晶子、寛の後を追う・ヨーロッパへの旅

明治44年(1911)11月8日、寛は横浜港からヨーロッパへと旅立ちました。
寛からはせっせと便りが届きます。

やっかいな「卑下自慢」から解放されたはずの晶子は

束の間に いたくも人の 衰ふる ことはり知りぬ 君に別れて
おのれこそ 旅ごごちすれ 一人居る 昼のはかなき 夜のあぢきなさ

の気分になり、おさまりがつきません。
ついに、自らもヨーロッパへ行くことを決めます。資金繰りと子供の世話の問題が大変でした。

資金繰り

 資金繰りは、明治45年2月8日付、大阪の小林天眠に宛てた晶子の手紙に

 『・・・・屏風は早速表具師に申しつけ候。二十五、六日に出来上るよしを申候。大阪へまゐりて何かとゆるりと御話いたさんと存じ候ひしが、その用がこちらの社にて片つきて候へば、えまゐらずなり残念に候。旅費は、
  日日新聞    千円
  実業之日本社三百円
 だけ今日のところにては約束が出来申し候。いかにかしてあとを三越の店にていだし貰はんと、その方便を二、三の人と相談いたし居るのに候。・・・』

 とありますから、寛の時と同じように「屏風」が続けられたようです。大変だったには違いないでしょうが、寛の時よりもスポンサーが多く、瀬沼茂樹は日本文壇史で

 『晶子は、寛の誘いに、シベリヤ経由、パリに発つために、洋行費はもちろん、留守宅の生活費について工面しなければならなかった。東京日日新聞杜、実業之日本社、或いは三越呉服店に交渉し、旅費の工面をした。鴎外に日比翁助を紹介してもらって、一千円の補助をうけたり、波多野承五郎が黙って五百円の贈与をしてくれたりした。三月に『新訳源氏物語』中巻を上梓し、五月に下巻の一の上梓と、予定通りに事を運び、残りの校正を鴎外に引受けてもらった・・・。』(21p109)

 としています。恐らく、資金よりももっと気がかりだったのが子供の養育ではなかったでしょうか。

子供の養育

 このとき、晶子には、光(11才)、秀(9才)、八峰と七瀬(双児の娘=5才)、麟(4才)、佐保子(3才・多摩の知人に預ける)、宇智子(満1才になったばかり)の7人の子供がいました(年齢はいずれも数え)。宇智子は明治44年2月22日生まれで、双子でしたが、難産で一児は死産でした。渡辺淳一「君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)」では

 『他の子達はともかく、この一番下の子だけは誰かに預けねばならないし、あと五人の子供の面倒を見てもらうためには、女中以外に、たしかに信用できる人を頼まなければならない。

 晶子はまず鳳家の縁戚の者を探したが適当な人はなく、知人にも見当たらない。迷った末、最後に白羽の矢が立ったのは、寛の妹の静子であった。このころ静子は実兄の赤松照憧が経営していた徳山女学校の事務を手伝っていて、年齢は晶子の一つ下の三十三歳で独身であった。』
 
 としています。留守をした方の子供は、当時11才の長男・光が「晶子と寛の思い出」で

 『父の留守中に、同じ中六番町の中ですが、引っ越しもしてね(明44・11)、それで、お静さんっていう父の妹に留守番してもらうことになって、いよいよ敦賀から発つわけです。
 母が僕に言ったのは、「叔母さんが来てくれるから頑張りなさい」 ってくらいのもんよ。その頃、親はもう“命令”だもの、子供は従うだけですよ。

 留守の間には、叔母さんが来てくれたんですが、そりゃ一生懸命ですよ。弟たちもいるし・・・・。
 叔母は静子といって、若かったんですが未亡人だったんです。まあ一生懸命やってくれたんですが、きつい人で(笑)、こっちとしては思うように行かなくてね。それまであんまり僕らも慣れてない人だったから、むこうも手こずったと思いますけど、こっちもね(笑)。今になってみれば、よくやってくれたと思いますけど。

 お弟子さんたちは、両親がいないんだし用がないからほとんど来ません。佐藤春夫さんや江南文三さんなんかは来てくれましたね。』(p63〜65)

 と書いています。晶子は、旅の途中で 子供達に絵はがきを送ります。河出書房新社 平子恭子編著 「与謝野晶子」に紹介されている絵はがきの文書です。いずれもカタカナで子供の年齢に合わせて書かれています。

  カアサンノスキナ
  オヂヤウサン
  オリカウニシテヰマスカ
  ナナチヤンノヤウナヒトガ
  コノオヘヤニヰルノデス
  ママ、ママト、バカリイフテヰマス
  カホヲダシテオヤスミナサイヨ

