある。だが、次男の数はあまり多くなく、三男以降に至っては全く希少な存在になっている。つまり、夫の親と同居する可能性を心配しなくて良さそうな次男以降は、男性の4人に1人以下しかいない。敬遠する理由は、長男と結婚すれば夫の親と同居する可能性があるからであるが、その核心には、ズバリ「嫁と姑」の問題がある。長男を避けるということは、嫁と姑の争いを避けることとほとんど同義である。新婚当初からさんざん姑にいびられたあげく、将来はその姑の介護をしなければならなくなるなど、まっぴらご免というわけだ。

 現代の3世代同居家族が抱えている最も深刻な問題は、ズバリ「嫁と姑」の戦争であろう。かつて、嫁が夫の家に入る嫁入婚の場合、他家から嫁いできた嫁は姑の監督のもとでシュウトメヅカエの不自由な見習い生活を送らねばならなかった。あらゆる場面で姑の立場が勝っていたから、すなわち姑の嫁いびりは構造的な問題であった。

 ただ、それでも、社会がまだあまり発展していなかった時代はまだ良かったといえる。世代ごとの価値観の違いに大差がなかったからである。世の中の動きもゆるやかであったので、姑が積み重ねてきた経験や知識も役立ったから、それなりにうまくやっていくことが出来た。しかし、高度経済成長期以降、社会構造が激変して世代ごとの価値観も全く異なるようになってくると、嫁と姑の対立は決定的になる。姑の「知恵袋」も時代遅れの産物になり、下手に「知恵袋」が出てくると逆に良くない結果を招くことになってしまう。

 例えば、姑の嫁いびりの例にこういうものがあった。
「○○さん、あなたはご実家にちょくちょく帰りすぎですよ。あなたは××家の嫁に来た人なんですから、ご実家に甘えるのはいい加減にしてちょうだい。そもそも私が嫁に来たときには・・・。」
 この言葉には、決定的な時代錯誤の要素が二つある。確かに、姑が嫁に来た頃は、家制度の因習が色濃く残っていて、嫁は夫の家に尽くすものであり、夫の面子にかかわるので実家にあまり寄り付いてはいけなかった時代を反映していた。

 もちろん、現在においてこういう価値観は一般的ではなくなっている。しかし、近年は子供の数が減ってきているので、親の介護の問題が表面化しつつある。昔こそ兄弟が多くて実家を守ってくれたり世話をしたりする兄弟が大勢いたが、兄弟の数が減ったいまの世代では、自分が行かないと実家の両親の世話をする人がいないという状況になっている。姑が、これらの価値観の変化や社会情勢の推移を理解しなければ、嫁と姑は新たな亀裂を生んでいくだろう。

 今の女性は、希望する条件が満たされない限り結婚を急ごうとしなくなっている。長男を避けるのも条件の一つに含まれていることが多い。嫁姑の問題はなるべく避けるにこしたことはないからだ。したがって、長男の男性が結婚を望もうとすれば、いきおい「親との別居」を条件にせざるを得なくなる。

 結婚相談所のチラシ(女性の部)

 女性が男性に望む条件が述べられている。


 結婚相談所のチラシ(男性の部)

 男性が女性に望む条件はひとつもない。
 全員「親と別居」を挙げている点に注目。


 上は、ある結婚相談所のチラシである。女性は(自分のことは棚に上げて)希望する男性の好みを好き勝手に並べている。男性は・・・・女性の好みを書いている男性などいない。まあここまでは分かる。しかも、男性はことごとく「親と別居」を挙げている。この事実に驚いて欲しい。女性がわざわざ「親と別居」を挙げていないのは、親と同居しても良いという意味ではなく、「親と別居」が前提以前の条件だからである。

 早い話が、親と同居する可能性が少しでもある男性は、真っ先に結婚相手の対象から外されるのだ。つまり、親との別居を保証しなければ結婚できないのだ。新しい「家族」を作れないのだ。この現実は、一体何を物語るのだろうか?

