砂川新田(1)

五日市街道を西に向かって、立川市砂川町3丁目に入ると、右側に(左側は農協)
「サスガー」と思わずため息が出る森が見えます。

ほっとして、写真を撮っていると、バスを待つお年寄りが
『あの小森(こもり)は、砂川さんのお宅でよ・・・。』と親しみを込めて話しかけてくれました。

武蔵野に開発された新田の最初の頃の代表格とされる「砂川新田」の指導者の家です。
江戸時代の中期には、「砂川村」として、五日市街道に面し、東西約4キロの典型的な街村を構成しました。

しかし、それは玉川上水が完成した後の話で
その出発は武蔵野の原をかすかに流れる野川=「残堀川」・「蛇堀川」・「砂の川」に水を求める
辛苦に満ちたものでした。

砂川新田の完成までには、3つの段階があったと考えられています。

木村 礎、伊藤好一「新田村落」(文雅堂書店1960)は次のように区分します。

第1段階 慶長14年(1609)〜寛永3年(1626)
第2段階 寛永4年(1627)〜明暦2年(1656)
第3段階 明暦3年(1657)〜元禄2年(1689)

この区分に従って、一つ一つを追ってみたいと思います。

最初の開発【第1段階 慶長14年(1609)〜寛永3年(1626)】

 慶長14年(1609)、狭山丘陵の麓の村山郷「岸(きし)」(現在の武蔵村山市)に住む三右衛門(村野、後に砂川)が新田の開発を幕府に願い出ました。(正確には、とされます。)

 よくもこんな時期にと思います。天正18年(1590)秀吉の小田原攻めによって小田原、八王子城は落城し、後北条氏は滅亡します。徳川家康が駿河から江戸へ入府します。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、徳川氏の覇権が確立します。そして、慶長8年(1603)江戸幕府を開府。そのわずか6年後です。

 江戸市街の整備、江戸城の修復、街道の整備など積極的に江戸の整備が進みますが、武蔵野の西のこの地域は、まだ一面の野原の中に、わずかに五日市街道が江戸との交通を始めている頃です。その時期に早くも新田開発です。幕府が大々的に武蔵野開発を奨励する享保年間に先立つこと100年前です。余程の理由があったのでしょう。

 しかし、この時、実際にどの程度の開発が進んだのかは明らかではありません。砂川町が立川市に合併する前の昭和38年(1963)、砂川町が発行した「砂川の歴史」では

 『しかしこの時は村野家によって新田開発願いが出されたが許可されただけのようで、入村農民は一人もおらず出作百姓(通勤耕作者)すらいたかいないかわからない。要するに計画だけ、と見て大体は誤まりはないだろう。

 実際に開発が姶まったのは寛永四年(一六二七)であり、各種の書上げはこの年が砂川村開発史上画期的な年だったことを示している。』(p30〜31)

 とし、また、立川市史では

 『砂川村の最初の開発は、岸村の村野三右衛門により慶長十四年(一六〇九年)ころよりはじめられたらしい。しかしこのころは、砂川村の開発が着手されたとしても、後日にみられるように計画的で、大規模に行われたとはみられない。

 幕府より新田開発の許可を得て、ぼつぼつ水利の便の良い、地味の肥えた場所をえらんで、開墾が進められたのであろう。小川村のように、大々的に近在の村々から新田開発のための農民を募集した形跡はみられない。周辺の村々から開墾に意欲のある農民がこの村の開発に参加していたに過ぎないのであろう。

 本格的に開発が行われるようになったのは、それから十八年後の寛永四年(一六二七年)ころからである。このことは各種の史料が示している。』(立川市史 下 p144〜145 昭和44年・1969)

 としています。

 実際の開発は18年後にまたれるようですが、ここに紹介された新田開発の大物2名が狭山丘陵南麗の岸村から出ている事に注目したいです。砂川新田を指導した村野氏、約50年後に小川新田を開発した小川氏、この両氏とも土着した武田の家臣とされます。

 村野氏は、中世の武蔵七党・村山党の流れを名乗り、「箱根ヶ崎諸旦那」の一人でした。小川氏は日奉氏の系図を持ち、後北条氏に仕え、村山の地に土着したとされます。いずれも、徳川政権以前、この地域に活躍した武士で、両者ともに帰農し、岸村で規模の大きな耕地を持つ在地土豪であったと想定されています。

