石川啄木・小説への転機
明治39年6月12日〜22日
(千駄ヶ谷村大通549番地 東京新詩社)

明治38年5月、詩集「あこがれ」を刊行して故郷に帰り、節子と結婚、一家を構えた啄木は
父の宝徳寺追放という事態の打開を図りながら
8月、友人大信田金次郎(おおしだきんじろう)の援助を得て、文芸雑誌「小天地」の刊行に力を尽くします。

明治39年2月28日、「曹洞宗宗憲」が制定発布され、恩赦の見通しが出てきました。
   啄木は待っていたかのように、3月4日、渋民村大字渋民第十三地割二十四番地に移住しました。
かっての生活とは全く違う厳しい状況の中での故郷帰りです。
何らかの深い意味が背景にあるのでしょう。

   3月14日、宗憲発布に伴う恩赦令が発令され 、父親・一禎に懲戒赦免の通知が届きました。
啄木は青森県野辺地の師・葛原対月のもとで待機していた父親に知らせ
   一禎は急遽帰郷し、檀家と協議の上、宝徳寺再帰を曹洞宗宗務局に願い出ました。

啄木は、4月11日、渋民尋常高等小学校へ就職し、代用教員として教鞭をとりました。
一方では、 一禎が宝徳寺退去後、代務住職として寺にあった中村義寛も住職跡目願を提出しました。
   当局はそのいずれを住職に任命すべきか処置に迷い、宝徳寺再住問題は容易に解決しませんでした。
渋民村の村内は一禎支持派と反対派に二分されたとされます。

そのような中で、 明治39年6月、啄木は農繁休業を利用して上京しました。
宝徳寺再住のための曹洞宗宗務局への運動
第二詩集の刊行が目的でした。

一年ぶりの上京でしたが、啄木には大きな転機をもたらせたようです。
この年、「雲は天才である」「面影」「葬列」など急速に小説を書き
創作の分野を詩・歌の世界から小説へと転換しています。

小笠原謙吉宛手紙

 今回の上京について啄木は、盛岡高等小学校時代からの友人である 小笠原謙吉宛 の手紙に、上京の様子、目的などを端的に書いています。そこからは、村内が騒然とし、経済的に非常に厳しい中で、上京して、 文壇の空気に直接触れ、新しい分野への転換を目指す様が読み取れます。

 『・・・・ お手紙は二三日前嬉しく拝読致し候ひき、・・・、京より帰りて六句、・・・、正直に自白すれば、実は銭の郵税に事欠き候ふ事常にて、処世交友の道を知らずとには無く、心にあり乍ら罪を重ね候ふ次第、御察し被下度候、・・・

  去る六月の上京は、実に種々なる用件を兼ねてに候ひき、僅か片路の汽車賃を役場より前借して、瓢 然と出掛け候ひしが、淹留(えんりゅう)十日、所感満腔、げに兄にも葉書一枚出さざりき、御許し被下度候、小生この村に来てより、村内は種々なる問題の下に今猶騒擾を続け居候。

  それら問題の中にて、老父宝徳寺再住の件に関し、在京の曹洞宗務局に運動せんとするは小生上京の第一の用件に候ひし、而して此外小生自身の用件一二にあらず、幾多の企画と希望とを抱いて上野駅 に下車致し候ひしが、足都門の土を踏み、囂然(ごうぜん)たる大都会の響をきき、口末だ一語を出さざるに、小 生は既に泣かむ許りに感じ候ひき、・・・(略)

 兄よ小生は斯くして都門の土を踏める一刹那に於て既に胸中の幾多の企画を暗中に埋(ほうむ)り去り候 ひき、而も東京は急しき所、十日の間は実に暇なく動き、暇なく読み、暇なく感じ候ひき、宿りしは 千駄ケ谷の新詩社に候、(略)

  本年に入りてより、小生は一切の新刊書を読まず候ひき、而して十日滞京の間に小生は多くの小説詩集を読むの好機を得候ひき、これ小生に於て極めて重大なる幸福に候ひき、小生は感激したり、而し て奮概したり、「僕だって小説を書ける」とは小生帰郷の際の唯一の土産に候ひき、

