武蔵野の森林
(大正初年)

大正初年(1920年代)、武蔵野には豊かな森林がありました。
現在の東京都区内でも、高井戸付近は四谷丸太、目黒地方は孟宗竹、 駒沢村は栗。

近郊の村々のクヌギ(薪材)、農家と街道の大欅
氷川村の正月雑煮用の白箸

などなど、産地が決まっていたようです。テスト


 100年前の武蔵野はどのような姿をしていたのか、興味に駆られて、古雑誌を手当たり次第繰っています。大正9年(1920年)12月10日発行の「武蔵野」第三巻第三号 p18(発行所=武蔵野会、編集兼発行者=鳥居龍蔵)に、林学博士 白澤保美氏が、「武蔵野の森林並其特徴」と題して、論文を寄稿しています。貴重な資料として、ご紹介します(一部要約)。

武蔵野 第三巻 第三号

 「武蔵野の森林並びにその特徴」

 武蔵野の範囲 武蔵野は廣義には、利根川、荒川、その支流及び多摩川の流域に属する地質学上、第四紀に属する平野を総称するものであろうが、狭義の武蔵野、即ち東京を中心として、これに接続する平野、即ち、多摩川及び荒川の支流入間川などの流域に属する地方の森林並びにその特色及び産物について説明する。

 森林の滅亡 多くの地方で、太古は森林で被われていた。しかし、人口の増加に伴う建築木材の需要と農産物育成のために、これらの天然林は次第に伐採され、或いは、開拓のためや不慮の原因によって焼かれて、初代の森林は滅亡した。

 このようなことが数度、或いは十数度反復されて、地味はやせて、従前は立派な森林、種々雑多な林木が繁茂したところではあっても、わずかにその地味に堪えられるある種類の樹木だけが繁茂するに至った。・・・

 武蔵野においては、杉、松、櫟(くぬぎ)等34種に過ぎなくなった。いつ頃からこのようになったのかは確的に証明することはできない。しかし、日本武尊東征(やまとたけるとうせい)の時代には、既に鬱蒼たる森林は少なくて、大部分は原野または現今のような陽樹の森林になったように想像される。

 中央線沿線の森林 汽車で新宿を発ち八王子に向かう時、中野、荻窪、吉祥寺付近に至る間は、左右の田畠の間、または人家の周囲など、諸処に立派な杉林の点在するのを見る。境付近に至る時は、情況一変してこれらの杉林は減少し、あるいはあっても生長が遙かに前者に及ばない。

 そして、平野や丘陵には「クヌギ」「ナラ」「ソロ」「シデ」「アカマツ」などの混淆林を見る。しかも、これらの林木の生長はよくなく、殊に赤松は屈曲短矮で、これを東京の植木屋に移すときは、とても高価を示すが、林木としては価値が少ない。

 多摩川を越えて八王子に向かい、または青梅より上流の山岳地帯に属する地方には・・・天然生林木の種類も多く、殊に杉の生長はとても良い。これすなわち、武蔵野における著名なる森林地方にして杉の名産地である。

 武蔵野の杉材 武蔵野の森林地方より東京に供給する杉材には3種ある。四谷丸太、西川丸太、青梅丸太である。

 四谷丸太 の産地は高井戸付近を主とする。特徴は真っ直ぐ、円柱状で佳宅の「化粧げた」として最も珍重される。甚だ高価である。その間伐材は(或は主伐材も)足場丸太として用途が多い。

 大都府近郊の平野で、人家の周囲に森林を作って、木材の生産を行うようなことは、日本では他の地方に見ることができない。これは武藏野の特色である。

 四谷丸太の森林は人家の煙の見える所でないと、立派な林木を生産することができないと云う。これは人家の周囲であるため、保護や手入がよく行届く結果であろう。

 注 文化9年(1812)1月17日、下高井戸を旅した村尾嘉陵(むらおかりょう)は「府中道の記」で次のように記している。

 『下高井戸(杉並区下高井戸)辺りの道端には、数丈の杉の丸太を建て、上の方に設えた大きな三方に丸餅などを載せたり、その他思い思いの造りものが何ヶ所も建っている。地元の人に聞くと、道祖神を祀る御柱だという。年の初めにはいつもこうして祀るのだという。

