晶子上京・「みだれ髪」刊行
明治34年4月〜9月
(東京府豊多摩郡渋谷村 中渋谷272番地)

「新詩社」をつくり、「明星」を発刊、歌の世界に新風を吹き込んだ、時の人鉄幹に
文壇照魔鏡事件が起こり、
妻・林瀧野が子供「萃」(つとむ)をつれて故郷へ帰ります。

借金を抱え、家財の競売に追われる中で、鉄幹は心機一転を図り、転居しました。
東京府下渋谷村中渋谷272番地です。

新しい地には
鳳晶子が上京し、「みだれ髪」が発行され
明星は新しいロマンチシズムの拠点(伊藤整)となります。

しかし、鉄幹にとっても晶子にとっても
この地は新たな出発であっただけに、多くの苦痛の重なるところでした。

転居の前後

 明治34年(1901)4月9日、鉄幹は麹町区上六番町45番地の家から、親の離婚 の命により故郷・徳島に帰る妻・瀧野と長男「萃」(つとむ)を送り出します。 『寛は私が帰る前には、新橋まで送ってきて、目に涙を浮かべていました。これを見ると私もホロリとしました。』(明治の青春 p78) 鉄幹は次のように詠んでいます。

   きよき乳や 児のいさましき 朝啼きや さいへさびしき 別れの車

 その後、鉄幹は「凡そ二十日も麹町のその家にいて、移転先を探し」(明治の青春 p77)て、4月末、単独で、ここ中渋谷272番地に転居してきました。 麹町の家の家財道具は、「5月11日に競売にかけられる」通知を受けているようなので、それまでには明け渡さなくてはならなかった事情があったようです。正富汪洋は次のように書いています。

 『四月十八日づけの滝野あての寛の書面には、「御無事にお着きなされ候事と奉存候。当方 いよいよ 来る十一日に 競売の通知まゐり 何もかも売られるのは 致し方なく候。』(明治の青春 p93)

 文壇照魔鏡事件が重なり、山川登美子は嫁ぎ、借金と競売に追われる、最低の中での転居ですが、そこには、次への転換に向けて、内心、沸々と燃えるもえるものを育んでいたと思われます。

鉄幹は渋谷村に転居しました。
渋谷村では1,2,3の順序で移り住んでいますが、最初は1の中渋谷272番地でした。
明治34年頃を復元
4は点線がマークシティ、番号の辺りが京王井の頭線渋谷駅西口
渋谷停車場は現在より南にありました。

畑中の家

 明治34年4月末、鉄幹が孤独の中に転居した中渋谷272番地の家は 、当時の渋谷停車場から、田や畑の中 をたどって道玄坂の近くにありました。当時、道玄坂にあった憲兵分隊に接する家でした。正富汪洋の案内に従いますと

 『三軒並んで畑中にあった、その中の家に移ったので、この三軒はいずれも地所は百坪程で、八畳、六畳、六畳、三畳、玄関(三畳)合計五間で、十二円であったと思う。 ・・・

 位置は、道玄坂を上ると左側に、今では「渋谷東宝劇場」が建っている。そこを左へ横に入る道がある。その道を入ると直ぐ左、(現在、大和田三十一)である。晶子が、はじめて来たのはこの借家へである。

 その.頃は、坂を隔てて渋谷川の支流が、今あの大成堂書店のところあたりを流れて、道玄坂の最低部を流れる渋谷川に合流していた。坂上に和田義盛の敗戦残党道玄が岩窟に籠り、賊となって旅人の通行を見た物見松の名ごりの松が並んで居り渋谷駅のあたりは水田で黄色の水が光って物さびしく夜は提灯をさげて出る暗さであった。』(正富汪洋(まさとみ おうよう)「明治の青春」p75〜76)

 となります。玉川電気鉄道(現在の京王・井の頭線)が通ったのは、明治40年で、その渋谷駅や施設が出来てからは一挙に現在の渋谷駅周辺も市街化が進んだようですが、それまでは、渋谷停車場から道玄坂までは「水田で黄色の水が光って」いたようです。

 この家の位置は、周囲の景観は全く様相が異なりますが追うことができます。JR渋谷駅(ハチ公口)から「109」の建物を右に見て道玄坂の左の歩道を登ります。

そのまま登るとイワキ眼鏡の看板が目に付きます。(距離は人混みで実感できません)

