多摩川に・・・

(万葉集 東歌 14−3373

       多摩川に曝(さら)す手作(てづくり)さらさらに
                        何(なに)そ この児の ここだ愛(かな)しき (14‐3373)

多摩川の清流に 愛しい娘が 
税として都に送る手織の布を曝している。
サラサラと流れる澄んだ水に、布はアクがとれて  さらさらに(新しく新しく 白く)なる。  
どうして この娘は こんなにこんなに(さらにさらに)可愛いのだろうか!!

 ema2.jpg (12128 バイト)

調布市(調布ヶ丘1丁目) 布多天神社 絵馬

 ひそかに想いを寄せているのでしょうか。一心に布を曝している愛しい娘。サラサラと流れる瀬に長尺の布を操る見事な技、美しく妖しいまでに軌跡を残す白い腕や足元・・・思わず口に出た恋の告白でしょうか。

それとも、親しい仲間が岸辺に集まって、誰かがお目当ての娘を称えて歌を歌う。すかさず
「それからどうした・・・」「ソーレ・・・」  
と、あいの手が入って、ピチピチとした青春の囃し(はやし)中で
布曝しの労働が続けられる様子でしょうか。

さらす さらさらに このこの ここだ・・・がリズムになって
「多摩川」と「手作」と「愛おしさ」
にオーバーラップします。

 武蔵野万葉の代表選手でしょう。 万葉集「東歌」(あずまうた)の中の一首、武蔵国の最初にあります。 よほど昔の人も気に入ったらしく、立派な歌碑が残されています。江戸時代に一度造られ、多摩川の洪水のため流されたので、拓本を元に、大正11年(1922)に再建されたものだそうです。  

komaekahi4.jpg (15206 バイト)

狛江市(中和泉4丁目)の多摩川沿いにある万葉歌碑
万葉仮名で書かれている

komaetamagawa2.jpg (18183 バイト)

万葉歌碑の近くの多摩川

さて、この歌、どこで創られたのでしょう

 幸いに、「武蔵国」の歌で、「多摩川」とはっきり地名がわかっています。そして「手作(てづくり)と言う言葉が入っています。どうやら、これらを目当てにすればたどり着けそうです。
 問題は「手作」ですが、当時の税金の一種で、を織って納めたもののようです。その地方の産物を納めるもので「調」と呼ばれました。多摩地方では布が中心になっていたようです。

 多摩川の沿岸で、古代の集落の跡があり、布の生産が盛んであったところに見当をつければ良さそうです。税の負担はさぞ辛かっただろうに、この歌は底抜けに明るくて共感を呼びます。パットしないこの頃、若さにはち切れて、ここぞと愛を歌い上げた8世紀の若者のふるさとが恋しくなりました。

tyoufueki2.jpg (7283 バイト) tyoufuekikeiou2.jpg (6470 バイト)

                                   京王線調布駅

 京王線に絵にかいたようにぴったりの名前の駅があります。 降りれば「調布市」、あまりにも出来すぎのようですが、ともかく、ここからふるさと探しを始めました。
 実は、調布の名前は明治になってから名乗ったものです。それ以前は、「上石原宿」「上布田宿」「布田小島分」など6つの村に分かれていました。明治22年(1889)、それらが集まって、「調布町」になり、やがて、昭和30年(1955)に「調布市」になったものです。おそらく、この歌の世界にちなん「調布」と名付けたのでしょう。

fudatimei2.jpg (12847 バイト)

ここまで小さくしてしまうと読めませんが
左側が「布田5丁目」右が「小島3丁目」の住居表示

古代の名が生きている

 駅を降りて多摩川に向かって歩くと、目に入るのが「布田(ふだ)」や「小島(こじま)」の地名。なかなかやりますねー、古代の地名が今に、生きています。

 平安時代の百科事典である「和名抄」を見ると、多摩郡には11の「郷」がありました。
 乎加波=小川(おがわ)、加波久知=川口(かわぐち)、乎也木=小楊(おやき)、乎乃=小野、爾布多=新田(にいだ)
 乎之万=小島(おしま)、安万田=海田(あまた)、伊之都=石津(いしつ)、古万江=狛江(こまえ)、勢多(せた)です。

