「雁」(がん)の舞台 『・・・母がまだ若い頃 僕の手をひいて この坂を登るたび いつもため息をついた
地図を開いてたどると、何とまあ正確なこと 一本の釘が車の轍を狂わすように、鯖(さば)の味噌煮で運命にいたずらをさせ ぐるっと時間を明治13年(1880)に戻します。
岡田は「遣(や)る丈のことはちゃんと遣って、夕食後に必ず散歩」に出ます。 『岡田の日々(にちにち)の散歩は大抵道筋(みちすじ)が極まつてゐた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のやうな水の流れ込む不忍(しのばず)の池の北側を廻つて、上野の山をぶらつく。 それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路、狭い賑やかな仲町(なかちょう)を通つて、湯島天神の社内に這入つて、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がつて帰る。併し仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。・・・』
この無縁坂の途中に「お玉」の家が設定されます。「お玉」は以前には鳥越に住んでいました。飴細工の屋台店で子供相手の商いをする父親の手一つで、『目の珠 (たま)よりも大切に』育てられていました。金貸しの末造はその近くを通って職場がある大学へ通っていました。薄暗い長屋の奥から、お玉のひく稽古三味線の音が耳に残ります。やがて、たまたま巡回にきた巡査が押し掛け同様の婿に入るようなことで、お玉は結婚しました。しかし、その巡査には『国に女房も子供もあって』それが出し抜けに訪ねてきて、大騒ぎになります。お玉は井戸へ身を投げるといって飛び出しますが、隣のお上 (かみ)さんに留められて、なんとか父と子で暮らしていました。この話が末造の耳に入って、末造はかってのことを思い出し、人を介してお玉と池之端の松源でお目見えします。末造はおしゃれで、小綺麗な身なりをし、立派な実業家という触れ込み。お玉は、中に入った婆さんに「もう段々稼がれなくなるお父つさんに楽がさせたくはないか」と説得されて、「親のためになるのならば・・・」と、無縁坂の格子戸の家に越してきたのでした。 格子戸の家はこの辺りではすっかり見られなくなりましたが、坂の上の「講安寺」に残されています。毎日散歩する岡田はこの前を通り、玄関にお玉を見かけます。 『紺縮 (こんちぢみ)の単物(ひとえもの)に、黒嬬子(くろじゅす)と茶献上(ちゃけんじょう)との腹合せの帯を締めて、繊(ほそ)い左の手に手拭やら石鹸箱やら糠袋(ぬかぶくろ)やら海綿やらを、細かに編んだ竹の籠に入れたのを懈(だる)げに持つて、右の手を格子に掛けた儘(まま)振り返つた女の姿が、岡田には別に深い印象をも与へなかつた。併し結(ゆ)ひ立ての銀杏返(いてふがへ)しの鬢(びん)が蝉の羽のやうに薄いのと、鼻の高い、細長い、梢寂(ややさび)しい顔が、どこの加減か額から頬に掛けて少し扁(ひら)たいやうな感じをさせるのとが目に留まつた。・・・』 鴎外は、格子戸を綺麗(きれい)に拭き入れて、夕方には打水のしてある家に、湯帰りの「お玉」を登場させます。「岡田には別に深い印象をも与へなかつた」とさりげなく扱いますが、こんなにキッチリした描写には、余程のモデルが居たのだろうと、鴎外ファンの心理をくすぐります。 明治31年7月9日の「万朝報」のゴシップ記事は全くプライバシーなど構わずで、鴎外も、さぞ、顔をしかめたことでしょうが 『「・・・森鴎外事、当時本郷駒込千駄木町廿一番地に住する陸軍々医監森林太郎は児玉せき(三十二)なる女を十八九の頃より妾として非常に寵愛し、嘗て児迄挙げたる細君を離別してせきを本妻に直さんとせしも母の故障に依りて果す能はず。 母も亦鴎外が深くせきを愛するの情を酌み取り、末永く外妾とすべき旨を云ひ渡し、家内の風波を避けん為めせきをば其母なみ(六十)と倶に直ぐ近所なる千駄木林町十一番地に別居せしめ、爾来は母の手許より手当を送りつつありとぞ」』(森まゆみ 鴎外の坂 新潮社 p255) と伝えます。詮索は別にして、「学習研究社 現代日本文学アルバム1 森鴎外 p143」は児玉せき女と鴎外の長男於菟の睦まじい姿を紹介しています。 末造は毎夜のように通ってきますが、泊まったことがありません。やがて、起こるべくして波風が立ち始めます。末造が無縁坂から帰ると、お上さんが子供を寝かせて起きています。