●「コクリコ坂から」の世界を考察する
Consideration of the Story

ホームへ戻る home

「コクリコ坂から」の世界について考察を加えてみました。
(公式の設定などを参考にまとめましたが、正確さは保証出来ません。あらかじめご了承願います。)



●登場人物の親子関係はどのような形になっているのだろうか?  2011/08/28


●松崎海と風間俊は、いつ頃から相思相愛になっていたのだろうか?  2011/08/28


●海は、なぜ母親の前で涙を流したのか?  2011/08/30


●海の父親が亡くなった状況には、どのような時代背景があったのか?  2011/08/31









●登場人物の親子関係はどのような形になっているのだろうか?

映画「コクリコ坂から」に登場する人物の親子関係は複雑です。公式な設定より主要な登場人物の親子関係についてまとめると、おおよそ以下のような図で表すことが出来ます。(澤村雄一郎と松崎良子は正式に婚姻届を出していたのか事実婚だったのかは不明ですが、当時の社会情勢から考えて、子どもを3人も出産しながら二人が入籍していないということは考えにくいので、入籍しているものとして考えます。)


この図を見ると、風間俊には"3つの両親"がいることになります。すなわち、血のつながりのある両親(立花)、戸籍上の両親(澤村)、養父母としての両親(風間)です。俊の実の父親は立花洋であるものと思われます。立花洋は引き揚げ船の事故で亡くなり、ほぼ時を同じくして、立花の妻(俊の実母)も出産時に亡くなっています。そのため、立花洋の親友であった澤村雄一郎が俊を引き取り、自分の戸籍に入れました。血縁関係がない子を自分の子として届けることを「藁の上からの養子」といいます。雄一郎と俊との間には生物学的な親子関係は当然ながらありませんが、戸籍上は(法律上は)親子関係が成立しています。その後、俊は風間夫妻の養子に入りましたが、戸籍上の実親との関係は残ります。俊は市役所へ自分の戸籍を調べに行き、自分の本当の親が雄一郎であることを確認していますが、それは戸籍簿にもそのように(実の親と養親の両方が)記載されているからです。

立花洋、引き揚げ船の事故で死亡する
    ↓
立花の妻、俊を出産する時に死亡する(出生届は出されていない)
    ↓
澤村雄一郎、俊を引き取って自分の戸籍に入れる。いわゆる「藁の上からの養子」であるが、法律上は正式な親子関係となる。
    ↓
風間夫妻、俊を引き取って養子とする。風間夫妻は俊の養父母となる。
    ↓
戸籍簿には、俊は風間夫妻の「養子」と記載され、"実の父親"として雄一郎が記載されている。俊は市役所でその事実を確認した。


立花夫妻は、法律的には何の関係もない(親子であることを証明出来ない)状態になっているところがポイントです。「俊は立花の息子である」と言っているのは雄一郎だけであり、それを証明出来る人物は誰もいません。理屈上、雄一郎が立花の妻と「不倫」して産ませた隠し子が俊という可能性もあり得る訳で、海はその可能性を考えた節があります。

風間夫妻には真相は明かされていません。雄一郎は、俊が自分の息子であるという戸籍謄本を持参して「俊は俺の子だ」ということで託している訳ですから、風間夫妻は「俊は雄一郎の子である」と信じるほかありません。もし真相を明かされていたなら、俊には当然そのように説明するでしょうし、「近頃、雄一郎に似てきたな」という言葉を俊に言うはずもないからです。

松崎良子は、雄一郎と結婚して、一旦は「澤村」姓になったものと思われます。しかし、雄一郎が亡くなってしまい、良子は旧姓の「松崎」姓に戻ります。民法の規定によると、配偶者の死後「復氏届」を提出すると、旧姓に戻ることが出来ます。ただし、復氏届で旧姓に戻るのは本人だけで、子どもの姓や戸籍は「澤村」のままです。良子の子ども(海・空・陸)の姓を「松崎」にするためには「入籍届」を提出する必要がありますが、これには家庭裁判所の許可が必要になります。割とややこしいです。

映画を楽しむ上では直接関係はありませんが、親子関係に関する法律的な知識があると理解が深まり、楽しみの幅が広がるかもしれません。





●松崎海と風間俊は、いつ頃から相思相愛になっていたのだろうか?


