2001年7月20日より全国343館で「千と千尋の神隠し」が封切られた。宮崎駿監督の舞台挨拶が行われるスカラ座では、前日の10:30頃より列が出来始め、22:00頃までに初日の初回に入場できる当日券は事実上完売となった。その後も列は増え続け、最終的に700人以上の徹夜組が出たものと思われる。舞台挨拶は第2回上映後にも行われることになったほか、隣接のみゆき座でも行われることが決まった。
7月19日22:30頃、鈴木敏夫プロデューサーがスカラ座前に顔を出されたが、たちまちファンに取り囲まれてサイン攻めにあった。サインを求める行列は2時間近くにわたって途絶えることがなく、最後のサインが終わった7月20日0:20過ぎには徹夜組全体から拍手の嵐がわき起こった。
2001年7月20日、始発電車が動き出す4:30AM頃の行列は700人以上に達していた。5:00AMまでには取材陣が到着、5:00過ぎより列の整理が行われて当日券の引き替えも行われた。あふれた行列は第2回以降に入場するため引き続き待機したほか、みゆき座の行列にも回った。また、隣接する日比谷映画でも急遽上映されることが決定し、さらに行列が振り分けられた。スカラ座では早くも6:30AMに入場が開始され、この時点での行列は全体で2000人以上に膨れ上がっていた。
7月20日 4:53AM 日生劇場(左)の端まで達した徹夜組 |
5:11AM 行列の移動開始 手前はゴミ袋 |
5:52AM 列の最後尾 当日組が走る |
5:56AM おもむろにカオナシが宣伝 |
6:23AM 取材風景 この時点の行列は全体で2000人以上 |
6:30AMに第1回上映回の入場が開始された。今回は全員着席・完全入れ替え制を採用したため、いわゆる立ち見の客は出ないようになっている。それでも、パンフレット売場は長蛇の行列が出来た。また、あらかじめ前売りの日時予約票を買っていれば徹夜しなくても入場可能であったが、実際には少しでも良い席を確保しようと多数が徹夜した。そのため、上映開始時刻まで着席して仮眠をとる人が目立ち、場内はしばし静寂に包まれた。
6:33AM 入場開始 |
6:40AM パンフレットを求める行列 |
6:49AM 取材風景 |
7:21AM 売店前の様子 |
7:42AM 場内の様子 |
8:20AM、予定通り「千と千尋の神隠し」の上映が開始された。10:25AMの上映終了とともに満場が拍手に包まれ、続いて宮崎監督・柊瑠美さん・内藤剛志氏による舞台挨拶が行われた。※今回、舞台挨拶の写真およびビデオ撮影は不可と放送されたため、舞台挨拶の模様は撮影していません。ご了承下さい。(実際に撮影していた人は結構いましたが・・・) なお、舞台挨拶以外の撮影は可との確認はとってあります。 舞台挨拶が終わると、湯婆婆・おしらサマ・カオナシの着ぐるみが登場し、宮崎監督・柊瑠美さん・内藤剛志氏を加えてマスコミ向け写真撮影が行われた。この模様は、夕方のニュースや翌日のスポーツ新聞等で大きく報じられた。
10:42AM 着ぐるみが登場 |
10:45AM マスコミ向け写真撮影 左は報道陣 |
10:49AM 監督が退場し、あらためて満場の拍手 | |
10:52AM ロビーの様子 |
10:54AM 売店前の様子 |
2回目の観客が入場した後も、引き続きスカラ座前は大勢の人でごったがえした。みゆき座と日比谷映画で追加上映されても入場待ちの行列が途絶えることはなく、当初2回の予定だった舞台挨拶も都合5回行われることとなり、まさに異例ずくめの初日となった。配給元の東宝によると、初日だけで43万人以上が全国で動員されたといい、1420万人の動員と196億円の興行収入をあげた「もののけ姫」の記録更新に期待が寄せられているという。
11:00AM スカラ座前の状況 取材陣の姿も |
11:08AM 初日を告げる電光掲示板 |
11:10AM チケット売場にて | |
11:16AM みゆき座前の行列 |