 この辺りは鳶や烏はおろか小鳥の声さえしないような所だ。ここから上北沢(世田谷区上北沢)にかけて、柱の材料となる杉林が何ヶ所も見える。みな下枝を切り揃えてある。宿場には寺が二、三宇と、不動尊があって、道の右に江戸に配水する上水が流れている。・・・』(村尾嘉陵 阿部孝嗣訳 江戸近郊ウオーク 小学館 1999年 p11)

 以後、ずっと大正時代まで、この状況が続いていたことになる。

 西川丸太 は入間川上流の名粟地方の産である。東京の千住まで筏で下って、そこが取引所である。
 青梅丸太 は多摩川(六郷川)を下して海路東京の各地に移入する。

 両者共に丸太と称するが、単に丸太のみではない。(以下原文)

 『多くは三寸四寸五寸等の角材にして、東京にて安家屋の建築に用ゐらる、
 西川材は木目粗く白太多くして材質青梅材に劣る。是は林木の生長の迅速なる結果にして、材質こ於ては遜色あるも、比較的低き年次こ於て伐採し得らるを以て此点に於て生産上の利益あり。

 青梅材は木目蜜にして「シマリ」あり、赤味も亦多きを以て価格稍高なるもの林地に於ける生長は前者に劣るを以て此点は不利なり、之を要するに是等の相違は山地の新と古とによるものにして、即ち名粟地方は新しく青梅地方は古き故なり。

 名栗丸太と称する栗材を六角に波形に剥りたる棒材あり、是は京都府下北桑田郡を名産地となす、此名の起原は同郡弓削村杣職鵜子久兵衛なるもの初めて之を製作して売出し、「九兵衛の有名なる栗丸太」と謂ふ語を其甥源右衛門が縮小して「名栗丸太」とせり、人或は之を混ずるを以て注意の爲特に之を掲げり。

 縁起が悪き様にて、縁起の良き施餓鬼法曾に用ふる塔婆は、西多摩郡大久野村産を著名とす。材は「モミ」「カラマッ」「ツガ」「ヒノキ」等を用ふるも、其色白きを上等とし、殊に大久野村附近の樅(もみ)材を優等品とす、故に同地方にては此目的に供する爲、特に樅林を仕立つるものあり、是亦武藏野森林産物の特異のものなり。』

松と雑木

 飾松即ち門松三階松 は上房松と称し、昔は共地方より主に産したるものならんも、現今の産地は唯に上房にあらす、下総松戸、野田、七福村、東金、野井、室子花等なり。常陸は松の産地なるも飾松は少く其素性悪し、近年北相馬郡より多少之を産するに至れり。

 飾松の樹種は主に男松にして、又鎌切は女松なりとす。

 輪送地 千葉縣産のものは、其荷主が自ら舟に積みて、神田川河岸即ち萬世橋、和泉橋附近の河岸に陸揚す、共価格は毎年凡五六萬圓に蓬す。

 種類分類 一対を一門と称し、小は長六尺、中は八尺〜九尺、大は十尺、最大十五尺(目通経三四寸)枝下六尺以上のものを大門と称す。荷造六尺物は六本乃至八本、九尺物は二門一丈乃至二間物は一門を以て一束と爲し、又十五尺物は一本一束と爲す、又鎌刈は三四十本一束と爲す。

 償格(オロシ値) 六尺物 一門参拾銭、九尺〜一丈一門五六拾銭、二間物一本八拾銭、十五尺物一本一圓五拾銭。残物の処分は多くは湯屋に売るものとす、此の時は一把五六銭に過ぎす。

 正月の雑煮用白箸 西多摩郡氷川村の産にして近時著名となれり、材料は「ミヅキ」を用ふ。

 薪材 東京といふ大都會近郊の平野に「クヌギ」の薪材を作るも亦武藏野の特色なり(大阪、京都附近に於ても亦櫟材を作るも是は丘陵山岳にして之を林地として取扱ふ可き所に限れり)

(けやき)と榎(えのき)

 喬大なる「ケヤキ」の並樹を住家の周囲に仕立てるは、亦武藏野に於ける村落の特色にして、遠方より此樹の森を望む所には必す村落あり、即武藏野の村落と「ケヤキ」並樹とは必す離るべからざるものなり。