この角を曲がると、通称「大和田横丁」です。

先がふさがれているような感じです。左側の歩道を進みます。

渋谷区教育委員会の建てた「東京新詩社」の表示柱が立っています。

渋谷区教育委員会のポールの奥に、かっては、路地があって
そこに3軒の家が並んでいたようです。

 『・・・其処に、似た建物、各、百坪で、三軒、家と家との間、二間半程という間隔で建てられていた その中の家を寛が選んだので、三軒並立の一軒は、寛が移って来た時から、空家。「七月末に隣家へ栗島氏が移つて来た。家賃は十一円に下げてくれた」と寛から、周防の私(=瀧野)に通知して来ている。』(正富汪洋(まさとみ おうよう)「明治の青春」p86) 

 『かつて憲兵隊の幹部用の住宅であっただけに、いずれも百坪の敷地に建坪二十二、三坪というゆったりとした構えで、入口には門も付いていて、そこに小さく「東京新詩社」という表札がかかげられていた。

 家は玄関を入るとまず三畳の土間があり、その先に三畳の控えの間が二つ並び、その奥に採光の悪い六畳の居間があった。さらに奥には縁側で囲まれた六畳と八畳間が並び、台所は六畳分の板の間で煙出しの天窓がついていて、半坪の土間と三尺四方の流しがあった。また門を入ってすぐのところに大きな柿の木があり、その伸びきった枝が、家に出入りする人々の頭や肩に触れることもあった。・・・・家賃は十三円であった。』(渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」文春文庫上p284)

 また、「ここ蚊が多くノミが多く、夏になるほどイヤナ処に御座候」ということもあったようです。(明治の青春 p94)  

鉄幹手紙を書く

 麹町から中渋谷に転居る直前、また、転居して間もなく、孤独な鉄幹は、瀧野、晶子宛にせっせと手紙を書いています。

  瀧野宛て 4月13日

 『寛が同月十三日夜十二時に認めて寄せた手紙には、「君、われのようなもののために、いろいろの苦労、心痛まことにくうれしく、かたじけなく心のうちにて男泣きに泣き居り候」ともいい、「勿休なく候かな」と謝辞も書いている。

 また「君なつかしく 恋しく候 秋までは、坊やのためにそこにゐて、秋になれば上り玉へ、必ず女子大学へ、入学の準備し玉へ、人は、草や木のやうに朽ちてはならず候」「われ破産宣告うけて、さて汽車にてかよはれる処へ婆やと一処にうつる積りに候、せまき処、せまき処へうつる積りに候、先月の屋賃まだ払へず  こまりをり候」「かの人(江註、晶子)もまた我とは添はれぬ家庭の人に候、一生ひとり身の我を恋ひて恋ひてとなり、」「とみ子君も女子大学に入学するよしに候。」

 「明星五月五日ごろに出したくとおもひ候、小遣もなき今日このごろ、貧乏な詩人に候かな、君、いま心配してゐ玉ふべし 気の毒に候。」「質やのかよひ知れず候、お知らせ下され度候。われうまく行かば  五月の中頃に三田尻まであいひにまゐるべし 一処に宮嶋へでも行きてなぐさめあひたく候、そのとき大阪にて、あき子、まさ子にも逢ひたく候。」「やさしき君恋しき君さらば」・・・』(正富汪洋(まさとみ おうよう)「明治の青春」p92)

 注意深く読むと、当時、鉄幹の置かれていた様子ばかりでなく、鳳晶子や山川登美子に関することも読み取れて興味を深めます。この時点での「とみ子君も女子大学に入学するよしに候。」は、 山川登美子は結婚したばかりであり、何を意味するのでしょうか?

 晶子宛て

 3月29日、『粟田のかりね しのばれ候、あひたく候、四月の末とは遠き遠き候ことに候かな』と、書き送って、晶子の上京を促して 以来、頻繁に手紙の交換がされたようです。 晶子の親は、番頭の定七を婿にと内々決めている気配で、晶子は鉄幹への思慕、瀧野への思いなどが重なって逡巡した日々が続いた様子が伝えられます。

 妹の志知里の話では、縁側で考え込む晶子が発狂するのではないかと母親が心配したとされます。後に、晶子は

  ふた親いますわが家を 捨てむとすなる前の宵 しづかに更けくる刻々の 時計の音ぞ凍りたる

と詠んでいます。(芸苑)

 5月3日、鉄幹は書きます。

 『ここ、君のあて玉ひしごとく、居間は南むき はた 東むきに候。門は北むき。八畳、六畳、六畳、三畳、三畳、婆と二人にはひろすぎ候』

 具体的に間取りを伝えて、鉄幹が京都に迎に行き、そのまま上京する具体的な打ち合わせもすんだようです。ところが、突然、瀧野が明治34年(1901)5月16日、「萃」 をつれて上京してきます。

