崩岸の上に(5)
(東京都稲城地方)

東京都稲城地方の崩岸を訪ね
Hの西山の
大露頭からL坂浜・鐙野方面を巡ります。

H西山の大露頭 I威光寺・弁天洞窟 J穴沢天神社 K寺尾台廃寺 
L坂浜・鐙野 M坂浜横穴墓 N高勝寺 OJR南武線南多摩駅 P京王線稲城駅
Q京王線よみうりランド駅 R京王線若葉台駅 S向陽台団地

H西山の大露頭

 P京王線稲城駅からQようみりランド駅までの間にH「西山の大露頭」と呼ばれる「稲城砂層」の崖があります。万葉のアズにあたり、芳賀善次郎氏が「武蔵野の万葉を歩く」(p159〜165)で「崩岸の上に」の候補地にあげられたところです。

山砂採取と京王相模原線の開通工事によって大きく削り取られ、現在の姿になったようで
明治時代にはさらに前方に張り出して、急な崖となっていたと伝えられます。

すぐ近くまで近寄って撮影したかったのですが、危険防止のためか立ち入り禁止でした。
万葉の時代はどうなっていたのか、多摩川が自然に削った頃を思うと
十分に歌の背景を感じさせます。(画像は京王相模線の車窓から)

I威光寺・弁天洞窟

 Qの京王相模線よみうりランド駅を下車して500メートルほど稲城駅寄りに戻ると左折して谷ッに向かう道に出ます。威光寺・弁天洞窟への道です。まさに谷の中の道で、かっての矢野口村の背骨をなすところかと梨畑になった周囲を見回している内に、Iの威光寺に着きます。

 威光寺の創建は江戸時代と考えられています。今回、注目はこの寺の境内にある弁天洞窟です。

御覧の通りの現状で、横穴墓と考えられています。

洞窟の中は明治17年に拡張し弁天様やその他の仏が祀られています。
新東京百景の一つに選ばれています。

中は迂回できて、手が加えられていますが、入り口部分は横穴墓の羨道部とされます。
正式な発掘があったわけではなく、後世に手が入れられていることから
遺跡とはされていませんが、今後、近隣の調査によって、新たな発見が期待されます。

御覧の通りの地質で、まさにアズに造られた墓と云えそうです。
横穴墓とすれば、稲城市発見の他の横穴墓、周囲の状況から7〜8世紀の時代観が与えられます。
どんな人の墓なのか知りたいものです。

J穴沢天神社

 Qの京王相模線よみうりランド駅から川崎方面を見ると、天神山(小沢峰)の森が線路に迫っています。駅前の道を三沢川に沿って川崎方面に1キロほど進みます。

鳥居からの石段は、見上げると首が痛いほど急で

周辺は「稲城砂層」の崖となっています。

穴沢天神社は延喜式記載の式内社の一つです。
稲城市・穴沢天神、国立市・谷保天神、奥多摩町・棚沢天神の3社
が候補とされていますが、新編武蔵風土記稿では、稲城市・穴沢天神を式内社としています。

 稲城市史では穴沢天神について次のように記しています。

 『また 当社を式内社とする理由として、社殿付近の地形が、穴沢という社名に相当していることで、社殿北側の急斜面に、大きな洞穴があり、湧水が流出して、下を流れる三沢川に注いでいる。

 また当社の奉斎者を祀ったと思われる横穴墓が、三沢川に接岸して幾つかある。前記当社北側の洞穴も横穴墓である。また当社西方にあって、丘陵北岸の威光寺境内にある弁天洞窟も、横穴墓の跡である。現在二三体の石像を祀り、壁面に大蛇の浮き彫りがある。

 なお問題とされていることは、穴沢天神社のもと別当威光寺(延宝三年より別当寺)の文書に「穴沢天神社縁起」(後記)があって、これには正治元年(一一九九)の社殿建立以前の記事がないことである。このような問題点及び後記のような若干の異説があるけれども、一般的には当市矢野口の穴沢天神社は式内社であろうといわれている。

 当社の創建は、社伝では孝安天皇四年となっており、『惣国風土記(武蔵国残篇)』にもそのように出ているが、確かなことは分らない。前記の当社縁起では、一一九九年の社殿建立以前のことは不詳である。

 祭神は少彦名命(本殿の中殿)で『新編武蔵風土記稿』『神社明細帳』その他もこの命を祭神としている。この命は神産霊神(卜占神)の御子で、大国主命に協力された。また医療神であり、世上では「えびすさま」とも称されている。それに菅原道真公(向って右の相殿)と大己貴命(大国主命・向って左の相殿)である。菅原道真合祀は元禄七年(一六九四)に地頭の加藤氏による。また大己貴命の合祀は、矢野口村字谷戸鎮座の、元国安神社の祭神であったものを、大正七年(一九一八)に合祀したのである(大己貴命は俗に福の神大黒さまともいわれている)。』(稲城市史 上巻 p518〜519)