劇中では二人が恋心を募らせていく描写が少なく、いつのまにか恋愛関係になってるような感じなので、気になるところではあります。本編の描写を見る限りにおいては、物語の序盤、池に落ちた風間俊に松崎海が手を差し伸べた時から恋が始まっており、コロッケをもらう頃には既に相思相愛になっていいたと解釈するのが順当なところでありましょう。

俊が防火水槽に落ちるまで、海が俊の存在に気付いていた形跡はありません。よって、防火水槽での出会いは(少女漫画らしい)運命的な出会いだったと言えるでしょう。最初は「バカみたい!」と反発するものの、その日の夕方、UW旗を降ろすときに俊の姿が重なって見えたことから、既に恋を意識し始めていたことが伺えます。

その後、カルチェラタンで二人っきりになったり、商店街に急いで買い物に行くとき俊の自転車の後ろに乗ったりなどで心理的な距離が縮まっていき、一人コロッケを食べながらコクリコ荘に帰っていく頃には、もう相思相愛状態になっていたと推定できます。夕方に二人で通学路を帰る時の会話でお互いの好意が確認され(海は「カルチェラタン」の掃除を提案しますが、これは殆ど告白代わりのようなものでしょう)、北斗さんの送別会に俊が来た時には、もうすっかり心を許していて、コクリコ荘内を案内して自分の親の写真を見せるまでになっています。

いっぽう、俊は、以前から海の存在に気付いており、片想いをしていたと思われます。しかも、海に自分のことを気付かせようとして、色々と仕掛けをしていた形跡があります。そもそも、毎朝UW旗を掲げているのが海であると知っていなければ、「週刊カルチェラタン」にあのような詩を書けたものではありません。おそらく、UW旗の主が海であると知った頃から片想いが始まり、詩を書くほどまでに恋心が募っていたのでありましょう。

また、防火水槽に飛び込もうとした時、俊は海と一瞬視線が合い、その時俊は嬉しそうな表情を浮かべます。これも偶然ではなく、いつも海が昼食を食べている場所を知っていたからこそ、海の姿を確認しての表情であり、すなわちカルチェラタン存続のための抗議であると同時に海に対して自分を印象づけようとしたパフォーマンスも兼ねていたと判断しても良いしょう。防火水槽に飛び込んだ後、海が駆け寄ってくるところまでは予想していなかったかもしれませんが、俊の目論見は見事に当たったということになります。内心はガッツポーズだったことでしょう。

このあたりは、生徒会長の水沼も承知ではなかったかと思います。というより、二人をくっつけようと画策していたのかもしれません。





●海は、なぜ母親の前で涙を流したのか?

結論をコンパクトに書きますと、「不安から解放されたことによる涙」「緊張が解けたことによる涙」であろうと思います。(絵コンテの記述には「開放、安心、感謝、等々が溢れる感じで」と書かれてあります。) 具体的に書くならば「私は俊と本当に兄妹なのだろうか」という不安や、「風間俊が父(澤村雄一郎)の隠し子だと知ったら母はどう思うだろうか」という緊張などが挙げられますが、それらは「母の父に対する愛情の大きさ」の前には何の問題でもなくなり、それゆえ解放、安心、感謝等々の感情が溢れてきて大粒の涙になったのではないかと想像します。

