たまらん坂(1)
黒井千次氏の作品「武蔵野短編集」に「たまらん坂」があります。 またまた、黒井氏の罠にかかりませんか!! JR国立駅南口を出て左折すると「旭通り」、この突き当たりに坂がある。
『登り坂と降り坂と、日本にはどちらが多いか知っているかい、・・・』 『真面目な話、坂の数は降りより登りの方がかなり多いんじゃないか・・・。夏目漱石の「草枕」の主人公がさ、ほら、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」って考えたのは、山路を登りながらだろ。あれがもし降り坂だったら、彼はそんなふうには考えなかったんじゃないのかね』 『智に働いても角が立たないのか。』 『女の場合はどうだろう・・・・』 飯沼要助とのビールを飲みながらの、こんな会話から話は始まる。それには、要助の目について離れないある光景があった。要助と勤め先の若いアルバイト女子学生との仲をめぐって、その関係を問いつめた奥さんは 『・・・突然立ち上がると玄関を出て小道を走り、バス通りの坂を一気に駈け降りていったのだ。バスの停留所まで後を追った要助の眼に、丈の高い水銀灯の下を姿を乱して転げ落ちるように遠ざかって行く妻の白いブラウスがいつまでも見えた。・・・』 国立と国分寺を結ぶ多喜窪通りにその坂はあって、要助は、毎晩、二つばかり手前でバスを降りては、「家の中にはいり難いものを削ぎ落とし・・・」、その坂を登って帰るのだった。 『それから幾年かして、夫妻の間のもめ事も過去のことととなり、一人息子が高校へ通い出した頃のある帰り道、要助は奇妙な発見をした。 坂にかかって登り始めた辺りの左手に、金網張りのフェンスを持つ駐車場があった。フェンスには、「たまらん坂」「有料駐車場」と黒と赤の字で二段に横にかき分けられた看板が取り付けられていた。・・・要助にとってそれは、切り通しふうの壁を支える石垣や住所表示のついた電柱などと全く同じように、道端のありふれた風景の一つになってしまっていた。 ところがどうしたわけか、ある夜通りがけになにげなく眺めた看板から「たまらん坂」という黒い文字が浮き上がり、それまでとは違った顔で要助の中に飛び込んで来た。「たまらん坂」の名が「多摩蘭坂」とは別の新しい名前として突然彼の内に生まれていた。「多摩蘭坂」は本当は「たまらん坂」ではないのか。いや、「堪らん坂」ではなかったのか―――。 バスの停留所にも、ガソリンスタンドの壁にも、目につくものにはすべて、「多摩蘭坂」と書かれていたので、従来は、「たまらん坂」を漢字から仮名に書き換えたものとばかり信じ込んでいたのだが、その時から逆に、「多摩蘭坂」の方が宛字ではなかろうかとの強い疑問を要助は抱くようになった。 そういえば、「多摩蘭」などと呼ばれる蘭の種類は聞いたことがない。考えれば考えるほどわざとらしい名前に思われてくる。 そのことを妻に訊ねてみたい、と幾度か口の端まで出かかったが、なにかとんでもない言葉が返ってきそうな気がして要助は躊躇(ためら)った。坂を転げるように駈け降りて行く妻の後ろ姿が要助の奥に棲みついていたからだ。』 五月の蒸し暑い午後、要助は息子のかけるレコードを聴く。いきなりドラムの音が、天井と壁と床と窓とソファーとテーブルと、部屋にあるすべての物を叩き出した。 ・・・曲が変わって前よりはややメロディーのある歌が流れ出して来た時・・・ 『そうだよ。忌野清志郎はたしか国立に住んでいるんだから。』 ・・・要助の眼は忙しく走って曲のタイトルを捜した。 『「多摩蘭坂」だ。』 『そう言えば、清志郎か誰かがこの曲のことを雑誌かなんかに書いていてえ・・・。 『やっぱりそうか、落武者か。そんな言い伝えがあるのか。みろ、多摩の蘭なんて嘘っぱちじゃないか。』 ・・・息子のあやふやな言葉に誘い出されたかのように、要助の胸の内に不思議に生暖かい体温を持つ一人の落武者の影が生まれていた。その士をずっと前から知っていたような気さえした。』
その石垣には、今もって、RCサクセションにあやかりたいのか、若者の思いが書き付けられている。 RC ならずとも、「坂を 登りきる手前」は、もう一つの何かがあって、惑わしい。 坂の上にある「多摩蘭坂」バス停の標識は この石垣の地域が共同住宅に開発されようとして 書き込みも増えて、2001.10.2.の日付もある。 ◇ ◇ とんだ横道をしたが、作者は、夫婦の機微を忘れない。 『おやじが「多摩蘭坂」という曲はいいってさ。』という息子の言葉に、妻は『唇を尖らせ、大げさな驚きの表情を作った後、、ふと笑いを残して台所の方へ歩み去った。』などとの話を入れて、かっての要助との間のいざこざの余韻を伝える。 翌日の日曜日から要助の詮索は始まった。本屋にはいって探しても、要助の求めるものにはたやすく出会えそうになかった。伝説にしても、地名にしても、武蔵国分寺であり、恋ヶ窪であり、大国魂神社であり、二枚橋であり、そして国立では谷保天神であった。本屋をはしごして、「角川日本地名大辞典」十三巻東京都編に出会った。そこには「多摩蘭坂」があって、要助はむさぼり読んだ。 「国分寺市内藤町一丁目六・八番の間あたりから西北に、国立市の旭通り商店街へくだる切り通しの急坂。昭和六年、一橋大学が当時の北多摩郡谷保村へ神川一ツ橋から移ってきた頃、箱根土地会社が叢林の中の小道を切り開いてつくった。」 ただ徴かな希望は、土地会社が切り通しの坂を造る前に、そこに「叢林の中の小道」があったことである。戦に破れ、郎党とも逸れた武者が一人とぼとぼと落ち延びるのが叢林の中の小道であって悪かろう筈がない。たとえ現在のような坂道の出来たのが新しくとも、なにかを手繰っていけば昔の小道に辿り着き、その登 記載されている文章のどこにも、「たまらん坂」という表現の出て来ないのが要助には不服だった。辞典の中では、坂は昭和のものと割り切られ、名称の文字による表現は「多摩蘭坂」と限定されていた。こうなった以上、最早別の伝(つて)から「叢林の中の小道」を探ってみる他にない、と心に定めて要助は重い地名辞典を書店の棚に押し込んだ。』 要助にとっては、国分寺から国立へと坂を降る記述が不満であった。 現代の己を際立った落後者とも敗残者とも感じているのではなかったが、晴れがましく勝利した者でないことだけは明らかだった。夜毎、坂を登って家へ帰って行くそんな自分が、暗く分厚く、温かな落武者の影に守られ、抱き取られるようで心が和んだ。 たまらんなあ、と低く咳くと、なにがたまらんのか言葉を発した者自身がよくはわからないのに、たまらん、たまらん、と背後で深い声が答えてくれた。その落武者が誰であるのかを要助は知りたかった。いつの時代のいかなる人物であるかがわかれば落武者は一層親しい存在となり、その影と共に安心して坂を登れそうな気がしてならなかった。』
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