  帰来数日にして、七月三日となりぬ、この日の夕暮より小生は異常の勇気を以て小説に筆を染め候ひ ぬ、爾来一ケ月は小生完たく小説以外に何物をも考へず候ひき、一週に三夜位づつ、徹夜して筆を駆れ り、やがて百四十枚許りなる『おもかげ』一篇は脱稿し、更に長き『雲は天才である』は半分程出来 上りたり、小生は『おもかげ』を小山内君に送り置けり、遠からず何処かの雑誌に現はるるならむと 存じ候、

  数月以前に発行せらるべかりし第二詩集は、都合ありて荏苒(じんぜん=延び延びになる)し居候ひしが、上京の際当分出さぬ事に 本屋へ断はりて参り候、これは小生少しく感ずる所あればに候、小生は現時に於て他の先覚諸先生と 競争的の行動を取るを潔しとせず、小生は単独に小生ならむことを欲す、(略)

  小生は小生の小説に就いて自信あり。

  小生は意を安じて筆を取らむがためには、先づ生活を安固にする方法を講ぜざるべからずと感じ申候、 代用教員は愉快なれど、八円の月給は小生をして意を安んぜしめず、生活費だけを毎月取る工夫なき やと考へ居候、或は不遠小生の一身上に一変動起るやも知れず、尤も未定、

  蚊帳も吊らず、袷着て過し候ふは今年の夏が初めてに候、小生の最大希望は『空虚なき生涯』を送らむ事なり、去る九日、花明兄より「ジャーマンコース」一冊と独和辞典とシルレル、ハイネ、レナウ、 ケルネル、等の袖珍詩集とを貰ひ、その日の夕方より独逸語独学に腐心致し居候、甚だ有望。九月に 入らば既に詩集を読みうるに至るならむと存じ居候。(以下略)

                                  明治三十九年八月十六日渋民村より』

 今回の上京では、啄木は千駄ヶ谷の新詩社に泊まりました。鉄幹・晶子・新詩社の最盛期でしたが、早くも時代の動きをつかみ取り、新詩社に制約されない外の世界へと展望を得ていることがわかります。

千駄ヶ谷停車場から新詩社までの道は野草で埋まり、トカゲなどがいて、啄木にとって好ましい印象で した。
鉄幹・晶子をはじめとする新詩社の仲間達との再会は、故郷での事件・対立を忘れさせ
周辺に満ちる新しい時流そのものに精神が奮い立たされたのだと思われます。

渋民日記 八十日間の記

 この時、啄木は日記をまとめ書きしています。当時の文壇と啄木の心情、鼻っ柱の強さが、いくらかの虚勢とともに噴出して、故郷に帰って東京を見る目に啄木の次の活動が籠められているので一部を引用します。

 『(略)予にして若し一家を東京に移さんとすれば、必ずしも至難の事ではない。予は上京の初め、都合によつたらさうしゃう と考へて行つた。無論出来る。しかし予の感ずる処では、東京は決して予の如き人間の生活に適した所ではない、本を多く読む便利の多い外に、何も利益はない。精神の死ぬ墓は常に都会だ。矢張予はまだまだ田舎に居て、大革命の計画を充分に準備する方が可のだ。

 滞京中感じた事は沢山ある。逢ふた人も沢山ある。然し豪い人は矢張無いものだ。予は常にこれには失望せざるを得ない。敬すべき上田敏氏は、今後文壇の各方面に活動するといふて大気焔であつた。戯曲をもやるといふ。

 日英米詩人の同盟した野口米次郎の「あやめ会」は『あやめ第一巻』を出した。上田氏と薄田氏の詩の外に邦人のでは読むに足るものがない。岩野や前田や児玉など、よく恥かしくもなくアンナ作を出したものだ。薄田泣董氏の『白羊宮』はさすがに巧いものだ。目下の処どうしても日本の第一人である。然し今後はどうか知らぬ。大きい思想がないらしい。新詩社で合評会をひらいた時は、予は一言も口を出ざなかつた。これは自分乍ら賢いやり方であつたと思ふ。

 近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。しかし「偉大」がない。島崎氏も充分望みがある。「破戒」は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない。革命の健児ではない。兎に角仲々盛んになつた。

  が然し・・・然し、・・・矢張自分の想像して居たのが間違つては居なかつた。『これから自分も愈々小説を書くのだ。』といふ決心が、帰郷の際唯一の予のお土産であつた。予は決して、田舎に居るからといつて、頭が鈍くなつては居ない。周囲から刺戟をうけて進む手合とは少々格が違ふ。自然と人生とが目の前にある限り、自分が生きて居る限り、予は矢張り常に生きて居るのだ。 (略)

