井伏鱒二

18981993(明治31‐平成5)

阿佐ヶ谷駅北口から、横光利一、上林暁、三好達治、太宰治と訪ねてきました。
さらに西に進むと、井伏鱒二の住んだ地域に達します。

阿佐ヶ谷界隈の文士と言うよりも
荻窪界隈と言った方が適切かも知れませんが、「阿佐ヶ谷会」のこともあり
井伏が杉並に転居した頃に絞って、ここに書きます。

井伏鱒二の転居

 杉並の文士・作家を語るのに、中心となる一人が井伏鱒二であろう。この人の許に多くの文士・作家が集まった。無類の将棋好きから、いつの間にか「阿佐ヶ谷将棋会」の核となっていて、仲間が仲間を呼び、「阿佐ヶ谷文士村」とも言うべきグループをつくった。太宰治との関係もとりわけ深かった。

明治31年(1898)広島県深安郡賀茂村(加茂町)に誕生。
大正8年(1919)21歳 早稲田大学文学部入学 1級下に横光利一、中山義秀がいた。
大正10年(1921)23歳 東京美術学校別格科に入学。教授と衝突、早稲田大学仏文科中退。
昭和2年(1927)29歳 9月、東京府豊多摩郡井荻村字下井草1810(杉並区清水1−17)に居住10月、秋本節子と結婚。

 結婚に当たり、早稲田の下宿を転々として、最後は牛込鶴巻町の南越館に下宿していた井伏は、昭和2年5月、中央線沿線に家を建てるため、当時の井荻村に、自分で土地を探しに来た。その時の様子が「荻窪風土記」に次のように記されている。

 『昭和二年の五月、私はここの地所を探しに来たとき、天沼キリスト教会に沿うて弁天通りを通りぬけて来た。すると麦畑のなかに、鍬をつかつてゐる男がゐた。その辺には風よけの森に囲まれた農家一軒と、その隣に新しい平屋建の家が一棟あるだけで、広々とした麦畑のなかに、人の姿といつてはその野良着の男しか見えなかつた。私は畦道をまつすぐにそこまで行つて、 

「おつさん、この土地を貸してくれたいか」と言つた。相手は麦の根元に土をかける作業を止して、
「貸してもいいよ。坪七銭だ。去年なら、坪三銭五厘だがね」と言つた。 

 敷金のことを訊くと、そんなことよりも、コウカの下肥は他へ譲らぬ契約をしてくれと言つた。コウカは後架であつた。この辺の農家には、内後架と外後架があることもわかつた。私は貸してもらふことにした。・・・』(同上p13)

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この時、井伏鱒二が目にした「天沼キリスト教会」は化粧替えして、東京衛生病院の駐車場の奥に爽やかにある。
井伏が通り抜けてきた「弁天通り」の「弁天池」は私企業のクラブとなって跡形もない。(右)

 家の建築には、一騒動があった。棟梁は友達に紹介してもらった。普通なら坪当たり45円から50円の相場の建築費を

 「先生のお宅なら坪七十五円ぐらいのものを引き受けたい・・・」

 とその棟梁は言って、びっくりするほどの大きな仮小屋をつくった。ところが、暫くしてもいっこうに工事は進まない。何のことはない、博打好きの棟梁に先渡し金を使い込まれたのである。

 井伏は困り果てて、借金したり、兄貴からの送金をねだったりして、ともかく家はできあがった。案の定
 「いつか荻窪駅のホームで聞いた、いわゆる借家普請の坪基礎で土台は米ツガという粗悪品である」
 と本人をして嘆かせるものであった。

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井伏邸

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玄関からはひょっと本人が顔を出してきそうな雰囲気がある。

 安岡章太郎はこの当時のことを井伏との会話を復元して、次のように書いている。

 『このへん、僕が引っ越してきたころは、まだ一面、麦畑でね。飲み食いする店は一軒もなかったから、定期を買って毎日、新宿まで食事しに行ったものだ。あ、太宰が鎌滝にいたころは、もうそんなことはなかったね。太宰は勤勉な男でね、下宿の晩飯で毎晩、おむすびをこさえてね、徹夜で仕事するときの食料にしたもんだ。・・・』(群像日本の作家16井伏鱒二p15)

将棋会と阿佐ヶ谷会

 川端康成や井伏鱒二は将棋が強かった。井伏の周りにはいつの間にか将棋を指す文士が集まり、井伏は阿佐ヶ谷将棋会・阿佐ヶ谷会の中心になっていた。

昭和3年(1928)30歳 5月、「文芸都市」の同人となる。船橋誠一、阿部知二、梶井基次郎、今日出海などと活動する。
昭和4年(1929)31歳 阿佐ヶ谷将棋会結成(時期については、いろいろな説がある)

