おたかの道
(黒井千次 武蔵野短編集)

JR国分寺の駅を降りて、南口の改札口に出たのは
午後も3時を過ぎていた。

真吉は国立行きのバスに乗り、いつか彼の内に棲みつき
次第に育って、一本の美しい道の姿をとるようになっていたものに向かった。

南口の短い商店街を抜けると、すぐ坂を下り始めた。
右にカーブする傾斜の底に道を横切る細い流れが認められた。
それを超え、停留場を一つか二つ過ぎると、もう鉄道学園前であった。

バスを降りて、駅で教えられたとおり、バス通りを進む。
鉄道学園の長い塀が続き(今は大集合団地の公園)、反対側には
むかし都営住宅と呼ばれていたような古びた小さな家の並ぶ住宅地が拡がっている。

米屋のシャッターは下ろされ、「故障中」の張り紙が張られた、米の自動販売機が置かれていた。

住宅地は切れて、草の生い茂った空地に変わった。もともとは住宅のあった土地であり
主を失った庭木たちが行き場もないままに成長し続けているのだろうか。
あたり一帯に漂う荒廃の空気が、なんとなく真吉の気持ちを和ませてくれる――。

左に曲がると、教えられたとおり消防署があり
「この先、急カーブ」の黄色い標識があって、道は大きくカーブして下る。

カーブのふくらみの土手の上にあるのは、神社だった。傾斜に誘われて少しずつ足が速くなる。

「見せてあげる。」 唐突に多加子が言った。「 え、」と真吉が訊き返した時
もう彼女の指は、白いブラウスの胸のボタンをはずしていた。

「そっとなら、触ってもいいわ。」 真吉の手はおずおずとブラウスの内側に伸びた。
これをどうすればいいのか、と彼が顔を寄せようとした瞬間
チリンと音がして、女主人公の長電話が切れた。・・・

30数年も前の、雨の日の暗い喫茶店での出来事だった。



忘れていることはあっても、決して消滅することがなかった小さな絵に
以前とは違う光が当たり始めた・・・。

つんと怒った表情の勝る白い乳房が、老眼鏡の目の裏を駆け抜ける折りがある。
勤め先の定年まで残された数字が一桁で数えられるようになって
俄に重く思い出されるような時、偶然、真吉が耳にした
「おたかの道」

「江戸時代の将軍が鷹狩りに通った国分寺跡のそばの道でしょ・・・、だから〈お鷹の道〉」 
と、妻。真吉には説明のしようもない。

どんなふうにしてそれに出会うのか、と恐る恐る真吉は足を進める。
出来ることなら不意打ちを食わされるのではなく
こちらの方から狙いを定めて一歩一歩迫って行きたいと願った。

真吉は、低い石垣に囲まれた、ガッチガッチに仕組まれた道を進む。

樹木が切れて空が明るくなったと感じたとたん、平坦な広い草地の前に出ていた。
国分寺跡だった。

☆☆☆

 作者は、ここまでの間に、いろいろ装置をする。
 一つは、真吉が自宅を出て、国分寺行きの切符を買うとき、親子連れと逢わせて、その母親が子どもの切符を買ったはずなのに、自動券売機からは大人の切符が出てくる情景を入れる。そしておいて、「機械が数字を超える何かを見据えていたのだ」という話にして、背景を暗示する。

 もう一つは、真吉を国分寺跡に立たす前に、バスに乗っている過程で「右にカーブする傾斜の底に道を横切る細い流れが認められた。」などと、さりげなく、「野川」を提示する。それが、作品の最終場面でにつながっている。

☆☆☆

それにしても、あまりにもなにもなかった。
丈の低い草の間に丸みをおびた大きな石が転々と散在するのみで、・・・

なまじ周辺を石垣などで小綺麗に囲っただけに
寺の跡は公園風の緑地と化して荒廃の気配しら漂ってはいない。

真吉は、空しく史跡の空地を歩き回る。

礎石だけの「武蔵国分寺」、それも空しい空地をあとに
真吉は、ためらいがちに足を進めると、その前に、突然古びた山門が現れる。

見学者がフラッシュをたいて写真を撮る中を避けるように
真吉は、行き止まりと思われたところの小道の奥に足を入れる。

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