天神社の北側(本殿裏)の稲城層は画像の通りです。

さらに社殿全体が画像のような稲城層に取り囲まれています。
稲城市史が云う、『また当社の奉斎者を祀ったと思われる横穴墓が、三沢川に接岸して幾つかある。』
が明確になり、万葉の時代の村が発見されれば、まさに「崩岸の・・・」うたの故郷に相応しい地域です。

L坂浜・鐙野 

 稲城は丘陵と坂のまちです。特に坂浜地域は景観が豊かで、その変化に、思わず歩みが早まります。京王線稲城駅で降りてバスでもいいのですが、時間があって、歩くことが苦にならなければ、JR南武線南多摩駅で降りて、そのまま城山通りから向陽台団地を越して長峰団地に出るのもまた一興です。歩く距離は3キロほどです。

 武蔵鐙(むさしあぶみ)の伝承が残り、鍛冶工房跡、横穴墓が発掘調査されている地域です。万葉の時代とは若干時代を異にしそうですが、高麗郡と密接な関係がある伝承でもあり、高麗郡建郡以前の高麗人の武蔵移住、いやその後の発展と論議が分かれそうです。今回は向陽台団地から巡ってみました。

向陽台団地・稲城中央公園野球場を通り、「くじら橋」に出ます。

くじら橋の上からは多摩カントリークラブのゴルフ場越しに長峰団地が見え
緩やかな傾斜が団地へと続きます。

長峰団地(長峰3丁目、2丁目)の斜面に、工人集落がありました。
地図上の位置は多摩カントリー・クラブハウスから東南に向けての日だまりになります。

 11の竪穴状遺構が発掘され、5軒が住居址、6軒が鍛冶工房址でした。(多摩ニュータウン5号遺跡)
作業場を思わせるテラス状遺構やフイゴの羽口が出土しました。
遺跡はさらに範囲を拡大して存在するようです。

また、注目は火葬した成人の骨を納めて埋めた「蔵骨器(ぞうこつき)」が出土したことです。

丘陵部一帯に鍛冶を営み、火葬の習慣を持つ集団が定着していたことがわかります。
時代的には、9世紀の初めから第3四半期が多く、9世紀末から10世紀初め頃の遺跡と考えられています。

坂浜は三沢川・鶴川街道を挟んで二つの峰で構成されます。
長峰からの斜面は三沢川に向かって下り、その彼方に、「鐙原(あぶみがはら)」の峰が望めます。
鍛冶関連の伝承を伝えるところです。

京王相模原線(中央の白い線)は三沢川のつくった谷を横切り、左手に駒澤女子大学があります。
鐙原は谷越しの峰の頂上部に位置します。

峰と峰との谷ッに流れる三沢川は生活の基盤になったのでしょう、今でも水田が営まれています。

  鶴川街道から平尾団地方面(左)に登り道が分かれ
中腹にN高勝寺があり、登り切ると
「三沢の泉一すじに・・・」「あぶみが原の朝ぼらけ・・・」
と、集落の原点を誇る校歌を持つ「稲城市立第二小学校」があります。

その周辺に、鐙原は、鍛冶工人の活躍した長峰団地を遠景として広がりを見せています。
武蔵名勝図会が「鐙原」「鐙塚」の伝承を伝えるところです。

武蔵鐙

 新編武蔵風土記稿・高麗郡の総説に
 『・・・又古くより世に武蔵鐙と称するものあり、此処に遷されたる高麗人の造るところと云。【盛衰記】に、畠山重忠小坪合戦の時、武蔵鐙を用ゆと云、今の世に五六鐙と称するものは、其遺製なるべし、』(新編武蔵風土記稿 高麗郡総説 第9巻 p82)と書かれます。

 新編武蔵風土記稿の記述は、これだけですが、同じ編者植田孟晋が著した武蔵名勝図会では、多摩郡の坂浜村の項で、執拗とも云えるほどの熱の入れ方で武蔵鐙について書きます。

 『坂浜村

 小沢郷諸岡庄府中領と唱う。橘樹、都筑両郡の界に接す。村名の文字はいま「坂」の字を書きてサガと唱う。正字に書くときは嵯峨浜なり。鄙野の方言にて坂をサガと唱うることあり。嵯峨と坂を誤れることにぞ。又、一説に、ここに古え武蔵鐙を作りしもの住せし地ありともいえり。武蔵鐙は高麗人が作りはじめしといえば、按ずるにその鐙師の先祖高麗人の名などよりはじまりて村名に伝えしにやと伝うれども、信用なりがたし。

 鐙野

 村の小名なり。伝云 ここは往古鐙作りの住せし地なるゆえ、名に唱うと。さすれば、古えの名産なる武蔵鐙と称せしものならん。その鐙師の祖は高麗国より帰化せしものの子孫なり。又云武蔵鐙は五六鐙のことにて、その製軽くして軍用に便りよきゆえ用いられたる製作なり。いつの頃より始まれるということも詳かならねど、或説云光仁天皇宝亀十一年(七八○)勅して、諸国にて造れる年料の鉄甲胃はみな革を以て造り前例の如く上貢せよ。革の製は躬をつつみて軽便なり。箭にあたりて貫きがたし。その製作もなし易しとのことを以て、諸国へ命じ給いし頃、鉄鐙も
また軽きを用いられし勘より高麗人の工夫を以て作り出せしものならんといえり。