 昭和の初期から、文壇では将棋が流行った。様々な背景があったと思われるが、時流の外にあった文士達の酒とともに憂さ晴らしの一つであったようだ。特に、菊池寛が文芸春秋社などで文壇将棋大会などを催し、この流行は更に拡がったらしい。各地に将棋会が出来ている。

 井伏鱒二が率いる「阿佐ヶ谷将棋会」もその一つであった。昭和4年発会説などあるが、将棋会と酒、文芸論談が一緒になって交流の場と輪を広める役割を果たした。その将棋会の戦前の溜まり場が「ピノチオ」であった。 

 昭和16年頃から、将棋会は杉並作家の交流会として「阿佐ヶ谷会」となり、第二次大戦中は一時中断した。戦後は又復活し、ピノチオの強制疎開もあり、場所は阿佐ヶ谷駅の南側「青柳瑞穂」邸に変わった。その様子は「荻窪風土記」で次のように紹介されている。 

 『阿佐ヶ谷将棋会が発足したのは、大体の記憶だが昭和四年頃であつた。初めのうちは阿佐ヶ谷駅南口通りをちよつと左に入つたところの焼芋屋で内職にやつてゐる会所で対局してゐたが、町内の隠居や他所者など指しに来ると、金を賭けたりするので殺気立つて口論が始まつたりすることがある。傍迷惑であつた。 

 それで会合を止して、それから少し間を置き、昭和八年にシナ料理屋ピノチオの離れを会場に再発足した。この将棋会が阿佐ヶ谷文芸懇話会になつたのは昭和十五年の暮だから、阿佐ヶ谷将棋会は断続したがらずいぶん長く続いたわけである。』(同上p86) 

syougikai.jpg (6898 バイト) 『阿佐ヶ谷将棋会は、荻窪、阿佐ヶ谷に住む文学青年の会で、外村繁、古谷綱武、青柳瑞穂、小田嶽夫、秋沢三郎、太宰治、中村地平などが会員であつた。それが毎月会合し、後になると(昭和十五年頃になると)浅見淵、亀井勝一郎、浜野修、木山捷平、上林暁、村上菊一郎など入つて来た。(中略) 

 会員のうちに、将棋の全然駄目な外村繁と青柳瑞穂がゐたが、青柳と外村は墨汁で点取表をつける役をした。第一回将棋会のとき、外村は勝負がすんで講評をした。将棋が指せないので、「初盤(序盤)に於きましては、丁々発止の激戦でありまして、形勢は秋沢君が優勢でしたが、中盤、王手をした太宰君が急に優勢になりまして・…」さういふやうに出まかせの間違つた講評をした。それが可笑しくて、みんな喝采を送つたのを今だに忘れない。 

 阿佐ヶ谷将棋会は主に文学青年婁れした者たちの集まりだが、太宰治、中村地平、古谷綱武の三人は学生で、どういふものか古谷はとても大人しかつた。・・・』(同上p73) 

 阿佐ヶ谷将棋会はやがて「阿佐ヶ谷会」になる。そのメンバーは中央沿線のそうそうたる作家や文学者であった。木山捷平は「阿佐ヶ谷会雑記」(昭和31年1月)で思い出をたどりなが 「阿佐ヶ谷将棋会
ら次のような多彩な面々を書き出している。  
   「阿佐ヶ谷会」については、杉並区立文学館(郷土博物館内)図録に
                                  に詳しい。図録 井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士 p27より。

八王子市 浅見淵、滝井孝作
武蔵野市 亀井勝一郎、小田嶽夫
練馬区 秋沢三耶、木山捷平
杉並区 井伏鱒二、青柳瑞穂、外村繁 上林暁、田川博一、印南寛、火野葦平、河盛好蔵、臼井吉見、村上菊一       郎、新庄嘉章、平島秀隆、原二郎、古屋綱武、巌谷大四、伊藤整
中野区 中島健蔵
世田谷区 島村利正、三好達治
川崎市 河上徹太郎
宮崎市 中村地平(疎開して宮崎市で県立図書館長)
故  人 田畑修一郎、太宰治 

 『尤もこの将棋会はたいてい、午後一時の開会で、晩になると、酒になるのが例であった。有志のものが一杯やるのではなく、酒を飲むのも、はじめから「会」の中にはいっているのであった。

 だから前記の外村繁なんか、将棋はやらないくせに、一時から来ていて、成績表をつくる役を楽しみにしていたものである。』
 (木山捷平「阿佐ヶ谷会雑記」講談社 木山捷平全集 第3巻 p293−297)

 こうして、井伏鱒二は杉並に腰を落ち着かせ、60有余年、この地で生涯を過ごした。平成5年7月10日、肺炎のため東京衛生病院で亡くなった。12日、天沼教会で密葬が行われ、葬儀・告別式は故人の意志によって行われなかった。