 娘の母親は、娘に自分と同じ苦労はさせまいと誓う。だから娘の結婚を急がせない。次男以降か、親と別居を条件にしている長男しか勧めない。娘も娘で、夫の親と同居した新婚生活など考慮の外だ。どんなにきれい事を並べ立てたところで、「嫁と姑」がどれだけ深刻な問題であるか、このチラシは何よりも雄弁に物語っているのである。よって、仮に3世代同居が理想であると仮定しても、それが実現する可能性はますます少なくなっている。この傾向が逆転することはないだろう。結婚難、少子化の問題、そして親の介護の問題は、将来における家族のあり方に大きな影響を及ぼして行くに違いない。

 ちなみに、「となりの山田くん」では、まつ子としげは実の親子であった。したがって本質的に「嫁と姑」問題とは無縁である。ひたすら平和な日常が描かれる山田家の気楽さは、この辺を考慮しなければならないのではないだろうか?





 
●21世紀の家族にとって「気楽に生きる」ための鍵とは何だろうか?


 高畑勲氏によれば、日本の家族は本来気楽に生きてきたのだという。確かに、近代以前はそうであったかもしれない。封建的制度のなかでがんじがらめにしばられていた不自由はあっても、少なくとも庶民レベルでは自由な恋愛結婚が当たり前であったし、娯楽は少なく生活は苦しいながらも何とか平穏な日常生活を送ることが出来た。その意味では、確かに気楽に生きていたという表現はあながち的はずれではないかもしれない。

 だが、そういう庶民的気楽さも、近代以降は様変わりしてきた。明治維新以降、日本の家族は国家の富国強兵とともに歩むことになったからである。長男は跡取りとなって家業を継ぎ、次男・三男は兵隊として召集された。女性は国富のため子孫を増やす道具と見なされ、その権利が顧みられることはなかった。戦時中のスローガンである「産めよ、殖やせよ」はその象徴であった。

 第二次世界大戦以降も、経済発展のために家族は翻弄されてきた。モーレツサラリーマン、会社人間の誕生である。良い会社に入るためには良い大学に入らなければならない。したがって、受験戦争という名の競争が子供をも巻き込むようになった。子供達の遊び場であった原っぱは開発され、塾通いとテレビゲームとともに子供達から異年齢の集団遊びの機会を奪った。

 そのように考えると、確かに近代以降の日本人は気楽に生きる暇はなかった。だが、高度経済成長が一段落し、低成長の時代になっても、直ちに気楽な生活を送れるわけではない。むしろ、低成長の時代こそ、生き残りをかけて激しい競争が繰り広げられ、果てしない緊張を強いられる。主人のリストラを原因として別れる「リストラ離婚」も珍しいことではなくなり、大過なく定年まで勤め上げても、長年連れ添った妻の蓄積した不満を原因として別れる「定年離婚」も増えているという。単なる形態的な問題ではなく、精神的絆もバラバラになってしまう家庭崩壊も進んでいる。理想の家族とはこうあるべきだという呪縛的な価値観が意味を成さなくなって久しく、家族とは何か、家庭とは何かという意味を問われることもなくなりつつある。現実逃避に近い、ある種の割り切りがなければ、気楽に生きることはこれまで以上に難しくなっていると言ってよい。だが、これは考えなければ済む問題ではない。それも、タテマエではなくホンネで語って行かねばならない。

 ちなみに、「となりの山田くん」は見事にホンネだけ描かれたということになっているが、そこに描かれたホンネは、いかに毒舌だとしてもある意味で上品であった。逆に、現実の家庭には、もっともっと毒に満ちた本音など幾らでもある。
「隣の旦那は課長になったんですって。」
「向かいのタカシちゃんは○○高校へ合格したんですって。」
この種の競争は、父親や子供に限りないプレッシャーを与えている。たとえ、出世万能主義・学歴万能主義が緩和されたとしても、このプレッシャーから自由になることは出来るのだろうか?いわゆるフリーターとなって出世競争から背を向けたとしても、それで生涯プレッシャーから解放されるわけではない。現実に、30代半ばを迎えつつあるフリーターは、生涯定職に就くことが出来ないともいわれ、将来の可能性は限りなく狭められていくであろう。

 そして、究極の毒は「嫁と姑」の問題であった。「となりの山田くん」では「嫁と姑」の問題は結果的に避けられている。今日も終わりなき「嫁と姑」戦争を争っている当事者は、「気楽に生きたら?」などというメッセージをどのように受け止めるのであろうか? 当事者にとっては説得力のカケラにもならないであろう。現実に、この毒を避けるため、女性は長男との結婚を避けるようになり、男性は有史以来の結婚難に直面している。かくして平均初婚年齢は上がり続け、子供の数も減り続けている。それでも、男女とも結婚を焦るわけでもなく、深刻な問題として受け止められているわけでもない。だが、これは年金問題・労働力問題など様々な社会不安の要因となって顕在化していくであろう。

