和宮下向と狭山丘陵の村 幕末の一大イベントとも云うのでしょうか、ぼろぼろの徳川幕府が 安政7・万延元(1860)年から翌年にかけて その時、狭山丘陵周辺の村で起こった様子を訪ねました。 公武合体 嘉永6年(1853)6月のペリー来航以来、国を挙げて開国・攘夷に湧き、安政の大地震(安政2・1855)、コレラ大流行(安政5・1858年)、安政の大獄・・・などなど、自然災害を含め日本国内は大揺れに揺れます。幕府の開港に 対する反発は高輪東善寺・イギリス公使館への浪士襲撃、生麦村(横浜市鶴見)でのイギリス人殺傷事件(文久2・1862年8月21日)など攘夷運動を先鋭化させます。 一方で、海外貿易の影響も現れ、物価の高騰、「浮浪の徒」の跋扈など社会不安が広がりました。
年表にすると僅か数行ですが、幕府と朝廷、尊皇攘夷派間の大きな政治的な動きの中で、「皇女和宮の降嫁」が行われます。大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されて、安藤信正・久世広周(ひろちか) が地位を回復し幕政を引き継いだところから急速に浮上しました。天皇の身内を徳川幕府・将軍の妻に迎えて、朝廷と幕府の緊密感をアッピール する。より尊王姿勢を明らかにして、幕府の権力回復をねらう。他ならぬ政略結婚ですが、公武合体策と呼ばれます。 これは、すでに、井伊直弼政権時代にその萌芽がありました。朝廷側の権力統制を目的としての降嫁で、意味合いを若干異にしますが、さまざまな人選や駆け引きによって、延び延びになっていました。 次期政権は、厳しい世情を背景に、時流と合わせた政権安定策として、仁孝(にんこう)天皇の第八皇女「和宮」と将軍「家茂」との婚姻を奏請しました。安政7年・万延元年(1860)4月のことでした。 幕府の申し込みを孝明天皇(=和宮の兄。和宮の父・仁孝天皇は和宮が生まれる前に亡くなった)は拒否しました。和宮にはすでに、有栖川宮 熾仁(ありすがわのみや たるひと)親王という婚約者があり、結婚を間近にしていました。 しかし、幕府はあきらめません。和宮の周辺に何かと工作をおこなったようです。一方、天皇の侍従を務めていた公卿・岩倉具視(ともみ)の説得もあって、万延元年(1860)6月20日、天皇は政治上の条件をつけて降嫁を認めました。 和宮が幼い身内への影響を察知して意を決めたとの話もあります。 降嫁の条件は、10年以内に攘夷を実行することでした。これが、あとあとまで幕府の足を引っ張ることになりま す。このような政治の舞台の中で、武蔵野の村々、特に狭山丘陵周辺の村ではさまざまな動きが起こります。 村の動き ごくごく、はしょって簡単に紹介しますが、中央の動きはほぼ同時に、回状・触や通達の形で村方にも伝わっています。たとえば、 ・安政元年(1854)異国船渡来につき取締方の回状 ・安政2年(1855)尾州様御鷹場御預村割帳 ・安政4年(1857)8月16日 アメリカ使節登城拝礼につき達書 ・安政6年(1859)6月 外国人居留地取締方など御触につき請書 と横浜を遠く離れた村々で直接開国の気配を知るようになります。一方で、10月には ・安政6年(1859)10月 肥糠値下げ要求嘆願書 幕末の江戸諸品相場の変動
(狭山市史通史編1p920) ・安政7年・万延元年(1860)桜田門外の変が起こり、和宮降嫁が勅許となります。 ・文久元年(1861)11月、柏原村(川越市)へ次のような達書がきました(狭山市史通史編1p905)。 1 このたびの和宮下向につき、村方に浪人を置かないこと。 和宮の道筋 10月20日 京都出発 江戸から勘定奉行、目付他1万人が京都に上がり、京都からは1万5千人が下って、和宮一行は千数百人ですが、総勢約2万5千人の大通行となったとされます。 このほかに沿道の警護が各藩に任され、直接警護に12藩、道中警護に29藩が動員されています。公武合体に反対する尊皇攘夷の志士たちの和宮奪還に備えたとされます。 こうして、1ヶ月にわたる警護の総数は延べ数十万人と目されています。 和宮は弘化3年(1846)閏5月10日生まれとされますから14〜5歳です。 将軍家茂は弘化3年閏5月24日生まれとされますから同じ年になります。京都への迎えの中に天璋院(てんしょういん=家茂の養母で家定の夫人)がいて、早くも嫁・姑の関係が危惧されます。
和宮助郷(すけごう) 例えば、1日の助郷の命令が出た場合、その日は、自分持ちの馬を引いて大宮宿、蕨宿に行き、翌日1日「運送」に従事し、その翌日、馬を引いて帰村するという仕組みでした。 費用は村持ちでした。 ・文久元年(1861)9月、中山道浦和宿年寄及び問屋名で狭山丘陵の周辺の村々に回状がきました。和宮下向による浦和宿の負担は、定助郷・加助郷・大助郷を総動員してもで人馬に不足する。浦和宿に「当分助郷」(臨時の奉仕)をすることを納得してもらいたい。というものでした。参考までに対象となった多摩の村 が東村山市史(通史編上巻p879)に紹介されています。 小川村(小平市)・小川新田(同)・中藤村(武蔵村山市)・蔵敷村(東大和市)・芋久保村(東大和市)・芋久保新田(立川市)・高木村(東大和市)・横田村(武蔵村山市)・久米川村・大沼田新田(小平市)・廻り田新田(同)・柳久保新田(東久留米市)・柳窪村(同)・下里村(同)・鈴木新田(小平市)でした。 ・文久元年(1861)9月、同様な文書で今度は大宮宿への出動依頼が来ました。対象となった多摩の村は 後ケ谷村(東大和市)・宅部村(同)・高木村(同)・奈良橋村(同)・清水村(同)・廻り田村・殿ケ谷村(瑞穂町)・箱根ケ崎村(同)・富士山村(同)・堀之内村(埼玉県所沢市)・矢寺村(同入間市)・石畑村(瑞穂町)・岸村(武蔵村山市)(以下文書破損につき不明)。 でした。 ・文久元年(1861)9月9日入間郡の村々に、幕府代官の奥書を着けた回状が上尾宿問屋から届けられました。 ・文久元年(1861)10月1日、
