わが命つきるとも ★★★
(A Man for All Seasons)

1966 UK
監督:フレッド・ジンネマン
出演:ポール・スコフィールド、ロバート・ショー、ウエンディ・ヒラー、スザンナ・ヨーク



<一口プロット解説>
トマス・モアは、国王ヘンリー8世の離婚問題について召喚されるが、それについて明瞭な解答をせず沈黙を守ろうとする。
<入間洋のコメント>
 歴史それも近世英国史に興味がある人は、この作品を見逃すことはできないでしょう。「わが命つきるとも」には、主要登場人物として英国王ヘンリー8世(正確にはイングランド王と言うべきかな)と中学生でも知っているトマス・モアが登場しますが、いずれも実に興味深い人物だからです。ヘンリー8世と言えば、この映画のストーリーのネタにもなっていますが、世継ぎの男の子がどうしても生まれない王妃キャサリンと離婚し、若いアン・ブーリンと結婚しようとしてカトリック教会と対立し物議を醸し出した王様です。因みに「わが命つきるとも」はトマス・モアに焦点があるので、ヘンリー8世の出番は前半のみであり、またアン・ブーリン(バネッサ・レッドグレイブがカメオで演じています)に至ってはヘラヘラ笑うのみのセリフ無しでほんのわずかの間しか登場しませんが、彼らについてはリチャード・バートンがヘンリー8世を、ジュヌビエーブ・ビジョルドがアン・ブーリンを演じ両者ともにオスカー候補となった「1000日のアン」(1969)という作品があることに言及しておきましょう。ヘンリー8世は彼の離婚を認めようとしないカトリック教会と対立した結果、結局カトリック教会とたもとを分って英国国教会をカトリック教会から強引に分離独立させます。勿論、さすがに離婚問題のみがそのようなドラスティックな処置を行った唯一の理由であったというわけではないはずで、教会財産の没収であるとか経済面等他の理由もあったはずですが、いずれにせよななななんと、プロテスタントという強大な敵(「わが命つきるとも」のあるシーンで、カトリックに帰依するトマス・モアは、娘のマーガレット(スザンナ・ヨーク)の結婚相手となるルター派のローパー卿のことをheretic(異教徒、異端)という蔑称で呼んでいることに注意しましょう)が出現した頃であったとはいえカトリックという強大な組織を向こうに廻して自分をトップに据える教会を自からセットアップしてしまったことになるわけです。実際、英国国教会が発展するのは彼とアン・ブーリンの間に生まれたエリザベス1世(結局生まれたのは女の子でした)の統治時代ではありますが、現在にまで至る英国国教会の実質的なルーツはこのヘンリー8世にあると言っても過言ではないでしょう。後に英国国教会の圧力でピューリタン達が押し出されてメイフラワー号に乗って新大陸に渡ることになるのであり、その意味では現在のアメリカが存在するのももしかすると彼のおかげということになるかもしれませんね。というわけでヘンリー8世は、近世英国史の政治的な分野における巨人の一人であったわけですが、それに対してトマス・モアは勿論法律家であったので政治にも顔を出しますが、かの「ユートピア」を書いた文人としても広く知られていることは誰でも承知のところでしょう。モアはカトリック教徒であり、国王の離婚問題(というかそれ以上に英国国王をイギリスの教会組織におけるトップであると見なすこと)にYESと言わなかったのですね。ここでYESと言わなかったと曖昧な言い回しを用いましたが、実は彼の取った態度は実際にそのような曖昧なものであったのであり、このレビューの焦点も何故彼はそのような曖昧な態度を取ったかについて少しでもクリアにすることにあります。それについてこれから述べる予定ですが、まず簡単に歴史的背景を復習しておきましょう。

 この映画を少し注意して見ていれば分ることですが、ヘンリー8世問題に関してポール・スコフィールド演ずるトーマス・モアがレオ・マッカーン演ずるトマス・クロムウエル(因みにおよそ1世紀後に独裁政治を行ったオリバー・クロムウエルは彼の血縁のようですね)に召喚されるのは以下の2点においてです。