 鐙塚

 右の鐙野の辺にあり。古え鐙作りが住せし跡を封じて築きたる塚なり。高さ七、八尺なり。』

と江戸時代の末、この地に、武蔵鐙についての伝承が色濃く残っていたことを伝えます。また、高麗郡には狭山市内で柏原(かしわばら)宮ノ越遺跡、上広瀬今宿(いまじゅく)遺跡、笹井宮地(みやち)遺跡などで小鍛冶工房址が発見されています。いずれも9世紀とされますが、狭山市史では『今後の調査によってはもう少しさかのぼる可能性も否定できない。』(通史編1 p174)としています。また、日高市史では

 『古代末期から中世にかけて台頭した加治氏や金子氏など鍛冶に関係する武蔵武士出身地域であった条件などから、高麗郡における鐙工所在説は大きな可能性を考えることができる。』(通史編p255)としています。

 畠山重忠の話は治承4年(1180)8月、小坪坂(神奈川県逗子市)で行われた畠山重忠と三浦一族との合戦の時、重忠が乗った馬の足かけに「武蔵鐙」が使われていたとするもので、稲城市坂浜で発見されている鍛冶工房址も9世紀前半が想定されています。

 これらから、直ちに武蔵鐙=高麗人とすることは危険きわまりないことですが、
 ・飯能市のアズが砂鉄の産地であること
 ・稲城市の鐙野、多摩川の左岸を含めた一帯に渡来系と考えられる史跡が多くあること
などを考え合わせれば、今、全く姿を変えた地域に、かっての伝承として伝えられるこれらのことについて、思いを馳せることも意味があるでしょう。峰を登り下りして万葉の時代に思いを致す時その感をより深めました。

M坂浜横穴墓 

 鐙野の東側は谷本川の谷に向かってなだらかに下ります。一帯は東京よみうりカントリークラブのゴルフ場になっていますが、その付近から横穴墓が発見されています。

この斜面を下ると神奈川県川崎市、かっての橘樹郡(たちばなぐん)で、文化圏を異にします。

発見を伝える昭和50年(1975)2月14日の朝日新聞
『先史時代の人骨か』との見出しを付けて
『横穴は標高7〜80メートル付近で丘陵の中腹。周りは雑木林で・・・』
と情況を報じています。

 稲城市史は『人骨は4体分で、国立科学博物館の監定によると成年男女各1・少年1・不明1と報告されており、有力家族の合葬墓であることがわかる。』(p478) 『鶴見川流域の他の横穴墓群と比較して、7世紀後半前後と考えておきたい。』(p482)としています。

 谷本川は鶴見川の上流で、三沢川(多摩川流域)とは違った歴史的背景を持っています。坂浜はこれらの混合するところです。万葉の時代の前後=国府・国分寺の創建期、この地域には画期となるような興味あふれる出来事が起こっているようです。現在の行政区域を越えた広域の分析が新しい発見を導くのでしょう。

N高勝寺

 浜坂には中世の稲城地方を語る代表的な寺院として高勝寺があります。中世から戦国時代にかけて興隆することが伝えられます。なかなかの門構えで、先に紹介した東京よみうりカントリークラブに通ずる道は高勝寺通りと名付けられています。

 この寺に、有名なケヤキ材一本造り、1メートル50センチを超す聖観音像があります。もとは同じ坂浜・於部屋の妙福寺にあったものが移されたとされます。製作年代は平安時代中期から末期まで議論は多々あるようです。このページで紹介したいのは、坂浜に平安時代にこれだけの(画像が紹介出来ないのが残念です)仏像をそなえ、寺院を営む有力者が居たことです。

 時代が下がって応安元年(1368)中興開山の鎮海は金沢称名寺から来られてとされます。稲城氏という鎌倉時代に名を馳せた武士の本拠地であったことにもよるのでしょうが、後北条氏時代にも度々名が出てきます。これらの背骨がすでに平安時代に培われていたことを思い、大丸遺跡の窯から寺尾台廃寺への瓦の供給、長峰の火葬骨蔵器の埋納などを考え合わせると、この地域の凄さに緊張します。(坂浜から高勝寺までは、2003.9.04.記)

歌碑の建設が待ち遠しい

 武蔵国府、国分寺、その周辺を取り巻くアズ地形と万葉の時代の遺跡、伝承について、稲城地方に焦点を当ててみました。長々と紹介しましたが、これらを通して、地形と地質、歴史的背景が整っていれば、どの地域でもアズに関する歌碑があってもおかしくないことを主張したかったからです。

 ただ、この地方に、アズ地形、地質はあっても、それを明確に「アズ・崩岸・阿須」と呼ぶところはありませんでした。そのような地名にもぶつかりませんでした。

 歴史散歩や文学散歩だけでなく、故郷散歩が盛んです。ひょっと歌碑があって、その背景が語られたら、その散歩、語らいが、どんなに豊かになるでしょう。凝ったもの、お金のかかったものでなくていいですから、歌碑が建てられてネットワークになるようにして欲しいものです。(2003.8.25.記)

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