太宰治の杉並時代(1)

1909‐1948(明治42‐昭和23)
杉並時代1933-1938(昭和8年ー13年)

太宰治は上京して間もなく、杉並に住んだ。
津島修治、いわば、胎動の時期。
結婚、左翼活動、自殺未遂、「太宰治」のペンネーム=作家としての出発、薬物中毒
まさに、さまよいと門出の時代。

どうしたことか、この時代は、あまり紹介されない。
武蔵野に太宰が居たというだけで、いいのだろうけれど、跡を追ってみたい。

杉並に来る直前、太宰には、激しい青春があった。
そのほとばしりが杉並時代となる。

dazaigazou2.jpg (8731 バイト)

太宰治プレート
三鷹市、太宰旧宅近くの玉川上水縁に設置されている。
(撮影 田村 茂 と記されている)

杉並在住

 太宰の杉並在住は、その痛切さの割に、あまり紹介されない。作家としての地位が確立する前のためか、作品の数によるのか、さびしい限りで、もっともっと取り上げられるべきではないか。

 それは、昭和の初めである。まだ、学生服と羽織・袴を使い分けて師匠に接し、仲間と無頼を続けた太宰。酔ってオマワリサンにいたずらをし向け、薬剤中毒に苦しみ、最初の奥さんとの別れに失意の日を過ごすなど、作品の背景となる生々しい生活があった。

 パピナール中毒が原因して、千葉県に転地する事があったので、杉並の在住は途切れ、2度にわたった。それを前期と後期に分ける考え方がある。前期が、昭和8年から10年の3年間、後期が昭和11年から13年までの2年間である。

 場所は5度変わっている。しかも、その間に、旅をし、入院し、知り合いのところに泊まり込んでいるのだから、めまぐるしい。しかし、杉並時代は、生活の上でも、人との交わりの上でも、作品の上でも、作家としての出発の上でも、とてつもない大きな出来事があった時代ではなかったのか?

kyoukaidoori2.JPG (7727 バイト) wakasugisyougakkou.JPG (8139 バイト)

JR荻窪駅から北西に向けて、青梅街道をどこから入っても太宰が住んだ所に出られる。
左、教会通り、右中央、若杉小学校・東京衛生病院入り口    

なぜ杉並に来たのか

 大正末期から昭和初期にかけて、中央線沿線には、文士・作家が集まった。その理由に、家賃の安いこと、気楽なこと、仲間が集まってムードが漂っていたことなどがあげられている。一見、太宰には遠いことのように見えるが、十分な仕送りを得ながらも、常に金欠状況だったことを知ると、意外に、家賃の原因があったのかも知れない。しかし、本質的には、人が引き寄せたことは確かだろう。

  井伏鱒二も、山岸外史も言っている。青梅街道はまだ未舗装で、道幅も狭く、駅の周辺を除けば、荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺といずれも畑や林が多かった。店舗も少なく、のんびりした中に、細い路地に人情が行き交う風情があった。同時に、地代が1年間に倍になるというほど、郊外都市として急速な開発が進んでいた時代でもあった。

kyoukaidoorisyoutenngai.JPG (9040 バイト)

荻窪駅から太宰が住んだところへ結ぶ一つのルートに「教会通り」がある。
その商店街は、歩く身がぶつかるほどの空間であるが、今も懐かしい店舗が集まっている。

teyakisennbei.JPG (5871 バイト) toufuten.JPG (7050 バイト)

手焼き煎餅屋さんがあり、交差するみち角には、手作り豆腐のお店がある。
太宰と深い交流をした井伏鱒二や飛島定城の奥さんと「初代」(太宰の最初の妻)が
連れだって通り、買い物をしたのであろう・・・。

井伏鱒二への憧れ

 太宰の杉並前期は、「飛島定城」一家と同居する。これは、生家の配慮で、長兄が『彼の身柄を郷土出身の飛島定城(当時東京日日新聞記者)さまの所へ預け・・・』たような関係があったことによる。だから、飛島の都合によることもあったことだろが、やっぱり、杉並を選んだのは、太宰の希望=井伏鱒二が居たからではあるまいか? 
 井伏は次のように書いている。

 『・・・私と太宰君との交際は、割合に古い。はじめ彼は、弘前在住のころ私に手紙をくれた。その手紙の内容は忘れたが、二度目の手紙には五圓の爲替を封入して、これを受取つてくれと云つてあつた。私の貧乏小説を見て、私の貧乏を察し、お小遣のつもりで送つたものと思はれた。

