●「コクリコ坂から」FAQ
FAQ of "From Up on Poppy Hill"

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「コクリコ坂から」に関する質問等をQ&A形式でまとめてみました。(最新の更新はで表します)

※公表されている設定や資料をもとに構成しましたが、正確さは保証出来ません。あらかじめご了承下さい。
今後、発表される情報の中で新事実が出てきたときは、当然ながらそちらを優先させて下さい。

 

●基本編 2011/08/10更新
「コクリコ坂から」の原作はどのようなものですか?
「コクリコ」とは、どのような意味なのでしょうか?
漫画版「コクリコ坂から」には原作者がいるとのことですが、どのような人物なのでしょうか。
ヒロインの名前「海」に何か由来はあるのでしょうか。また、なぜ海は「メル」と呼ばれていたのでしょうか。
原作漫画と映画との間では、どのような違いがあるのでしょうか? 
脚本と映画との間では、どのような違いがあるのでしょうか?


●作品編 (ネタバレあり) 2011/08/30更新 
なぜ、海は毎朝旗を掲げ続けているのでしょうか。 
風間俊は、どうして松崎海が毎朝旗を掲げているのが分かっていたのでしょうか。
制服姿のまま夕食の支度をしていた海が、豚肉がないのに気付いて買い出しに行くとき、わざわざ私服に着替えて行っていました。急いでいたのだから制服姿のまま買い出しに行った方が良かったと思うのですが。
カルチェラタン存続派が少数勢力だった時は「少数意見を切り捨てるのはダメだ」みたいなことを言っていたのに、勢力が逆転したら少数派(建替派)は存在しないかのように扱われていました。少数意見の切り捨てはダメなんじゃないのでしょうか。
生徒会長と風間俊と松崎海は、学校をエスケープして理事長に直談判に行きましたが、松崎海だけが学校に欠席届を出していました。これはどんな意味があるのでしょうか。
海の母は澤村雄一郎と駆け落ちしたから「澤村姓」になったはずなのに、どうして「松崎姓」に戻ったのでしょうか。
海のお母さんがアメリカ土産にビーフジャーキーを買ってきましたが、これは土産的にしょぼくないですか?


●その他  2011/08/19更新
「コクリコ坂から」の舞台となった街はあるのですか?
コクリコ荘は、どのあたりに建っている設定なのでしょうか。
海の制服のスカート丈が長くてダサいです。もう少し何とかならなかったのでしょうか。 
海は、毎朝父を思って旗を掲げていますが、いつか掲げるのをやめてしまうのでしょうか。
俊と海は将来結婚するのでしょうか?
俊と海の将来が気になって仕方ありません。何か後日談を創作して下さい。






   ●基本編
「コクリコ坂から」の原作はどのようなものですか? 「コクリコ坂から」の原作漫画は、月刊少女コミック『なかよし』(講談社)にて1980年1月号から同年8月号まで連載されました。高橋千鶴氏が作画を、佐山哲郎氏が原作を担当しています。単行本コミックスは1980年に全2巻が発売されており、2010年に角川書店より新装版、2011年に同社より文庫版が発売されました。
「コクリコ」とは、どのような意味なのでしょうか??
「コクリコ」は、フランス語で「ヒナゲシ」を意味しています。漢字では「雛芥子」と書き、フランス語の「コクリコ」には「雛罌粟」という漢字が当てられています。他には「グビジンソウ(虞美人草)」、「シャレイポピー」と呼ばれることもあります。

ヨーロッパ原産のケシ科の一年草で、草丈50cm〜1mくらい、5月頃に花を咲かせます。なお、春先にアスファルトのすき間などからオレンジ色の花を咲かせる植物が増えていますが、これも「ナガミヒナゲシ」というヒナゲシの仲間です。
漫画版「コクリコ坂から」には原作者がいるとのことですが、どのような人物なのでしょうか。 『なかよし』に連載されていた「コクリコ坂から」の作者は高橋千鶴氏という女性ですが、原作は佐山哲郎氏という男性が担当しています。もう少し注目されても良さそうな感じもしますが、情報そのものがあまりありません。わずかに『ロマンアルバム』の小さなインタビュー記事や、『週刊文春』2011年8月4日号で告白記事が確認出来る程度です。