「あなた今までどこにゐたんです」と突然頭を持ち上げて詮索の目を向け始めます。 最初は詭弁が功を奏していたものの『末造の家の空気は次第に沈んだ重くろしい方へ傾いて』来ます。言い訳もきかなくなるある日、末造は夫婦喧嘩をして家を飛び出して、淡路町から神保町へ歩き、「糞」「畜生」等とつぶやきながら、飼い鳥を売る店の前に出ます。『お玉に飼はせて置いたら、さぞふさわしかろうと感じて』鳥籠の紅雀を買ってきます。 二百十日を過ぎた日、『まだ今のような巍々 (ぎぎ)たる土塀で囲つてはなかつた。きたない石垣が築いてあつて、苔蒸(こけむ)した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜がのぞいていた』岩崎家の石垣の前に人だかりがしています。籠の紅雀を青大将が襲おうとする場面です。鴎外は丁度、ここに岡田を通りかからせます。岡田は紅雀を助けます。 『「さあ僕もそろそろお暇をしませう」と云って、岡田があたりを見回した。 これがキッカケでお玉と岡田が始めて口をきき、お玉の気持ちは一気に高ぶります。『岡田の通る時刻になると、お玉が草箒を持ち出して、格別ゴミもない格子戸の内を丁寧に掃除』します。籠の鳥と通過する一見自由に見える人の対比、お玉と岡田とが言葉を交わすなかだちの設定、鴎外の上手さに脱帽します。
物話と順序は違いますが、坂の下に魚屋がありました。女中の梅が『小鰺 (こあじ)の色の好いのを』買おうとします。魚屋の上さんは『お前さんは見付けない女中さんだが、どこから買ひにお出でだ』と聞き、『ここの内には高利貸しの妾なんぞに売る肴はないのだから』と云われて梅が駆けて帰るところです。『お玉は聞いているうちに、顔の色が唇まで蒼(あお)くなった』ここで、始めてお玉は末造が高利貸しであることを知ります。『暫くするとお玉は起つて押入を開けて、象皮(ぞうひ)まがいの鞄から、自分で縫つた白金巾(しろかなきん)の前掛を出して腰に結んで、深い溜息を衝(つ)いて台所へ出た。 同じ前掛でも、絹のは此女の為めに、一種の晴着(はれぎ)になつてゐて、台所へ出る時には掛けぬことにしてある。かれは湯帷子(ゆかた)にさへ領垢(えりあか)の附くのを厭つて、鬢(びん)や髱(たぼ)の障(さわ)る襟の所へ、手拭を折り掛けて置く位である。 お玉は此時もう余程落ち着いてゐた。あきらめは此女の最も多く経験してゐる心的作用で、かれの精神は此方角(このほうがく)へなら、油をさした機関のように、滑(なめら)かに働く習慣になっている。』 とお玉の心の動きを描きます。無縁坂を下った先は「不忍池」(しのばずいけ)です。 ここで左に曲がれば、末造の家の前を通って上野の山へ行きますが 池之端の仲町では、鴎外はさまざまなお膳立てをします。先ず、『池の西南の隅から少し蓮玉庵の方へ寄った、往来から少し引っ込めて立てた家』にお玉の父親を住まわせます。妾宅とその父親のために二軒の家を用意することになりますが、その末造の心の動きを面白いように描きます。 『福地源一郎の邸宅の隣』(現在の横山大観記念館)に住む末造は、お玉をどこに住まわせようかと迷い、いろいろ家を物色しました。無縁坂と池の端の仲町に候補を見つけだします。さてどうしたものと、『一晩床の上に寝転んで二つの中どれにしようかと考え』ます。 『うっかり窓でも開けててゐて、子供を連れて仲町へ出掛ける かかあ にでも見られようものなら面倒だ』として、まず、お玉を無縁坂に住ませるようにしたのでした。 ・・・併し話を聞せられて見れば、末造も丸で知らぬ顔をしてゐることは出来ない。見合ひをして一層気に入つたお玉に、例の気前を見せて遣りたい心持が手伝つて、とうとうお玉が無縁坂へ越すと同時に、兼て末造が見て置いた、今一軒の池の端の家へ親爺も越すといふことになつた。 かう相談相手になつて見れば、幾らお玉が自分の貰ふ給金の内で万事済ましたいと云つたと云つて、見す見す苦しい事をするのを知らぬ顔は出来ず、何かにつけて物入がある。それを末造が平気で出すのに、世話を焼いてゐる婆あさんの目を瞠ることが度々であつた。』 というくだりで、鴎外の気の回し方に婆さんを使って冷やかしているようです。こうした上に、さらにもう一つ、仲町に笑い話を用意します。 コウモリ事件です。末造の妻「お常」は女中を連れて仲町を歩いています。『背後から女中が快をそっと引く。「なんだい」と叱るやうに云つて、女中の顔を見る。女中は黙つて左側の店に立つてゐる女を指さす。