瀧野上京

 鉄幹の手紙を受けて瀧野は再度上京してきました。 故郷での周囲の目、丁度、開校されようとしていた成瀬仁蔵創立・日本女子大学への入学希望などがあったようです。具体的には正富汪洋が次のように瀧野から聞き取っています。

 『さて郷里に帰った滝野は、地方でやや崇められた家系であるのに、その頃は「ててなし子」を産んだといふことは不名誉とせられた。

 父母が許して結婚した寛であっても、離別すれば、「私生児」というその頃、いやがられた名を、子に負わせねばならず、田舎のこととて、寛から、毎日のようにハガキや手紙で、「恋しく候」といふ文句を書いてくるのを、郵便配達夫も読むし、父母も寛という人の性格は変っていると冷笑するし、近所の人の眼も、前年と変った心地がするから、東京に出て、一軒家を借りて、同郷の女友達と同居して、学校へも通いたく、寛に  この旨を言いやると、お心持はよくわかる、堺の晶子も同情するといって居る、お出でなさいと勧めるので、五月、中渋谷の寛の家に来た。 』(明治の青春 p79)

 しかし、

 『ところが、また脚気がわるくなり、子の消化不良病も再発した。適当な借家も得られない。医者は、故郷の涼しいところで夏を過されるが何より御両人によいという、そこで健康には何もかえられぬので再び生家に帰った。』(明治の青春 p79)

 とのことで、6月6日、中渋谷の家を後にします。鉄幹は新橋駅まで送りました。

晶子上京

 晶子は親を捨てること、瀧野との関係、・・・などなど、散々迷ったようですが、上京を決めました。しかし、なかなか単純ではなかったようです。丁度、瀧野親子の上京 と重なって、鉄幹は、晶子に上京の時期を遅らせるように連絡しています。それを受け、6月1日晶子から鉄幹宛に次のような手紙が出されています。

 「あすにならば、なほくるしくなり候ふべし。よくもわれ、かくて、二月三月四月五月あられしこと。君、まこと 三日とは あさつてに候。それに五日にまではなり候とも、君、われ くるしく くるしく候。一日もはやく。まこと くるしくてくるしくて。……つよき、よわきなど、そのやうのこと しらず候。あひまつらるればよいのに候。一週間も のびむなどのことあらば、われよく魂 たえべしやとまでおもふ程、まして神とは云はじ、いのり いのりまつり候」

 鉄幹は京都まで迎に行くことになっていたようですが、それが叶わず、晶子は母親の暗黙の承諾を得ただけで、明治34年6月5日、夜行列車で一人京都を発ち、6日、 鉄幹のもとへ出奔してきました。

  狂ひの子 われに焔(ほのお)の 翅(はね)かろき 百三十里 あわただしの旅

 鉄幹は新橋駅まで迎えに出たようです。その日、瀧野親子と晶子が入れ替えになった。それにもかかわらず、鉄幹は瀧野に、14日に晶子が上京したと知らせている。とか、6月10日 に晶子は上京した、瀧野は13日に帰郷した。瀧野が居る間、晶子は隣の栗島狭衣宅に預けられた(渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ に」 文春文庫上p285)。

 など、晶子の上京をめぐっていろいろ説があります。しかし、何があっても、この中渋谷272番地の家で、鉄幹と晶子の活動が開始され 、新詩社は最盛期へと活気を呈し、歌の革新の坩堝となったことは、まず、お祝いすべきことでしょう。晶子の出奔に対し、鉄幹は

  武蔵野に とる手たよげの 草月夜(くさづきよ) かくてもつよく 京を出できや (明星9月号)

 と詠んでいます。武蔵野がこのように詠まれるとは面白いものです。 渋谷駅の付近が水田であり、道玄坂に松林があり、柿の木や栗の木が植わる光景を含んでいるのでしょうが、今では想像も出来ません。

晶子不安定

 思い切った上京でしたが、晶子は複雑なやり切れない思いで過ごしたようです。 鉄幹は文壇照魔鏡対応に追われ、明星の発行への資金繰りに頭を悩ませています。晶子には、歌を詠みながら、当面、婆やの問題がありました。後に晶子が書いた小説「親子」には

 『またしても七夫に先妻の噂をする、紺青色の目の女とともに日を暮す苦痛に堪えがたくなつた。男にうとまれまいとしている弱い女は死ぬ思ひをして、婆やを帰すことを七夫に嘆願した』 (晶子小説集 p187)