『週刊文春』の記事によると、佐山哲郎氏は1948年生まれ。東京都立大学を中退後、ライター、エディター、出版社の編集長を務め、漫画の原作を手掛ける傍ら、ポルノ小説も執筆するなど、異色の経歴を辿っています。その後は俳人、詩歌研究家となり、現在は東京・根岸の西念寺で住職を務めているとのことです。1948年生まれといえば典型的な団塊世代であり、全共闘世代でもあります。大学を中退した理由は判然としませんが、当時盛んであった学生運動と無縁ではないものと思われます。
ヒロインの名前「海」に何か由来はあるのでしょうか。また、なぜ海は「メル」と呼ばれていたのでしょうか。 原作者・佐山哲郎氏によると(『ロマンアルバム』のインタビュー記事)、ヒロインの「海」、妹の「空」、弟の「陸」は、陸海空3軍(陸軍・海軍・空軍)の名称からとったことになっています。

また、「海」はフランス語で「ラ・メール」と呼び、それが「海」のニックネーム「メル」の由来になっています。

映画では、松崎海のニックネームが「メル」であることを説明するシーンは特にありませんので、注意深く見ていないと気付きにくいところがあります。丹羽圭子氏によると(『ロマンアルバム』のインタビュー記事)、これを説明することも考慮されていたようですが、上映時間の関係等で実現しなかった模様です。

なお、原作コミックでは、海があこがれていたコクリコ荘住人の男性(北斗)が「メル」というあだ名をつけ、海はそれを喜ぶ、という展開になっていましたが、映画版では北斗さんが女性に変更されたこともあり、どのような経緯で「メル」と呼ばれるようになったかは分からなくなっています。その代わり、俊が海のことを「メル」と呼び始めることでメルが嬉しそうにするという演出はなされています。
原作漫画と映画との間では、どのような違いがあるのでしょうか?
原作漫画と映画版の違いは、主に以下の点が挙げられます。
・1980年頃の設定が1963年の横浜になる。
・小松崎の姓が松崎に変わる。
・父親は遭難で行方不明になっていたのが朝鮮戦争中に触雷で死亡したことに変わる。
・母親の名前が虹江から良子に変わる。職業がカメラマンから大学教員に変わる。
初期のイメージボードでは虹江のままだったが、途中から良子に変更されています。職業については、夫の良き理解があったから学問を続けられたという設定を補完するために変更されたのではないかと思われます。
・制服がブレザーからセーラー服に変わる。
当初のイメージボードではブレザー姿で描かれていましたが、宮崎駿氏が「セーラー服がいいな」と繰り返し提案したため変更になったそうです。(ロマンアルバム・監督インタビュー)
・原作漫画にはカルチェラタンが存在しない。
・制服廃止運動がカルチェラタンの存続運動になる。
映画化が具体化したのは「学園闘争はノスタルジーの中に溶け込んだいま、ちょっと昔の物語として作ることが出来る(企画のための覚書より)」るようになったからですが、いかにも時代遅れに過ぎて生々しい制服廃止運動はとても取り上げられなかったのではないかと思われます。
・北斗さんが男性から女性になる。
原作漫画では北斗さんは男性でしたが、「コクリコ荘=女の園」と「カルチェラタン=男の魔窟」との対比を際だたせるために変更されたものと思われます。また、海は当初は北斗に片想いしていましたが、映画版ではもちろんこの設定はありません。
脚本と映画との間では、どのような違いがあるのでしょうか?
脚本と映画との違いは、主に以下の点が挙げられます。
・冒頭のLSTの沈没シーンが、後半の徳丸会長と面会した時のシーンに移る。
最初に宮崎吾朗監督が絵コンテを描き始めた時は、シナリオ通り冒頭に沈没シーンがありましたが、絵コンテが重く暗くなってしまったため、描き直すことになったそうです。(『ロマンアルバム』監督インタビュー)
・カルチェラタンの時計が直るシーンが追加される。
・海が俊に告白するシーンが、母親から真相を聞いた後から聞く前に移る。
・タグボートの上で2人で手を振るラストシーンから、海がコクリコ荘に戻って再び旗を上げるシーンで終る。




