市民会議例会報告

 2000年1月28日、東京都芸術劇場小会議室で、フォトジャーナリストで本会会員の鈴木賢士氏に講演をお願いしました。
豊富な印象に残るスライドと、鈴木氏の真摯な取材姿勢に裏打ちされた説明に、ハプチョンの被爆者の現状がひしひしと伝わってきました。なお、『百万人の身世打鈴』(東方出版)でハプチョンを取材された平林初枝氏、手塚陽氏が見え、インタビューした被爆者の話をしてくださいました。

▲ 寝たきりの被爆者権福順さん


『韓国のヒロシマ・ハプチョンの被爆者』


フォトジャーナリスト 鈴木賢士
(在韓被爆者問題市民会議会員)

 

2000年1月28日「韓国のヒロシマ」陜川(ハプチョン)を中心に在韓被爆者の今日の姿を撮りました。

▲ ひたいに大きな傷跡が残る尹旦文さん。

在韓被爆者との出会い

 自称『定年カメラマン』の私が韓国の被爆者の存在を知ったのは、古いことではありません。2年前の5月、国際協力事業団の外郭団体・海外日系人協会が主催する「海外日系人大会」で、米国被爆者協会の倉本寛司さんにお会いしたのが、最初のきっかけでした。在米被爆者の話を聞くうちに、韓国に多くの被爆者が現存しているということを知りました。それまで韓国の写真集などで1部を見ることはあっても、それは過去のこと位にしか考えないで、不明なことにその事実の重みを感じていなかったのです。恥ずかしい限りです。
 倉本さんから中島竜美さんを紹介され、中島さんから詳しいお話を聞く中で、どうせ韓国に通うなら、被爆者の写真を撮らせてもらおう…そう心に決めました。それ以前、私は『フィリピン残留日系人』を撮り、写真展をやり、本も出しました。その縁で韓国に残された日本人女性=芙蓉会のご婦人達を撮っていましたが、こんな出会いがあってからは、もっぱら被爆者を中心に取り続けることになりました。
 はじめは郭貴勲さんの案内で、ソウル、平澤、陜川の被爆者を訪ね、その後釜山にも行きました。少し歩くうちに被爆者が陜川に集中していることを知り、それからは韓国原爆被爆者協会陜川支部長の安永千さんに案内兼通訳をおねがいし、もっぱら陜川郡の町や村を回っています。

▲ 陜川原爆被害者福祉会館に入館している夫婦の被爆者。


 陜川郡の郡庁がある邑(町)内を歩くと、行き交う人が安支部長にあいさつをします。
そして、その多くが被爆者と聞いてびっくりしたものでした。しっかりした店構えの商店から、路地の小さなスペースに魚や野菜を広げているおばさん達まで、安支部長はひんぱんに指さして、「この家も、あの人も被害者協会の会員だ」というのです。

▲ 背中から腕に大きなケロイドの朴奎黙さん。

ある部落では半数以上も

 陜川郡の北側には、世界遺産に登録された「八萬大蔵経」の版木を収納する、有名な海印寺があります。日本人観光客もよく行く名所です。標高1,430メートルで、この山を頂点にした、標高200〜500メートルの山に囲まれた山村に、陜川の人々は生計を立て、暮らしているのです。 
 被爆者がとくに多いといわれる栗谷の面(村)では、ある部落で「ここではみんな広島へ行ったよ」と聞きました。それは昨年11月に訪れた楽民という部落の第1地区のことです。ここには家が23軒建っていますが、その内2軒は過疎化で住む人もなく廃屋となり、他の1軒は町に移住して、たまに掃除にくるだけ。現在、人が住んでいる20軒中、なんと9軒が被爆世帯というのです。
 その中の1軒に泊めてもらって詳しく話を聞いたところ、被爆9軒の内5軒は夫婦や親子の複数が被爆者というのです。被爆したのはすべて広島でした。この国では、陜川のことを「韓国の広島」というそうですが、この部落の家と人を撮影して、初めてその言葉を実感しました。
 「昔はダムもなかったし、大水になれば田んぼや家まで流され、雨が降らなければ旱魃でいずれも大飢饉。とにかく貧しかったのですからね」…と話してくれたのは郡文化観光課の弘報担当・廬在咸さん。早くは大正・昭和の初め頃から、仕事を求めて広島へ行く人々が増え、日本の支配下にあって農家への締めつけがきびしくなる中で、さらにその流れに拍車がかかったということです。第2次世界大戦中は、徴用や徴兵、強制連行と続きました。
 軍都広島と韓国の陜川は、こうした新旧の太い結びつきの中で、1945年8月6日のあの忌まわしい日を迎えたのでした。

▲ 原爆で乳房を奪われた金畢禮さん。

1人でも多くに知らせたい

 昨年7月、88歳の女性、金畢禮さんを訪ねたときは、衝撃を受け、シャッターを押す指が止まりました。カメラマンだからといって、このような姿を撮っていいものかどうか。それと同時に、この人の顔や胸に今もこんなにひどい傷跡を残すことになったそもそもの原因に対して、自分も日本人の1人として感じることはないのか…自責の念にかられました。安支部長にうながされて胸を広げてくれた金さんの、原爆に奪われた乳房を撮るときは、心の中で手を合わせたものです。
 安支部長によれば、金さんのように大きな障害を受けた被爆者は、大部分がすでに亡くなっているようで、その意味では金さんは、貴重な生き証人ということになるのでしょう。戦後半世紀以上経つというのに、今もこうした姿で、苦しんでいる人が居るのです。日中も寝ていることが多い金さんが口にした言葉は「早くお迎えが来てくれないかな−」でした。
 金畢禮さんはまだ若い頃、2度にわたり来日して公費の治療を受け、日本政府発行の「被爆者健康手帳」を持っています。しかし、この手帳で被爆者援護法の適用を受け、健康手当が支給されるのは、本人が日本に居る間だけ。生活の基盤が韓国にある被爆者が帰国すれば、手帳はすべて無効の扱いです。こんな不條理がまかり通っていいのか…いきどおりを感じます。
 かって日本人とされ、名前まで日本名に変えさせられ、そして様々な経済的・政治的・軍事的な拘束力の下に広島・長崎に来て被爆したこの人達が、せめて日本に居住する被爆者と同じ扱いを…という切なる願いに、私達日本人は耳を傾けるべきだと思います。
 『韓国のヒロシマ』の写真集と本を、1人でも多くの日本人に見てもらいたい、知ってもらいたいのです。