「あこがれ」の刊行(5)
明治37年1月、節子との婚約が整った啄木は
11月8日、
神田区駿河台袋町8 養精館に転居しましたが 「あこがれ」は刊行できましたが、生活の基盤は確立されず 大和館を出る・経済的逼迫 啄木は明治38年5月11日(「あこがれ」が実際に刊行された日の翌日か?)、大和館を出たようです。出奔同様の出方ではなかったかと想像します。 と云うのも、啄木は経済的に行き詰まり、多くの友に借金を重ねていた様子が伝えられるからです。例えば、明治37年の暮れには金田一京助から15円の借金をして 、ようよう年が越せました。年が明け、4月になってもそれが返済できずに、恐縮の手紙ばかり書いています。 しかし、いかにも啄木らしいのは、そのような状況の一方で、明治38年3月には、来客にタバコや昼飯を出したり、同宿の者を連れ出して神楽坂の西洋料理屋で食事を奢るようなこともしています。いくらか経済的な余裕があったように見受けられ る気配を福場幸一氏が伝えています。 どうも、その背景には、「啄木の借金メモ」(函館図書館所蔵・宮崎郁雨写し)に、「砂土原町 二五円 大和館 七十円」とありますから、借金で 一時的な余裕をひねり出したようです。恐らく、「あこがれ」が出れば、原稿料や印税が入るから・・・など、詩集の刊行を担保にしたものと思われます。 となれば、「あこがれ」発行と同時に、借金の返済を迫られる立場になったと推測できます。啄木には、原稿料も印税も入らず、「あこがれ」巻末には次の出版の 案内が出されていますが、実際にはその目途もたたず、借金を返済するあては無かったと思われます。やむなく追い出されるか、出奔したのではないでしょうか。 「あこがれ」の評判は気になるし、職はなく、節子との結婚の経済的基盤は確立されていない。父親は宝徳寺を退去して、寺との縁を切られ、啄木に一家の扶養が重くのしかかっている。それに応えるすべを持たない。故郷へ帰りたくても帰れない 。こんな暗澹たる気持ちで、大和館での日々を過ごしていたのではないかと推測します。 残された道は、友の宿を頼るしかなかったのでしょう。次のように、友達の下宿を転々としたことが、藤沢 全氏の「啄木哀果とその時代」によって明らかにされ ています。 5月11日、中館松生の下宿 5月11日、大和館を逃げるように出た啄木は、その夜を、当時、明治大学に通う中館松生の下宿に過ごしたようです。明治38年5月11日付、上野広一 氏宛 に「今夜 佐藤君と共にこの余丁町の大哥(あにい)を訪ひ・・・」、「中館兄の机の上にて」と書かれた手紙が残されていて、そのことがわかります。この手紙については、項を改めて書きます。 中館松生の下宿は大久保余丁町にあったようですが、具体的に把握できていません。教えていただければ幸いです。 5月12日〜5月18日、小沢恒一の下宿 5月19日、並木嬢の下宿 翌日からは、中学校時代の友人・小沢恒一(おざわこういち)氏の下宿に泊まったようです。藤沢 全氏の「啄木哀果とその時代」(p31〜32)は次のように書いています。 『その後の足跡は、次に掲げる手記から中館の下宿を翌日出て早大生小沢恒一の下宿に行き、一週間滞在したあと、かつてカルタ会で知り合った並木という女性の下宿先で夜を明かし、東京を離れたということがわかる。 「小沢が駒込林町のとある家の二畳の間を借りて居た事があります。その年の五月の中旬頃でした。啄木が飄然としてこの二畳の間に訪れて来て、十日ばかりこの二畳の間に小沢と二人抱き合ふやうにして寝てゐたのです。食事は一町ばかり離れてゐた私の室に来て粗飯を食べられて居られましたが、ある朝突然郷里へ帰へるといはれて啄木が私共のところを出て行かれたのです。 ところが翌日並木さんの話に昨夜石川さんが尋ねて来て「今晩一晩だけ宿めて下さい。物を書く為めだから蒲団は要りませんから」と言はれたので「私の部屋にはお泊する事は出来ませんが」といって、宿の奥さんにお願をして上げたら、それでは奥の八畳の間が空てゐたのを幸にそこへ奥さんがおいれしたのです。 話によると「啄木は一晩机に向つて何か書き物をしてゐたといふことです」と並木さんから聞いたのですぐさまその家に行きお礼をして来たのでした。それから三四日過ぎた日でした。啄木から次のやうな便りをもらつたのです。 孤袖の遊士、思惆悵として昨夜この青葉城下に旅の第一夜の夢をむすびぬ。 さてさて、2畳の間に男が二人、一週間過ごすのは大変だったと思います。余程、友情厚く、また、啄木にはそのようにしなければならなかった事情があり、小沢恒一氏も理解していたのでしょう。啄木は何を考え、何をしていたのか知りたいものです。また、あれだけ面倒を見た与謝野寛・晶子がこの段階でどのように関わっていたのかも、はっきりせず不思議です。 小沢恒一氏の下宿は「駒込林町」とまではわかりますが、番地の把握ができていません。並木嬢の下宿の住所も把握できていません。教えていただければ幸いです。 町名だけで友の宿を追っておきますが、大久保余丁町、駒込林町と地図に納めるには苦労するほど広まっていました。