   ●作品編
なぜ、海は毎朝旗を掲げ続けているのでしょうか。
海が毎朝掲げているのは、国際信号旗の「U」と「W」で、「航海の安全を祈る」を意味します。『ビジュアルガイド』の説明によると、海の父親がまだ生きていた頃、海は父親から「旗を掲げておけばお父さんは迷子にならず帰ってくる」と言われたので、窓辺に毎日旗を出していました。父が亡くなった後も、その習慣が続き、現在に至るまで続いているものと思われます。

なお、原作漫画では、父親は10年前に遭難して生死不明となっており、海は父が亡くなったことをまた信じていないような描写がなされていますが、映画では父は朝鮮戦争中に触雷で死亡しており、海もその現実は受け入れているようです。父を想う気持ちで掲げているのでしょう。
風間俊は、どうして松崎海が毎朝旗を掲げているのが分かっていたのでしょうか。
ここも、本編を見ただけでは良く分からないところではあります。松崎海(メル)の視点、すなわち旗を掲げる場所から風間俊が乗っているタグボートが見えなかったということは、風間俊の視点から見ても松崎海の姿は見えるはずはないからです。しかし、『週刊カルチェラタン』に掲載された詩には「少女よ、君は旗をあげる。なぜ。・・・」と書かれているので、風間俊は、別の何らかの方法にて、旗を掲げているのが「少女」であることを事前に知っていたことになり、おそらく、その少女がメルであったことも知っていたように思われます。

なぜ知っていたかについては、未知の設定が出てこない限り推測するほかありませんが、例えば以下の方法でなら知ることが出来るでしょう。
(1)海が毎朝旗を掲げていることは学校内でそれなりに知られており、風間俊もそれを知る機会があった。
(2)旗が掲揚されている場所(コクリコ荘)はタグボートからも分かるので、風間俊は学校帰りにコクリコ荘へ行ってみた。そこで、夕方になったので旗を降ろしているメルの姿を目撃した。
(3)以前よりコクリコ荘の近くに行く用事があって、コクリコ荘の前を通りかかったとき、たまたま旗を降ろしている海の姿を目撃した。
制服姿のまま夕食の支度をしていた海が、豚肉がないのに気付いて買い出しに行くとき、わざわざ私服に着替えて行っていました。急いでいたのだから制服姿のまま買い出しに行った方が良かったと思うのですが。 遅れ気味に帰宅した海は、制服の上から割烹着を羽織って夕食の支度をして、肉がないことに気付きました。食事の支度中に慌てて坂の下の商店街まで買い出しに出かける訳ですから、確かに割烹着だけ脱いで制服のままで出かけた方が、自然であるようにも思えます。

ただ、映画の設定である1963年当時は、制服とは「学校へ行くときに着用するもの」であり、帰宅したら着替えるべき服でした。さらに、その当時より、制服=服装の自由を奪うものであるとして、制服を廃止するべきだという声も少なからず上がっていた時代であり(原作漫画には、まさしく制服廃止運動が描かれています)、必要のない時まで好きこのんで着るべき服ではありませんでした。なので、いったん帰宅した以上、再び外出するのならば、(たとえ急いでいたとしても)私服に着替えて出かける方がむしろ自然であったと考えるべきでしょう。実際、放課後に遊ぶつもりの高校生は、あらかじめ私服をカバンにしのばせて登校し、学校が終わると私服に着替えて遊びに出かける、ということも珍しくなかったのです。