 東京に出て來ると、また手紙をくれた。面曾してくれといふ意味のものであつた。私が返事を出しそびれてゐると、三度目か四度目の手紙で強硬なことを云つてよこした。曾つてくれなければ自殺してやるといふ文面で、私は威かしだけのことだらうと考へたが、萬一を警戒して直ぐに返事を出し、萬世橋の萬惣の筋向ふにある作品社で曾つた。

 彼は短篇を二つ見せたので、私はその批評をする代りに、われわれの小説を眞似ないで、外國の古典を專門に読むやうに助言した。それから暫くたつと私のうちに來て、彼は私に左翼作家になるやうに勧誘した。私は反対に、左翼作家にならないやうに彼に勧めた。

 間もなく彼は荻窪に移つて來て家も近くなつたので、それからはたびたび私のうちに遊びに來た。いつしよに散歩したり、いつしよに旅行にも出た。學校を怠けてゐたらしく、彼は正服をきて朝のうちから來ることもあるし、また夜おそくなつてから來ることもあつた。當時、たびたび曾つてゐながらも、どんなことをお互ひに話したか、その印象がはつきりしないのは妙なものである。・・・』(文芸春秋 昭和23年8月)
 (井伏鱒二 文士の風貌 福武書店 1991 p272−273)

 井伏との最初の面会は、昭和5年5月とされている。太宰は、昭和5年4月、東大仏文科に入学しているから、入学・上京してすぐ井伏に面会の申し入れをしたのだろう。dazaiibusetei.jpg (4971 バイト)

井伏への原稿ねだり

 太宰が上京する以前から、井伏とは交流があった。「弘前在住のころの手紙」と「5円の為替」について書かれているが、ここに、太宰が井伏に心酔し、生涯にわたる深い関わりを持った鍵がありそうに思える。

 太宰は、昭和3年5月、弘前高等学校在学中(20歳)に、自ら主宰する同人雑誌「細胞文芸」を創刊した。5月から8月にかけて、4号まで発行されている。その4号に、船橋聖一  
    井伏邸
や吉屋信子の作品とともに、かねてから望んでいた井伏の「薬局室挿話」をようよう掲載することが出来た。そして、目的が達せられたかのように「細胞文芸」はこの号で廃刊となっている。

 原稿依頼のため、昭和3年に、太宰は「細胞文芸」の3号を持って、わざわざ、井伏に面会を求めたことがある。その時、井伏は会わなかったと言う。その後のやりとりが、恐らく、手紙でなされたのであろう。5円はその時の原稿料とされている。この頃から太宰が、いかに井伏を敬慕していたかがわかる。

太宰と井伏を結びつけたもの 山椒魚?

 太宰も井伏も好きでたまらない私は、どうしてこんなに太宰が井伏を慕うのか、ある種のとまどいと疑問を持ち続けてきた。ところが、1994年、村上護の次の分析に接し、一挙にその疑問は解けた。 

 『太宰治が杉並区天沼に住むようになったのは、井伏の家が近かったからである。それは昭和八年からだが、その以前に太宰は井伏の周辺を長くうろついた。そのあたりのことから書いていかないと、井伏と太宰の奇妙な交遊は、なかなか理解しがたいように思う。

sannsyouuo.jpg (3571 バイト) 二人の機縁は、井伏が小説「山椒魚」を発表したときにはじまっているのである。「山椒魚は悲しんだ」ではじまるこの小説に太宰は感心した。あらすじを書くまでもないが、山淑魚が自分の棲家としている岩屋から出られなくなり、狼狽し、かつ悲しむ話である。これを井伏はユーモラスに描いている。しかし、作中で発せられる山椒魚の自嘲の声は、また井伏鱒二自身の声と重なり、みずから人間失格を宣言しているようにも受け取れる。

 太宰治の小説に「人間失格」というのがある。これと井伏の「山椒魚」がどこか相通ずるなどといえば、これは一笑にふされるに違いない。だが後年「人間失格」を書く太宰が、井伏の「山椒魚」を読んで感心したというのは、それほど突飛な考え方でもないような気がする。