 ナナセサマと宛先があります。(気になるのはどの絵はがきの宛先も、中六番町十番地になっていることです。)子供愛しさに、ホームシックにかかったそうです。寛を置いて晶子だけ先に帰国します。

 明治45年・大正元年(1912) 5月5日、 晶子は新橋駅からフランスへの旅立ちました。敦賀から海路ウラジオストックに渡り、シベリア鉄道でパリへ行くコースです。華やかな見送りでした。

 『見送人は五百名近く、プラットフォムを埋め尽した。茉莉子の手をひいた森鴎外夫人しげ子が、小山内薫夫人登女や岡田八千代とともに、二等列車の窓に金指輪の光る両手をかけた晶子と、別れを惜しんでいた。すると、平塚明子が鉄縁の眼鏡を気にしながら、遅れ馳せに駈けつけ、列車の中に入って、丁寧に挨拶した。

 その他、高村光太郎、阿部章蔵(水上滝太郎)、生田長江、木下杢太郎、久保田万太郎、長島豊太郎、吉井勇、佐佐木信綱、小山内薫、河井酔著、北原白秋、鈴木鼓村夫妻、生田葵山らの顔がみえた。

 弟の収と長男の光は、金尾種次郎らと、晶子を敦賀まで送っていった。大阪の小林天眠も、名古屋まで出迎えに出て、米原まで同車して、パリ行を励ました。』(瀬沼茂樹 日本文壇史 21p110〜111)

 さすがに、このメンバーを見ると晶子の活動の見事さを実感します。旅の様子は「巴里より」や多くの歌で知られますが、全体の行程は、井村君江 が晶子の紀行文「巴里より」から、次のように推定しています。

 五月五日 日本出発。
 五月一九日より六月二〇日頃迄 パリ滞在。
 六月二三日 渡英 七月四日迄滞在。
 七月八日より一〇日頃迄 ベルギi滞在。
 七月一三日 フランスに戻る。
 九月一日より一二日頃迄 ドイツ滞在。
 九月一二日より一四日頃迄 ウイーン訪問。
 九月一五日より一六日頃迄 オランダ訪問。
 九月一七日 パリに帰る。
 九月二〇日 マルセイユ港より帰国の途につく。
  (一〇月二八日 日本着)(新文芸読本 与謝野晶子 p98)

旅からの学び

 三千里 わが恋人の かたわらに 柳の絮(わた)の 散る日にきたる

 と詠んで、寛との再会に心を躍らせつつ、東西の文化の違いに触れて、次からの活動の糧をしたたかに吸収したようです。

 『自分が仏蘭西の婦人の姿に感服する一つは、流行を追ひながら而も流行の中から自分の趣味を標準にして、自分の容色に調和した色彩や形を選んで用ひ、一概に盲従して居ない事である。……

 又感服した一つは、身に過ぎた華奢を欲しない倹素な性質の仏蘭西婦人は、概して費用の掛らぬ材料を用ひて、見た目に美しい結果を収めようとする用意が著しい。此点は京都の女と似通つた所がある。……

  欧洲の女は何うしても活動的であり、東洋の女は静止的である。静止的の美も結構であるけれ ど、何うも現代の時勢には適しない美である。自分は日本の女の多くを急いで活動的にしたい。而 して、其れは決して不可能で無い許りか、自分は欧洲へ来て見て、初めて日本の女の美が世界に出 して優勝の位地を占め得ることの有望な事を知った。……」(「巴里の旅窓より」)

 『欧州の旅行から帰つて以来、私の注意と興味は芸術の方面よりも実際生活に繋がつた思想問題と具体的問題とに向ふことが多くなつた。私は芸術上の述作を読む場合にも芸術的趣味の勝つたものよりは生活的実感の勝つたものを余計に好むやうになつた。』(「太陽」大正4年2月号「鏡心灯語」)

 など、完全に次への活動にシフトしています。そして、あこがれのロダンに会い、この時生まれた四男に「アウギュスト」と名付けています。

 寛とパリー南西の町ツールに遊び丘陵の斜面一面にヒナゲシの畑を見ます。

  ああ皐月(さつき) 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ)

 雛罌粟はフランス語で「コクリコ」だそうです。ワープロに一太郎を常用しています。「ヒナゲシ」で変換すると「雛罌粟」と出てくるのには苦笑させられていましたが、この歌を知って、渡辺淳一氏が本の題名に選んでいて、今は悦になっています。

  晶子は ホームシックにかかり、寛を置いて、先に、9月21日、マルセイユから帰国の途に着き、明治45年・大正元年(1912)10月27日、帰国しました。 (2005.01.24.記)

東京の与謝野鉄幹・晶子目次 へ