青梅・新町村 1

新青梅街道を青梅市方面に向かい、「新町」(しんまち)の交差点を過ぎると右側に
一軒だけですが、さすがに目を引く茅葺きの民家が見受けられます。

新田開発でも、多摩地方では特別な意味を持つ、「青梅・新町村」(しんまちむら)の開発者
「吉野織部之助」(よしのおりべのすけ)の子孫の旧宅「吉野家」です。

江戸時代の新田開発は、中期(享保年間)、8代将軍吉宗によって盛んに行われますが
「新町村」の開発はそれに先駆けて、江戸の初期、2代将軍徳川秀忠の頃(慶長16年=1611)に開始されています。武蔵野の原野に、新田開発の先導役を果たしたのが「吉野織部之助」でした。

この家を核にして、周辺に当時の様子が残されていますので、ご案内します。

もちろんこの画像の家は、新田開発の時のものではなく、代々名主を勤めた吉野家の幕末期の状況であり
開村当時のものは、想像も出来ないくらいに貧弱で粗末なものであったと考えられます。

場所は、上図の左上、青梅市の右下の○印のところになります(青梅市新町)。
(ゼンリン電子地図帳東京神奈川による。図中、水色の箇所が狭山丘陵)

 2代将軍徳川秀忠に始まる

 2代将軍徳川秀忠は慶長15年(1610)、狭山地方に鷹狩りをしました。その際、武蔵野の一面の原野を目にして、新田開発を痛感し、さっそく「奨励すべし・・・」と代官に命じたと云われます。

 これを受けたのが、かねてから武蔵野開発の望みを持って近くの「下師岡村」(しももろおかむら=現在の青梅市師岡町)にいた「吉野織部之助」です。翌・慶長16年(1611)2月には、さっそく八王子代官大久保岩見守(おおくぼいわみのかみ)に「・・・武蔵野に家建、新田一村取立申度候。・・・」と願い出ています。

 代官は直ちに許可し、織部之助は近隣の農民に「出百姓」の募集をします。ところが、いっこうに応募がありません。水がないのが大きな理由でした。かって、隣の三島集落が廃村になったことを知っているからです。

 織部之助はめげずに仲間を募ります。ようよう集まったのは、2年後の慶長18年(1613)正月で、同じ下師岡村の池上新左衛門、島田勘解由(かげゆ)、吹上村の塩野二左衛門の3人でした。後に南小曽木村(みなみおそきむら=青梅市小曾木)から若林五右衛門、高根村(埼玉県入間市)から宮寺次郎左衛門が加わって、5人が協力者になり、慶長18年(1613)事業に着手したと伝えられます。

 リーダシップをとったのは後北条氏の帰農土豪(どごう)

 さて、今回の主人公「吉野織部之助」ですが、小田原北条氏=後北条氏の家臣でした。埼玉県行田市の忍(おし)城主に仕えていて、天正18年(1590)秀吉によって後北条氏が滅ぼされた時、その支城であった忍城も有名な水攻めによって落城しました。

 このため、多くの武士がそうしたように、吉野織部之助もやむなく帰農して、知人を頼って、下師岡村に住んだと云われます。もともとリーダシップがあるので、村の土豪として身を立て、徳川2代将軍秀忠が西武蔵に来た頃には、村の名主になっていました。

 後北条氏の重要根拠地であった八王子城が近いだけに、このような例は多摩地方にたくさんあります。小川新田(小平市)や砂川新田(立川市)などがそうで、いずれも戦国期以来の帰農在地土豪が新田開発に積極的に乗り出したものです。多摩の新田開発の特色とも言えます。

 市場、代官所の誘致をもくろんだ

 何よりも興味が湧くのは、この開発が単なる農村開発ではなくて、「市」をもつ自立村を目指していたことです。上の屋敷割図は、明治期の新町村の「屋敷割図」ですが、これからもわかるように、計画の当初から、新田集落の真ん中に、幅4間(7.2メートル)の江戸道(青梅道)を整備しその両脇に33軒づつ66戸の屋敷割りをする計画でした。(青梅市教育委員会 旧吉野家住宅 パンフレットによる)

 しかも各家の間口は江戸道に面して、9間(16.2メートル)としています。間口が狭く奥行きが深いのは、街道沿いに作られる新田集落の特徴とも言えますが、これは、さらに狭く、宿場としての町づくりを考慮したものとされます。

 黒い○印が吉野家住宅。屋敷の北側には防風林の林があり、短冊形の細長い耕地が設定されています。計画から5年後の元和3年(1617)には、定期市が実現して、商人の支払う市場銭が開発人の財政をうるおしたとされます。

 さらに、将来は、代官所を設置することも考慮し、この屋敷割りの南側には、その用地を用意したことがわかります。現在も「蔵屋敷」の地名が残されています。これは実現しませんでしたが、飢饉の際の「郷倉」が設置されました。

 代官がバックアップした

 この新田開発はもう一つの際だった特色があります。幕府代官の猛烈な後押しです。吉野織部之助がいかに努力しても、「出百姓」の応募はなく、人はなかなか集まりませんでした。そこで、代官からこんな通達が近隣の村々に出されました。

 『この度、西武蔵野に吉野織部之助頭取(とうどり)いたし、新田取り立て候あいだ、二男三男これ有る者は、これを出し、百姓あいつとめ申すべく候。かつ、井戸窄人馬、織部之助 指図(さしず)次第、出すべく候。もし滞るにおいては越度(=落ち度)とせらるべきものなり。』