 それにしても驚いてしまうのは、太宰の早熟な慧眼にである。小説「山椒魚」は、昭和四年に同人雑誌「文芸都市」に発表されて世評を得た。しかし、井伏が山椒魚のことを素材にして小
 新潮文庫表紙    説を書いたのは、それよりずっと以前のことであった。そのときは「幽閉」と題して、「世紀」とい             う同人雑誌(大正十二年八月)に載せている。実をいうと、太宰はそのときの井伏の小説を読んで、感心したのであった。それを太宰は、井伏鱒二選集一の後記にこう書いている。

 『私は十四のとしから、井伏さんの作品を愛読してゐたのである。二十五年前、あれは大震災のとしではなかつたかしら、井伏さんは或るささやかな同人雑誌に、はじめてその作品を発表なさつて、当時、北の端の青森の中学一年生だつた私は、それを読んで、坐つてをれなかつたくらゐに興奮した。それは、「山椒魚」といふ作品であつた。童話だと思つて読んだのではない。当時すでに、私はかなり小説通を以てひそかに自任してゐたのである。さうして、「山椒魚」に接して、私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮したのである。』
 (村上護 阿佐ヶ谷文士村 春陽堂書店 1994年 p80−82)

 井伏の「山椒魚」
は、「幽閉」、「山椒魚」、ひらがな山椒魚(昭和15年「セウガク二年生」連載)とあるが、どれにも唸ならせられる。
 
杉並に来る前

 多分、こうしたことが太宰を杉並に呼んだのだと思う。太宰は、井伏を中心として、杉並在住の作家達とは生涯にわたる交流を続けている。そして、興味を惹くのが、杉並に来る前の太宰の生活だ。現在の「17歳ぶっちぎれ」や「パラサイト・シングル」とは次元を異にする、まさに、すざましい「青春」があった。

同人雑誌を発刊 

明治42年(1909)青森県北津軽郡金木村大字金木に誕生
昭和2年(1927)19歳 弘前高校文科甲類に入学、弘前の藤田豊三郎宅に止宿。同期生の上田重彦(=石上玄一郎)、2年先輩の工藤永蔵を知る。7月24日、芥川龍之介自殺、太宰は衝撃を受ける。以後、突然、義太夫を習い始め、青森市浜町の花柳界に出入りする。
「玉屋」の芸妓・紅子(べにこ)=小山初代(15歳)と出会う。
昭和3年(1928)
20歳 5月、太宰個人編集の同人雑誌「細胞文芸」を創刊。父・生家を告発する「無限奈落」を書く。
昭和4年(1929)21歳 2月、弘高新聞に「鈴打」
(りんうち)、4月、文芸雑誌「猟騎兵」に「虎徹宵話」等を発表。小菅銀吉の筆名を使った。12月10日夜、2学期の試験直前に、カルモチン自殺を図った(未遂)。

上京、井伏との面会、初代の上京、分家・除籍

昭和5年(1930)22歳 1月、
同期生の上田重彦らが校内左翼分子として検挙され、放校処分になる。
 3月、弘前高校卒業、4月、東京帝国大学仏文科入学、三兄の「圭二」が住んでいた近くの戸塚町諏訪町250番地「常磐館」に下宿。
 5月上旬、弘前高校先輩工藤永蔵の訪問・説得を受け、工藤
の属する日本共産党に、毎月10円のカンパを約束した。
 この前後に、先に紹介したように、長年の憧れであった井伏鱒二と会う。 

 6月21日、三兄圭治が結核性膀胱カタルで逝去。太宰を理解する兄であっただけにショックは強かった。
 10月1日、弘前から「初代」が上京した。地元の有力者による「初代の身請け話」が起こったことから、太宰が綿密な「玉屋」脱出計画をたて、単身上京した(させた)ものという。本所区東駒形の大工の棟梁の家にかくまった。

 郷里では大騒ぎになった。芸者との結婚もさりながら、人も知る政友会の有力県議(長兄・文二)の家族に、共産党支持者がいるとあっては、一大事に違いない。11月9日、上京した長兄・文二によって、太宰の分家(義絶)・除籍、学費、生活費の負担を前提に、初代との将来の結婚を承認することで決着した。これらを仮証文にまとめ、初代は帰郷した。

 11月19日、太宰の分家・除籍の手続きがとられた。11月24日、長兄・文二は、太宰の名で小山家と結納を取り交わした。ところが、突如、太宰の自殺未遂が起きた。

自殺未遂

 11月28日、太宰は、銀座のカフェー・ホリウッドの女給「田部シメ子」(19歳)と鎌倉の小動
(こゆるぎ)神社裏でカルモチンによる心中自殺を図った。シメ子のみ死亡した。太宰は自殺幇助罪に問われるが、起訴猶予となった。

koyurugijinnzya.JPG (4355 バイト) koyurugi.JPG (5606 バイト)