1.The Act of Succession
2.The Oath of Supremacy

1は、ヘンリー8世と現王妃のキャサリンとの結婚を解消し、アン・ブーリンとの結婚を正当化しその嫡子のみを正式な王位継承者として認めることを指し、2はヘンリー8世がイングランドにおける教会組織の首長たることを認めることを指します。両者は互いに関係していたとはいえ、1が言わば慣習的な原則に関する個別的な論点の対立であったのに対し、2はモロに権力の所在が誰の手にあるかを問題にする歴史の流れすら変えかねない(というより実際に変えた)問題であったわけです。「わが命つきるとも」ではトマス・モアは1の方に強く拘っていたかのようににも見えますが、彼にとっての大きな問題は2に関してであり、要するに2を認めてしまえばイングランドにおけるカトリックの立場は極めて不安定なものになってしまうわけです。しかしそのような歴史を変えてしまう可能性すらある重大な問題に関して、彼はここで奇妙と言えば実に奇妙な曖昧な態度を取るのですね。つまり、「The Act of Succession」や「The Oath of Superemacy」の内容を真っ向から否定するのではなく、否定も肯定もせずに、それについては全く口をつぐんでしまうという一種の韜晦戦術に入ります。これは「わが命つきるとも」でもしっかりと描かれていて、それがこの作品の一種の面白さでもあり、またミステリーでもあります。何故ミステリーかと言うと、いかにも清廉潔白そうで二心を秘めているようにはとても見えないモアが、何故そのような韜晦に走るのかがどうしても不思議に思えてくるからです。最後の審問シーンでリチャード・リッチ(ジョン・ハート)の偽証によって袋小路に追い込まれ有罪の判決が下ったあとで本心をぶちまけるまでは、彼特有の人を食ったような機知によってノラリクラリとトマス・クロムウエルらの審問追及をかわしますが、その様子は確かに一見すると実にユーモアに富んでいてエンターテイニングですらあります。たとえば、トマス・クロムウエルが沈黙には死人の沈黙のように何も語ることのない全くの(pure and simpleな)沈黙と、沈黙することによって実は何かを雄弁に語る沈黙とがあり、モアの沈黙はまさしく後者のそれであり明らかに「The Act of Succession」や「The Oath of Supremacy」を否定していることを示しているのだと雄弁にまくしたてると、沈黙をそのように解釈するならばこれまでの法廷の慣例から言えば肯定だと捉えるべきだとモアはすかさず切り返します(勿論モアは本当にそれらを肯定しているわけではありません)。これには見ている私めも思わず膝を打ってしまいました。というのは、クロムウエルの論理はなかなか説得的だなと思わせた次の瞬間に、沈黙はたいていの場合は黙認すなわち肯定と捉えられるのが普通であり否定と捉えるべきいかなる内在的な理由も存在しないという単純な事実にふと気が付かされ、クロムウエルの論理が実は単なる詭弁であるということ、すなわち内在的な論理ではなく外在的な状況証拠からの類推にすぎないことに気付かされるからです。何かのテーマについてある人が沈黙するということはその人がニュートラルな立場を取っているということを証明するわけではないことは確かに事実であったとしても、それを肯定的な立場であると取るか否定的な立場であると取るかは、結局それを判断する人の偏見でしかないことがモアの一瞬の切り替えしによって暴露されてしまうところが実にウイットに富んでいて爽快なのですね。かくして、クロムウエルを始めとする異端審問官とモアとの丁々発止のウイットに富んだやり取りがこの映画の1つの魅力ではありますが、しかし一方では、それではそのようなウイットに富んだ話術を駆使しているとはいえ自分の本音を隠し本質的な面ではひたすら韜晦戦術を駆使するトマス・モアという人はどんな人であったのかという疑問がむくむく湧いてくることも間違いのないところです。しかも「本音を隠し」とは言えども実際には彼の本音は誰にも知れ渡っているので、ウイットに富みクロムウエルのそれよりは遥かに洗練されているとはいえどもやはり彼の答弁そのものもクロムウエル同様世間を欺く詭弁を弄しているだけではないのかという印象を避けることは出来ないはずです。確かに自らの生命がかかっているのは間違いがないとしても、モアを歴史に残る偉大な人物であると考えている後世の我々の目からすると、歴史を変える程のポテンシャルを持つほどの問題に関してトマス・モアともあろうお方がはっきりとした見解を述べないのは、見ようによっては随分と往生際が悪い或いは優柔不断であるとも取れないことはない態度であるようにも見え、かつて中学や高校の歴史で習ったトマス・モアという偉人像とは恐ろしくかけ離れているようにすら見えます。実はこのあたりの疑問がこれまで頭の隅にあったこともあり、「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「重厚なドラマによる政治哲学的テーマの敷衍 《大列車作戦》」の最後の部分で、「本来ならば、トーマス・モアを演じてアカデミー主演男優賞に輝いた『わが命つきるとも』(1966)について述べたかったがトーマス・モアについて勉強不足なので見合わせた」と書いた所以でもありますが、最近トマス・モアという人物の、それも殊に内面に関して深くメスを入れた著作を読む機会があり、その点についてそれなりの知識を得ることができました。そこで、このような韜晦戦術を駆使するトーマス・モアとはいったいどのような人物であったかについて、この著書を参照しながら多少なりともクリアにしたいと思います。

