在外被爆者代表の挨拶

 日本被団協主催による「原爆被害への国家補償と現行法の充実を迫る決起集会」(10.22・衆院第一議員会館第一会議室)が、開かれたが、その席で、在外被爆者各代表、援護法適用裁判提訴中の韓国被爆者二氏の挨拶が次のとおりになされた。

▲国会院内で発言する在外被爆者
右から李康寧氏、郭貴勲氏、崔日出氏、森田ご夫妻、倉本寛司氏
(鈴木賢士氏撮影)


 韓国被爆者協会会長 崔日出氏


 「私は一九三三年八月六日、広島に生まれました。小学校六年生で被爆、兄は八丁堀で原爆死しています。十二月に帰国しましたが、父は三年後に胃がんで亡くなり、母も五年後に胃がんで亡くなりました。
 韓国で協会に登録しているのは、二千三百人。植民地時代の過酷な生活によって祖国を捨てて放浪し、広島・長崎に居住して被爆、あるいは太平洋戦争中、強制連行され、強制労働中に被爆しました。
 韓国には、原爆は祖国解放を早くもたらしたという認識があります。被爆の話をする状況もなく、またすぐに動乱がありました。一九六五年の日韓条約でも被爆者に補償はなく、日本政府に補償を訴えようと一九六七年に協会がつくられました。私は、昨年三月、会長になりました。
 私たちの被爆は、日本の植民地支配と侵略戦争によって受けた被害ですから、それを回復しなければなりません。ドイツは今も補償を続けています。
 被爆者援護法は、国籍・居住地条項は入っていないのに、在外被爆者は適用外です。納得できません。
 私たちが要求するのは、一つは人権回復のため、一つは日本が過ぎた過ちを繰り返さないよう、変革してほしいのです。でなければ真の信頼をきづくことはできません。
日本被団協の四カ国の共同行動に深く感謝し、一日も早くかなうよう祈念します。」


 在ブラジル原爆被爆者協会会長 森田隆氏


 「戦後ブラジルに移民しました。一九五六年二月、ブラジル丸に乗って四十四日かかりました。二十九年ぶりに故国へ帰ったときは二十四時間の旅で、なんと近くなったかと思いました。
 一日も早い援護法適用を!と叫び続けております。こんこんとお願いしたい、壁は厚いがあきらめません。一日も早い適用をと願いつづけ、協力を心からもとめます。
アルゼンチン、ブラジル、ボリビア、ペルーにも被爆者はおります。精神的・経済的にも困っています。その代表としてきました。
援護法適用を叫びつづけます。」


 米国原爆被爆者協会名誉会長 倉本寛司氏


「ハワイで生まれ、五歳で日本に来ました。教育は全部日本で受けました。被爆後、広島の市役所で働いていたら、「今、申し込めばアメリカに返してあげる」といわれました。
 私の父は原爆で行方不明、金持ちのアメリカへ行こうと渡米しました。それからよくがんばったな、と自分でも思っています。
 在米被爆者は、私のような若者と、米軍属と結婚した女性が多いのです。アメリカ国籍は五年もいれば取れるし、取らないと税法上不利になります。
 日本がなにか動いてくれるのでは、と淡い期待を持ちつづけてきました。薬代だけでも出してほしい。
 以前は原爆手帳に何も書いていないから、健康管理手当をとると渡米したあとも通帳に自然に振り込まれてきたのに、「なんで盗んだのか、返せ」といわれます。
 カナダの人で、夫がもらっていました。亡くなってから妻に「一万三千ドル返せ」と言ってきました。夫人は泣きながら「カナダの家を売って返す」と言いながら、「人を泥棒扱いにする日本には帰りたくない」と言われています。
 援護法は人を助けるもので、いじめるものではないはずです。今はうるさくなって滞在期間何日まで、と判をおすが昔はなかったのです。」


 郭貴勲氏(援護法適用裁判原告)


 「援護法は社会保障か、国家補償か。
 最高裁は、国家補償的精神があると言っています。
 私は好きで広島に来たのではない。在学中に徴兵され、 連隊に入れられました。太平洋戦争を勝ちぬくために命を捧げ、被爆し、命からがら帰国しました。
 私の意思で、名を変えたり、日本に来たり、被爆したわけではありません。
 日本人の作った写真集に「棄てられた皇軍」とのタイトルで私の写真が載っていました。私にとっては気持ちのいいものではありません。
 韓国被爆者は徹底的に捨てられ、踏みにじられてきました。孫振斗裁判でやっと勝って被爆者になりましたが、私が大阪で入院し、健康管理手当が出て、帰国したら支給されなくなりました。
 それで提訴し、日本の裁判は公正だろうと思うが、そんなには信じていません。
 日本は韓国の皇后陛下閔妃を殺害した四十八名を広島で裁判しましたが、証拠不充分で全員を無罪釈放しましたから。
 他国の皇后陛下をその皇宮に侵入して殺したのに、それを無罪にしたのです。
 私の裁判は人権問題。日本の良心に訴えたいのです。
 局長通達は、韓国人のためにだされたものです。なぜなら、一九七四年三月三〇日、孫さんが第一審で勝訴した。一九七四年七月二十二日、辛さんが手帳を申請したところ、その日に局長通達が出されたのですから。
 本当はブラジル、アメリカの日本人被爆者には手当を出したいのだが、韓国人がいるから出さない、本音はそこです。
その壁、民族の偏見をなくさないと、本当の平和にはなりません。


 李康寧氏(援護法適用裁判原告)


 生まれてはじめて日本の衆院議員会館に来て、この集会に参加しました。長崎でひとり淋しく提訴して、日本全国各県から集まったみなさんの力に百倍の勇気を得ました。
 日本の植民地支配により日本で生まれ育ち、大東亜戦争の野望のために徴用令状で長崎に徴用され、一生懸命働いた結果が原爆でした。日本の国家に対しての考え、ものの考え方は日本人と同じなのに、日本国家の態度は違っていた。
 「在外被爆者」など言われたくありません。他国の人間がどうして長崎で被爆したのか?
 今どこに住もうと同じように援護するのが国家ではないのですか。厚生省の通達に足を止められているのが理解できません。
 韓国で動乱にも参加し、公務員もやりましたが、韓国でも局長はきまりを作りますが、取り消すこともできます。
 通達が法律より上ということはあり得ません。むつかしいことではない、ただ取り消してくれればいいのです。そのことを強く日本国家に要望します。


(文責・石川逸子)