五日市街道欅並木

 近代の半面観察の衛生学者は之を以て非衛生的と為すも、広漠たる平野の間に於て寒風及砂塵を防ぎ、佳宅は勿諭農作物の被害を免るには之亦必要欠くべからざるものにして、加ふるに殺風景なる平野の風致を良くし、又、一朝不時の場合に於て之を伐りて急を免るの所謂備荒貯蓄となるものなり。旧幕時代に於ては江戸の橋梁材を供給せし爲、特に之が植樹を奨働せりと云ふ。夫れ或は然らん。

 「けやき」並樹の著名なるものは府中にあり、之は他に類例少き見事なるものなれば、地方の人は之が保存に充分の注意を爲さんことを希望す、雑子ヶ谷鬼子母神境内の並樹も亦之に次ぎて異数のものなり。


府中大国魂神社大欅

 旧幕時代に植付たる一里塚の榎(えのき)にして、今尚生存すするものは王子飛鳥山に在り、一里塚に此樹を植えたる起原として、慶長(慶長九年は二代特軍秀忠公の時)九年二月四日、江戸より諸方への道中筋一里塚を築しめらる、


北区一里塚

 大久保石見守(長安)是を奉行、同年五月下旬悉く出來、大久保石見守一里塚の上に何にても木を植え候ては如何と被相伺候へば一段可然との仰に付 何木を植させ可申と重て被相窺候処よい木を植させ候様にと仰に候を、石見守は榎木を植えよとの仰と聞違精をして榎木を植させ候とあり………(落穂集、東京市稿市街編第二、九百五十頁)

 或は松木を可植伺出の処、よの木を植えよの仰に、えの木の聞違えて之を植えたりとの説もあり。又或は曰く、土用の炎天に往來の者は難義する爲、夏木を植えよとの台命あり、吏員之を解して日く、夏木なるもの未だ其實物を知らす、蓋し木扁に夏は即ち榎ならんとて之を植えたりと。

 榎木を植えたる來歴は上の如しとするも、街道の樹として武藏野の如き所に比較的壽命永く風害に強く、且落葉樹を選択したるは洵(じゅん=まこと)に當代の卓見と謂はざるベからず。

 飯能の松林も亦武藏野に於ける著名の森林にして、松の良材を産す。

 佐倉炭も亦此地方に於ける著名の産物にして、昔は下総の旧佐倉領を産地として此名ありたるも、今は常陸下野等に移り、此地方より多く産す。炭材は櫟(くぬぎ)を用ゐ此爲に特に林を作る、火着速く且急に燃ゆる有様は能く東京人の氣質に類して重宝視せらる。

日黒の筍と栗

 目黒地方は孟宗竹筍(たけのこ)の名産地とせらる、此竹は固と武藏野産にあらず、距今百三十一年寛政元年、幕府廻漕役たる山路治郎兵衛なる者薩摩屋敷より其一本を貰受け平塚村の別邸に植え、筍の培養を爲したるか嚆矢(こうし)なりと云ふ、而して現今は名産地と称せらる、目黒村内にては之を栽培するもの甚だ少く、多くは 碑衾 戸越 駒澤村等に在り

 (西京附近に於ても亦此種の筍を作るも、其培養方法は全く異れり、味に就て各地方の人は共に其地の産を以て美なるを称せり、吾輩は之か比較を爲さんと欲し、京都の友人に同地の友人は吾輩に毎年相互に之を贈答するも友人は京都産の良味を称し、吾輩は当地産の美味を感し、其何れか是なるを知らず、是は隻方共に遠方より輸送する爲何れも共真味を味ふこと能はざるが爲ならん)

 目黒附近にては、又、栗を産すると称するも、今は殆んと之を産せす、而して同地に於て東京市内の客人を相手に店前に売るものは、皆神田の市場より仕入れたるものなり。是特別の例なるも、然れとも亦吉詳寺境附近にては栗を栽培するもの多し。

 名所の木としては小金井の櫻あり、又、隅田川の櫻、荒川土堤の櫻は無惨なる時代の文明の爲に殆んと廃滅に帰せり、武藏野の天然植物の産地として、吾輩の書生時代には東京近傍に於ては、道灌山中野の傍大宮八幡ありと雖(いえど)も、是亦同様殆んとその跡を絶たんとせり。』

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玉川上水の桜

 貴重な論文を引用させて頂きました。これらの地域を図に落とすと、現在では信じられない、大正の頃の武蔵野の林の姿が鮮やかに浮かんできます。今後、少しずつ地域史でその姿を追ってみたいと考えています。(2001,10,2,記)

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