今回の上京で、啄木は父親の宝徳寺復帰運動のため曹洞宗宗務局を訪ねたことが想定されます。 啄木帰郷と空白の日 東京の啄木の足跡を辿る者としては、大和館を出た後と、郷里に帰って節子と結婚生活を始める6月4日までの期間がまことに気になります。「あこがれ」の評判を待ち、次への展開を図っていたものととれますが、どうも、この間の友人達の動きと啄木の行動を追うと不自然です。この前後について、伊藤圭一郎氏が、田沼甚八郎氏の話として次のように伝えます。
『啄木は節子さんと結婚の段階に達しているのに何故かのうのうとして東京にいるので早く帰盛するように勧めてくれと、盛岡の平野八兵衛君(旧姓佐藤善助、盛岡市惣門ヒラ八酒造店主、故人)からやいやいと東京の私どものところへ手紙がきた。そこヘフランスヘ行くことになった上野広一君(画伯)が、ちょうど神経衰弱で盛岡で静養中だったから、啄木を呼び寄せて結婚式を挙げさせようということになった。
・・・、なぜ盛岡に帰らないのかと石川君に聞いたら、「実は私が節子と結婚すれば或る一人の女を殺さねばならない。その女性を私は愛しているのだ」という。 無理矢理、故郷と在京の友人達に帰郷を迫られて、なお態度を決めかねている啄木の姿が浮かびます。そして、 5月11日、上野広一氏宛に、「節子と住む家を見付けて、炊事係の婆さんも頼んである」、「節子を呼び寄せるのは「ザツト一週間の後」(=5月20日前後)を予定している 」と手紙に書いています。
ところが、故郷では、節子との結婚式の日取りを決め、啄木も帰郷することになりました。その様子を田沼甚八郎氏は上記の話の続きとして、次のように伝えます。 と云うことになって、明治38年5月20日、 帰郷の途につきます。その後は、仙台での土井晩翠からの借金、酒盛り、宿料転嫁、主の居ない結婚式、6月4日の帰郷、ユニオン会の友との決別・・・と、芳しくない話題が伝わります。この一連の啄木の行動は腑に落ちません。 どうも、啄木の虚像と実像が交差して、この間には表に出せなかった宝徳寺復帰問題があるようです。 幻の新居と宝徳寺復帰運動 啄木は 4月11日には金田一京助氏に、一家が上京することになったことを伝え、5月11日には上野広一氏に駒込神明町四百四十二番地に新居を手配したことを知らせています。ところが、同じ5月11日には友人間で啄木を帰郷させる相談がまとまっていたよう です。 この経過を追ってみます。大和館を出た夜(明治38年5月11日)、啄木は友人 ・中館松生氏の下宿で過ごしますが、丁度そこへ故郷の上野広一氏から中館氏への手紙が届き、啄木はそれを読んでもらいます。みんなが心配していることがわかって、啄木は その夜、上野広一氏に手紙を書きます。そこには 『上野兄 侍史
「あこがれ」やうく昨日製本済みと相成申候、明日御郵送せむ。案外おくれたり、家はもう見付けた、駒込神明町四百四十二番地の新らしい静かな所、吉祥寺の側に候。ヒドクよい所に候。炊事係の婆さんも頼んで置き候。 とあります。 と大見得を切って、東京への家族の呼び寄せる事が書かれています。また、先立つ4月11日には、金田一京助氏に 『・・・故郷の事にては、この呑気の小生も襖悩に襖悩を重ね煩悶に煩悶を重ね、一時は皆ナンデモ捨て上田舎の先生にでも成らうとも考へた位。結局矢ツ張本月中には一家上京の事に不止得相纏り申候。幸か不幸かはさて遣き、先づ以て乍他事御安心被下度候。・・・ 』 と、父親の宝徳寺追放に煩悶し、「やむを得ず一家上京することにまとまった」と、父親の宝徳寺住職追放を機に、一家で東京に住むことを決めた様子を書き送っています。 しかし、この間には、納得できない無理がありそうです。3月2日、一家が報徳寺を出て「渋民村大字芋田第八地割五十三番地」へ転居したことに対して、4月11日、啄木が「襖悩に襖悩を重ね、煩悶に煩悶を重ね」 た結果、東京への移住を決めたことは頷けるとしても、5月11日、恐らく無一文に近い形で下宿を逃げ出し、友人に帰郷を迫られている時に、「新居を用意した、一週間の後には節子を呼び寄せる」とは信じられません。 例の、啄木特有の一時しのぎのほら吹き、戯言に過ぎないとの批判が出そうです。