 七月になつた。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。『雲は天才である。』といふのだ。』

 『雲は天才である。』はこのような状況で生まれたんだと合点が行きます。そして次から次へと作品が生まれました。今回の上京は長くなかったことが、啄木にとっては良かったのだとも思えます。

曹洞宗宗務局への復帰運動

 啄木の上京目的の第一は父・一禎(いってい)の宝徳寺復帰運動でした。一禎は明治37年12月26日、宗費怠納 の理由で、宝徳寺の住職を免ぜられ、追放されていました。 その直接の原因は啄木が作ったものでした。上京に必要な資金捻出のために行われた寺の木材の無断伐採、勤勉な農民には理解しがたかったであろうき啄木のブラブラ生活。こんなことでは、とうてい、寺の将来を任せることはできない 、と檀家が思ったのは無理もありません。

 啄木もその空気を身にしみて感じているようです。かっての寺の生活とは段違いの屈辱とも思える状況で渋民村に戻って、6畳一間に母と、節子の3人で住み、村の小学校の代用教員 になる運動をします。教育に情熱を燃やし、「充分に人格的基礎を有する善美なる感化を故山の子弟が胸奥に刻む・・・」ことで故郷での生活の立て直しをしようと するかのようです。 啄木の故郷に定着する必死の意思表示でもあったように思われます。

 明治39年3月14日、曹洞宗の宗憲発布が行われ、それに伴う恩赦令が発令されました。父親・一禎に、懲戒赦免の通知が届きました。 啄木は青森県野辺地の師・葛原対月のもとで待機していた父親に知らせます。一禎は急遽帰郷し、支持派の檀家と協議の上、宝徳寺再帰を曹洞宗宗務局に願い出ました。 一方では、一禎が宝徳寺退去後に、代務住職として寺を預かっていた中村義寛も住職跡目願を提出しました。村は一禎支持派と中村義寛支持派に別れ、宗務局もなかなか判断を示さなかったようです。

 そのような背景があって、啄木としては、早期解決を図るための最後の一押しをすることが今回の上京の目的であったと思われます。啄木は、この件に関する総元締めである曹洞宗宗務局に足を運んだ であろうと推測します。当時、曹洞宗宗務局は芝公園第七号地2番にありました。

  さて、困ったことに、啄木が泊まった新詩社のある「 千駄ヶ谷停車場」から 芝公園第七号地2番に行く、明治39年6月時点での方法がわかりません。鉄道としては、明治18年(1885)年3月に、品川〜新宿〜板橋〜赤羽間が開業していますから、品川 か新橋に出たのかも知れません。浜松町駅ができたのは、明治42年12月16日とされますから時代が合いません。

 市電を乗り継いで行ったとしても、そのコースはわかりません 。いずれ明らかにしたいと思います。現在この地へ行くには都営地下鉄が一番便利ですが、啄木の時代の再現には、そうも行きません。仕方がないので、現在の「JR・浜松町駅」から増上寺に向かって直進することにしました。 破線は現在の道路です。

 世界貿易センタービルの前を通って、一本みちで大門まで進みます。ビルに取り囲まれていますが、それでも、増上寺の山門と東京タワーの赤い塔の先がぽっかりと空間になり、 東京では珍しく 遠くを思わせます。啄木の時代には増上寺の建物群と門前があるだけで、ひっそりしていたのでしょう。芝大明神の門前を通って宗務局へ向かったことも考えられます。

 今回は、「芝大門」の交差点を右に曲がりました。図では破線で描きました。やや進むと、左手に「芝パークホテル」の標識が見えます。その手前の右手に現・源宝院があります。啄木の時代にはピンクの地域が一画となり「芝公園七号」を構成していました。そこに、「源宝院」と「華養院」が並んでいました。その後、新道を作るに当たって、両院は移動したようです。

 啄木が関係した当時の曹洞宗宗務局は、この「源宝院」の敷地の中の建物を利用して宗務をとっていました。今では新道が通っているため、正確には復元できませんが、「芝パークホテル」の位置辺りと考えられます。図では説明がしやすいのですが、現地に行くと戸惑います。