 その著作とは、ハーバード大学で英文学の教鞭を取り、近年日本でもよく知られるようになってきたスティーブン・グリーンブラットという英文学者の書いた「Renaissance Self-fashioning From More to Shakespeare」(The University of Chicago Press)という本です。邦訳はみすず書房から「ルネサンスの自己成型ーモアからシェイクスピアまで」として出ているようですが、どうやらamazon.co.jpでサーチするととんでもない値段の中古しか現在は存在しないようです。以下のレビュー中のこの著作からの抜粋部分は英語版からのものですが、訳は翻訳のプロまどではない私め自身のものであり、そのようなわけで英語を苦にしない人はなるべく原文を読むようにして下さい。さてまず、グリーンブラットのこの著書全体の目的はタイトルからも分るように、イギリスにおける16世紀ルネサンス期に、人々の間に新たな態度形成が生まれてきたことをモアからシェークスピアに至る著名な文人の生涯を通じて検証することです。従ってこの本はトーマス・モアだけを扱った書物ではなく、トマス・モアはシェークスピア、マーローのような他の著名な文人らと並んで6章中の1章の中で扱われるに過ぎません。それでは、16世紀イギリスで発生した新たな態度形成とはどのような態度を指すのでしょうか。これについて、グリーンブラットは以下のように述べます。

◎この本の主題はモアからシェークスピアにいたる自己成型に関してである。出発点は極めて単純であり、16世紀のイングランドには成型され得るような自己や意識が存在したということである。
(My subject is self-fashioning from More to Shakespeare; my starting point is quite simply that in sixteenth-century England there were both selves and a sense that could be fashioned.)


ここで注意すべきことは自己や自我というような内面が発達した現代人の我々にとっては、自己成型とはむしろ当然のことであり、そのような可塑性を持った自己という考え方は当り前田のクラッカー化していますが、昔すなわちルネサンスを経て近代が始まる前の中世以前の時代にあっては事態は必ずしも現代と同じではなかったのであり、むしろこの著書が取り上げているモアやシェークスピアのような偉人達が登場し活躍した後に、そのような近代的自我という観念が浸透し発展し今日に至ったということに注意しなければなりません。まさにそのような点をこの書物は論じようとしているわけですね。彼の主張の基盤には、文学等の文化的なシンボリズムと現実社会における社会的な象徴様式とは密接に関連しているが故に、一般社会すなわち平均的庶民におけるこのような自己成型の発達の見取り図を、文学の中でより際立った形で確認することができるということであるように考えられますが、モアが扱われる第1章の梗概として以下のような記述があります。

◎この章では、モアの人生や著作において見出すことができる自己成型、自己否定にまつわる錯綜した相互作用、すなわち公的な役割における役割造形及びそのような役割造形により確立されたアイデンティティから逃れることに対する深い欲望について記述する。それにあたり、野心、皮肉な愉悦、好奇心、嫌悪が入り混じった彼独特のムードに浸ってお偉方のテーブルの御相伴をしているモアの姿をイメージしてみるようにしよう。
(This chapter will describe the complex interplay in More's life and writings of self-fashioning and self-cancellation, the crafting of a public role and the profound desire to escape from the identity so crafted, and I propose that we keep in our minds the image of More sitting at the table of the great in a peculiar mood of ambition, irnonic amusement, curiosity, and revulsion.)


