村はつくられた 家康が江戸に入って、村々には「地頭」(家康直属家臣=旗本)が配属されて来ました。 『武蔵国 村山うち 三ツ木村において 250石 出し置くものなり こんな文書を持って、地頭達はやってきました。 「200石」は「知行」(ちぎょう)とも呼ばれ 後北条氏時代は記録がない 家康の家臣が武蔵に移ってくる前、つまり守護大名や後北条氏時代に、すでに村が存在していて、生産高も把握され、そこへ、次のポストのような具合で配属されたならば事は簡単ですが、どうもはっきりしません。そのような状況の記録や歴史が見つかりません。もちろん、地域によっては、税負担や使役を負っていた村の名前が残され、村長(むらおさ)とか村中(農民)あての文書があります。 しかし、それはほんの少しで、後北条氏時代の主要な城か道路に関連するところの村のようです。家康の地頭がやって来た全ての村々に当てはめるわけにはゆきそうもありません。私の住んでいる村などひとかけらも見つかりません。そんなところに、突然、先に紹介したような任命書を持って、しかも、生産高まで添えられて新しい領主様がやってきています。これはどうした事なのでしょう。 どうやら、「村」はつくられたようだ さてこそ不思議なものと疑問を持ちながら地元の歴史を丹念に調べると、かすかに見えて来るものがあります。すっかり住宅地になって姿も形も変わってしまっていますが、一番最初に営まれたであろう「集落」、つまり田や畑、人家の集まりの姿です。 明治初年の地図を頼りに、現地を江戸時代の初期に置き直します。すると、私の住む狭山丘陵の村には、丘陵の皺ともいえる「○○谷ツ」と呼ばれるところに、点々と人家があり、田や畑の記号が見られます。 丘陵に刻まれた谷筋と丘陵の南麗の根通りを基盤として、谷ツから流れ出る湧き水やハケの水、それらが集まってつくる小川を利用して「田」をつくり、周辺の台地に畑を開墾し、自然発生的に生まれ、成長してきたであろうと考えられる素朴な「集落」です。 それらは決して「○○村」「○○石」などと云われるようなものではなく、素朴な人の集まりであり、田や畑、山林や野原の集合体です。かりに、それを谷ツの集落と呼ぶとすれば、後北条氏時代には、多分「○○郷の○○」と呼んでいたと考えられる集まりです。 例えば、これから紹介する東大和市(江戸時代は芋久保〈窪〉村)にある「豊鹿島神社」の棟札には といったように江戸時代に入る以前は「奈良橋郷」でくくられ、慶長 6年(1601)になって始めて村名の「芋窪」が出てきます。 家康の江戸入府を円滑に進めた部下=地元の事情に通暁した「地方巧者」(じかたこうしゃ)はどうやら、谷ツに成長した集落をいくつか集めて、地頭に任命書を持たせるような、別の云い方をすれば、江戸幕府の年貢を徴収する対象となる「村」をつくったようです。 谷ツの集落 狭山丘陵の南麗には、現在の行政区域で、西側から瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市などがあり、谷ツの集落に関してはそれぞれ共通した傾向を持っています。恐らく、丘陵の北麗でも同じ状況と思われます。その中から、一例(東京都東大和市)を紹介します。 狭山丘陵には二つの大きな谷があります。それを堰き止めて東京都民の水がめである貯水池「多摩湖」、「狭山湖」がつくられました。東大和市はそのうちの多摩湖とそれを包む丘陵の南麗で構成されています。そこには、江戸時代下図のような谷ツがあり集落がありました。石川・宅部川のあるところが多摩湖に沈んだところで、丘陵の中の平地をつくっていました。 丘陵の南側では、左から 丘陵の中では、左から で、戸数20〜30程度の集落が開かれていました。一般的に「谷ツの集落」とされ、中には古代・中世に人が住んだ形跡を残すところもあります。それぞれにリーダーが居て、出自(しゅつじ)を聞くと、はっきりとではありませんが、武田家や後北条家の家臣であって、ある時、帰農したとの伝承を告げる場合が多いようです。 村にまとめられた(村切り=市町村合併の最初の姿) 天正19年(1591)家康の家臣が領主として配置されたとき、芋窪村と高木村が現れます。そして、約60年後の慶安2年(1649)の「武蔵田園簿」には、石高とともに、次のように「村」が構成されていました。 芋窪村(いもくぼむら) 380石 地頭2名 酒井極之助 酒井 郷蔵 奈良橋村(ならはしむら)