「制服=管理教育の象徴」から「制服=中高生世代の特権」に変化していったのは、昭和から平成に移った1990年代以降のことです。廃止されるべきと思われていた制服は、いつしか生徒達が自ら好んで着たがる服になりました。平成以降の高校生は、放課後も制服姿のまま遊ぶのは当たり前となり、休日でさえわざわざ制服を着て街に繰り出すようになりました。卒業しても制服を脱がない「なんちゃって高校生」すら出没しているそうです。時代は大きく変わったと言えますね。
カルチェラタン存続派が少数勢力だった時は「少数意見を切り捨てるのはダメだ」みたいなことを言っていたのに、勢力が逆転したら少数派(建替派)は存在しないかのように扱われていました。少数意見の切り捨てはダメなんじゃないのでしょうか。 もともと『週刊カルチェラタン』は、存続賛成の立場から記事を書いていましたから、存続派の立場から記事を書くのは当然でしょうし、存続派が多数になったことを強調しても不思議ではありません。少数意見を尊重することは重要ですが、ある立場に立っていることを表明し、その立場に則って記事を書いていくこととは必ずしも矛盾するものではありません。とはいえ、全学討論会では風間俊が「少数者の意見を聞こうとしない君たちに民主主義を語る資格はない」とまで言い切っているのですから、このあたりのバランスをとろうとするフォローが欲しいところではありますね。

理事長に直訴した結果、古いカルチェラタンは存続した上で新しいクラブハウスも別の場所に建てるという、存続派・建替派の両方が納得出来る形で決着しました。『週刊カルチェラタン』も、下の世代に引き継がれ存続していくことでしょう。風間俊が喝破したように、少数意見も尊重する編集方針が貫かれて欲しいものです。
生徒会長と風間俊と松崎海は、学校をエスケープして理事長に直談判に行きましたが、松崎海だけが学校に欠席届を出していました。これはどんな意味があるのでしょうか。
徳丸理事長へ直訴に行くとき、彼らは予約さえとらずに押しかけた訳ですが、その理由は「アポをとっても会ってくれるかどうか分からないので直接来ました」というものでした(だからこそ、生徒会長と風間俊は無断欠席した訳です)。これが本当であるならば、海が提出してきた欠席届は、彼らの企てにとって危険なものでした。生徒が理事長のところへ向かったことが学校側の知るところとなれば、校長から理事長に連絡をとって生徒達に会わないようにするなど、何らかの対策をとるはずだからです。

しかし、校長が理事長に連絡をとったという形跡はありません。海を含む3名が理事長に会いに行ったことも、学校側は把握していなかったのかもしれません。ということは、海が出した欠席届には、欠席をする本当の理由(理事長へ直訴に行くため)は書かれていなかったのかもしれません。

欠席の本当の理由を書かない欠席届を出すことに、どのような意味を持たせられるのか──。一つの見方としては、「海は海なりの筋を通した」ということが考えられます。校長を飛び越えて理事長へ直訴に行くというのは、理事長の超法規的な権力行使(校長の決定を覆すこと)を期待していたということですから、あまり民主主義的な手続きではないという自覚があったのかもしれません。なので、いちおう欠席届を提出するという手続きを踏むことで、少しでも筋を通そうとしたのではないか。そのように考えることも出来ると思います。
海の母は澤村雄一郎と駆け落ちしたから「澤村」姓になったはずなのに、どうして「松崎」姓に戻ったのでしょうか。
海の母(松崎良子)は、駆け落ちしてまで澤村雄一郎と一緒になった訳ですから、夫が亡くなったからといって簡単に旧姓に戻ってしまうとは考えにくいです。おそらく、松崎の実家に戻る時の条件に「松崎の姓に戻ること」というのがあったのではないかと考えられます。良子の両親は雄一郎との結婚に反対していた訳ですから、あり得る話ではないかと思います。ちなみに、夫が死亡した場合、妻は婚姻中の姓のままでいることも出来るし旧姓に戻ることも出来ますが、それは本人の意思で自由に決めることが出来ます。