 ここに云う「七尾」は鉄幹、「弱い女」は晶子です。事実、婆やは鉄幹と晶子の一部始終を瀧野に手紙で書き送っています。

 『婆やから滝野への手紙によれば、奥様をおくって新橋駅に行かれた且那様は、その日、顔に髪をふり乱した、その髪の間から眼が光っている、一見、おばけのような女を、物好きにも伴れてこられたと報じた。この婆やは一目見た折から晶子には調和し難い或ものを直感したらしく、晶子には、始終内心から服従しなかった。 』(正富汪洋「明治の青春」p127)

 などで、近所にも鉄幹と晶子のプライバシーを話したようです。加えて、借金取りと競売に追われる貧困さが、大店育ちの無防備の晶子には、こたえたのではないでしょうか。菅沼宗四郎(鉄幹・晶子の弟子)が「鉄幹と晶子」(p10)で、

 『晶子先生が、良人はとても貧乏生活をして來たので、私と結婚した當時、私が塩魚を一尾焼いてゐると、あつ、お前はまるのままで焼くのか、半分焼けばよいぢやないか、私はそんな贅沢をしたことはないと云はれた。』

と紹介しています。しかし、それらは、まだ耐えられたとしても、更につらかったのは、鉄幹が止むに止まれず、瀧野の実家に借金の申し入れをすること だったのではないかと思われます。小説「親子」には

 『お浜が親兄弟の停(と)めるのも聞かずに自分を頼つてきた心がさすがに七夫を動かしたのである。二、三の女友に文を書くことはなく なった。然し別れた人へ書く文だけは怠(おこた)らずに居る』(晶子小説集 p187)

  とのくだりがあります。さらに、晶子の実家からは帰宅を促す使者が来たようです。

 『婆やはまた、晶子の生家からの追手がかかって、何でも番頭さんか店員でも上の方らしい人がきたので旦那様も大あわてなさった。私の方が、平静なので、三軒並んで建てた一方の空家に晶子をつれて行き、押入に新聞紙を敷き、隠したとも知らせてきた。 』(正富汪洋「明治の青春」p129)

 様々に伝えられるこの時期の生活に、よくも晶子は耐え たものと心が痛みます。

新詩社賑わう

 待望の明星12号が明治34年5月25日、発行されました。文壇照魔鏡によって大きな影響を受けた こともあり、3月23日の11号から1ヶ月遅れでした。高村光太郎が寄稿し、新しく、玉野花子、林のぶ子、増田雅子が登場しました。

 山川登美子が寄稿を止めた後であり、いわば四面楚歌に置かれた鉄幹が、唇を噛んで力を注いだことがわかります。竹西寛子は「山川登美子 明星の歌人」で次のように記しています。

 『「明星」の刊行は、鉄幹の遊ぴでもなければ道楽でもなかった。他人の言動を批判していればそれが己れの存在の主張になるような暢気な仕事ではなかった。批判するよりも先に批判されるものをつくって世に差し出す。詩歌のつくりにも、雑誌のつくりにも、内からこみ上げてくるものが確かにあり、それにつき動かされている鉄幹の自負と誇りが、「明星」という雑誌の不思議な活力になっている。

 鉄幹は、本気で「明星」を出し続けた。そうしなければならなかった。「明星」は、不発の混濁を大きく抱えこみながら、それ自体が鉄幹の存在の主張とも言い得る一切の言い訳を禁じられた独創の行為であった。』(p112)

 6月16日、新詩社の茶話会が、この家で開かれました。十数名の同人が集まり、その席で、晶子ははじめて紹介されたようです。晶子の同居に嫌がらせや反対もあったようですが、ようよう自分の占める場所が定まってきて、晶子は鉄幹の主導のもとに歌集の刊行に取りかかります。

「みだれ髪」刊行

 題名は「みだれ髪」となりました。当初、明治34年7月刊行と予告されていましたが、8月15日(初版 )になりました。発行所・新詩社と伊藤文友館の共版、著作者・鳳昌(晶の誤植)子、装丁、カット・藤島武二、三六版変形、紙装、収載された歌399首、本文13 8頁、35銭でした。

 次のような6章からなっています。

 臙脂紫(えんじむらさき)       98首
 蓮の花船            76首
 白百合             36首
 はたち妻            87首
 舞 姫             22首
 春 思             80首

 『みだれ髪』という題名の由来は、鉄幹が晶子のことを既に詠んでいた

  秋かぜに ふさはしき名を まゐらせむ そぞろ心の  乱れ髪の君(『明星』8号)
  あな寒むと たださりげなく 云ひさして 我を見ざりし 乱れ髪の君(『明星』9号)