ここでのキーワードは、「自己成型(self-fashioning)」、「自己否定(self-cancellation)」、「役割(role)」、「造形(crafting)」ということになりますが、つまり一言で言えば、モアは社会的な要請に従って自己の内面を形成せざるを得なかったと同時に、彼はそのような役割形成によって確立した自己像のもたらす矛盾を常に感じていてそれを否定したい欲求を常に抱いていたということです。ここにあるのは、ライオンに食われようが何しようが全く動じない清廉潔白且つ二心のない聖人の姿などではなく、まっ二つに分裂した近代的な自我感情を持ちながら、周囲の誰もそれを理解できずに孤立する人間的なあまりにも人間的な一人の人物の姿であるといえるのではないでしょうか。モアはイングランドの大法官に選ばれた人ですが、下手をすればすぐに自分の首が文字通りふっ飛んでしまうような当時にあって、そのような高位に登りつめるには単に清廉潔白であっただけでは十分ではなかったであろうことは火を見るよりも明らかなことであり、そこでは現在の政治家顔負けの野心、追従、欺瞞等が常に要求されていたであろうことは言わずもがなでしょう。すなわち自分の役割にあったペルソナを巧妙に形成し演技できる能力を有しているか否かが当時の出世の条件の1つだったのであり、モアはそのような資質を十分すぎる程に持っていたということです。モアが御相伴に預ったお偉方の中には当然のことながらヘンリー8世もいたはずであり、いかに自分を国王の宮廷にフィットさせていくかは彼にとっては死活問題であったはずです。しかしながら、モアがたとえばトマス・クロムウエルのような国王のおべっか使いと根本的に異なっていたのは、自分がそのような役割造形を行っているということに自覚的に気付いていたことであり、従って常にそのような造形(craft)されたにせものの自己をキャンセルしたいという自己否定の欲望を抱いていた点です。またある特定の役割を俳優であるかのごとく演ずることは大きな危険を伴うことが普通です。というのも、自分の役割を演ずることができなければ、それはその演技が行われている演劇の舞台そのものを破壊してしまうことを意味するからであり、演劇の舞台がヘンリー8世の宮廷社会であってみればそれは反逆罪(high treason)にも相当する罪であるからです。結果的に言えば、まさにモアはヘンリー8世の宮廷社会という演劇舞台でそれに相応しい演技を続けることができなかったが故に反逆罪に問われ最後のクライマックスシーンで自らの首が飛んでしまうわけです。

 グリーンブラットは、モアの主著「ユートピア」などを通じて彼のそのような複雑な人物像を分析実証しますが、ここでそれについて言及すると長くなりすぎるのでそれは省略し、以下に結論的な部分だけを抜粋して紹介することにします。少し引用が長くなりますが、極めて興味深いことが書かれているので少し我慢して下さい。

◎モアは、外見上はいかにも何の苦もなく行っているかに見える自身の演技の底流に存在するテンションに常に気が付いていた。そしてこのテンションと明らかな愉悦感との混合は、彼の演技者としての自己意識をより強制的なもの確たるものにすると同時により捉えにくいものにもしていた。
(More was always aware of the tension that underlay the seemingly effortless performance, and the mingling of this tension with his evident delight makes his self-consiousness as a player both compelling and elusive.)


◎彼の生涯とは次のようなものに他ならなかった。すなわち、張りつめ、皮肉やウイットに富み、没入と無関心を巧に織り合わせ、そして特筆すべきはそれがまさに自己自身による発明であることに十分に気が付いているような、当時にあっては不安感を抱かせるほどに馴染みのないそのような自己意識の発明ともいえる生涯だったのである。確かにこのような要素は彼に先行する他の人物の中にも偏在的に隔離された様式で見出すことが出来るかもしれない。しかしながらモアの場合には、これらの要素が、文学的表現と実社会双方の中で意識的に統合され機能していたのである。
(His life seems nothing less than this; the invention of a distarbingly unfamiliar form of consiousness, tense, ironic, witty, poised between engagement and detachment, and above all, fully aware of its own status as an invention. These elements may be perceived in the lives of others who preceded him, but scattered, isolated; in More, they are self-consiously integrated and set in motion both in literary discourse and in the actual social world.)


◎自らの人生を演劇的な即興によって生きることの1つの帰結は、現実というカテゴリーが虚構というカテゴリーと混交してしまうことである。すなわち、歴史存在としてのモアは、同時に虚構としてのナラティブでもあったのである。自らの役割を演ずること、自らの人生を劇中のキャラクターのように生きること、そして即興的に常に自分自身を更新し、常に自分自身の非現実性を意識していること、これこそがモアが生きる条件だったのであり、いわば彼のプロジェクトだったのである。
(For one consequence of life lived as histrionic improvisation is that the category of the real merges with that of fictive; the histrical More is a narrative fiction. To make a part of one's own, to live one's life as a character thrust into a play, constantly renewing oneself extemporaneously and forever aware of one's own unreality - such was More's condition, such, one might say, his project.)


◎そのようなプロジェクトにつきまとうのは、それが要求する絶え間のない自己言及性であり、またそれに不可避的に伴う自己疎外である。モアは「’モア’ならばどう言うだろうか」というような思案をするのが常であった。このように自らに問うことは、自らがその時にコミットしていた特定の役割によっては充たされることがなかった他のアイデンティティが存在する可能性があることを意味する。ここから彼の生涯に付き纏う特有の陰が生ずるのであり、その陰は単に自らのマスクを操る意匠的な意識の陰というばかりではなく、暗闇の中にそっと身を屈める他の自己という陰でもあったのである。
(What is haunting about such a project is the perpetual self-reflexiveness it demands, and, with this self-reflexiveness, perpetual self-estrangement. More is commited to asking himself at all times "What would 'More' say about this?" and to ask such a question implies the possibility of other identities unfulfilled by the particular role that he is in the act of projecting. From this, the peculiar shadows that hover about him throughout his career, not only the shadow of the designing consiousness manipulating the mask but the shadow of other selves, crouched in the darkness.)


