●「千尋」の社会的位置づけについて予測する
Forecast of the Social Diffusion of "Spirited Away"

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このコーナーでは、「千尋」がどのように受容されていくかについて考えていきます。


●「千尋」は、どの世代に受け入れられていくだろうか? 準備中


●人間がブタになる「千尋」の設定は、世界で受け入れられるだろうか? 2001/05/14


●「千尋」は、世界にどのようなメッセージを発信していくのだろうか? 2001/06/14









 
●人間がブタになる「千尋」の設定は、世界で受け入れられるだろうか?
 2001/05/14


人類の歴史はブタ迫害の歴史であった。
「千尋」でブタの復権はなるか?
(イラスト:きばぞうさん)


「千と千尋の神隠し」では、霊々(かみがみ)の国に迷い込んでしまった千尋の両親がブタの姿に変えられてしまうが、そのブタというのが相当にショッキングなデザインで描かれている。ブタといえば、同じ宮崎駿作品の「紅の豚」が思い出されるが、こちらは擬人的にデフォルメされていてカッコよく描かれていた。しかし、「千尋」におけるブタは家畜そのものであり、しかも生理的な嫌悪感を呼び起こさせるほど醜い。小さい子供が見たらショックのあまり泣き出さないかどうか心配だ。

ブタのデザイン自体もショッキングであるが、「人間がブタになってしまう」という基本設定の方も気がかりである。「千尋」の制作にはディズニーも資本参加しているから、当然ながら世界配給も考えられていることと思われるが、この基本設定は、果たして世界で受け入れられるだろうか?なぜなら、ブタは歴史的・宗教的に見て様々なタブーを背負わされた動物であり、人間をブタにするということは、それらのタブーに真っ向から挑戦する形になるからだ。

ブタは、家畜として有益であるにも関わらず不潔な動物の代表とされてきた。怠惰な人間を揶揄するときや悪態をつくときに引き合いに出されるほか、蔑視の代用語になっている。英語のPigは強欲野郎、フランス語のCochonはこん畜生、ドイツ語のSchweinはすけべ野郎という意味を含み、まあろくな使われ方がされていない。「お前はブタだ」という言葉が褒め言葉になっている文化圏は存在せず、これからも多分存在しないだろう。

古代エジプトでは、ブタは豊饒神の獣であり太母としてのイシスおよび神ベスの聖獣であったが、悪神セトのテュポンの相を表す悪の動物であるともされていた。後にエジプト人はブタを汚れた動物と見なすようになり、通りがかりにブタに触れるようなことがあると、人々はすぐに服を着たまま川に飛び込んだという。

ヘブライ人もブタを不浄の動物と見なしていた。旧約聖書には「豚を食べてはならない」(レビ記)、「豚はあなたがたにとって汚れたものである」(申命記)、「美しい女に慎みが欠けているのは豚が鼻に金の輪を飾るようなもの」(箴言)など、ブタに関する禁忌の記述がある。偶蹄類ではあるが反芻しないブタは、ユダヤ教徒にとって食べてはいけない動物であった。ユダヤ人に「お前はブタだ」ということは最大限の軽蔑を表す言葉になっている。

地中海世界を見渡してみても、ブタ肉を食べることはタブーであり、ブタを汚れた動物であるとする見方は変わらなかった。ギリシア神話には人間を獣に変える魔力を持つキルケがオデュッセウスの配下をブタに変えてしまうという記述が見られるほか、性欲にかかわる悪夢にはしばしばブタが登場させられる。ローマ帝国でも、ブタの雑食性は貪欲に、多産性は性欲と結びつけられ、それぞれのネガティブな象徴として定着していた。

キリスト教世界では、ブタは悪魔サタン・大食・好色の象徴であり、本質的に汚い動物であると見なされていた。もちろん、決して食べてはいけない禁忌の動物でもあった。旧約聖書と同様、新約聖書にも「真珠を豚に投げ与えるな。豚どもはそれを足で踏みつけたうえ、向きを変えて君たちをかみ裂こうとするぞ。」 (マタイ福音書)、「豚には悪霊が乗り移る」(ルカ福音書)など、ブタに対する敵意をあらわにする記述が見られる。

中世ヨーロッパでは、ユダヤ人とブタを一緒に描いた木版画が広く出回った。ブタとユダヤ人はセットになって迫害されたのである。そのユダヤ人の間でも、キリスト教徒に媚び入った裏切り者をマラノ(ブタ)と呼んで軽蔑していた。ブタはどこまでいっても嫌われ者の代名詞であった。さらに、ブタは魔女や淫夢魔(いんむま)の化身とも言われ、様々な災厄を背負わされて嫌われていた。現在のキリスト教世界においては食の禁忌こそなくなったものの、ブタには汚れた霊が宿るという観念は依然として残っている。