浦和宿・大宮宿から二度目の回状がきました。村役人は印鑑を持って10月8日にそれぞれの宿に出頭して、請書(奉仕を承諾したとの書類)を出せというものでした。宛先は でした。こうしてみると、武蔵野のほとんどの村が何らかの宿の奉仕にかり出されたことがわかります。 村々はそれぞれ集まって対策を練ったようで、助郷免除、割引嘆願が出されます。しかし、相次いで動員要請が届き、助郷免除要請は拒否されました。どうしようもなく、へとへとになって 押しつけ義務を果たしたようです。大宮宿の場合 最初の頃は、各村とも村高100石につき人足3名、3本のたいまつを出したようです。それが日がたつにつれ増加し この勤労奉仕にかかった費用は、村人たちが負担しました。東村山市史に「廻り田村」の例が紹介されています。 通行止め 幕府の威信をかけた行事であることから、和宮一行の通行中は前後3日間、中山道はもちろん脇往還に至るまで一般人の通行は禁止とされました。関東取締出約が回村し、道筋の家は窓を覆うこと、道筋の清掃などが命ぜられました。(続徳川実紀) 中山道から遠く離れた「青梅村」にも、村自体が「宿」であるにも関わらず、臨時の助郷の通知がきました。 文久元年(1861)9月、上尾宿から、青梅地方各村の村高と人別調書の差し出し要請でした。代表者が上尾宿に出かけ、「先例もないことなのでご勘弁を」と願いますが聞き届けられません。
やむなく、村では人馬を差し出すことはしないでお金で解決したことが知られます。17か村が責任を持って 『本市域内はその道筋からはるかに遠く、関係なさそうに思えるのだが、厳重な警備は本市域にも及ぴ、これまた大変な出費がなされていたようで、つぎの小曾木・小布市の「市川家日記」(『青梅市史史料集』第十号)の中にもみられるのである。
「十一月、和宮様御下向に付、御領分大岡様(当時、南小曾木村下分は岩槻の大岡領であった)より仰せに付、当村に見張りを立て、通行差留に極り、四日より水穴(みどあな)清兵衛隠宅見立てに相成り、大工人足等これあり候。五日、村中道普請。七日に御代官宮本源助様上下八人御出でなされ、役宅に御着成される。八日に四ヶ村御廻村これあり、十日より見張場へ御出なされ、十一日より通行留。十五日迄にて相済む。十七日朝、御返り成され候。右一件に付、諸入用十七両相掛り、是を四ヶ村割合に相成る」。』(青梅市史 上巻 p465) であったことが綴られています。 公武合体の瓦解 和宮の犠牲にもかかわらず、公武合体は崩れます。和宮降嫁の条件である、「10年以内に攘夷の実行」を迫る空気が日に日に高まります。公武合体派の老中安藤信正が文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外で、水戸の尊攘激派浪士に襲撃されました。 和宮降嫁への怒り、幕府の開国路線に疑問を持つ尊攘派の反発が表面に出てきました。武蔵野の村でも早くもその動きを伝えます。 「関東に於ては安藤対馬守殿速二退役仰せ付けられ御座なく候ては人心潰乱変乱の基と相成るべき哉に存じ奉り候」 文久2年4月15日の町谷村(所沢市)の「御用書留」に挟まれた資料の一つで、全9箇条の建白書の写しとされます(所沢市史上p816)。安藤信正の退役がなければ人心潰乱変乱の基となると云い、「異人の御処置天下の公論を以て永世貫徹・・・」としています。武蔵野の村の長には、このような建白書に興味を持つ、あるいは関心を寄せる人がいました。安藤信正は4月11日老中を罷免されます。
東海道川崎宿助郷 将軍家茂は元治元年・慶応元年(1864)5月16日 第二次長州征伐のため大坂へ赴 きます。砂川村(立川市)は出立に先だって5月4日次のような命令を受け、承った旨の請け書を提出しました。
奉差上 御請書之事
武蔵野不穏
慶応2年(1866)将軍家茂が大阪で病を養い、7月20日に没しますが、その頃、武蔵野の村々には、生活維持のための不穏な空気が充満していました。
川越藩は打ち壊しの蜂起に発展することを恐れて藩の管理米を払い下げて、妥結を図りました。 はっきりと「世ならし」を宣言し、その根元を横浜の生糸売買として目を向けています。この年、江戸近郊ではこの種の「不穏」がいくつも起きました。そうした中で、維新が進められます。 官軍の東征
和宮の苦衷はいかばかりかと歴史を離れて胸を打ちますが、倒幕運動は激しさを増して、結婚後落ち着く間もなく、家茂は上洛を繰り返し、ついに慶応2年(1866)7月20日、大阪で没します。慶応4年には新政府が慶喜追討の命を出し、和宮は将軍慶喜の助命を嘆願する立場になります。そして官軍の東征が始まります。率いる大総督は和宮のかっての婚約者有栖川宮熾仁でした。 「宮さん 宮さん お馬の前に ひらひらするのは 何じゃいな・・・」 武蔵野の農民たちはこの囃子をどのように受け止めていたのでしょうか?
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