 八王子から世田谷区まで、大まかに現在の地名でもたどれます。しかし、厳密には、まだ、どこがどこと確定されてはいません。むしろ、たくさんの解釈があります。というのも、古代から現代まで、そのまま伝わったものてはないからです。中世には、これらの名前は消え去ったかのように見えなくなります。

 暫くたって、江戸時代になると、布田や小島という村が現れてきます。調布市は、古代の「爾布多(にふた)」「乎之万(こじま)」にちなんで、江戸時代の名をとって町名としたのでしょう。

 それにしても、すでに、この時代に「布」の文字が使われていることを見ても、この地域に織物が盛んであったことがうなずけます。地図の上で測れば、多摩川までは500メートルくらいの距離。 間違いなく歌のふるさとに近づいていることを実感します。

当時の集落は府中崖線沿いにある

 この地方の古墳時代から奈良時代にかけての集落は、水田耕作と畑作を使いこなす関係から、武蔵野台地の高台の上よりは、多摩川に接する低地にあります。台地と低地の間には、境目がついていて、段差になっています。多摩川が最後に削りとって動いていった跡で、府中崖線(ふちゅうがいせん)と呼びます。これを追えば、まず間違いないようです。

futyuugaisenn2.jpg (20538 バイト)

少し高台に住宅があり、中央のケヤキに向かって擁壁と道路の間に段差がある
これが「府中崖線」、この崖線に沿って、古代の集落は営まれた。

古天神を探す

 調布市には、丁度、布についての伝説を持つ「古天神(ふるてんじん)が知られています。伝説は

 『布多天神社の縁起には、延暦18年(799)に木綿の実がはじめて我が国にもたらされたが、布にする方法を知るものはなく、多摩川べりに広福長者という人が居り、この神社に7日間こもって祈ると、神のお告げで布にする術を知り、多摩川にさらして整えて朝廷に奉った。それに因んでこの付近を調布の里といった・・・』
 (調布市史 上 p266)
 
 というものです。もちろん伝説ですから、史実として年号やその他を厳密に追うと矛盾が生じます。それらは承知の上で、その中に、地域の大事なことの反映があるもんだ、として、訪ねました。

 「布多天神社」は現在、甲州街道の北にあって賑わっていますが、文明9年(1477)に起こった多摩川の大洪水で被害を受け、集落ごと現在の地に移転したのだそうです。そのもとの位置が「古天神」と呼ばれるところです。

 furutennjinn2.jpg (31898 バイト)

古天神の故地 
今は古天神公園となっている。
 

 やっぱり、「古天神」は府中崖線に沿ったところにありました。調布市が発掘した結果、「古墳」と「何かをまつった跡(祭祀跡)」や「住居跡」、「溝」などが発見されています。近所のおじいさんがいて、それはそれは丁寧にその状況と由来を教えてくれました。今でも、現地に天神様は生きています。

 それにしても、多摩川までは約500メートルはあります。ここが氾濫にあって、集落ごと移転したとは驚きで、当時の多摩川は相当に暴れ川であったことがわかります。
 説明板には、「市内でも特に埋蔵文化財の多い重要地帯の一つに数えられています。」と記されています。

歌のふるさとは広い範囲に関係がある

 遺跡地図を広げて、古天神を起点にして、多摩川沿いに遺跡をたどってみました。上流は青梅市、下流は河口付近まで濃淡は別にして、点々と連続してそれらしき遺跡が発見されています。また、青梅市の調布、大田区の田園調布、世田谷区の砧(きぬた)、府中市の白糸、染屋など織物に関係する地名が並んでいます。

 この歌のふるさとは多摩川沿いの古集落のどこをとっても多かれ少なかれ関係があって、一概にここだと、断定はできそうもありません。むしろ、代表格が調布市であり、狛江市だろうくらいにしておいた方が良さそうです。

 各地はおいおい訪ねることにして、次のページでは「手作」について見ておきたいと思います。

次へ(多摩川に・・・2 手作)
ホームページへ