11:25AM 入場待ちの行列 |
(撮影:2001年7月19日・20日)
2003/3/31追加 あの「徳間ラッパ」をもう一度聞きたい ──アカデミー賞受賞を機に、徳間社長を偲ぶ── 2003年3月23日、第75回米アカデミー賞の授賞式が3月23日に開催され、「千と千尋の神隠し」が長編アニメーション賞を受賞した。イラク戦争の戒厳下での発表となったが、宮崎駿監督は「いま世界は大変不幸な事態を迎えているので、受賞を素直に喜べないのが悲しいです。しかし、米国で『千と千尋』を公開するために努力してくれた友人たち、そして作品を評価してくれた人々に心から感謝します」とのコメントを発表した。 「千尋」のアカデミー賞獲得を誰よりも待ち望んでいた人がいる。受賞の知らせを誰よりも喜んでいるに違いない人がいる。徳間康快・徳間書店社長。「千尋」の制作総指揮者であった徳間氏は、「千尋」の制作作業がたけなわだった2000年9月、その完成を見届けることなく永眠された。病床に伏してからも精力的に打ち合わせを行い、最後まで仕事へ復帰する意欲を見せていという。「千尋」の完成を誰よりも楽しみにしており、その世界的なヒットを誰よりも確信していた。 「千尋」がアカデミー賞を獲得すると、インターネット・テレビ・新聞等のメディアが一斉に報道した。イラク戦争の影響が影を落とし、その報道もおしなべて地味ではあったが、日本映画史上に残る快挙であり、大ニュースであることに変わりない。文部科学大臣が「映画のノーベル賞に匹敵」とまで称え、文化勲章が授与されるという話まで持ち上がっている。もし、徳間社長が存命であったら、どんなコメントを聞くことが出来ただろう。 「千尋」のアカデミー賞受賞を機に、徳間社長の業績を振り返ってみたい。 「それは無理やろ、とく目標にチャレンジしては成功させてみせる、日本人離れしたスケールの持ち主だった」。松岡功・東宝会長は、徳間氏をこう評している。徳間氏は、いつも奇想天外な発言で周囲を仰天させた。本気とも空想ともつかない常識外れな発言を連発し、「徳間ラッパ」と揶揄されることもしばしばであった。「敦煌にコマネチを出演させる」「阿片戦争の映画にダイアナ妃を出演させる」「もののけ姫の声優にレオナルド・ディカプリオやケビン・コスナーを起用してタイタニックの興行記録を抜いてやる」「もののけ姫の試写会にクリントン大統領夫妻を招待する」などとぶち上げ、周囲を仰天させた。 しかし、ただ威勢の良い発言をぶち上げるだけではなく、実際に交渉を行って発言の幾つかは本当に実現させてしまうところが徳間氏の真骨頂であった。壮大な夢を自ら実現させようとする行動力の人であった。この行動力に裏付けられた発言こそ「徳間ラッパ」の神髄であり、進取の気性を文字通り体現する、徳間氏の生き方そのものであった。 スタジオジブリ作品を興行面で支えたのは、徳間氏だった。徳間氏の圧倒的な行動力が、旧来の常識にとらわれる映画関係者を動かした。 高畑監督・宮崎監督の創り出す世界は映画界の常識を越えるものが多い。それゆえ、実績に乏しかったスタジオジブリの草創期は、興行関係者の理解をなかなか得られなかったという。例えば、「となりのトトロ」と「火垂るの墓」が企画された時、映画関係者の反応は「オバケとお墓の組み合わせですか?」といった否定的なものだった。配給が予定されていた東宝でさえ、その組み合わせが興行的に成功するかどうか首をかしげるというありさまであった。 そこに助け船を出したのは徳間氏だった。当時の徳間書店は、ヒット確実といわれた大作「敦煌」を制作中であり、配給は東宝に決まっていた。しかし、東宝が「トトロ」に乗り気ではないことを聞きつけると、徳間氏は即座に東宝へ乗り込んで「『トトロ』を嫌がるなら『敦煌』をかけさせないぞ!」と怒鳴りつけ、配給を決定させたという。 最初の「トトロ」の興行収入こそ芳しくなかったが、映画界からは実写映画を押しのける高評価を獲得してジブリの社会的な認知度を高めたほか、キャラクター商品も大当たりして、今やジブリの稼ぎ頭となるまでに大化けした。 