石川啄木・赤心館へ
(明治41年5月4日〜9月6日)

明治41年4月28日上京して与謝野寛・晶子の千駄ヶ谷の家に滞在した啄木は
5月4日、金田一京助の下宿「赤心館」(本郷区菊坂町82番地)に移ります。

二階の室があいた

 5月2日、観潮楼歌会の終わった後、啄木は初めて会った吉井勇、北原白秋と共に、動坂の平野万里の家に泊まり、5月3日、一度、千駄ヶ谷の戻りますが、その夜は、金田一京助の下宿・赤心館に泊まっています。金田一京助が新編「石川啄木」で書くように(p87)、上京二日目の4月29日にも、金田一の下宿に泊まって、

 『・・・・話が在って在って、それから、それへ、二人はただしゃべりにしゃべって、しやべり続けた。
 云うのには、『荷物もなし、この通りだから、下宿も不安心がって、どこへ行っても、置いてくれないかも知れないから、当分、この隅へでも置いて下さい』というから、『ええ、ええ、この通り八畳間で、二人休むにはゆっくりしてるし、夜具も、もう暖くなって、この頃は、敷蒲団も、掛蒲団も丁度余ってるから、何も気遣いなく、何時まででもいらっしゃい』・・・・』

 ということで、啄木は上京後間もなく与謝野家を出ようとしていたようです。今回の上京のきっかけには、寛・鉄幹の誘いが要因ともなって、寛・鉄幹は下宿を心配することなく上京するように勧めています。しかし、いざ上京して、文壇の空気を知り、寛・鉄幹の直情に触れると、小説の世界で新しい途を目指す啄木と寛・鉄幹の世界との違いがはっきりし、また、与謝野家の家計の状況を晶子から聞かされて、長居は迷惑と考えた事もあって、早々の転居となったようです。

 啄木は5月2日に、函館で啄木一家の面倒を見てくれている宮崎大四郎に次のような手紙を書いています。

 『・・・入京以来時々刻々頭が少しづ、変つて行く様な感じ致し候、これは今迄余程角を短くして居た文学的自負が、周囲の刺激と共にだんく復活して来るのに候ふべし、・・・・

 「新詩社との関係は関係として置いて、別に一家独立の立場を立てなくては損だ」とは真面目なる社外の人の凡てが小生に向つて成したる忠言に御座候、これは目下新詩社の勢力頗る微弱にて且つ敵多き故全く社内の人とのみなつて居ては、原稿売るにさへ都合悪い由に候、これは事実に侯、

 小生は函館に居し時も云ひし如く、社とは文学上の意見も相異あり、社との関係は与謝野氏対小生の情誼上の関係に過ぎず候故、一今後、氏の情誼に酬ゆる事は永久に忘れざると共に、一方独立の創作家としてやってゆく考へに候。つまり新詩社の社友たると共に石川啄木なるを忘れぬ考へでやればよいのに候、・・・』

 啄木は5月3日金田一の下宿に泊まり、日記には淡々と

 『・・・・。二階に室があいたというので、明日から此処に下宿する事に相談。』

 と書いています。そして、「小生の文学的運命を極度まで試験する決心に候」(5月5日、向井永太郎あて書簡)としているように、「これで書けるぞ」と心の中で小躍りしたことでしょう。

赤心館

 金田一京助は、新編「石川啄木」で

 「一体菊坂町の下宿の赤心館というのは、当時は本妙寺の構内で、菊富士楼の隣りの二階建の十二三室しかない小さな下宿だった。主人公は、森鴎外さんや中村吉蔵氏などと共に、石州津和野の藩士とかいうことで、固い、寧ろ固過ぎて、融通のきかないような人だった。当時は、何処か商会へ勤めていて、下宿の方は専ら主婦さんが経営しているのだった。」(p95)

 と書かれるように、明治維新後、本郷が学生、学者の町になって一挙に増えた素人下宿の一つでした。さらに雰囲気を

 「私の室は、入口に一番近い室で、縁側に洗面所があったり、梯子段が玄関からすぐあるので、どちらかと云えば、騒々しくって嫌われがちな室だったが、この下宿の唯一の八畳で、広くのんびりしたのと、縁からすぐ庭へ下りられる、この土に親しみのあるのが私に好ましく、始めからこの室を選んでがんばっていたものだった。

 廊下を隔てて主人夫婦の居間なので、時々は夫婦喧嘩も手に取る様に聞えたが、その代りに、私へ来る訪問者、その訪問者との私の会話も、大抵、宿の人へ聞えていたから、私と宿の人とは、何もかも知り合っていて親しくなってい、私が夏休や冬休の休暇明けに下宿へ戻って来ると、きっと何かが新しくなっていたものだった。畳が新しくなっていたり、置床を造って置いてくれてあったり、本の重みに床が凹まないように厳重な台を取りつけて置いてあったり、一等よく手入をしてくれて、よい心持で長く世話になっていた。」(p97)