このようなグリーンブラットのコメントから浮かび上がってくるトマス・モア像とは、まさに近代的自我が有する分裂する自己であったと言えるのではないでしょうか。公的な役割を演ずる自己と内面の自己が常に分裂矛盾し、そこから数々の逡巡が生まれ韜晦が生まれ時には自己欺瞞すら生じたというのが、真のモアの姿だったのではないかということです。そして皮肉にも、まさに彼の運命が不可避なものとなり殉教者になることを選んだ瞬間、内面の自己とパブリックな演技者としての自己が一致したのではないでしょうか。すなわち彼は、ライオンに食われることをも恐れない信心深く且つ二心を持たない殉教者だったのでは全くなく、殉教者を演ずることを最後に選択することによってそれまでの自己の分裂からの救済をようやく得ることができたのだと言ってよいかもしれません。しかし、それは彼の生涯の究極の到達点であったと同時に肉体的な破滅の瞬間でもあったのです。モアを扱った第1章の締めとしてグリーンブラットは以下のように述べていますが、これはまさに彼が生涯に渡って背負い続けた宿命の本質を語り尽くしたものと言えるしょう。

独房でそしてついに彼の死に臨んで、モアは再びMorusとHythlodaeusの対話の中でそれまで長い長い間暴力的に引き裂かれてきた自己のアイデンティとカルチャという両側面を統合することに成功した。しかし今回は、対話が行われるのは平和な庭においてではない。処刑台の上で彼らは勝利し同時に共に破壊されるのである。
(In his cell, and at last in his death, More once again brought together in dialogue Morus and Hythlodaeus, aspects of his identity and his culture that had for so long been violently sundered. But now it is not in a garden that they converse; they triumph and are destroyed together on a scaffold.)


MorusとHythlodaeusとはモアの主著「ユートピア」に登場する二人の主人公のことですが、前者がモアの公的なセルフを体現し、後者がそれ以外の彼の私的なセルフを体現しているそうです。そのような分裂する両面を最後に統合することができたということは、それは彼にとっての自己の内的な勝利の時であるわけですが、それは同時に自己の肉体的な破滅の時でもあるという避けられない宿命を彼は背負っていたということです。つまり、それほどの高い代償を払わねば解決の道が得られない程、モアの内面は複雑に分裂していたということになります。モアの死後、時代はヘンリー8世の時代から、ブラディメアリーによるカトリック反動の時代を経て、エリザベス時代へと移行していくわけですが、エリザベス時代に盛んになった演劇熱、そしてエリザベス時代の代表的な劇作家であったシェークスピア劇における複雑な自我をさらけ出す登場人物達、これらの先駆となりモデルになったのがまさにトマス・モアその人であったと言えばそれは言い過ぎになるでしょうか。

 このような複雑なパーソナリティを持っていたのがトマス・モアであり、「わが命つきるとも」でもそのことは十分理解できるように思います。というよりも、「わが命つきるとも」でそのような興味を抱いたからこそ彼の生涯について知りたくなったのであり、その意味でもこの映画は極めて優れていると言えるかもしれません。また、トマス・モアという演劇的な人生を送った人物を、ポール・スコフィールドというプロの演劇人を主演に据えた演劇的な映画の中で描くのはまさに理にかなった選択であったとも言えるでしょう。この作品の監督はフレッド・ジンネマンですが、実は彼は既に、「わが命つきるとも」でのトマス・モアのようにパブリックな領域における自己への要請と自己の複雑な内面との葛藤に悩む人物を主人公とした映画を撮ったことがあります。それはオードリー・ヘップバーンが主演した「尼僧物語」(1959)です。
詳細はそちらのレビューを参照して頂くものとして、オードリー演ずるシスター・ルークは修道院というパブリックな領域で生きていかなければならないことから要請される自己像と、本来の自己とをどうしても統合することができず、最後は修道院を後にします。勿論20世紀の修道院は16世紀のヘンリー8世の宮廷社会とは異なるので、それによって彼女の首が宙を舞うことはありませんが、しかしながら「尼僧物語」のシスター・ルークと「わが命つきるとも」のトマス・モアの間には何らかの類似点を見出すことが可能でないかと個人的には考えています。

2007/08/18 by Hiroshi Iruma
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