松崎海は風間俊と出会って恋が芽生え、相思相愛の仲にまで進んでいきますが、「自分と俊は兄妹ではないか?」という問題が発生します。その時は「とりあえず知らない振りをして普通に接するしかない」ということになりましたが、海が悩まない訳はありません。だから、母親(松崎良子)に真相を聞きに行く時には、不安や緊張が頂点に達していたはずです。そして、母親の言葉を受けて、感情を抑えきれなくなって泣いたのであろうと考えられます。

俊が澤村雄一郎と似ている、というところは、一つのポイントとなるでしょう。

海は、毎朝の旗掲げを欠かさないほど、父(澤村雄一郎)を慕っていました。俊への恋が芽生えたのも、俊が父の若い頃とどこか似ているところを無意識のうちに感じたからかもしれません。劇中でも、俊の養父(風間明雄)が、俊に向かって「お前は雄一郎に似てきたな」というシーンがありましたから、少なくとも容貌は似ているのでしょう。その上で、俊から「戸籍に俊の父=雄一郎と書かれていることを確認してきた」と聞いてしまうと、「私のお父さんは俊のお父さんでもあったのだ→本当に兄妹なのかもしれない」ということになり、「本当に兄妹(異母兄妹)ならば、父・雄一郎は別の女性も愛していたことになる」という、父が不倫をしていたという疑惑にもつながってきます。

   愛する父が隠し子を作っていた(不倫をしていた)──
   母は不倫を知っていたのだろうか──
   もし、父の不倫を知ったら、母はどう思うのだろうか──

母は「ちょっとややこしい話になるけど」と前置きして、真相を話し始めました。

母の話によると、「俊は立花の子」であり、雄一郎の子ではありませんでした。俊と海は血がつながっていなかったのです。ただし、それは母が雄一郎から聞いた伝聞の話であって、「俊が立花の子」を証明することにはなりません。母の言った内容では、雄一郎が立花の妻と不倫をして産ませた可能性を否定することは出来ません。

海は、母に「もしも風間さん(俊)がお父さんの本当の子供だったら?」 と質問します。

これは、脚本を担当した丹羽圭子氏も指摘するほどの(『ロマンアルバム』のインタビューより)強烈な言葉です。母親が否定しているにも関わらず、それを容易には信じないからこそ出てくる言葉だからです。

母は、「あの人の子供だったら…会いたいわ。似てる?」と答えました。

これは、海にとっては予想外の答えだったに違いありません。これまでの流れで考えるならば、母は「雄一郎の子だなんてあり得ないわ」と一笑に付すべき所でしょう。海は海なりに兄妹であることに相当悩んでいて、それが違うというのであれば徹底的に否定して欲しかったはずです。

それなのに、母は、俊が雄一郎の子であることを否定せず、あまつさえ「会いたいわ。似てる?」とまで言ったのです。

一瞬、海は混乱したことでしょう。しかし、海は気付きました。母の、父に対する揺るぎない愛を感じたのだと思います。母は、父の不貞など疑っていないし、もし父が不倫で隠し子(俊)を作っていても構わない、父の面影が俊にあるのなら会ってみたいとまで言う。父を愛していればこそ、何もかも受け入れる。母のあっけらかんとした返事は、「大事なことは二人の気持ちで、愛情さえ確かめ合えれば、他は大きな問題ではないんだよ」と言っているかのようです。(これは、そのままこの映画のテーマにもなっていると思われます。)

──それほどまでに母は父を愛しているんだ。

海にとっては、それが分かればもう充分でした。海は、海なりに悩んだ末、俊に「血がつながっていても俊が好き」と告白します。それは、海にとっては大きなことだったのだけれども、母の父に対する愛情の大きさに比べたら小さなことだった。そんな母親の愛情の大きさに触れ、感情を抑えきれなくなって大粒の涙を流したのではないかと想像します。