 と書かれています。啄木は6月24日、歌づくりに徹夜して、夜明けに本妙寺の墓地を散歩して「たとえるものもなく心地がすがすがしい」と日記に書いています。赤心館は本妙寺の本堂や墓地、そして菊富士楼に接していたことがわかります。

赤心館の所在地

 新潮日本文学アルバム(新潮社p66)ほか、赤心館の写真は見ることができますが、その具体的なありかはさっぱりです。番地で追えば

 本郷区菊坂町82番地は現在の文京区本郷5−5−5にあたります。

 しかし、かの振り袖火事で有名な「本妙寺」は明治43年に豊島区巣鴨五丁目に移転、文士の宿であった「菊富士楼」も戦火で跡形もありません。 そのような現状ですが、天野 仁氏が「啄木の風景」(洋々社)の「本妙寺構内の下宿赤心館」で、8月5日の啄木の日記を引用しながら貴重な追跡をされて います。

 『・・・・啄木日記では、金田一先輩と娘義太夫を聞いて十時に帰ってきた時「寺門にて辻占をもとむ。一袋五ケ入一銭なり。金田一君と共に交々披いて笑ふ。予のには六つあり。こは面白しと残る一つを披きしに“日の出だよ”!吉兆と呼びて笑ふ」(八月五日)と寺門で辻占を買って金田一と愉しんだことを書いている。

 啄木が日記に書き遺しているのは、この日だけだが、いつも出かける時には必ずこの表門をくぐって出入りしたのだろうと思える。その表門の位置は、真砂町から本妙寺坂を下って来て、菊坂町の通りを越し、なだらかな坂を北の台町の方へ上がって約二十メートル、現在右側(東側)にある公認会計士会館(前本郷税務署、その前は女子美術学校)の手前辺りだろうと推定できる。ちょうどその辺に文京区教育委員会によって「本妙寺跡」の案内パネルが建てられている。

 この表門は一間一戸の四脚門である。それを入ると真ん中に四枚の敷石が続き、左右には子院のお堂がまだ結構残っており、正面突き当たりに三十番神と思える小さな祠があったらしい。

 今では全く様変わりしてしまったが、いわば当時とすれば、この一帯が最も境内としての景観が残っていたところだろう。』(p112)

  と、本妙寺の門を位置づけられています。江戸の切り絵図から追っても、本妙寺坂の突き当たりが門で 、その参道を挟んで、公認会計士会館跡などの地に、いくつかの小寺院が集中していました。 門の画像は文京区が出版している「ぶんきょうの史跡めぐり」(p32)に紹介されています。

 これらの資料を基に、いくらか強引に江戸時代から明治初年にかけての状況を復元してみました。啄木の時代には、下図のピンクの地域のように寺が密接してい る地域に、破線で描いた現在の道路ができて、周辺の開発が進む時期でした。

赤心館は本妙寺境内・構内の西寄りにあったとされます(6月9日、図を差し替えました)。
この図ではその詳細が描けませんが下の拡大図をご覧下さい。
啄木の時代になると本妙寺も長泉寺も寺域を狭め土地が細分化されました。



赤心館は本郷菊坂町82番地に建設されました。82番地は3カ所に別れていたようです。
「菊富士楼」「菊富士ホテル」との位置関係から図の位置としました。
啄木が散歩した墓地は94番地にありました。

「菊富士楼」は図の長泉寺の寺域の一部(16番地)を借りて赤心館に隣接してありました。
なお、明治40年に菊富士楼の別館がその南側に建設されています。

菊富士楼は長泉寺が土地を売り渡したため、その地主さんから返還を求められます。
そこで、隣接した土地を新たに取得して、大正になって、文士の館「菊富士ホテル」が建設されました。
赤心館の南側になります。
しかし、 昭和20年(1945)の空襲で焼かれてしまいました。
戦後、周辺も含め、(株)オルガノの所有地となりました。

現在、寺は長泉寺、喜福寺、法真寺が現地にあります。
赤心館、菊富士ホテル、菊富士楼・別館(富士館)の位置関係は
近藤富枝 本郷菊富士ホテル(中公文庫)巻末に菊坂付近略図が添えられていて、よくわかります。
(相互リンクの「めぐり逢うことばたち」の作者から、菊坂付近略図中の「菊の湯」のヒントを頂き
作業が一気に進展しました。心からお礼申し上げます。6月9日。)

