◎ロブ・ダン著『心臓の科学史』
本書はThe Man Who Touched His Own Heart(Little, Brown and Company, 2015)の全訳である。原題の「自分の心臓に触った男」とは、第5章に登場するドイツの医師ヴェルナー・フォルスマンを指す。彼は史上初めて、静脈を介してカテーテルを心臓まで通し、X線写真によりその証拠を残したことで知られ、その功績によって一九五六年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。ノーベル賞史上もっとも知性を使わずしてその栄誉に輝いた人物などと、失礼なことを言われることもときにあるようだが、彼の開拓した心臓カテーテル法は、その後アンギオグラフィー、アンギオプラスティー、ステント留置術などの治療法の開発を導き、心臓病の治療に大きな貢献をした(詳しくは本文を参照されたい)。
著者のロブ・ダンはノースカロライナ大学准教授で、基本的には心臓病学の専門家ではなく進化生物学者である。既存の邦訳には、『アリの背中に乗った甲虫を探して――未知の生物に憑かれた科学者たち』(田中敦子訳、ウェッジ、2009年)、および『わたしたちの体は寄生虫を欲している』(野中香方子訳、飛鳥新社、2013年)がある。
『心臓の科学史』は一七の章、および「はじめに」「あとがき」から構成される。各章では、心臓(病)の観察、治療、予防に関する特定のトピック(たとえば第1章のトピックは「史上初の心臓外科手術」)に関して、理論的な説明を交えつつ該当する技術革新をめぐる具体的なストーリーが語られる。そして各章には、ほぼ例外なく一人または複数人のヒーロー(ヒロイン)が登場する。たとえば、「心臓カテーテル法と冠動脈造影法の発明」がトピックの第5章には、それらを考案したヴェルナー・フォルスマンとアメリカの心臓外科医フランク・メイソン・ソーンズの二人がヒーローとして登場する。ちなみに「スタチンの開発」がトピックの第11章には、スタチンの前駆となるメバスタチンを開発した日本人の生化学者、遠藤章がヒーローとして登場する。このように、本書は基本的にエピソード主体の構成をとっており、そのため非常に読みやすい。しかも、あえて心臓にメスを入れようとした心臓外科医たちには、きわめてアクの強い人物が多い。著者の言葉を借りれば、「とはいえ今日、手術によって修理された心臓のおのおのは、独自の物語を持っている。それは、何千年ものあいだ心臓の謎を解こうとしてきた、勇気と洞察力、そして神をも恐れぬ傲慢さを兼ね備えた大勢の科学者や外科医の努力のおかげで鼓動し続けているのである」。このような人物たちが登場するドラマがおもしろくないはずはなかろう。
ただし一つ留意すべき点がある。章単位で独立したエピソードが語られているとはいえ、心臓病の治療や予防の歴史自体が一つの大きな流れを構成するのであり、その意味において各章のあいだには相応のつながりがある。たとえば前述したように、フォルスマンの心臓カテーテル法(第5章)なくして、アンギオプラスティーやステント留置術の考案(第10章)はあり得なかった。したがって本書は、心臓に関する個々バラバラなエピソードが脈絡なく並び、トリビア的な知識がつめ込まれているといったタイプの本ではまったくない。それゆえ、本書が提示する心臓病の治療や予防の歴史の全体像を的確に把握するためには、章の順番に従って読むことを強く推奨する。
ここで、本書の全体構成を紹介しておこう。「はじめに」は、著者(の母親)の個人的な体験をもとに、心臓疾患の問題が現在ではごくありふれたものと化していることを確認する。第1章は本書前半部のトーンを設定する章で、心臓治療の転回点となった、一九世紀後半に行なわれた史上初の心臓外科手術に関するストーリーが語られる。第2〜4章では、古代から近代までの心臓医学の流れが紹介される。登場するヒーローは、ガレノス(第2章)、ダ・ヴィンチ(第3章)、ヴェサリウス&ハーヴェイ(第4章)である。第5章からは二〇世紀に入ってからの心臓治療の躍進が紹介され、具体的に言うと心臓カテーテル法+アンギオグラフィー(第5章)、人工心肺+ペースメーカー(第6章)、心臓移植(第7章)、人工心臓(第8章)、バイパス手術+アンギオプラスティー+ステント留置術(第10章)が取り上げられる(これらの治療法の詳細については本文を参照されたい)。補足しておくと、とりわけ第7章では技術的な側面のみならず、技術の進歩とともに顕現し始めた倫理的な問題も視野に収められている。