事実、この用意された新居には住むことはありませんでした。 しかし、 この前後の流れを年表にして注意深く見ると、啄木は、父親の宝徳寺追放という最悪の状況から、どうにかして脱却しようと、表には出せない重要な行動をしていたのではないかと思わせる節 があります。 岩城之徳氏が「石川啄木伝」(筑摩書房1985年版)で詳細に分析(p135〜146)されるように、恐らく、啄木には、宝徳寺復帰・再住運動に関する一定の目論見があり、そのこと が表に出せないまま、よそから見ると誠に不誠実な態度をとっていたのだと思われます。それは、幻となった新居の所在地を訪ねると、さらに実感が湧いてきます。 駒込神明町四百四十二番地 謎めいた新居は、駒込・吉祥寺に接してありました。 地図が大きくなるので至近駅を入れられませんでしたが、地下鉄南北線「本駒込駅」が一番近く、JR山手線「駒込駅」からが次になります。
破線が現在の道路で、啄木が手配した駒込神明町四百四十二番地の家の位置は、明治38年当時を復元しました。当時の家は岩槻街道から天祖神社に向かう参道には面さず、一度天祖神社の入り口に出て、図で云えば破線の参道を右に曲がり、駒込神明町四百四十二番地 の書き込みの角をまた右に曲がって突き当たりという道順でした。参道に面する区画の裏側になります。 当時、この辺りは植木の栽培が盛んであったと云われます。啄木は手紙で『静かな所、吉祥寺の側に候。ヒドクよい所に候。』と書いていますので、参道の賑わいから若干距離を置いた、植木の圃場の一隅にでも建てられていたのかも知れません。 現在は文京区立第九中学校が建設されていて、道路も北東に移動しています。強いて見当を付ければ校舎の端か道路と校舎の間になりそうです。現・本郷通りからは、天祖神社参道の標識が道路脇にあり、直進すれば比較的わかりやすい位置にあります。
あまり現況写真を入れても意味がなさそうですが 吉祥寺は啄木の父・一禎(いってい)、母 ・カツの出会いのキッカケをつくった、仏禎(ぶってい)=対月(たいげつ=カツの兄)が住み、与謝野鉄幹が青年時代を過ごした ところです。 吉祥寺を訪ねて強く思うのは、啄木とこの寺の関係の深さです。この寺は父・一禎が属する宗派の曹洞宗で、栴檀林(せんだんりん=曹洞宗の宗門学校)でした。学僧は千名を越す盛況であったとされます。啄木の母カツはここで学僧として学んだ仏禎 ・対月の妹にあたります。啄木は父・一禎の宝徳寺再帰、再住運動をするつてをここに求めたのではないでしょうか。 当時の曹洞宗宗務局は芝公園第七号二番の源宝院の建物を使っていました。啄木は、直接にはそこを訪れて、父の宝徳寺再帰、再住運動を進めていたと考えます。しかし、飛躍をお許し願えるなら、 啄木はそのための手蔓=つてを吉祥寺の関係者に求めたのではないか、その過程で、駒込神明町四百四十二番地の新居を知ったのではなかろうかと思う次第です。 ここで学んだ仏禎・対月は、啄木の父・一禎が宝徳寺を追放されたときには、 青森県野辺地の常光寺の住職でした。啄木一家が経済的に行き詰まった、明治39年の初めには(1906年2月)、一禎とカツは対月のもとに寄寓しています。 また、同年、3月23日、曹洞宗宗務局より一禎に対する懲戒の赦令が発令され 、宝徳寺復帰の可能性が出ました。そのときは、復帰願いを出すため、対月のもとから渋民村に戻っています。 結局は怠納した宗費の弁済ができず、村人達の分裂もあって復帰はできませんでした。野辺地町の愛宕公園には啄木の 「潮かおる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや」の歌碑が建っています。 駒込は歴史や文学に関するさまざまな事柄があり、寄り道をすることが多いところです。その際に、自分でも呆れるのですが、どうしてか、この地に足が向かいます。 啄木が住もうとした家は学校の校庭になって、何もありません。付近の方に聞いても啄木のことは全くといって良いほど話題になりません。それなのに懲りもせず足が向かいます。 あの時点で、もし、ここに一家が住めたら? その後は、どうなっていたのだろうか、とありもしないことが次々に思い浮かんで来ます。結局、 この時代の啄木の虚像と実像が様々にちらついて、何とも耐えられなくなって、今度は、近く の養昌寺にある半井桃水(なからいとうすい)の墓に向かいます。ここでも、樋口一葉の様々なことが去来して、収拾がつかなくなります。幻はショウガナイものです。 (2005.04.08.記)
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