 結局、21世紀を迎える日本の家族にとって、「となりの山田くん」はどのような意味を持っていたのだろうか?現実から逃避することなくして、「気楽に生きる」ための鍵は本当に見つかるのだろうか? たとえ映画を見て「気楽に生きられたら」と思っても、映画館を一歩出た瞬間、避けることの出来ない現実が手ぐすねをひいて待ちかまえているからだ。少なくとも、「気楽に思考を停止」すれば「気楽に生きる」ことが出来るわけではないことは確かである。20世紀の一時期だけ出現し、理想像のひとつとされた山田家を模倣するのではなく、これを一種のアンチテーゼとして新たな理想像を考えていく中に、21世紀を「気楽に生きる」ための鍵が隠されているかもしれない。






 
●付録:「家族」の描かれ方に見る「となりの山田くん」と「カードキャプターさくら」の対比



「山田くん」と「さくら」の看板
(1999年8月・有楽町にて)



 「ホーホケキョ となりの山田くん」は、同じ1999年に公開された他の映画と比較して取り上げられることが多い。例えば「もののけ姫」と「ロストワールド」の時のように、邦画と洋画の対決という文脈からは「スター・ウオーズ」と対比される。また、公開日が同じで同じアニメーションという共通項からは「ポケットモンスター」と対比される。また、同じ松竹系で配給されたアニメーションということで「カードキャプターさくら」と対比されることもある。

 ここでは、「ホーホケキョ となりの山田くん」(以下、「山田くん」)と対比する作品として「カードキャプターさくら」(以下、「さくら」)を取り上げることにする。特に、「家族」というキーワードからみた場合、この二つの作品は実に興味深い対称をなしている。

 「さくら」の原作は、講談社の少女向け月刊誌『なかよし』に連載されている少女漫画である。1998年4月よりNHK衛星放送でテレビシリーズ化されていて、大いに人気を博しているという。

 「さくら」は「山田くん」に遅れること約一ヶ月、1999年8月21日から劇場公開されたアニメーション映画で、「山田くん」と同じ松竹が配給を手掛けた。丸の内ピカデリなどスクリーン数の多いところでは両作品が並んで上映される風景も見られたが、「山田くん」を打ち切った後に「さくら」を公開した映画館も少なくなかったようである。

 少女漫画としての「さくら」は、その傾向からして、極めて現代的でな作品である。それは一言でいえば超現実、ファンタジーの空想世界という意味ではなくて、近未来に顕在化するであろう多様な家族像や人間関係を先取りしている。

 少女漫画は、1970年代前半より描かれ方が変化してきた。すなわち、白馬の王子様と浮世の幸せに浸るといった絵空事のようなファンタジーは次第に減っていき、現実的で等身大の現実が描かれるようになってきている。その傾向は、たとえお姫様的なファンタジーの要素が入っていたとしても、登場人物の人間関係のあり方には、着実に現実が反映されるようになっているのだ。近年の少女漫画の傾向のひとつとして、友人の彼氏を好きになる、先生を好きになる、パパの再婚相手は自分と同い年、あるいは不倫や同性愛・・・といったような、あまり推奨されないし想定もされていないけれど、現実社会の中ではしっかりと存在している様々な関係がストーリーの中に取り込まれている。主な読者である思春期世代の少女は、これらの作品に接することによって、一種の予防接種と言うべきか、複雑な現実を受け入れる心の準備が出来るという効果さえ果たしているのかもしれない。

 「さくら」もまた、この流れの中にある。そればかりか、登場する家族像や人間関係の多様さは、関係性の見本市とでも言うべき様相さえ呈している。死別・離別による母子家庭・父子家庭は序の口であり、子供の一人暮らし、扶養の実質的放棄、婚約者との死別などによる家族の変化・分散・解体、さらには男性同士の同性愛あり、女性同士の同性愛あり、新米教師と高校生の教え子の結婚・妊娠・出産あり、小学校の担任が教え子に婚約指輪を渡するもあり・・・などと枚挙にいとまがなく、もはや何でもあり状態になっている。この家族像の多様さは、主に小学生を対象とした少女漫画向けとしては驚くほどである。つまるところ、「さくら」にあっては、「山田くん」的な典型的な家族像は全くといっていいほど登場しない。

