去年十二月、米ワシントンの国立スミソニアン航空宇宙博物館新館で、広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイが復元展示されることがわかり、日本被団協が抗議の為に、被爆者ら六人を派遣した。
同博物館売店の最近の人気商品は、何と原爆模型付きのグラスやコルク栓だという。
抗議行動に参加した被爆者、西野稔さんにアメリカで感じた想いを寄せて頂いた。
再び会ったエノラ・ゲイ
一九四五年八月六日、上空にB29を見た瞬間、吹き飛ばされ、叩きつけられ、焼かれた。その時はB29がエノラ・ゲイとは知る由もない。五八年の時を隔てて、しかもアメリカで、再びエノラ・ゲイに会おうとは、夢にも思わなかった。
一九九五年、スミソニアン博物館でエノラ・ゲイの一部復元展示が計画され、被爆の資料展示も実現するかに見えたが、退役軍人団体や議員の圧力により、展示は中止。館長は辞任に追い込まれた。アメリカの良心を「原爆投下正当論」が押しつぶしたと私は思う。
今回の抗議行動は、アメリカの核新戦略が決まった後の、より厳しい状況の中で行なうことになると覚悟は決めていた。
スミソニアン博物館とアメリカ政府の頑なな態度は変わっていない。私たち被爆者は、これに対抗するためには多数の報道機関に、アメリカ国内と世界に向けて「被爆者の抗議の声」を流してもらうほかないと考え、懸命に取材に応じ、集会で発言した。
記者会見でも感じたのだが「展示に政治は持ち込まない」とする博物館に対し、あえて原爆投下「不正当論」を説き「核新戦略、核開発が核拡散を呼び、核廃絶に逆行するのだ」という点を、もっと強調すべきではなかったかと思った。
また、スミソニアン博物館への署名提出が、館長の不在を理由に拒否され、結果的に被団協の田中代表から副館長への受け渡しに終わったことは非常に残念であった。
広島・長崎の被爆者と署名された方々に代わって参加した私たち被爆者が、自分の声で読み上げ、訴えたかった。
十二月十五日、エノラ・ゲイと対面、一瞬、体が震えた。あの時、声も上げられず殺された子供たち。逃げ惑う焼けただれた人々の声なき声が、全身に沸きあがる。やはり、憎い。この思いは誰に届けたらいいのか。焼き殺された人たちの無念の声は誰に訴えたらいいのか。しばし黙祷した。
一緒に入場したアメリカの平和団体の人たちの勇気には感心した。密かにお腹に巻いて持ち込んだ被爆の写真や幕を広げ、抗議の声を上げ、歌い、ダイインをしたのだ。
本当は私も参加したかったが、検束もあり得るとのことで、被爆者は後方で見守ることになった。その時、取材を受けていなければ、私も参加したかもしれない。
博物館外での集会では「エノラ・ゲイをアメリカの負の遺産として展示すべきだ」と、声を大にして訴えた。
私たちに謝罪の言葉を述べるアメリカの平和団体の人たちの声は心に残った。「この人たちがいる限り、アメリカの良心は絶えない」と思った今回の抗議行動だった。
東友会(東京都原爆被害者団体協議会)
事務局次長
エノラ・ゲイと対面
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