第9章および第11章以後の本書後半部は、前半部とは趣を変え、治療よりも病因や予防に焦点が移される。後半部のトーンを設定する第9章では、心臓疾患を引き起こすアテローム性動脈硬化がほんとうに「現代病」なのかどうかが検討され、古代エジプトのミイラにもそれが見つかっていることが紹介される。第11章では血中のコレステロール値を低下させる医薬品スタチンの開発が、また第12章では心臓病を予防するダイエットの考案が取り上げられる。なお第11章から、著者の専門である進化生物学的視点が次第に色濃く反映され始める。第13章ではこれまで紹介されてきた治療法や予防法の比較が行なわれたあと、予防における公共政策の重要性が強調される。第14〜15章は、青色児症候群などの先天性心疾患に焦点を絞り、心臓病学者ヘレン・B・タウシグ博士の業績を追いながら、進化論的見地から、つまり心臓の進化を考慮しつつ、それらの先天性心疾患が人類に生じるようになった理由を解明する。第16章は他の哺乳類に比べてなぜ人類が、心臓疾患を誘発する障害(アテローム性動脈硬化)を発症しやすくなったのかを、進化論的な観点を用いて解明する。第17章はそれまでとはやや趣向を変え、心拍数を基礎データとする代謝スケーリング理論をもとに人間(や動物)の寿命の真実に迫る。「あとがき」では今後の心臓医療の展望が語られる。
以上の構成からも明らかなように、本書は単に心臓医療の発展の歴史を紹介することだけが目的の本ではない(もちろんその点に関しても十分な情報が提示されているが)。それだけなら、専門の心臓病学者や心臓外科医のほうが、さらに緻密かつ正確な情報を提供できるだろう。事実、専門の心臓外科医が書いた、心臓医療の発展を緻密にたどった一般読者向けの本はつい最近も出版されている。The Heart Healers(St. Martin's Press, 2015)がそれだが、著者のジェームズ・S・フォレスターは専門の心臓外科医であり、自らの経験を交えながら二〇世紀中に考案されたさまざまな心臓治療法を、本書と同様にエピソードベースで紹介している。自身が心臓外科医であるだけに、とりわけ心臓手術の描写は緻密で生々しい。
しかし『心臓の科学史』にはあって、その種の本にないのは、心臓病の起源を進化のプロセスのうちに見出そうとする進化論的な観点である。歴史的な事実に基づいて、いかに心臓病のテクノロジーが発展してきたかを概観する前半部とは趣を変えて、人類が心臓病にかかりやすくなった理由を進化論という強力なツールを駆使しながら解明する後半部には、少し大げさな言い方をすれば、前半部から続くドキュドラマ風の迫真性に加え、ミステリー小説を読んでいるかのような謎解きのおもしろさが感じられるはずだ。もちろん進化心理学、進化経済学、進化社会学など、進化論を基盤にさまざまな事象を説明することが一種の流行になっている昨今では、特定の身体器官の進化の背景となった文脈と、現代の生活環境との圧倒的な齟齬によって、さまざまな「現代病」が生じるようになった経緯を論じる書物はいくつか見かけられるようになっている。たとえば訳者が最近読んだ本として、リー・ゴールドマン著Too Much of a Good Thing(Little, Brown and Company, 2015)があげられる。しかしこの種の本は心臓病のみならず、糖尿病や高血圧など他の「現代病」をも含めて総合的に論述されているために心臓のみに注目した場合には物足りなさが感じられ、また、理論的な記述が中心であるために、本書のようなストーリーとしてのおもしろみには欠ける。
それに対し『心臓の科学史』は、「ストーリーを語る」という点で徹底されており、一般読者がおもしろく読める創意工夫が凝らされている。本書を何度も読んで感じたことだが、また、「謝辞」の記述からも少なからずわかることだが、著者のロブ・ダンは、わかりやすいストーリーを書こうとする明確な意図を持っているようだ。科学者の著書には、一般読者向けにもかかわらず、ストーリー性を欠き、スムーズに読めないものもよく見受けられる。個人的には、訳書を選ぶ際、評価基準として「内容」「質」はもちろん、「ストーリー性」もかなり重視しているが、本書を最初に読んだときに特に目を惹いたのがまさにこの点、つまりストーリーを読ませる著者の力であった。英語で言えば「page-turner」と呼べる本だと即座に感じた。一つ一つの章がおのおの独立したおもしろいストーリーとして完結している点ももちろんだが、それらが巧みに組み合わされて「心臓の科学史」というマクロなストーリーがつむぎ出されていく構成そのものにも大きな魅力がある。しかも本書はただおもしろいだけではなく、そこから実践的な知識を汲み取ることもできる。たとえばアテローム動脈硬化の話(第9章)、ダイエットの話(第12章)、あるいは哺乳類の肉に含有されるシアル酸に関する話(第16章)は、自分の心臓の健康を考えるにあたってさまざまなヒントを与えてくれるだろう。端的に言えば誰でも心臓病になり得る。読んでおもしろくかつ誰もの役に立つ、それが本書なのである。
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