他に考えられるとすれば、駆け落ちはしたものの入籍はしなかった可能性があります。旧民法では、成人であっても結婚するには親の許可が必要であったため、婚姻届が出せなかったということはあり得ます。ただ、改正民法が施行された1948年以降は、親の許可がなくても夫婦の意思だけで結婚出来るようになったので、制度的な障害は取り払われています。新憲法が公布・民法も改正されて制度的な自由度が増した社会情勢や、当時は婚外子に対する世間の見方が現在ほど寛容でなかったことを考えると、子どもが3人も生まれてなお入籍しなかったというのは想像しにくいところではあります。民法改正後の入籍で澤村が松崎姓を名乗った可能性も考えられますが、女性が夫の姓を名乗ることが当然だった状況を考えると、こちらも想像しにくいところではあります。
海のお母さんがアメリカ土産にビーフジャーキーを買ってきましたが、これは土産的にしょぼくないですか? 保存食としての干し肉は昔より世界各地で作られていましたが、私達がイメージする、いわゆるビーフジャーキーの歴史はそれほど古くはありません。本場のアメリカでさえ、広まったのは1960年代以降、ベトナム戦争の頃からだと言われています。また、日本国内でビーフジャーキーが開発されたのは1970年頃とされていますから、1963年当時の日本にはビーフジャーキーは極めて珍しく、広小路さんも陸も、これまで食べたことはもちろん見たことすらなかったに違いありません。そういう意味ではしょぼいどころか、とても珍しいお土産だったと思います。実際、昭和時代、海外からのお土産といえば酒類かビーフジャーキーが定番でした。

なお、海外からの肉製品の持ち込みは、昔から非常に厳しい検疫があり、、おみやげや個人消費用であっても検査証明書がないものは日本へ持込むことは出来ないようになっています。BSE(狂牛病)が問題になった2003年以降、アメリカからの肉製品の輸入は差し止められ、アメリカ製ビーフジャーキーは輸入出来なくなりました。それは2011年現在に至るまで続いています。




   ●その他
「コクリコ坂から」の舞台となった街はあるのですか? 映画「コクリコ坂から」は、1963年の横浜が舞台として設定されています。太平洋戦争が終わって18年が経過し、東京オリンピックが開催させる前年にあたります。この時代設定は、宮崎駿氏の発想であるとされています。(2011年1月1日読売新聞記事より)
コクリコ荘は、どのあたりに建っている設定なのでしょうか。
コクリコ荘がある場所は、横浜市中区の港の見える丘公園内にある「神奈川近代文学館」の周辺がイメージされています。宮崎駿氏が2008年に講演で訪れた時、外の景色を見て「コクリコ荘のまわりはこんな感じかなあ」と思い、舞台のモデルに決定したのだとされています。(少年マガジン2011年33号特集記事より)
海の制服のスカート丈が長くてダサいです。もう少し何とかならなかったのでしょうか。

クラフトシールのデザイン
海のスカート丈は気持ち短め

制服のスカート丈は、現在でこそ膝上の短い丈が多くなっていますが、昔は膝下の長い丈が主流でした。映画の設定は1963年ですから、当時の状況としては長めの丈でまったく問題はありません。もし、今のように短めの丈にしたとしたら、それこそリアリティがなくなって時代から浮き上がって見えてしまいかねません。

とはいえ、平成の短い丈に見慣れた目からすると、昭和の長い丈は確かに野暮ったく見えてしまうことがあるかもしれません。実際、長すぎる丈では可愛くない(グッズとしては売れない)と判断されたのかどうか、真相は不明ですが、グッズ(クラフトシール)に描かれたセーラー服は、気持ち短めの丈にデザインされたものが採用されています。

ちなみに、1980年代は特に長い丈が流行していた時代でした。生徒達はくるぶしまで届こうかというくらい丈の長さを競ったので、学校による服装検査は「校則よりも長いスカートをはいていないかどうか」でチェックされていました。この流れが変わったのは1990年代以降で、女子生徒の丈は見る見る短くなっていきました。服装検査では逆に「校則よりも短いスカートをはいていないか」でチェックされるようになってしまったほどです。