赤心館への道

 赤心館があった跡を訪ねるには、本妙寺坂を図の公認会計士会館跡まで登り ます。本妙寺の門があったと推定されるところです。

 坂を登り切る頃、 上画像の景観となり、右側電柱のやや奥に黒く見えるのが、文京区教育委員会の設置した「本妙寺跡と明暦の大火・私立女子美術学校菊坂校舎跡」の案内パネルです。この少し上に、最初の図のと公認会計士会館跡の間の破線の道 があります。案内パネルの右は工事中で、公認会計士会館があったところになります。

 これを 左折すると前方に事務所が見え、その前に道がありますので、それを左折すると、奥が下の画像のような景観になっています。中央の木の手前に「本郷菊富士ホテルの跡」碑があります。図では 赤心館の館の字とオルガノのガの字の印の間になります。

 赤心館へは「本郷菊富士ホテルの跡」碑から、そのまま戻って、図の赤心館のの所に出ます。破線の道に出たら、左折します。下画像のように前方に長泉寺の境内が見えます。余程注していないと見失いますが、左側電柱のそばのフエンスに文京区教育委員会が設置した標示があります。

 『啄木ゆかりの 赤心館跡 オルガノ株式会社(本郷5−5)内

 石川啄木(1886〜1912)は「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道の放浪の旅を終えて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後金田一京助を頼って、ここにあった“赤心館”に下宿し、執筆に励んだ。

 赤心館での生活は4ヶ月。その間のわずか1ヶ月の間に、「菊池君」「母」「ビロード」など、小説5編、原稿用紙にして300枚にものぼる作品を完成した。

 しかし、作品に買い手がつかず、失意と苦悩の日が続いた。・・・収入は途絶え、下宿代にもこと欠く日々で、金田一京助の援助で共に近くにあった下宿『蓋平館別荘跡(がいへいかんべっそう)』に移っていった。

   たはむれに母を背負ひてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
                                        (赤心館時代の作品)

文京区内の啄木ゆかりの地

・初上京の下宿跡(明治35年11月〜36年3月)  現・音羽1−6−1
・再度上京の下宿跡(明治37年10月〜同年11月)現・弥生1−8あたり
・蓋平館別荘跡(赤心館〜 明治42年6月)     現・本郷6−10−2大栄館
・喜之床(蓋平館〜明治44年8月)           現・本郷2−39−9アライ理髪店
・終焉の地(喜之床〜明治45年4月13日死亡)      現・小石川5−11−7宇津木産業

                                                                 東京都文京区教育委員会 平成元年3月』

と説明されています。

もう一つの道

 赤心館跡には菊坂から長泉寺の参道を通っても行けます。ただし、山門が開いている場合です。菊坂からは長泉寺の参道が下の画像のように江戸時代の名残を残すように続いています。

山門の右に潜り戸があり、これをくぐって境内に入り右に曲がれば、三つ上の画像の門に出ます。
最初の図でいえば赤心館の「赤」の字があるところです。
(以上の画像は2002年4月8日の状況で、その後変化があるかも知れません。
公認会計士会館は移転をしていますので「跡」としました。)

金田一京助に助けられ

 収入の術を持たない赤心館での啄木の生活は、ほとんど金田一京助の援助のもとで営まれました。5月4日雨の中を引っ越してきた啄木は、その夜を金田一京助の部屋で過ごし、翌5日、自分の部屋に移ります。

 『五月五日
 節句。
 起きて二階に移る。机も椅子も金田一君の情、桐の箪笥は宿のもの。六畳間で、窓をひらけば、手も届く許りの所に、青竹の数株と公孫樹の若樹。浅い緑の色の心地よさ。
 晴れた日で、見あぐる初夏の空の暢やかに、云ふに云はれぬ嬉しさを覚えた。殆んど一日金田一君と話す。
 本田君、奥村君、向井君、小嶋君、宮崎君、せつ子へ葉書。岩崎君へ“緑の都の第一信”を書いた。
 京に入つて初めて一人寝た。“自分の室”に寝た。安々と夢路に入る。』

 こうして、自分の室を得た啄木はいよいよ小説の執筆に入ります。書いても書いても売れない小説に啄木は死を考えたりします。反面、猛烈に歌がほとばしり出て、啄木本来の文学の世界を開き始めます。

 そのような中、植木貞子が頻繁に訪れたり、話題は尽きません。しかし、ついに、下宿代が払えず、9月6日、金田一京助と共にここを離れ、蓋平館に移ります。それらについては、ページを改めます。
(2005.06.08.記 13日一部追加)

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