 さて、主人公の家族にスポットをあて、その違いについて考察してみると以下のようになる。「山田くん」に登場する山田家は、昔ながらの典型的な3世代同居の大家族である。平々凡々な挙式を挙げ、不幸らしい不幸もないまま順調に子供をもうけている。いっぽう、「さくら」に登場する木之本家は、父親と子供2人の核家族である。周囲の反対の中、新米教師と16歳の教え子という立場を越えて結婚に踏み切ったが、母親はわずか27歳で亡くなり、主人公のさくらは母親の記憶がほとんどない。つまり、ほとんど悲しみらしい悲しみが描かれない山田家に対し、木之本家は根源的に大きな悲しみを抱えているのである。

 しかし、母親がいないからといって、木之本家が荒廃しているかといえば、決してそんなことはない。むしろ、母親がいないが故に、母親の存在が強く意識されている。父親は、娘のさくらに母親の話をよく聞かせているし、さくらも折に触れ母親の写真に近況を話しかけたり、母親の誕生日にはプレゼントを買って供えたりなど、家族の心の中では母親はしっかりと生きている。(逆に、その方面では山田家の方が貧弱であり、山田家で母親の存在が日常的に確認されるということはない。)家族の絆という意味では、木之本家は山田家と同等以上のつながりを発揮していると言っていいだろう。

 家事の分担も鮮やかな対称をなしている。山田家の家事は母親が一手に引き受けているが、木之本家では炊事・洗濯・掃除といった家事は家族で分担しあっている。もちろん、それは必要に迫られてのことであるには違いないが、実に自然に分担されているところからみて、仮に母親が健在だったとしても家事は平等に分担されるものと思われる。

 ところで、山田家では母親がどんなに家事をやっても空気のような存在であって家族から感謝されることはない。あまつさえ、手抜きだといってツッコミが入ったりしている有様である。お手伝いさんと揶揄された、高度経済成長時代の専業主婦の特質がそのまま描かれているわけだ。かなりの働きをしているのにほとんど意識されない山田家の母親と、既に亡くなっているのに家族の心の中で生き続けている木之本家の母親とは何という違いであろうか!

 父親の違いも際だっている。山田家の父はぐうたらなその日暮らしであって特に目的を持って生きている訳でもないが、木之本家の父は若手の学者として研究に勤しんでいる。山田家の父は都合のいい時だけ一家の大黒柱を気取るが、木之本家の父はそういうところがない。山田家の父は気まぐれで説教したがるだけで威厳と名の付くものはないが、木之本家の父は優しいのに威厳が満ちている。

 このように例を挙げてみると、「山田くん」と「さくら」で描かれる家族像は何から何まで反対であるとさえ言えるほど見事な対称を見せている。興業面で見ても、「山田くん」は上映館は多いが前売り券の売り上げは芳しくなく、一館あたりの客の入りも多くはないのに対し、「さくら」は上映館こそ少ないが前売り券の売り上げは好調であり、映画館も立ち見や次回入場の行列が出来るほどであったという。共通しているのはマンガが原作であることとアニメーション映画であるということくらいであるが、そのマンガの系列やアニメーションの表現形態も実に鮮やかな対称をなしている。これだけコンセプトの異なる映画を両方用意しておくとは、松竹も意外にしたたかであったと言えるだろう。






参考文献
井上輝子・江原由美子編 『女性のデータブック第二版』有斐閣,1991.
有地 享『家族は変わったか』有斐閣,1993.
博報堂生活総合研究所編 『「半分だけ家族」ファミリー消費をどう見るか』日本経済新聞社,1993.
渡辺洋三『日本社会と家族』労働旬報社,1994.
落合恵美子 『21世紀家族へ[新版]』 有斐閣,1994.
酒井はるみ 『教科書が書いた家族と女性の戦後50年』 労働教育センター,1995.
比較家族史学会編 『事典 家族』 弘文堂,1996.
久武綾子他『家族データブック』有斐閣,1997.
『若者ライフスタイル資料集98』食品情報流通センター,1998.
村松泰子他『メディアがつくるジェンダー』新曜社,1998.
『年表女と男の日本史』藤原書店,1998.
木原武一『父親の研究』新潮社,1999.
鶴見俊輔 浜田 晋ほか『いま家族とは』岩波書店,1999.





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