●回 想 録
My Themes in Retrospect

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[4]恩師の思い出 1999/11/08 ★

[3]ピアノ 1999/01/14

[2]幼なじみ 1999/01/14

[1]一度だけの親子通勤 1998/04/21









 
[4]恩師の思い出


恩師といえば、鳥取県の米子にいた小6の時に、担任をして下さった先生を真っ先に思い出す。
先生は赴任早々、半年間島根大学で数学を専攻するために学校を離れられた。
だから、先生に教わったのは、卒業するまでの実質半年しかなかった。
それでも、私にとっては最も思い出深いのは、先生の説教をくらう時間が長かったからかもしれない。

とにかく、教育熱心な先生だった。
アドリブで、中学生で習うべき数学を教えてもらったこともある。
国語の時間、先生が「何かを強調するときや重要なことは、2度繰り返して言う」と説明された。
私がそこですかさず「ハイハイ!」と応答したので、先生は思わず苦笑したそうだ。

残念ながら、授業中の記憶はそれほど多くは残っていない。
どちらかというと、放課後に先生から説教された記憶の方が鮮明である。
私は決して優等生ではなかった。むしろ、先生をよく困らせる悪い生徒だった。
先生の言うことはあまり聞かず、いろいろと悪戯もしたので、よく先生から叱られたものだ。

先生の説教は、放課後の教室で正座させてということに決まっていた。
私を含む悪ガキ3人組は、多分一番正座させられる機会が多かったのではないかと思う。
足がしびれてくると姿勢を崩すことを許されたが、しびれが直るまでの間はまた説教だった。
表向き、神妙な顔をして反省しているふりをしながら、傾いていく太陽の影を追っていたりした。

卒業後15年以上経って米子へ遊びに戻った時、当時のクラスメイトと一緒に先生の家を訪問した。
先生は既に退職して悠々自適の生活を送っておられたが、先生らしさは昔のままだった。
もちろん、放課後の正座で説教の話も出た。
先生は「よくそんなこと覚えているな」という顔をして困ったように笑った。

けれども、私にとって先生の説教は、少しも嫌な思い出ではない。
むしろ、年月が経てば経つほど懐かしさがこみ上げてくる、かけがえのない思い出なのである。
長所は褒めて下さることで存分に伸ばしてくれ、短所は放課後の説教で改善してくれる先生だった。
あの時、先生に担任をしてもらったからこそ、今の自分があると思っている。

私は、今でも先生を心から恩師と呼べる。





 
[3]ピアノ


こう見えても、私は少しだけピアノが弾ける。
とはいっても、誰かに聞かせられるようなレベルではない。
せいぜいバイエルが弾ける程度なので、簡単に編曲されたメロディでないと手も足も出ない。
だから、気が向いたときに適当な曲を気分転換がわりに弾くだけである。

ピアノは5歳上の姉が習っていた。
私は、なぜか姉がピアノを教わっている後ろに座っていることが多かったようだ。
姉が出たピアノのコンクールにもついていった。
そして、どのような経緯だったかは記憶にないのだが、私もピアノを習い始めていた。

ピアノの練習は面白かった。最初のうちは、割と早く上達した。
自分で作曲して、得意になって先生に披露してみせたこともあった。
しかし、ある段階からちっとも上達しなくなってしまった。
努力が足りなかったと言えばまさにその通りなのだが、結局習うのをやめてしまった。

習うのはやめてしまったのだが、機会があれば何かと鍵盤に触っていた。
誰もいない音楽室でピアノを弾くという、少女漫画にでも出てくるような男の子を気取ったこともある。
同じクラスの女の子に気付かれて羨ましがられたことはあったが、そこから恋が芽生えたりはしなかった。
そんなドラマチックな展開など、現実にはそうそうあるもんじゃない。

さて、すっかり年月が経ち、ピアノにまつわる記憶も遠い過去のものになってしまった。
しかし、今でも多少練習すれば最小限のメロディは奏でられる。
当時弾いていた曲の幾つかは、暗譜で弾くことも出来る。
小さい頃に体で覚えたことは、いつまでも忘れないものらしい。