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東京衛生病院と天沼教会は同一敷地内にある。

吉岡堅二との関係

 荻窪の駅前に「おかめ」というおでん屋があった。井伏も常連で、よく、そこで画家「吉岡堅二」と出会ったらしい。第二次世界大戦が拡大するにつれ、酒の入手が難しくなってきたが、「おかめ」には入ったらしく、画家の野田九浦さんが弟子を連れてよく飲みにきたという。その時、客分として一緒に来たのが吉岡堅二であった。
 井伏の作品に吉岡堅二の装幀は多い。また、吉岡堅二は太宰の「桜桃」の装幀もした。 

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吉岡堅二の装幀
ちなみに吉岡堅二氏は東大和市に住んだ。

太宰治との関係 

 太宰は井伏の許に郷里から送金される生活費を受け取り、井伏の媒酌で「石原美知子」と結婚し、井伏の自宅で結婚式を挙げた。井伏を生涯の師とし、井伏の自宅近くに転居し、井伏の旅先を追った。昭和13年、井伏が三坂峠の天下茶屋に行けば、その後を追い、「富士には月見草がよく似合ふ」の「富獄百景」を書いた。

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四面道への道
左側中央上に、縦形の赤い看板が見えるが、その奥に太宰が住み
道路右側で、看板の前あたりに路地があり、そこを入った所に井伏邸がある。
ほんの目の前で、当時、いかに太宰が井伏を追ったかがよくわかる。

追記(2001.6.24.)

天下茶屋の主 外川 政男さん

2001.6.24.読売新聞は天下茶屋の主 外川 政男さんを追悼して
次のように書いています。

外川さんと井伏鱒二、太宰の晩年と井伏鱒二の思いが伝わり、感動しました。

・・・
「宝物」と呼んで大事にしていた井伏からの数十通の手紙・・・
には、どんな交流があったのでしょうか。

 『「富士には月見草がよく似合う」の一節で知られる太宰治の「富嶽百景」。太宰をしのぶ「桜桃忌」が、東京・三鷹の禅林寺にならって一九七七年、この名作を生み出した山梨・御坂峠の天下茶屋でも始まった。二十五回目の今年。

 二十人の太宰ファンを集めて今月十七日に開かれたが、主の姿はなかった。太宰の思い出話を披露した外川さんの妻、ヤエ子さん(92)は「今年も桜桃忌で話すのを楽しみにしていました」と語った。

 ・・・(一部省略)

 「イブ先生」と呼んで慕った作家・井伏鱒二は創業当初からの常連客。滞在中はたびたび囲碁や将棋の相手を務めた。三九年発表の井伏の「大空の鷲」に登場する茶屋の主人のモデルにもなった。茶屋を訪れた映画撮影の一行が、御坂峠から伊豆の天城山までを"縄張り"にする「クロ」という鷲を、「天城山の鷲」と呼ぶ。茶屋の主人はそれが気に入らず、「我慢ならんのじゃ」と憤慨する。「この姿は本人そのもの」と二代目の三男、満さん(57)。「作家だからと特別扱いしなかった。そこにイブ先生が引かれてモデルに選んだのでは」とも話す。

 井伏に招かれて太宰が初めて茶屋にやって来たのは三八年九月。心を病んですさんだ生活を送っていた太宰は、約二か月間の滞在経験をもとに翌年、「富嶽百景」を執筆している。玉川上水で情死する前年の四七年六月に訪れた時には、珍しく気分が高ぶっていたのか、主とともに夜通し高歌放吟して楽しんだという。それが無頼派作家との最後の思い出になった。

 入水した後、井伏から「また茶屋に行かせようと思っていた」と告白されると、「水は、若くしていった作家の過去と未来のすべてを包み込んで何も語ってくれない」と無念の思いを伝えたそうだ。

 この三年ほどは病院通いが続いた。家の中ではしかし、背筋をしゃんと伸ばしていたという。昨年、学芸員の資格を持つ孫娘の智恵子さん(33)が突然、「預かってくれ」とふろしき包みを手渡された。
中身の多くは、「宝物」と呼んで大事にしていた井伏からの数十通の手紙だった。
 (2001年5月24日死去、96歳) (山本航)』

井伏鱒二の作品

《山椒魚》(1929年)、《夜ふけと梅の花》、《ジョン万次郎漂流記》(1937直木賞)、《さざなみ軍記》、《多甚古村》(1939)、《川》(1932)、《集金旅行》(1937)、《遥拝隊長》(1950)、《本日休診》(1950)、《漂民宇三郎》(1956芸術院賞)、《駅前旅館》(1957)、《珍品堂主人》、《武州鉢形城》、《黒い雨》(1966野間文芸賞)、同年、文化勲章を受章。《厄除け詩集》(1937)など。
 集金旅行、多甚古村、簪、本日休診、駅前旅館、黒い雨などは映画化された。

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