 があり、新詩社でも晶子のことを「みだれ髪の君」とよんでいたところから来たものとされます。第一歌集のトップは

 臙脂紫(えんじむらさき)の章

  夜の帳(ちょう)に ささめき尽きし 星の今を 下界の人の 鬢(びん)のほつれよ

でした。今もって難解の歌の権化とされています。鉄幹は「鉄幹歌話」に次のように解釈しています。『天上の夜の帳の歓語が蜜のごとくあまく、円満であったに引き替えて、下界に降された星の子のわれは、今を恋の得がたきに痩せて、色なき鬢のいかに乱れ多きかを見給え。』 

 その他各章からあげてみますと臙脂紫では

  髪五尺 ときなば水に やはらかき 少女ごころは 秘めて放たじ
  清水(きよみず)へ 祇園(ぎおん)をよぎる 桜月夜(さくらづきよ) こよひ逢ふ人 みなうつくしき
  やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
  乳ぶさおさへ 神秘のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅(くれない)ぞ濃き

 蓮の花船の章

  さはいえど 君が昨日(きのふ)の 恋がたり ひだり枕の 切なき夜半よ
  こころみに わかき唇 ふれて見れば 冷かなる よしら蓮の露

 白百合の章

  月の夜の 蓮のおぼしま 君うつくし うら葉の御歌 わすれはせずよ
  三たりをば 世にうらぶれし はらからとわれ 先ず云ひぬ 西の京の宿

 はたち妻の章

  君さらば 巫山(ふざん)の春の ひと夜妻 またの世までは 忘れゐたまへ
  下京や 紅屋が 門をくぐりたる 男かわゆし 春の夜の月
  くろ髪の 千すじの髪の みだれ髪 かつおもひみだれ おもひみだるる

 舞姫の章

  くれなゐの 扇に惜しき 涙なりき 嵯峨のみぢか夜 暁(あけ)寒かりし
  あでひとの 御膝(みひざ)へおぞや おとしけり 行幸(みゆき)源氏の 巻絵の小櫛

 春思の章

   春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ
   かたちの子 春の子血の子 ほのほの子 いまを自在の 翅(はね)なからずや
   罪おほき 男こらせと 肌きよく 黒髪ながく つくられし我れ

など、きりがありません。気持ちの上でも、経済的にも、世間的にも傷つけられ通しの中、鉄幹・晶子の歌えの挑戦が続き、その主張が形となって社会に提示されました。田辺聖子「千すじの黒髪」は次のように称えます。

 『「みだれ髪」の、人に愛されるところは、私は千年来の短歌のかたちを踏まえつつ、そのふるきかたちを逆手にとって、中に新らしき酒を入れた所であると思う。ゆきつくして完成されきった五七五七七の上に立って――みがきぬかれ、歳月の試練に堪え抜いたその形をとって、晶子は、全くそれとは対蹠的な内容を拉して来た。』(文春文庫p259)

 そして、この時期の鉄幹・晶子について、思い切っての賛辞を贈っています。

 『「文壇照魔鏡」の「悪魔鐵幹」という評は、必ずしも事実無根ではないらしい、というささやきが波のように伝わっていた。寛と晶子は女たらしと色きちがいの一対のようにいわれ、石もて投げる人々が多かった。

 石つぷての中に、寛と晶子は立っていた。彼らによれば、歌と実人生は、そのまま合致していなければならぬのである。おのが生活を自我の解放に賭け、それゆえにこそ、歌も自我のままにうたいあげることが出来るのだった。文学上の主張と人生上の主張は重なりあっていた。心を野曝(のざらし)にしてうたいあげることこそ、「明星」の誇りで、挑戦であったのだ。』(同上 p261)

 石つぶては、今から考えると思いも及ばない、激しくひどいものでした。それらについては、別のページ『「みだれ髪」評』にまとめました。

 一仕事を成した鉄幹と晶子は、これまでの生活に区切りをつけます。婆やを、隣に引っ越してきた同人の栗島狭衣(さごろも)が、お産のために人を求めていることから、 栗島家に引き取って移ってもらうことになりました。部屋も家財道具も新しくし、また、同居という不自然な姿を解消し正式に結婚する必要がありました。

中渋谷382番地へ転居

 明治34(1901)年9月、鉄幹と晶子は、すぐ近くの高台、中渋谷382番地の借家へ転居 しました。先妻・瀧野とともに鉄幹が引きずってきている過去から解放され、生活の場を新しくしたかったのでしょう。

次の場は現在のマークシティをくぐった先にあります。

  現在の激しく人が行き交うこの家の跡に立って、ここに展開された鉄幹と晶子の生活と詩歌に対する挑戦を思う時、明治の改革者の揺るぎない信念と確信がいかに強いものであったのかと感動します。 (2004.12.15.記)

与謝野鉄幹と晶子目次へ

ホームページへ