お常はしぶしぶその方を見て、覚えず足を駐(と)める。そのとたんに女は振り返る。お常とその女とは顔を見合せたのである。 店は仲町の南側の「たしがらや」であつた。「たしがらや 倒さに読めばやらかした」と、何者かの言ひ出した、珍らしい屋号の此店には、金字を印刷した、赤い紙袋に入れた、歯磨を売つてゐた。・・・ ・・・お常が四五歩通り過ぎた時、女中が囁いた。「奥さん。あれですよ。無縁坂の女は。」・・・ ・・・もう一月余り前の事であつた。夫が或る日横浜から帰つて、みやげに蝙蝠の日傘を買つて来た。・・・その傘は白地に細かい弁慶縞のやうな形が、藍で染め出してあつた。たしがらやの店にゐた女の蝙蝠傘がそれと同じだと云ふことを、お常ははつきり認めた。 酒屋の角を池の方へ曲がる時、女中が機嫌を取るやうに云つた。 お常は只胸の中が湧き返るやうで、何事をもはつきり考へることが出来ない。夫に対してどうしよう、なんと云はうと云ふ思案も無い。その癖早く夫に打(ぶ)つ附(つ)かつて、なんとか云はなくてはゐられぬやうな気がする。・・・ 仲町を広小路、上野駅方面に進むと、ビルと林に囲まれて下町風俗資料館があります。 道の反対側には櫛の十三屋(じゅうさんや)が今も老舗で、客の目をひいています。 『・・・若し両隣に口のうるさい人でもゐると、爺いさんがどんなに心安立(こころやすだて)をせずにゐても、無理にも厭な噂を聞せられるのだが、為合(しあわ)せな事には一方の隣が博物館の属官で、法帖なんぞをいぢつて手習ばかりしてゐる男、一方の隣がもう珍らしいものになつてゐる板木師(はんぎし)で、篆刻(てんこく)なんぞには手を出さぬ男だから、どちらも爺いさんの心の平和を破るやうな虞(おそれ)はない。 まだ並んでゐる家の中で、店を開けて商売をしてゐるのは蕎麦屋の蓮玉庵(れんぎょくあん)と煎餅屋と、その先きのもう広小路の角に近い処の十三屋と云ふ櫛屋(くしや)との外には無かつた時代である。』としています。
十三屋の前は不忍池です。ここで、もう一度無縁坂に戻ります。 冬になって、末造が千葉へ出掛けて留守になることがわかりました。お玉は今日こそ岡田を招こうと、女中のお梅を里に帰し、粧いをこらします。 『・・・けふに限つて岡田さんが内の前をお通なさらぬことは決して無い。往反(ゆきかえり)に二度お通なさる日もあるのだから、どうかして一度逢はれずにしまふにしても、二度共見のがすやうなことは無い。けふはどんな犠牲を払つても物を言ひ掛けずには置かない。思ひ切つて物を言ひ掛けるからは、あの方の足が留められぬ筈が無い。 ・・・そしてけさ梅が縞麗に飾つた灰を、火箸で二三度掻き廻したかと思ふと、つと立つて着物を着換へはじめた。同朋町(どうぼうちょう)の女髪結(おんなかみゆひ)の所へ往くのである。これは不断来る髪結が人の好い女で、余所行(よそゆき)の時に結ひに往げと云つて、紹介して置いてくれたのに、これまでまだ一度も往かなかつた内なのである。』 「僕」の嫌いな、その鯖(さば)の味噌煮が上条の『晩飯の膳に上』ります。「僕」は岡田に外で食事をしようと誘い、岡田も話したいことがあるからと、連れだっていつものコースをたどります。 『・・・無縁坂を降り掛かる時、僕は「おい、ゐるぜ」と云つて、肘(ひぢ)で岡田を衝(つ)いた。 『池の縁に出たので、二人共ちよいと足を停めた。 さらに北に進みます。そこで僕と岡田は岸の上に立って何かを見ている石原に出会います。 『「こんな所に立って何を見てゐたのだ」と僕が問うた。 ・・・其頃は根津に通ずる小溝 (こみぞ)から、今三人の立つてゐる汀(みぎは)まで、一面に葦(あし)が茂つてゐた。其葦の枯葉が池の中心に向つて次第に疎(まばら)になつて、只枯蓮(かれはす)の襤褸(ぼろ)のやうな葉、海綿のやうな房(ぼう)が碁布(きふ)せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳(そび)えて、景物(けいぶつ)に荒涼な趣を添へてゐる。此のbitumen(びちゆむ)色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍(にぶ)い反射を見せてゐる水の面(おもて)を、十羽ばかりの雁が緩(ゆる)やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。「あれまで石が届くか」と、石原が岡田の顔を見て云つた。 「届くことは届くが、中るか中らぬかが疑問だ」と、岡田は答へた。 