なお、海が母親から真相を聞くシーンは、当初のシナリオ(宮崎駿氏・丹羽圭子氏による脚本)と完成した映画(宮崎吾朗監督による絵コンテ)とでは順序が入れ替わっています。下の表にもあるように、完成した映画では「血がつながっていても好きだ」と告白してから真相を知りますが、当初のシナリオでは真相を知ってから(血がつながっていないことを知ってから)告白しています。母の父に対する愛情の大きさを知って泣くという意味では違いはありませんが、映画版の方は、兄妹を承知で告白した海の悲壮な決意(の小ささ)と母の愛情(の大きさ)がより際だつので、涙には「解放」の意味が多くなり、逆にシナリオ版の方では、「安心」の意味が多めに出る構成になっているように思われます。

当初のシナリオ
(宮崎駿氏・丹羽圭子氏による脚本)
完成した映画
(宮崎吾朗監督による絵コンテ)
・戸籍の記録から、俊と海は兄妹らしいことが分かる。
(俊を好きになっていた海は悩む)
    ↓
・海の母が帰国。母から真相を聞く。海、泣く。
(戸籍上は兄妹だが実際には血がつながっていないと聞かされる)
    ↓
・徳丸ビルに行く。帰りに、海が俊に告白
(実の兄妹ではないと聞かされてから告白。
ただし、たとえ血がつながっていても好きだとも言う。)

    ↓
・徳丸社長来校。カルチェラタンの存続が決まる。
    ↓
・小野寺船長からも「俊は立花の子」であると聞く。
・戸籍の記録から、俊と海は兄妹らしいことが分かる。
(俊を好きになっていた海は悩む)
    ↓
・徳丸ビルに行く。帰りに、海が俊に告白
(母から真相を訊く前に告白。
血がつながっていても好きだと言う。)

    ↓
・海の母が帰国。母から真相を聞く。海、泣く。
(戸籍上は兄妹だが実際には血がつながっていないと聞かされる)
    ↓
・徳丸社長来校。カルチェラタンの存続が決まる。
    ↓
・小野寺船長からも「俊は立花の子」であると聞く。

ラストで登場する小野寺船長のシーンは、「俊は立花の子」であるという説明を補強するものですが、2人(海と俊)にとっては、もはやオマケに近い意味合いしか持ちません。なぜなら、、既に2人はお互いの気持ちを確かめ合っているので、真相はもはやどうでも良くなっているからです。というか、小野寺船長が若い2人を励ますというより、若い2人に小野寺船長が癒されている要素の方が大きいような感じです。それゆえ、小野寺船長と海・俊が握手を交わすシーンは感慨深い感情を呼び起こさせます。若い世代にはピンとこないかもしれませんが、親世代にとっては感涙ものの名場面になっています。





●海の父親が亡くなった状況には、どのような時代背景があったのか?

海の父(澤村雄一郎)は、朝鮮戦争中、LST(戦車揚陸艦)で物資輸送の任務に就いていたとき、乗艦が機雷と接触して爆発・沈没した時に亡くなったとされています。

LST(Landing Ship Tank)は、戦車を揚陸するための艦艇で、第二次世界大戦中に開発され、ノルマンディー上陸作戦や沖縄戦などの上陸作戦で多用されました。大戦の結果、ほとんどの船を失ってしまった日本政府は、GHQに対して船舶の供給要請を行い、1946年1月にはリバティー型輸送船100隻、LST100隻、病院船6隻、小型補助艦船9隻の合計215 隻の船舶が貸与されました。貸与されたLSTは武器、弾薬が撤去され、1隻のLSTで2,000人程度収容することができるよう改装が施されました(LST1隻を運行させるために必要な乗組員数は50人強です)。それらLSTを含む船舶は、終戦時に数百万人いたと言われる外地の軍人・軍属・関係者の引き揚げに使用され、引き揚げ後は物資の輸送で活躍しました。