村野氏、小川氏の故郷・岸村の現況、背後の丘が菩提寺禅昌寺

 徳川の政権になって、武士としてよりも新しい時代に即した在地領主へと前途を描いたのかも知れません。狭山丘陵の麓の岸村に、この二人が居たことは、特に興味を惹きます。その地は、現在訪ねても狭山丘陵に奥の深い谷ッを構成し、遙かな時代を偲ばせます。

 青梅街道の信号「岸」(禅昌寺入口の大きな看板がある)を北に入り、小径をたどると、途中行き止まりにぶつかりながら、道なりに進むと禅昌寺に着きます。その周辺が村野、小川氏の故郷です。禅昌寺に駐車場はありますが途中道が細くようよう交差が出来る情況です。

開発に着手第2段階 寛永4年(1627)〜明暦2年(1656)】

 開発願いが出されてから18年後、寛永4年、いよいよ実際の開発の手が原野に加えられました。次の文書でその経過がたどれます。

(1)寛文8年(1668)「御勘定所江差上候書付」(砂川昌平氏所蔵文書)
 「六十年以前(慶長十四年)武蔵野砂川と申すを取り立て御縄申し請け、其以後四十二年以前(寛永四年)拙者親御代官今井九右衛門様江申し上げ百姓余多仕付け置き、拙者まで四代砂川御年貢役など支配……」

(2)流泉寺4代住職玄春和尚 貞享3年(1686)文書
 「当郷開闢寛永四巳之年也・・・」(卯之年の誤まりとされる)

(3)萩原雅治氏所蔵「当郷開闢之事」
 「東照宮第二秀忠公御治世、村山之郷に村野肥後という者有り、連年開発を願う、頃は寛永四卯年、初めて宮崎、萩原、矢嶋、清水、豊泉、内野等当郷芝分けの者が入村」

 以上は「砂川の歴史」「立川市史」「新田村落」から要約しました。これらの文書は後に書かれたもののようですが、いずれも、開発の時期に寛永4年をあげて、研究者もこの時期を画期としています。

最初はどこを開発?

 開発に着手した時期ははっきりしてきました。では、どの地域に最初の鍬を入れたのでしょう? ここで、ハタと行き詰まります。

 砂川を訪ねると、五日市街道沿いに味わいの深いたたずまいを見せる農家に出会います。上の画像は砂川2番の農家です。左は砂川用水とその洗い場、右はその全体で、手前に砂川用水の洗い場が見え、右手に漆喰の土蔵、奥に屋敷がある、まさに新田農家の組み合わせが残る状況です。声を掛けると、今にも当時の人が「よう」と手をあげて出てくるような気さえします。

 また、五日市街道筋をどこでも一路奥に入れば、短冊形に畑地が続き、住宅化もマンションも地割りの影響から南北に長い区割り、建物になっています。注意すればどこにも新田開発の余韻が残っています。

 しかし、これは最初の開発の姿ではありません。当時、玉川上水はありませんでした。当然、玉川上水からの分水である砂川用水もありません。この辺はただ原っぱで、五日市街道が通過するだけだったことも考えられます。

水を求めて

  手掛かりがあります。砂川の開発者・村野家(明治に砂川家と改称)の「村野家由緒書」(砂川家文書、文久2年=1862)です。その中に

、「然る処、屋敷後の方、狭山続き故、谷合より流出候清水、細流に相成、砂川と名付侯、流末武蔵野を横切り玉川に流れ入り候、其左右原野中こ而地味よろしき場所につき、慶長の頃新田開発の義を願い上げ・・・」

 とあります。(「立川市史」、木村 礎、伊藤好一「新田村落」)

 この書き上げによれば、村野家の屋敷の後に狭山の谷合から流れる川があり、砂川と名付けた、その川の左右の原野に地味が良いところがありそこを新田開発の場としたと伝えます。これを受けて立川市史は

 『砂川村の一番最初に開発されたところは、箱根ケ崎の狭山池から流れ出て狭山丘陵の西南部から五日市街道に向って斜に流れる残堀川の沿岸である。砂川村が、現在のように五日市街道にそった街村(一部略)の形態をなしたのは、承応二年(一六五三年)に玉川上水が開さくされ、明暦三年(一六五七年)に砂川分水ができあがった後のことである。

 それまでは、残堀川の旧水路が、五日市街道と交差する砂川三、四、五番附近を中心に村落が形成されたと推定される。現在では、この残堀川は、南流して砂川一番で五日市街道と交差している。』(下 p146)

 としています。大方の研究者も同じ意見です。では、残堀川の旧水路はどこにあるのでしょう?