いつか、せめてツェルニー30番程度までは弾けるよう、本格的に練習を再開したいと思っている。





 
[2]幼なじみ


さっちゃんとは、幼稚園が一緒だった。
すっかり記憶が薄れてしまったが、結構仲良く遊んでいたように覚えている。
しかし、それはわずか1年で終わった。
私の父が転勤したため、遠くへ引っ越すことになったからだ。

住む場所は離れてしまったが、手紙のやりとりは続いた。
ほんの数回を除き、年賀状も毎年欠かさず交換した。
たまに届く手紙には写真を同封してくれたこともあった。
思春期を迎えたさっちゃんは、とても可愛らしくなっていた。

中学2年の時、再び父の転勤で、さっちゃんの家から自転車で3時間くらいのところまで近づいた。
本当に自転車で3時間かけて、さっちゃんの家へ遊びにいった。
さっちゃんの家にはピアノがあった。部活が忙しかったのか、ピアノの練習は既にやめていた。
私もピアノはとっくの昔にやめていたが、何とか弾いてみせるとさっちゃんはとても喜んでくれた。

さっちゃんが社会人になった年の夏。
お好み焼き屋で、さっちゃんは職場の7歳年上の男性とくっつけられそうだ、と言った。
その時点で、さっちゃんはまだ決意を固めてはいなかったが、周囲の人達に強く推されているという。
私は当時大学1年生だった。社会人としてのさっちゃん。私のまだ知らない職場。すっかり大人びた姿…。

「まだその人のことを本当に好きになっていないのなら、僕を選んで欲しい」
そんな責任ある言葉を口にするには、自分はあまりにも半人前であった。
お好み焼きを見つめながら、ただ、さっちゃんの話を聞くことしか出来なかった。
しばらくして、さっちゃんが結婚するという便りが届いた。

今だから言える話だが、さっちゃんは初恋の人だった。
初恋は実らないというが、結局その通りになってしまった。
さっちゃんが選んだその男性は、穏やかで優しそうな感じの人だった。
幸せになってほしい。

さっちゃんとは、今でも年賀状を交換している。多分、これからもずっと続いていくと思う。





 
[1]一度だけの親子通勤


私は、一時期の間出版社に勤めていたことがある。
ある日、私は大阪支社への出張を命じられた。
その時、私は既に大学院に進学していて、月末限りで会社を退職することになっていた。
よって、これは出版社時代における最後の出張になった。

出張の日は、朝9時までに大阪支社へ着けばよいことになっていた。
支社は新大阪駅から近いので、当日の朝一番の新幹線で東京を出ても充分間に合う。
けれども、私は前日の晩のうちに移動し、兵庫県内にある実家に泊まることにした。
大阪支社へは、山陽・東海道線の快速電車で行くことになる。

父は西日本各地を転勤しながら働いていた。私は東京の大学に進学し、就職も東京であった。
そのため、これまで通勤のために一緒に家を出たことはなかったから、これが最初の機会であった。
ところで、父は定年退職の時期が迫っていた。私も、まもなく学生の身分に戻ってしまう。
だから、これはもしかしたら生涯でただ一度きりの親子通勤になるのかもしれない機会であった。

朝7時前、父と一緒に家を出た。最寄りのJRの駅まで車を走らせる。
電車の時間まで、まだ少し間があった。キオスクで新聞を買い求める。
しばらくして快速電車が入ってきた。まだ空いているので父と一緒に座ることが出来た。
父は東海道線の元町駅で降り、私はそのまま新大阪駅まで行くことになる。

電車の中ではあまり話はしなかった。
ぽつりぽつりと、とりとめのない話をしただけだったように思う。
とはいえ、次第に混雑してくる車内では、まあ普通の風景であろう。
車窓から見える明石海峡がまぶしかった。

元町駅に着いた。
父はただ一言「じゃあ、がんばれよ」とだけ言って降りた。
駅のホームは通勤客で混雑している。雑踏の中、父は全く目立たない普通のサラリーマンであった。
私をここまで育ててくれた父は、定年が近づいてもなお変わることなく職場へ向かっている。

人波に紛れかけた父の背中が、一瞬大きく見えた。






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