鈴木プロデューサーは、「トトロは徳間氏のおかげで日の目を見たんです」と回想する。高畑監督・宮崎監督の圧倒的な創造力を世に知らしめたのは、徳間氏の圧倒的な行動力であったも過言ではない。「千尋」が多くの上映スクリーンを獲得出来たのも、これまでの興行面での実績があってこそだった。その実績の礎を築いたのは、徳間氏の行動力だった。 スタジオジブリ作品を資金面で支えたのもまた、徳間氏だった。「才能のある若い連中に、いい映画を思う存分撮って欲しいんだ」というのが、徳間氏の口癖だった。当時まだ無名だった若き宮崎駿氏の才能を発掘し、その才能を存分に引き出させるための労を惜しまなかった。スタジオジブリの設立以前から多額の出資を行い、設立後も「下限は10億円で上限はなしだ。好きなだけ使え」と言っては豪快に出資した。 徳間氏は、徳間書店の社長としてスタジオジブリの作品作りを支えた。高畑監督・宮崎監督の才能を信頼し、現場の方針を信頼し、経営的観点からの要求も作品内容への干渉をすることは一切なかった。 徳間氏は、しばしば強引なワンマン社長であったと形容される。しかし、作品作りに関して言えば、社長というよりむしろ話のよく分かる後援者であった。作品の興行成績がうまくいけば一緒に喜び、うまくいかない時も泰然としていた。現場に決してノーを出さない良き理解者であり、資金面での心配をさせない良きパトロンでもあった。 1997年、「もののけ姫」の記録的ヒットは、徳間氏の理解なくしては実現しなかったであろうと言われる。1999年、「となりの山田くん」の挑戦も、徳間氏の強い後押しがあってこそ実現した。高畑監督・宮崎監督の才能を作品に結晶させることを支えたのは、やはり徳間氏だった。 それらの作品作りを通して蓄積された様々なノウハウの延長上に、「千尋」はある。 「徳間さんがいなかったら、宮崎アニメが世界にはばたくこともなかった」と、映画関係者は口を揃える。徳間氏自身、「21世紀の夢は、宮崎駿という天才の作品で、トヨタの車、ソニーの電化製品のように、世界の舞台で勝負することだ」と語るのが常だったという。「千尋」のアカデミー賞受賞で、早くもそれは結実した。 今年のアカデミー賞授賞式は、米英軍によるイラク攻撃の最中に行われた。壇上で受賞した監督や俳優が口々に反戦を叫び、拍手と怒号が交錯する異例の事態となった。宮崎駿監督は「ハウル」の制作に忙殺されながらも授賞式への出席を模索していたが、国際情勢を鑑みて中止を決断した。代理での出席を目指していた鈴木プロデューサーも、安全上のリスクを理由に渡米中止を余儀なくされた。「千尋」がアカデミー賞を受賞しても、監督が出したコメントは「受賞を素直に喜べないのが悲しい」というものであった。 徳間氏は平和市民運動への理解が厚かったという一側面も持っている。ベトナム戦争当時、ベトナム平和を目指して活動する市民運動が盛んであった。徳間氏はその市民運動に大いに共感し、たびたび多額のカンパを行ったほか、反戦行動に関する書籍の出版を徳間書店で引き受けるなどの支援を惜しまなかったという。もし、今も徳間氏が生きていたら、アメリカに対して言うべきことが数多くあるに違いない。 スタジオジブリ作品について、徳間氏は21世紀へのビジョンを熱っぽく語っていた。 「わたしの本当の気持ちは21世紀に宮崎監督に100億円、高畑監督に100億円を投じて1本づつ作ってもらうことだよ。2人に100億づつ出して3年くらいかけて作ってもらう。こんな発想がないと『もののけ姫』のような"未知との遭遇"はできないよ」(1999年2月3日報知新聞より) 現在、最新作「ハウルの動く城」の制作が進んでいる。 新たなる「未知との遭遇」を目指して、スタジオジブリの挑戦は、続く。 (2003/03/31 Y.Mohri) |
●舞台挨拶の詳細(音声のみ) by Noriyuki Arisaka ●初日・梅田スカラ座のミニレポート by いろは坂 |