 小動神社は鎌倉でも、西のはずれ、腰越にあり、素盞烏尊を祭神とする。本来は漁師の守り神であろう。
その横手を登ると腰越小動岬
(こゆるぎみさき)に出る。

einosima.JPG (5249 バイト)

小動岬には岩場があり、太宰達が選んだという「畳岩」がある。
カメラを向けたが、あまりにも切なくて、目先を変えると、江ノ島へ静かな風が吹いた。

inamuragasaki.JPG (6188 バイト)

左手には、稲村ヶ崎へと、遙かに海岸が続く。
心中未遂後、太宰が収容された「恵風園」はこの道筋にある。
昭和10年に発表された「道化の華」は、主人公を「大庭葉蔵」として、この事件と場所を舞台とする。

この時の出来事は太宰の晩年まで引きずったようだ。
作品「狂言の神」で、「・・・この世の中で、・・・この小柄の女性だけを尊敬している。」とし
「東京八景」では「私の生涯の黒点」と書く。

さらに、「人間失格」にふたたび、「大庭葉蔵」を登場させ
「恥の多い生涯を送ってきました。」と言わせる。

太宰杉並在住の頃の心象風景が偲ばれる。

 唐突ともとれるこの出来事は、太宰自身に深い傷を残したが、同時に、太宰愛好者にも、研究者にも、様々に受け取られ、分析されている。非合法活動、初代との問題に対する長兄・文二の手回しに、太宰が反抗したものとの解説が多い。翌年正月、太宰と長兄・文二の間に取り交わされた「覚」の内容からも、それは伺える。

昭和6年(1931)23歳 1月27日、太宰と長兄は、原籍の移転、小山初代との結婚、今後の生活費や学費などについて詳細な「覚」を取り交わす。太宰は単身上京して、津島家の東京の番頭とも言える「北芳四郎」宅に身を寄せていた。「覚」は、長兄が一方的に示したものという。

 その内容は、昭和8年の大学卒業までの間、月額120円づつ長兄が負担すること。ただし、帝国大学からの処罰、検事の起訴、浪費等の場合はこの額を減ずる。というものであった。その減額規定の中に、「社会主義運動に参加し或いは社会主義者又は社会主義運動へ金銭或いはその他の物質的援助を為したるとき」という1項目があり、津島家の考えが浮かび出ている。

非合法活動

 2月、初代は中畑慶吉に伴われて上京して来た。とりあえず二人は、神田区岩本町のアパートに住み、その後、品川区五反田1丁目に新世帯を持った。島津家の分譲地で、まわりにはまだ広い空き地があって、新築されたばかりの二階屋だったという。2階2間、1階2間で、太宰達は1階に住んだ。

 太宰は登校せず、小説を書き、井伏宅に持参した。一方で、東大の反帝国主義学生連盟に加入した。2階の部屋は
、弘前高校の先輩、工藤永蔵の依頼により、非合法運動に使われた。中央委員のアジトになったり、緊急印刷所に使われたこともあった。

 初代は断髪し洋装になって、来る人たちの食事の世話をした。時には、仕事も手伝って、生き生きとしていたという。やがて、非合法運動に関わる津軽出身者が出入りした。郷土の言葉で話すことができ、懐かしい故郷の食事があることで「砂漠の中のオアシス」とされた。しかし、太宰は作品の中で、この時代を次のように書く。

 「長兄は、H(初代)を芸妓の職から解放し、私の手許に送って寄こした。Hはのんきな顔をしてやって来た。五反田は、阿呆の時代である。私は完全に、無意思であった。・・・・ずるずるまた、れいの仕事の手伝いなどを、はじめていた。けれども、こんどは、なんの情熱も無かった。遊民の虚無(ニヒル)。それが、東京の一隅に、はじめて家を持った時の、私の姿だ」(太宰治 東京八景)

 「れいの仕事」(シンパ)のため、特高の目が厳しくなって、短い期間に転々と住所を変える。
 6月、神田同朋町に移転した。工藤永蔵をかくまったこともあった。
 10月下旬から11月上旬、左翼運動の連絡所になっているとのことで、西神田署に出頭を命じられた。1晩留置され、取り調べを受けた。
 11月、神田和泉町に移転した。