 村野氏の住んだ「岸村」と最初に開発した新田「砂川」の位置関係、同じ頃(慶長16年=1611)進められた、下師岡の吉野織部之助による新町(現在の青梅市)の関係は、おおまかに上記の略図のようになります。

 村野氏が開発を申し出た慶長14年(1609)の頃は、青梅街道と五日市街道が江戸との交通路ではあっても、まだ、玉川上水は作られていません。街道が通じているとはいうものの、飲料水にも事欠く状況です。まして農業用水は皆無で、云ってみれば水のない原っぱの開発、何よりの難関が水の問題でした。

 吉野氏の新町では川がありませんから、まいまいず井戸に目を付けました。新町よりも更に地下水脈の深い砂川地域、「村野三右衛門」が残堀川(ざんぼりがわ)に目を付けたことがうなずけます。残堀川は岸村の中を通って流れています。

 そこで困るのが、当時の残堀川の位置です。現地を訪ねると、現在、残堀川は天王橋の近くで五日市街道と交差しています。周囲の景観から、ここに最初の新田開発の鍬が入れられたところとは思えません。残堀川(砂川)の位置が変わり、開発初期の資料が少ないのが残念ですが、それを復元する作業にかえって面白さが増します。

砂川3番4番が基点

 五日市街道を西に進むと、多摩都市モノレールの高架の辺りからケヤキが一時途絶えますが、やがて両脇にぽつりぽつりと目に付くようになります。そして、ひときわ目を惹くのが、通称「三番組の大ケヤキ」と呼ばれる天を突く独立樹です。幹周り、5メートルはあるでしょうか、高さは約30メートル、立川市の保存樹木に指定されています。

三番組の大ケヤキ

 この地方特有の北風や赤ッ風を防ぐ防風林で、今は一本立ちですが、かっては屋敷を囲み、こんもりしたケヤキの森に見えました。その他にも、特にこの周辺には大きなケヤキが集中しています。その雰囲気はこれだけの年輪を刻むケヤキが育ってきた大きな基盤がここにあったことを語ります。

 「三番組」という言葉が出てきましたが、これは砂川の特徴のある呼び名であり仕組みです。現在の地名としても東(都心)から10番、9番と順次西に向かい、一番西に1番となって残っています。これはかって、地域の呼称とともに、年貢の徴収単位になっていました。

 さらに、元禄7年(1694)には、1番から4番までを「上郷」、5番から8番までを「下郷」と区分し、それぞれの郷に「小名主」が置かれ、各組には組頭が置かれていました。「小名主」は、名主の名代として仕事をするものでした。

 当時の原則的な仕組みとしては、当然、「名主」がいるはずです。いました。ここでは「大名主」と呼ばれました。それは村野家で、なんと、当時、村野家は岸村に本拠を置いています。初期の開発から90年近く経た時、砂川では、現地で「小名主」が実力を持ち、開発を指導した村野家が親村である岸村から全体を見る関係があったことがわかります。

 もちろん、開発者村野家は3番に砂川の本拠を置きました。元禄2年(1689)検地帳で、村野家は2筆の屋敷地を所有しているので、早くからこの地に生活の基盤を置いていたことが想定されます。名主は元禄17年(1704)砂川村に移住しました。

 注目は、村野家と共に最初から砂川の開発に加わった人に「宮崎、萩原、矢嶋、清水、豊泉、内野」家(萩原家「当郷開闢之事」=「砂川の歴史」p31)などがありますが、そのほとんどの家が、砂川3番、4番に集まっています。大ケヤキはこの「芝分け百姓」の家々を象徴するようです。

 名主を勤め砂川を作る中心となった砂川家は 「三番組の大ケヤキ」から、斜め右、目と鼻の先です。そして、新田開発に携わった農民の魂のよりどころであった「阿豆佐味天神杜」(あずさみてんじんしゃ)「流泉寺」(りゅうせんじ)もこの地域にあります。地域を広くとっても、3番、4番、5番辺りが初期の砂川開発の基点であったことをうかがわせます。(右は流泉寺の大ケヤキ)