 井戸掘り人や馬を織部之助の指図(さしず)があり次第差し出せ。とどこおる場合は村の名主の落ち度とする、という激しいものです。

 代官は高室金兵衛で、織部之助をよほどの能力者とみたらしく、後に、近くの河辺村で、名主と農民間で争いが起こったとき、その名主を止めさせ、吉野織部之助を河辺村の肝煎役と名主に任命しています。吉野織部之助は下師岡村の名主であり、新町村を開きましたが、隠居後は下師岡村で暮らしています。

 宛先が参考になりますのであげておきます。青梅村、藤橋村、黒沢村、谷野村、成木村、木野下村、北小曾木村、塩船村、上師岡村、西分村、根ヶ布村、乗願寺村、長淵村、畑中村、駒木野村、千ヶ瀬村、和田村、下村、二俣尾村で、青梅地方の村々全てで、地図を見るとほとんどが地名として残されています。

 この開発を取り仕切った高室代官は、先代が武田信玄に仕え、武田家が滅んだ後、徳川氏の家臣になりました。天正18年(1590)八王子城が落城し、徳川家康が江戸城に入ります。家康は戦後の混乱回避と治安をかねて、八王子に代官を集中配備します。

 この時集中配備された代官を「十八」代官と呼びますが、高室代官はその一人で、代官頭「大久保岩見守長安」に率いられていました。高室代官は4代、70年にわたって多摩地域を支配します。時には、青梅の森下陣屋に陣取ったこともあります。

 こうしてみると、武田家の武士(高室)と後北条家の武士(吉野織部之助)との交流が浮かび上がってきます。

 新田開発の裏側に、武田家家臣の身のふり方、外面的には家康にとっても敵方であった後北条氏の没落後の家臣の身の振り方と幕府の扱い、幕府=代官の地方支配のありよう、幕府財政のてこ入れなどが、かいま見え、興味をそそられます。

 水が問題、共同井戸の割り当て

 開発者の壮大な構想、幕府の後押しによる新田開発でしたが、なお相当の困難が伴ったようです。水場がない一面の原野であった武蔵野台地での開発です。何よりも、苦労だったのは、生活水の確保でしょう。この開発の取りかかりは、先ず、先に紹介した協力者5人への共同井戸の割り当て、井戸整備でした。

 その席で、もし村の百姓が問題を起こしたら、共同井戸からの水の汲み上げを禁止する事を決めています。それが命取りであったのでしょう。

 開発のもととなった大井戸が復元されている

なぜ、水場ひとつないこのような場所に「吉野織部之助」は開発の目を付けたのか長らく疑問でした。
最近、この謎が解けました。地元の人が「オイド」と呼ぶ、素晴らしい先人の知恵がありました。

新青梅街道「御獄神社入口」交差点を北に入ると、右向かいに森が見えます(画像右商店の裏側)。
ここに謎解きがあります。

青梅街道の喧噪をよそに、住宅地の中に一部盛り土されて起伏を付けた雑木林があって
オアシスの雰囲気があります。

その中央にすり鉢状の井戸が復元されています。「新町の大井戸」と呼ばれる「まいまいず井戸」です。
画像では大きさが実感できませんが
東西約22メートル、南北約33メートル、深さ7メートルとされます。

7メートルの深さに、階段をすり鉢状に下ると、井戸枠があって、この下部の構造がスゴイです。

井戸枠から下に約15.2メートル、筒状の井戸が掘られています。
一番深いところは上総層群に達しています。
ここまでして、始めて、武蔵野台地の水脈が得られたのでしょう。

 この井戸の前面には「古青梅道=江戸道」が通り、西面には「秩父道」が通っています。この井戸がいつ頃出来て、いつ頃使われなくなったのかは明らかにされていません。青梅市教育委員会の解説では

 『・・・この井戸が掘られた時期については、定かではありませんが、地表から筒形井戸を構築する技術が一般化する以前の様式であると考えられます。また、武蔵野の原野を走る「古青梅街道」と「今寺道(秩父道)」の二本の古道交差する位置にあることから、恐らく江戸時代の開発以前から道行く人馬の飲み水を供給する場所となっていたものと思われます。・・・』

 となっています。

 左が「古青梅街道」、織部之助が開発地に「江戸道」を造る前はここを通っていたようです。遙かに奥多摩の山々が見えます。画像右が「今寺道(秩父道)」。近代的な建物に遮られて、武蔵野の原野の風情は全くありませんが、この道が秩父に通じていたかと思うと愛しくなります。

 それにしても、この近くにある「東禅寺」の住職さんから、『この付近から、無縁の人骨が発見されたこともあり、当時の旅は大変だったのでしょう』との話を聞きました。水場を求めた旅人の遺骸であったかも知れないとの指摘です。

 ちなみに、先ほど紹介した「吉野織部之助」が開発するにあたって、つくられた5つの井戸の一つが、左画像のように、吉野家に残されています。この井戸を巡って二つの解釈があります。

 一つは、東京百年史 第一巻で、吉野家の井戸はまいまいず形井戸であったとしています。p618

 もう一つは、青梅市教育委員会パンフレット「青梅新町の大井戸」で、吉野家の井戸は 『地表面から深さ15−14尋(ひろ=約23メートル)の筒井戸で、大井戸とは形態的に大きく異なっています』としています。

 きちんとした調査が待たれますが、まいまいず形の大井戸は「吉野織部之助」が開発をするずっと以前からここにあり、むしろ、この井戸があったからこそ、新田開発の拠点になったのではないかと私は考えます。

 武蔵野には、いくつかのまいまいず井戸が残されていますが、街道の道筋にあり、これだけの規模と内容を持つものは見受けられませんでした。ついつい紹介に力が入ります。この大井戸は東京都の指定史跡になっています。

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