朝鮮戦争は、1950年6月に朝鮮半島で勃発し、1953年7月に休戦協定が結ばれるまでの間、朝鮮半島の主権を巡り争われた戦争です。第二次世界大戦で日本が敗戦した後、朝鮮半島は北部がソビエト連邦、南部がアメリカに分割占領され、統一の試みはなされましたが1948年に南北でそれぞれ独立を宣言し、分断国家となってしまいます(北側が朝鮮民主主義人民共和国=北朝鮮、南側が大韓民国=韓国)。朝鮮戦争は、分断された半島をふたたび統一しようとする戦いであったと言えます。北朝鮮が韓国に攻め入ることで始まり、アメリカを中心とする国連軍が韓国側に参戦、北朝鮮側にはソビエト連邦と中華人民共和国が支援し、事実上アメリカとソビエト連邦の代理戦争の様相を呈しました。アメリカ(自由経済・資本主義=西側)とソビエト連邦(計画経済・社会主義=東側)が対立する東西冷戦時代の到来を実感させる戦争でもありました。

当時の日本は、アメリカを中心とする連合国の占領下にありました。朝鮮戦争に関与できる立場ではありませんでしたが、連合国の要請(事実上の命令)により海上保安官や民間船員など8000名以上が国連軍の作戦に参加させられました。日本人が乗り込み運行していたLSTは39隻あったとされています。戦場への輸送を担う訳ですから危険も多く、朝鮮戦争勃発から半年の間に、日本人の死者は56名が記録されています。中でも1950年11月15日に韓国・元山沖で大型曳船LT636号が触雷して沈没した事故では、乗り組んでいた日本人船員27名のうち22名が犠牲になってしまいました。雄一郎の遭難は、この事件がモデルになっているのかもしれません(LT636号はLSTではありませんが)。

アメリカの極東海軍司令官が「LSTは恐らく朝鮮戦争における国連軍の成功に最も大きな貢献をした。・・・ LST が日本になかったならば、我々は釜山を維持することができなかったかも知れません。」と評したほど、日本人が運行するLSTは大活躍をしました。しかし、当時占領下にあった日本では、それが報じられることは殆どありませんでした。アメリカにとって、まだ日本人は"敵性国民"であったので、輸送任務に協力させるにあたっては機密保持を厳重にして日本側には多くの情報を知らせなかったこと、また日本人船員の間でも、第二次世界大戦で甚大な被害を被った経緯から「もう戦争に関わりたくない」という意識が強かったこともあって、あまり多くの記録が残されておらず、「忘れ去られた海上輸送」となっています。

戦後の日本は、歴史の表に出てこない日本人船員の犠牲を払いながらも、国連軍の後方支援基地としての役割も担い、「朝鮮特需」と呼ばれる好景気となって戦後の経済復興に弾みがつきました。「忘れ去られた海上輸送」は文字通り忘れ去られ、日本人が朝鮮戦争に参加していたという事実もあまり認識されることがなく、そのまま現在に至っています。

スタジオジブリの作品で、このような史実に基づく題材が扱われることは珍しく、「朝鮮戦争」「LST」といったといった言葉が海のセリフの中からも出てくるところには意外ささえ感じます。雄一郎は単なる海難事故で亡くなったことにしてもストーリー上で大きな影響はないように思えるからです。海達が徳丸社長を訪問するシーンでもこの言葉が出てきて、触雷の瞬間までが映像化されていますが、戦中・戦後に苦労したであろう徳丸社長にとって、海の父が朝鮮戦争の「忘れ去られた海上輸送」で亡くなったことに深く同情するであろうことは想像に難くなく、そのような時代性を浮き彫りにするために、あえて取り上げられたという見方も出来るのではないかと思います。

「コクリコ坂から」は韓国を含む海外にも配給が予定されているそうですが、このあたりは慎重に取り扱われることでしょう。いずれにせよ、これらのキーワードをもって、21世紀に生きる私達に当時の社会情勢に思いを馳せる機会を提供したという意味では、注目するべきところではないかと思います。

参考文献:石丸安蔵「朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―」防衛研究所






ホームへ戻る home