330石 地頭1名 石川太郎左衛門 高木村(たかぎむら) 70石 地頭2名 酒井極之助 酒井 郷蔵 後ヶ谷村(うしろがやむら)300石 地頭2名 溝口佐左衛門 辺見四郎左衛門 清水村(しみずむら) 300石 地頭1名 浅井七平 高木村を除き、それぞれ、丘陵の南麗と丘陵の中の集落が組み合わされて一村を形成しています。丘陵の中と外は使いこまれた小道で結ばれ、お互いの行き来は緊密でした。「水田」は丘陵の中にあり、丘陵の南麗にはほとんどなく、「畑作」中心です。それらが考慮されているのかも知れません。 これを「村切り」と呼んでいますが、いわば市町村合併の最初の手法とも云えます。当時の状況で、実務的にどのようにして行ったのか知りたいです。村切りは、どこでも様々な問題をはらんでいたと思われます。今回は後ヶ谷村の例を紹介します。 後ヶ谷村は4つのグループが一つの村になりました。「内堀」を溝口佐左衛門、その他を辺見四郎左衛門が治めました。支配の地域を分けて一つの村に2名の地頭が配属されました。複雑なものがあったと思われます。後に、対立、分割、合併と様々な問題が起こってきます。 対立、分割、合併 後ヶ谷村を構成した4つのグループは特色があります。 対立 対立が「廻り田谷ツ」「谷ツ入」グループと「杉本・宅部」グループとの間で起こりました。このグループは戦国期の土豪で帰農した同族集団とされます。しかし、集落は別々に成立したと考えられ、二つのグループにそれぞれ中心となる指導者がいました。 仮に、南の谷の新左衛門家と北の谷の勘左衛門家とします。村切りが行われた最初からか、しばらく後になってかどうかは、はっきりしませんが、両方のグループにそれぞれ名主が置かれました。 一つの村に二人の名主ができました。最初はどうにか収まったにせよ、村の生産力も高まり、負担も一般化されてくると問題が生じてきます。約250年後の天保10年(1839)、村入用帳(支出台帳)をめぐって両者間に紛争が起こりました。それぞれの村の負担と支出の内訳を巡っての争いです。 その背景には、富裕農民と貧困農民との対立もあったのでしょうが、谷の中と丘陵の南では微妙な生活の違いや、公共的な負担のゆがみも出来てきたのでしょう。村騒動にまでは至らず、話し合いの結果、次のように解決しました。村の必要経費とその出入りを詳しく書き、両方で記帳することを基本にして まだ、北の谷の勘左衛門家の方が歩が良さそうです。その要因は歴史的背景からなのか、経済的背景なのかよくわかりません。生産高の規模の違いかも知れません。それにしても、ともかく両者対等への方向を歩み出しています。但し、200年を超える気の長い話です。この間、最初の村切りは両グループに相当の負担であったことがしのべます。 分割・独立 「内堀」には領主が居なくなり、幕府直轄領として代官支配地になりました。それを契機に「後ヶ谷村の内堀」から「宅部村」となります。一村の独立です。もともと交流の密であった両村だけに、独立運動を展開したのか、上からの誘導なのか経過はわかりません。 合併 「宅部村」と「後ヶ谷村」はもう一つ転機を迎えます。明治6年(1873)のことです。地租改正条例が発布されて、村では、土地の調査を行い、土地の一筆ごとに地番を付けることになりました。後ヶ谷村と宅部村は「田畑山林、民戸 悉(ことごとく)皆 混錯」の状況で、その入り混みが激しくて、とうてい順序よく番号が付けられる状況ではありませんでした。 開発による入り組み、婚姻や分家の結果などから所有関係は飛び地を含めて錯綜し、手が付けられなかったと伝えられます。両村ともこれには困ったようで、『両村の小前一同は、熟談の上、・・・』ついに全く新しい局面にして新規の地番を附けることなりました。 『明治8年(1875)2月、両村の農民87人の連名により「村名改称合併願」を区会所(十一大区十小区)に提出した。そして区の戸長、副戸長は、このねがいを神奈川令中島信行宛に提出し、翌月これが認められている。』「東大和市史資料編10 近代を生きた人びと」p34) との経過をたどって、合併が成立し、新しく「狭山村」となりました。村名が「後ヶ谷村」から「狭山村」に変わりましたが、村の区域は最初の村切りに戻ったことになります。地番の混乱から合併が話題になったことを紹介しましたが、現実には、やがて来る新しい地方制度を前に、小学校の設置や公共施設の整備問題が深く作用したはずです。 例え、地番の設定が解決されたとしても、目前に迫る学校設置には、どうにも対しようがありませんでした。また、二人名主も時代に合わなくなっていました。恐らくこうした条件を総合して合併策を撰んだものと推察されます。現在の市町村合併問題に一脈通ずるものがあり、我がまちの小さな集落の農民の決断がいとおしくなります。 新田開発 話の順序から一度に明治に時代が飛びましたが、もとに戻って、村切りによって区域と生産高が定められた江戸の村は、次の時代、目の前に広がる武蔵野の新田開発に向かいます。それは、谷ツの親村を背に尺取り虫のようにせっせ、せっせと南の原の芝切りを進めるもので、「神棚でゴボウがとれる」ほどの赤風にあおられながらのシンドイ作業でした。別の頁に続けます。
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