残堀川はどこに 

 では、村野家の後にあったという砂川=残堀川はどこにあるのでしょう? 「新田村落」は残堀川流路図として、旧流路の全体を図で示します(p54)。「立川市史 下」は素敵なヒントを与えます(p74)。

 『砂川一平氏は「覚書」の中で、最初開発が進められたのは「五日市街道と残堀川が交叉する石橋(三番組)から立川停車場(立川駅)へ行く道の分れる所であったらしい」と推定されているが、その根拠として挙げられているのは、
 @まず交通と水の便の良い処から開発される筈であるという推定と、
 Aこの地区に旧名主屋敷(正徳四年に萩原家に譲られた)はじめ萩原・宮崎・矢嶋等有力百姓の屋敷があり、マイマイズ井戸もあったこと、であって、砂川氏の推定は正しいと思われる。』

 と砂川一平氏が具体的な場所を書き留めていたことを伝えます。さっそく現地を探しましたが、石橋は見付かりませんでした。その代わりに、この辺りであろうと見当が付くものを確認してきました。残堀川は別名「蛇堀川」(じゃぼりがわ)といわれるように、野の中を自由に流路を変える野の川です。

 『平素は水は少しも無い位であれど、夏秋の候には洪水漲溢することがあり、元和三年には府中町高安寺の観音堂を流したといふ大それた傳説すらもある。』

 と高橋源一郎氏の「武蔵野歴史地理」第三冊p647が伝えるように、相当自由に流れ路を変え、また、後に、土地の利用の上からも人工的に流路を変えました。大変体力を要しますが、その跡をご案内します。

 西武拝島線の「武蔵砂川駅 」(西武砂川駅と誤記していました。立川市在住の山ア氏からご指摘を頂き訂正します。有り難う御座いました。05.03.10.)を降りて、新宿方面に200メートルほど進むと最初に細い路があり、図のような関係になっています。図面で北に進むと立川市の史跡「残堀川旧水路跡」の標識が畑の中に立っています。

 五日市街道からの場合は、立川バス「砂川2番」停留所で下車、目の前の大きな屋敷が砂川家で、屋敷に沿って西の道路を北にはいると、見影橋、玉川上水を渡り同じ場所に出ます。立川市の標識は風雨にさらされ読みにくいですが、

【残堀川旧水路跡

 市指定史跡 残堀川旧水路跡
 所在 立川市砂川町3丁目、上砂町4丁目
 指定 昭和39年8月25日

 残堀川は「蛇堀川」(じゃぼりがわ)あるいは「砂の川」ともよばれ、源を瑞穂町の狭山池に発します。

 昔は、この付近から、旧立川基地内を経て国立市青柳方面に流れていました。江戸時代初めの砂川の新田開発は、残堀川の水を頼りに、その流域から始められたのです。

 その後、承応3年(1654)に玉川上水が開通すると、これに合流させていたこともありました。明治時代の末になって、玉川上水の下(現在は上)を通る水路が開かれ、現在に至っています。

           昭和63年3月21日     立川市教育委員会】

 と書かれています。本当に貴重な標識で、これ以外に残堀川旧水路跡を示す表示はありません。かっては流路跡が見えたと云われますが、現在は全くそのような形跡はありません。

 ここで場所を確認して、次は略図の立川断層(立川崖線と誤記していました。小平 市在住の読者の方からご指摘を頂き 、訂正させていただきます。有り難う御座いました。2005.09.12.)です。地元ではこの 断層に沿って残堀川が流れていたとの言い伝えを残します。地図上でよくわかりますが、直線で進んできた玉川上水はここで大きく屈曲します。

 玉川上水の工事の時に直進出来なかった理由があったはずで、立川断層が立ちはだかるような形になり、迂回したものと考えられています。現地へは、見影橋(みかげばし)を玉川上水に沿って下ります。標識の方から来た場合は橋を渡ってからの道の方が 断層の状況がよくわかります。下の左画像は橋の上から前方見たもので、左側にこんもり森が見えるのが砂川家です。

左画像でフェンスの左側がグランドになっています。砂川家が貴重な「水田」を開発した跡です。
その田の跡に立って見ると玉川上水の方が高い位置で流れていることがわかります。
そこには、水田の開発者「源五右衛門分水」の跡(砂川家専用)が残されています。

