鎌倉街道の宿
(恋ヶ窪)

鎌倉に頼朝の政権がたてられたころ、武蔵武士の戦いとロマンの道ができました。
「一所懸命」を賭けた斬り合いの合間に、恋が芽生え、散るはかなさが伝承となって、今に残ります。

それは、文化の道、物流の道で

北条時代、武蔵野台地の中央部の開発を進め
そこここに興った武蔵武士を再編成して、遙かな地方へ分散させる道でした。

室町の戦乱は、武蔵野を戦場と化し、寺を焼き、耕地を荒らし、民衆を逃散させ、とことん疲弊させて
新田義貞や足利尊氏、太田道灌、上杉謙信や北条早雲などが行き交い
新たな政治の枠組みをつくり出す道でした。

そんなところに「宿」ができます。

武蔵国分寺のやや北方に生まれたのが、「恋ヶ窪宿」です。


江戸時代の様子を伝える江戸名所図会

多摩川を渡り、府中の分倍河原を越え、武蔵国分尼寺の脇を通って
JR西国分寺駅あたりから「恋ヶ窪」に入ったところです。

この辺は国分寺崖線が複雑に入り組み、ハケの水が豊富で
低地に水場を求めて、武蔵野に入る直前のオアシスをつくったようです。


国分寺市の案内表示

恋ヶ窪については、中世に遡る伝承があり、その主人公が畠山重忠です。
若き重忠が夙妻大夫(あさづまだゆう)と恋をしたのです。

この宿は大きかったらしく、遊女がいました。
重忠は夙妻大夫(あさづまだゆう)と恋中となりました。朋輩がうらやむほどだったそうです。
重忠は頼朝の命により、平家追討のために西下します。

夙妻大夫は一緒につれて行ってと願います。
この頃の重忠にしてみれば、平家方について頼朝討伐に加わり、それを許されたばかり
とてもそんな余裕はないはず、一人で旅立ちます。

その間に、夙妻大夫にかねてから思いを寄せていた、かの朋輩がひと芝居
重忠は、西国で討ち死にしたとの風聞流しです。

夙妻大夫はそれを聞いて、嘆き悲しんで、近くの泉に身を投げました。
恋ヶ窪の人たちはやさしいですから、
『・・・その心根を憐れみ菩提を弔らわんと墓の傍らに一本の松を植えしとぞ 此の松一葉を携えるのみにして年重ぬるにつれ重忠赴きし西の方へ傾く風情ありければ いたく里人の心をうちぬ 
誰が呼び始めしか 傾城の松 一葉の松とぞ・・・』 

ということで、供養碑を建て、松を守りました。
江戸名所図会の中央に描かれた東福寺の近くで、現在は何代かの孫の松が東福寺にあります。

初代傾城の松があったお宅(江戸時代の名主)。

夙妻大夫が身を沈めた池は「姿見の池」として現在も公園の中に保存されています。

畠山重忠の初陣は治承4(1180)年、17歳。大庭景親の注進状により
菅谷(埼玉県嵐山町)の館から、武蔵野を矢のように一路鎌倉へと駆け抜けたのでした。

西国攻めは、寿永2年(1183)の暮から翌、元暦元年(1184)正月にかけてで
歴史的にどこまで事実かは別として

 木曽義仲との宇治川での対陣で、渡河の途中に乗馬を射られて
大串重親(烏帽子子)を引きずって逆巻く濁流を徒歩で渡ったという話・・・『平家物話』

源義経に従った、一の谷の合戦では、鵯越(ひよどりご)の逆落しで
愛馬を背負って下りたという話・・・『源平盛衰記』を伝えます。

 恋ヶ窪の伝承はこの時のものでしょうか?

ところがです。その宿が、どこに、どんな形であったのかが、わかりません。

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