「遣つて見給へ。」 岡田は躊路した。「あれはもう寝るのだらう。石を投げ附けるのは可哀さうだ。」 石原は笑つた。「さう物の哀を知り過ぎては困るなあ。君が投げんと云ふなら、僕が投げる。」 岡田は不精らしく石を拾つた。「そんなら僕が逃がして遣る。」つぶてはひゆうと云ふ微(かす)かな響をさせて飛んだ。僕が其行方(ゆくえ)をぢつと見てゐると、一羽の雁が擡(もた)げてゐた頸(くび)をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑(すべ)つて散つた。しかし飛び起ちはしなかつた。頸を垂れた雁は動かずに故(もと)の所にゐる。』
岡田が投げた石は偶然、雁に当たって雁は死んでしまいます。鯖の味噌煮から始まった一本の釘の食い違いは、蛇に襲われる籠の紅雀から自由に飛び立てるはずの雁、逃がすための石に当たって死んでしまった雁まで来ました。石原はそれを持ち帰って、酒もりをしようと提案し、池の中から取り上げるため暗くなるまで待つことにします。 その間、『僕はと岡田と一しょに花園町の端 (はな)を横切って、東照宮の石段の方へ』向かいます。
そこには鴎外が最初の奥さん「赤松登志子」と過ごした屋敷がありました。 東照宮は上がらず、石段の下を弁天に向かって歩きます。 『石原に分れてからまだ十分しか立たない。それにもう池の周囲の殆ど三分の二を通り過ぎて、仲町裏の池の端をはづれ掛かつてゐる。
広小路方面から「中町通り」を「切り通し」、「無縁坂」方面に向かって進むと 『・・・蕎麦を食ひつつ岡田は云つた。 東洋の風土病を研究しにきたドイツの学者が、ベルツ教授の紹介で、月給二百マルクと往復旅費持ちで岡田を雇ったのでした。ドイツ語を話す学生の中で、漢文を楽に読むものとの条件でした。明治13年の出来事とは思えない世界を伝えます。次ぎへの伏線が鮮やかです。 三人は池から雁を取りだし、 岡田は苦笑しつつも雁を持つた。どんなにして持つて見ても、外套の裾から下へ、羽が二三寸出る。共上外套の裾が不恰好に拡がつて、岡田の姿は円錐形に見える。石原と僕とは、それを目立たせぬやうにしなくてはならぬのである。 巡査は『我々には只無意味な一瞥(いちべつ)を投じたに過ぎな』くて無事通り過ぎ、無縁坂を上がります。 『・・・僕の目は坂の中程に立つて、こつちを見てゐる女の姿を認めて、僕の心は一種異様な激動を感じた。 僕は石原の目を掠めるやうに、女の顔と岡田の顔とを見較べた。いつも薄紅に匂つてゐる岡田の顔は、確に一入赤く染まつた。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧つて、帽の庇に手を掛けた。女の顔は石のやうに凝つてゐた。そして美しく輝つた目の底には、無限の残惜しさが含まれてゐるやうであつた。・・・ 上条へ帰つた時は、僕は草臥(くたびれ)と酒の酔(えひ)とのために、岡田と話すことも出来ずに、別れて寝た。翌日大学から帰つて見ればもう岡田はゐなかつた。・・・』 こうして、雁は終わります。しかし、鴎外は謎めいたことを云います。 ☆☆☆☆☆ 『一本の釘から大事件が生ずるやうに、青魚 (さば)の煮肴(にざかな)が上条の夕食の僕に上つたために、岡田とお玉とは永遠に相見ることを得ずにしまつた。そればかりでは無い。しかしそれより以上の事は雁と云ふ物語の範囲外にある。僕は今此物語を書いてしまつて、指を折つて数へて見ると、もう其時から三十五年を経過してゐる。物語の一半は、親しく岡田に交つてゐて見たのだが、他の一半は岡田が去つた後に、図(はか)らずもお玉と相識(そうしき)になつて聞いたのである。 譬(たと)へぱ実体鏡の下にある左右二枚の図を、一の影像として視るやうに、前に見た事と後に聞いた事とを、照らし合せて作つたのが此物語である。読者は僕に問ふかも知れない。 「お玉とはどうして相識になつて、どんな揚合にそれを聞いたか」と問ふかも知れない。しかしこれに対する答も、 前に云つた通り、物語の範囲外にある。只僕にお玉の情人になる要約の備はつてゐぬことは論を須たぬから、読者は無用の臆測をせぬが好い。』 鴎外と一緒に歩いているような素敵な本です。 地下鉄丸の内線「本郷3丁目」下車、東大の構内を通っても 「龍岡口」からの今回のコースはどんなにゆっくり歩いても3時間。 (2002.5.17.記)
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