 左画像は右側の高い方に玉川上水が流れ、左側がグランド=水田跡になります。
右画像は崖線の最も高いところで、右下に家がかすかに見えますが、これだけの高低差があります。
これが立川断層で、略図で朱線を入れたところから、金比羅橋付近まで続きます。

 説明がくどくなりましたが、玉川上水は立川断層の端を上手に選んで作られていることに、ただただ感嘆です。

 その前提で、略図に戻ると、残堀川旧水路標識から玉川上水の通る立川断層、石橋、立川停車場への道を結ぶと、そこに開発者村野氏の伝える残堀川の流路が描けませんか。略図から北は図が大きくなりすぎるので省きました。

 箱根ヶ崎の狭山池=筥の池(はこのいけ)から流れ出る残堀川は伊奈平橋まで自然の形を残し、日産自動車跡地のところで全く流路は変えられています。略図の方向を延長すると変えられた流路を自然に戻し、伊奈平橋のところで狭山池からの流路につながります。

 五日市街道から国立市青柳方面への南の流路は掴めませんが、北側は全体を通しても、無理なく復元出来そうです。こうしてみると、やはり、最初の砂川新田の開発は砂川3番4番辺りから着手されたことが理解出来ます。回りくどくて恐縮ですが、現地散策の参考になればと書きました。

流泉寺、阿豆佐味天神杜が創建された

 新田開発に関わる農民の生活で大きな問題の一つが寺と神社です。新田開発が進むと、やがて集落が形成され、村が成立します。その過程で農民は親村や古村から移住することになります。砂川では、最初は『入村農民は一人もおらず出作百姓(通勤耕作者)すらいたかいないかわからない。』とされます。それが、第2段階の寛永4年(1627)〜明暦2年(1656)の頃になると、ある程度の定着がなされたようです。

 生きるか死ぬかの厳しい条件の中での開拓と生活です。最初の頃は、葬儀など、親村や古村に依存していたようです。しかし、集落が形成されてくると、心のよりどころとして、寺や神社の新設が課題になります。砂川でも、お寺の建設が取り上げられました。

 砂川3番にある流泉寺です。寛永5年(1628)に創建が企画され、慶安3年(1650)に建立されたとされます。その経過が少し時期が下がりますが、貞享3年(1686)3月に流泉寺から奉行所に出された文書(訴状)に残されています。

 『砂川開発の節、名主、惣百姓相談仕り候おもむきは、所々方々の者共当村へまかり出で居り申しそうらえば、其の村々寺々へ付け届き難儀にござ候ゆえ、菩提寺一ヵ寺にしたきよし』(大日堂屋舗出入、「新田村落」p55)(右は流泉寺山門)

 と書かれています。菩提寺を我が村に置く理由が切々と読みとれます。立川バス停留所「砂川2番」で降りて歩くと周囲の雰囲気にすっぽり包まれます。大きな駐車場があります。
 
 砂川4番に、阿豆佐味天神杜があります。寛永6年(1629)、開発者村野家の親村である岸村と密接な関係のあった殿ヶ谷村(一緒に村山村と呼ばれる時期があった)の阿豆佐味天神杜が勧請されました。

 村野家は殿ヶ谷村の阿豆佐味天神杜の大旦那として棟札(正保2年1645)に名前が見えるように、神社とは濃いつながりを持つ家柄であり、勧請はスムーズに行われたのでしょう。

 しかし、神官は居なかったようで、正徳2年(1712)に赴任したようです。この間、農民との間に出入りがあり、新田開発のもう一つの面を語ります。

 寺と神社が備わったことは、村の形成が進み、ある程度、住民の生活も安定をしてきたと考えられます。砂川村の母胎の形成がこの時期、第2段階 寛永4年(1627)〜明暦2年(1656)とされるところでありましょう。 立川バス「阿豆佐味天神杜前」で下車すると、目の前の大きな木立の中に天神社はあります。大きな駐車場があります。

第3期へ 明暦3年(1657)〜元禄2年(1689)

 砂川村の母胎ができるまでをご案内しました。砂川村が村として成立し、五日市街道沿いに街村を形成するのは、玉川上水が完成し、砂川分水が用水として利用できるようになってからでした。そのことについては、次の頁に書きます。

砂川新田2へ

砂川新田3へ

ホームページへ