2011年現在、地域差や学校の差はあるものの、短くなりすぎた反動もあってか若干長くなり、膝丈くらいまで伸ばした長さも増えつつあると言われています。流行は長いスパンで繰り返すと言われますから、今後はゆっくりと長い丈に戻っていくかもしれません。
海は、毎朝父を思って旗を掲げていますが、いつか掲げるのをやめてしまうのでしょうか。 海が「航海の安全を祈る」というUW旗を掲げるシーンは、劇中で何度となく出ています。海が幼い頃からの習慣で、もう帰ってくることにない父親を思ってのことですが、海の祖母・花は、それを切ない思いで見ています。
祖母は「素敵な人が出来て、あなたが旗を掲げなくても済むようになったら良いのにねえ・・・」と語ります。これをストーリー上の伏線と考えるならば、海と俊が相思相愛になった時、旗はその役目を終え、もう掲げることはなくなってしまうものと考えられます。

しかし、映画では、二人が相思相愛になった翌朝も、いつものように海が旗を掲げていて、そこでエンディングとなっています。しかも、このシーンは脚本にはなかったものをわざわざ追加していて、冒頭で旗を掲げるシーンと似通った構図を使用しながら、海の心情の変化を表したかのような、朝日に輝くラストシーンになっています。この流れからすれば、、これまでは父を思って掲げていたのが、俊と巡り合わせてくれたことに感謝して掲げるというように変わっていくように思えてきます。

ただ、宮崎吾朗監督によると、人間はそんな簡単には変われないから、ラストシーンでもまだ父親のことを思って掲げているとのことです(ロマンアルバム・丹羽圭子インタビューから)。 将来、旗を掲げる意味合いに変化が生じていくかもしれませんが、少なくとも旗を掲げることをやめてしまうことはないでしょう。
俊と海は将来結婚するのでしょうか? 実際に血のつながりはなくても、戸籍上は異母兄妹ということになるので、二人が結婚できるかどうかは微妙なところです。もちろん、戸籍上の問題は解決出来ないことはないですし、駆け落ちして事実婚をするという選択肢がない訳でもありません。物語の流れからは、このまま二人は結ばれて欲しいところではあります。

ただ、「コクリコ坂から歌集」の中に入っている「愛をこめて。海 」の歌詞には「あなたが旅だった頃〜まだ憶えていますか」というくだりがあり、俊は高校を卒業した後は横浜を出て遠く離れた場所に進学していくイメージも呼び起こさせます。ひょっとしたら、高校を卒業した二人は遠く離れてしまって、そのまま疎遠になってしまう可能性もないではありません。

二人の将来がどのようになっていくのか、いろいろと想像を巡らせて見るのも楽しいかもしれません。
俊と海の将来が気になって仕方ありません。何か後日談を創作して下さい。 風間俊、航空大学校に進学。パイロットを目指す。
       ↓
同期の小野寺光という男と親友になる。光は、あの小野寺善雄の息子であった。
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松崎海、地元・横浜市立大学の医学部に進学。
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俊が横浜に帰省。光も一緒についてきて、そこで海に出会う。
       ↓
光、海に一目惚れ。その場でプロポーズ。
       ↓
俊、激怒。光に決闘を申し込む。
       ↓
ズタボロになる二人。どちらかが死ぬまで終わらない勢い。見守っていた海が叫ぶ。
   海「やめて!殺さないで!お願い!」
   俊・光「俺達は同じ世界には住めないのだよ」
       ↓
そこに海の妹の空が駆け付ける。空、光に一目惚れ。叫ぶ。
   空「リーテ・ラトバリタ・ウルス!アリアロス・バル・ネトリール!(我を助けよ!光よ甦れ!)」
       ↓
光、突如甦り、俊にトドメの一撃を喰らわせようとする。海、叫ぶ。
   光「爆砕点穴!」
   海「バルス!」
       ↓
決闘は引き分けに終わる。俊、海と結ばれる。光、空と結ばれる。
       ↓
澤村雄一郎・小野寺善雄・立花洋の友情、世代を超えて、ここに完結。





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