昭和7年(1932)24歳

 3月、新宿区淀橋柏木町に移転。
 6月、青森の特高警察が、生家を訪れ、太宰の行動について照会したことから、長兄に非合法運動のことがわかり、仕送り停止が問題になった。同じ月、柏木の家にも刑事が来宅し、太宰は早々、日本橋八丁堀に転居した。移転は誰にも知らされず、北海道生まれの「落合一雄」を名乗った。

 長兄から、自筆による送金中止の手紙が届けられた。太宰の居所がわからず、苦労したらしい。内容は厳しかった。青森警察署に出頭し、左翼運動からの離脱を誓約しない限り、一切の縁を絶つ、とするものであったという。

 7月中旬、青森警察署に出頭、以後、非合法活動から離脱する。生活費は、「覚」の定め通り、月額120円から90円に減額になったという。
 8月、初代と静岡県静浦村の「坂部啓次郎」方に滞在する。坂部啓次郎は、生家の番頭格、「北 芳四郎」の甥である。これは、左翼運動者との再度の接触を心配した長兄や番頭達の知恵だったらしい。太宰はここで「思い出」を執筆し始めた。

芝白金三光町の家、「思い出」の執筆

 9月、芝白金三光町の旧大鳥圭介邸の離れの1室を借りる。同郷の先輩・三兄圭治の学友である、東京日々新聞記者「飛島定城」一家が同居した。同居の経過については、飛島定城の奥さんの「多摩」さんが、次のように書いている。

『・・・春の頃太宰さんが、芝白金三光町によい家があるから一緒に住みませんかといって来ました。主人は五所川原の出で、太宰の兄さんの圭治さん(昭和五年に死去)とは親友であり、長兄の文治さんからも前に、修治をよろしく御願いします、といわれて居りましたので、一緒に住むことになり芝白金に引越しました。

 この家は、明治の重臣、大鳥圭介氏の邸宅だったもので、当時はどこかの銀行所有になっていたようでした。それを留守管理していた人が小遣いかせぎに、銀行に内緒で、貸したらしいのです。それは宏壮な邸宅で、庭には大きな池があり、私達は母屋に、太宰さんは離れに住みました。・・・』
 (山内祥史 太宰治に出会った日 ゆまに書房 1998年 p128−129)

 この家で「思い出」の二章まで書いたという。その状況について野原一夫は「太宰治 生涯と文学」で次のように紹介する。

 『・・・第二章まで書きあげた原稿を太宰は手紙を添えて井伏に送り、井伏は次のような読後感を太宰に書き送ってくれた。
 「お手紙拝見。今度の原稿はたいへんよかったと思います。この前のものとくらべて格段の相異です。一本気に書かれてもいるし表現や手法にも骨法がそなわっているし、しかも客観的なる批判の目をもって書かれていると思います。まずもって、『思い出』一篇は、甲上の出来であると信じます。(後略)」

 九月十五日付のこの書簡を、のちに太宰は井伏に無断で『晩年』の帯に印刷しているが、井伏から受けた最初の讃辞であっただろう。太宰のただならぬ喜びようが察しられるが、と共に、作家としての資質に対する自信に似たものを太宰が持ったことも、また確かであろう。なお、井伏の回想によると、「思い出」の第三章は翌八年二月に天沼三丁目に移ってから一部分を書き、残りはその年五月に天沼一丁目に移転してから書きあげたのだという。・・・』
 (
野原一夫 「太宰治 生涯と文学」 ちくま文庫 p111)

 いよいよ、杉並と井伏鱒二が表面に出てきた。杉並時代の始まりである。まず、住んだ家の辺りを訪ねてみよう。

amanumakyoukaihenomiti.jpg (7556 バイト) amanumainarimiti.JPG (7288 バイト)

 太宰は、昭和8年(1933)2月、飛島定城家と共に、杉並区天沼3丁目741番地に転居した。
(現在の住居表示では本天沼2丁目15)
25歳の時である。
荻窪駅を北口に降り、青梅街道を越して、どこの小径からでも「天沼通り」に出る(左)
杉並第5小学校を目当てに、「天沼稲荷」へと曲がると、その家はある。

(2000.07.01.記)

ホームページ
次へ(太宰治の杉並時代2)
前へ(
井伏鱒二)