イスラム世界でも、ユダヤ教・キリスト教世界と同じく、ブタは不浄の動物である。コーランに「汝(なんじ)らが食べてはならぬものは、死獣の肉、血、豚肉…」と明記されているように、現在に至るまで食べてはいけない禁忌の動物でもある。「ブタを食べると性格が卑しくなり道徳や精神が破壊される」とも考えられているようで、ブタ食の禁忌は極めて厳格である。よって、ブタ肉はもちろん、ブタに由来する一切の食物を口にすることは禁じられている。2000年にはインドネシアで「味の素」の原料の一部にブタが使われているのではないかという疑惑が持ち上がり、国際問題にまで発展したことは記憶に新しい。

仏教の世界では、ブタは「存在の輪」の中心にあって雄鶏・蛇とともに貪欲・肉欲・憤怒の三毒の象徴とされ、人間をこの世の幻影と感覚と再生に結びつける罪を表す動物であるとされた。ブタは飼い慣らされていない自然の本性を表し、飼い慣らせば有用ではあるが、やはり貪欲で不潔の象徴とされていた。

現在の中国・インド・東南アジアでは、ブタは価値のある家畜と見なされてはいる。とはいうものの、純粋な食用あるいは儀礼における捧げものとしての役回りしか与えられておらず、家畜以上のものでも以下のものでもない。中国では、トイレの中でブタを飼っている(人間の排泄物を餌として与えている)地方もあるほどである。例外的に、中国の占星術でブタは人のためによく尽くし良心的であるともされている位で、全般的にブタがプラスのイメージで語られることはない。

このように見ていくと、ブタの評価は総じて散々なものであり、マイナスイメージの代名詞として世界的に定着している。人類の歴史は、ブタ迫害の歴史でもあったのだ。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に代表される一神教の人々は、「すべての動植物は人間に搾取されるために作られた」という世界観の中で暮らしている。多神教の文化圏ならともかく、彼ら一神教の文化圏では、人間が動物の姿にさせられてしまう、あまつさえブタの姿にさせられてしまうシチュエーションというのは人間否定以外のなにものでもない。特に、人間は神の似姿であると考えるキリスト教徒にとっては想像を絶する世界であろう。

したがって、人間がブタの姿に変えさせられてしまうという「千尋」の設定が世界的に受け入れられるかどうかは、ひとえに宗教的な寛容にかかっているといっても過言ではない。「千尋」の作品としての芸術性がいかに優れていようとも、人間がブタになるという宗教的なタブーを刺激するものであるならば、神および人間に対する冒涜として相当の反発を招いてしまっても不思議ではない。これは、単なるデザインの醜さから想起される嫌悪感とは次元が異なる反発であり、もしかするとブタを理由として「千尋」の上映が許可されない国が出てくるかもしれない。

もっとも、人間が動物一般の姿に変えさせられてしまうという設定なら、グリム童話など海外の子供向け物語でもよく見られるものである。ブタの宗教的な意味があまり強調されることなく、人間が動物にさせられえてしまう設定の一派生形として寛容的に受け入れられることを期待したい。

多神教の国・日本で制作された「千尋」は、世界人口の大半を占める一神教の文化圏で受け入れられるだろうか?世界中に蔓延するブタにまつわる様々なタブーを超克することが出来るだろうか?ブタは名誉を回復することが出来るだろうか?

ディズニーが、このあたりをどのように判断して世界展開を図るかが注目される。





 
●「千尋」は、世界にどのようなメッセージを発信していくのだろうか?


ディズニーが資本参加していることもあり、「千尋」の世界公開は既定路線であるといわれる。「もののけ姫」と同様、英語版をはじめとする各国語版が制作され、順次公開されていくものと予想される。海外での公開にあたって一部のシーンがカットされる心配はないだろうし、そもそもカットされないような契約になっているはずである。また、いわゆる残虐なシーンもないと思われるので、年齢制限がかかることもないだろう。基本的にはノーカット・年齢制限なしの形で公開されるものと思われる。

経済的には、ディズニーの世界戦略の一環として最大限活用されることになるだろう。スタジオジブリおよび宮崎駿のブランド的価値は既に一定の評価を確立しており、更なる利益を上げるために、最も効果的な手段と方法でリリースされていくだろう。技術的には、特筆するべき目新しいものはなく、フルデジタルでの制作システムについてはディズニーの方が先行している面もあるので、特に耳目を集めることはなさそうだ。制作技術よりも作画レベルや演出効果・表現技法等の方に関心が集まるだろう。

しかし、最も注目を集めるのは、何よりも文化的側面、「千尋」を生んだ日本の伝統的・民話的精神風土についてではないかと思われる。「千尋」は、日本の昔話的・民話的世界のテイストを広く世界に向けて紹介出来る可能性を秘めているからだ。日本の伝統的な価値体系を端的に表現すれば、それは多神教の世界観である。様々な所に様々な神様が棲んでいるという世界観である。欧米諸国など一神教の価値観のもとで暮らしている人々には理解されにくいかもしれないが、うまく理解されれば異文化理解の促進に貢献するだろう。