左が「芝パークホテル」、右が「現・源宝院」
このような位置関係にあり、現在見えている道路の奥辺りが「源宝院」
曹洞宗宗務局のあったところと思われます。

図の芝公園七号と書き込みのある芝の箇所から見た曹洞宗宗務局跡
(右側道路と中央のビル)

 啄木が上京して運動した結果は、あまり芳しくなく、一禎の復帰は叶いませんでした。処分としての懲戒は赦免されましたが、復帰の条件として怠納宗費の弁済がありました。啄木にも一禎にもそれは無理なことでした。さらに、村民全体の支持を得られなかった啄木親子は、結局、 明治40年3月、一禎の家出、5月4日、一家離散という結末を迎えざるを得なかったようです。

 丁度、村人達の対立が深まって、文芸雑誌「小天地」の刊行に伴う経費を巡って、啄木が友人の大信田金次郎から訴えられると云うような時期でした。2ヶ月後の8月4日には、沼宮内警察署長から「委託金費消」の件で呼び出しを受けています。

 これは大信田金次郎本人の訴えではなく、宝徳寺復帰反対派の村人が大信田の名を騙っての捏造による起訴でしたが、それほどまでに啄木一家と村人の一部とは関係が悪化していました。そのような中で、復帰運動を続ける啄木はどのような気持ちでここを通ったのかと、その心情を思うと、手紙や日記に書 いていないだけに重苦しくなります。

第二詩集と金尾文淵堂

 今回の上京のもう一つの目的に第二詩集の発刊があげられています。明治39年1月24日、友人の福田幾一郎に宛てた手紙に次のものがあります。

『代口上

  お留守の室の炬燵にあたる事三十分許りにして、只今帰り申候、僕今度、東京京橋なる金尾文淵堂と云ふ書肆の乞ひを容れ、昨年五月出版したる「あこがれ」以後の諸作をあつめて一巻とし、「古苑」と題して出版させる 事に約ととのひ、急に編輯せねばならぬ事と相成り候処、今迄諸雑誌に掲げたる作物の、手許に控へなきもの多く、従つてこの際至急それら昨年五月以後の諸雑誌など買ひ集むるの要あり、その他、種々編輯上に雑費 を要する次第、

  処が本月の収入は一家々計とカツカツに間に合ふ位、書肆と約束の八十金は原稿と引きかへの事故間に合はず、 来月十日迄には書肆へ原稿渡す約故、それまで都合よろしき余裕有之候ハバ、重ね重ね御申訳無之候へど、何 円にてもよし、この手紙持参のものに御貸し下され度、別紙証書差上候間、金額の所へは前の三円と共に兄の方にて御書き入れ置き被下度候、来月十日には間違なく悉皆お返却可申候、

   福田兄御侍史                                    石川啄木』
 

 手紙は借金の申し込みですが、「古苑」と題する第二詩集を「金尾文淵堂 」の求めから発刊する、その出版の契約がすでにできている、ことになっています。「古苑」がどのようなものであったのかについては藤沢 全氏が「啄木哀果とその時代」で

 『・・・、実際には その原稿を整えた形跡が認められないので、「古苑」なる詩集の独自の構想があったとは考えられない。しかしこ のとき啄木は詩集刊行の意図のもとに「黄草集」と題する詩稿ノートを作成していたことは先刻述べた通りである から、多分詩集「古苑」はこの「黄草集」を意味しているものと考えられる。』

 とされています。今回の上京では、第二詩集の発刊は小笠原謙吉宛 の手紙に『上京の際当分出さぬ事に本屋へ断はり て参り候、これは小生少しく感ずる所あればに候、・・・』とあるように出版しませんでした。しかし、啄木 のこの時代を理解するには重要なカギとなることと思われます。時間ができたら追ってみたいと思っています。

 啄木は、出版社を「金尾文淵堂 」としています。与謝野晶子を徹底して支持した本屋さんで、啄木は「東京京橋なる金尾文淵堂」とし、与謝野晶子はよく「平河町の金尾文淵堂 」を訪問します。いずれ近い内に整理して、訪ねたいと思います。

 今回の上京 から帰郷して、7月、眠る間も惜しく小説を書き始めた啄木の姿を目に浮かべると、詩集の発刊よりも、次へのステップ を重視していたことが頷けるようで、救われた気がします。

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