これまでに海外で紹介されてきた宮崎駿氏の作品の多くは、無国籍のファンタジーものが多かった。それゆえに、文化的・宗教的な壁を容易に乗り越えられる普遍性を獲得し、海外でも違和感なく受け入れられてきた。「トトロ」「もののけ姫」は舞台こそ日本であるが、その作品世界は極めてファンタジックであった。「トトロ」では旧き良き日本の純朴な農村風景が、「もののけ姫」は中世を舞台としていながら日本の神話的世界を彷彿とさせる壮大な物語が、それぞれに関心を呼んだ。木の神様・動物の神様を信仰する多神教的な価値体系はつとめてアニミズム的であり、原始宗教的である。それらは一神教的な価値体系とはあまりにもかけ離れているがゆえ、その価値体系に影響の及ぶ心配をしない所から鑑賞することが可能であった。つまるところ、日本版ファンタジー世界の歴史物語として解釈されたのである。ファンタジーだからこそ、文化的・宗教的な壁を超えて受け入れられたと言える。

一神教の人々は、「千尋」も日本版ファンタジー世界として理解しようとするだろう。しかし、間もなく純粋なファンタジーとして消化しきれない部分があることに気付くだろう。「トトロ」や「もののけ姫」で描かれる木の神様・動物の神様はアニミズム的・原始宗教的なものとして片づけられても、「千尋」で描かれるそれは極めて現代的かつ直接的であるからだ。特に、動物とも妖怪ともつかない"神様"がうじゃうじゃ出現するあたりで価値体系の衝突が表面化し、当然のように信じてきた世界観が大きく揺さぶられることになるだろう。

「千尋」に登場する神々は、もちろん宮崎駿氏の創作である。だが、多神教的世界観をベースとする日本の伝統的・民話的精神風土が下敷きになっているから、日本人にとっては何の違和感もない。どう見てもヒヨコとしか思えないオオトリ様でさえ、日本人ならそういう神様がいてもおかしくないと納得してしまう。

だが、一神教的世界観のもとで生きている人々にとっては、そんなヒヨコもどきも神様であるというのは夢でも想像できない世界である。そもそも、他の神様の存在を認めること自体、神に対する重大な冒涜になってしまう。多神教の日本人がイエス様も神として認識するのと、一神教の人々がオオトリ様も神として認識するのとは本質が違うのである。しかも、彼らは日本人がヒヨコもどきでさえも神様として納得してしまうのを目の当たりにすることになる。彼らは、「千尋」が"異教徒の作品"であることを、否が応でも思い知らさせることになるだろう。

そのような文脈で考えると、「千尋」は日本の多神教的世界観とキリスト教・イスラム教諸国を中心とする一神教的世界観とがまともにぶつかり合う初めての宮崎作品と言うことになる。「千尋」とは、日本人の精神的故郷が今もなお多神教的な世界観の中にあることを世界に知らしめる作品なのだ。宮崎駿監督が史上初めて現代日本を舞台とする作品を制作するという意味は、ここに見いだすことが出来る。

「千尋」は、多神教の価値世界を基盤として作られている作品である。現代日本は、今もなお八百万の神々が棲んでいる社会であり、西欧をはじめとする世界の神々をも受け入れる懐の深さを持った社会でもある。「千尋」は、現代の日本人が西欧の神をも含めた八百万の神々を受け入れ、信仰している民族であることを浮き彫りにするだろう。この宗教的寛容こそが日本の文化的特性であり、すなわち「千尋」は今の日本に住む人々の精神的アイデンティティを主張する映画にもなりうるのである。

日本の子供たちが「千尋」を通じて自分達の精神的故郷を再確認出来れば、それを踏まえた上で異文化への理解も深まるだろう。そして、世界の子供たちも「千尋」を通じて日本の人々の精神的故郷への理解を深めてくれるならば、より円滑な異文化間コミュニケーションが促進されるかもしれない。今後、より一層の相互理解が進んでいくことを期待したい。





参考文献
戸井田道三『日本人の神さま』筑摩書房,1980
山形孝夫『聖書の起源』講談社,1981
新井智『聖書 その歴史的事実』日本放送出版協会,1981
『日本大百科全書』小学館,1988
『世界大百科事典』平凡社,1988
ジャン=ポール・クレベール『動物シンボル事典』大修館書店,1989
ピーター・ミルクード『聖書の動物事典』大修館書店,1992
J.C.クーパー『世界シンボル辞典』三省堂,1992
カレン・アームストロング 高尾利数訳『神の歴史:ユダヤ・キリスト・イスラム教全史』柏書房,1995
久保田展弘『日本多神教の風土』PHP研究所,1997



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