■生い立ちからプロのプレイヤーになるまで■


【写真1】
 1956年(昭和31年)2月2日鎌倉生まれ。
【写真1】は 0歳の夏の或る日でしょう。両家ともの初孫で大分ちやほやされていたようです。2歳の時に東京の麻布に移り住み、 3歳になるとき、弟が生れました。
当時N響のヴィオラ奏者だった朝妻文樹氏のもとで4歳頃からヴァイオリンを始めます。
  両親は音楽好きで、ピアノを弾いたり、ギターを弾いたりしていたようですが、プロの音楽家ではありません。完全な素人です。
しかし、 SPレコードの時代から、よく音楽を聴かせてもらいました。
(余談ですが、昔のレコードは床に落とすと割れるものでした。)
幼稚園は麻布本村町(今の南麻布)にある
安藤記念幼稚園に通いました。そこには素敵な教会があります。
クリスマスにはページェントをやり、博士やヨセフの役をやらされました。弟は天使や羊飼いをやっていた記憶があります。

  昭和37年4月に慶應義塾幼稚舎に入学しました。
【写真2】は当時の私です。縁側で上の弟が遊んでいるのが見えます。
ベビーサークルが左に見えるので、もう下の弟が生れた後でしょう。 霞町(今の西麻布)にある若葉会幼稚園のヴァイオリン教室に通いました。先生は長谷川 東氏でした。
小4の時にフルサイズの楽器に変わります。
  そんなある日、久保田良作門下生による、おさらい会「ぐるうぷどるちえ」を母と観に行くことになります。
みんな、なんと上手だったことか!今考えてみれば、後の同期にあたる、加藤知子さんや堀米ゆず子さんも弾いていたのです。
 そして、刺激を受けた私は久保田良作氏の門を叩くことになりました。
初めて持っていった曲はモーツアルトのコンチェルト第五番の一楽章でした。しかし、A線の開放弦のロングトーンから見直しが始まります。
小6の時、日本人製作者のヴァイオリンを購入します。 17万円でした。【写真3】は幼稚舎の自尊館(講堂)で行われた音楽会のものです。

  その後昭和43年4月に慶應義塾普通部に入学します。体がどんどん大きくなって行きヴァイオリンよりも運動の方が面白くなっていきました。まず、テニスをやりました。中2になった時ラグビー部のキャプテンがやってきて、勧誘され入部します。
【写真2】
ヴァイオリンのほうは「慶應に行っているなら、ここでヴァイオリンを続ける必要はない」と久保田先生に、いわば“破門”されてしまいます。

  ラグビーに没頭しました。昭和46年4月に慶應義塾高校に入学し、また、ラグビーを始めます。高1の頃からすでに県大会に出場し優勝しました。しかし、ここで大変な出来事が起きたのです。体育会では有名な「魔の山中合宿」で腰を負傷してしまうのです。

【写真3】
立ち上がることすらおぼつかなくなり休学。
再び1年生です。腰は治らず、体育の授業は絶対見学でした。
  何とか学校に通って2年生になります。しかし、その秋にまた悪化して休学することに。同級生は大学のキャンパスで楽しそうに学生生活を謳歌しているのに私は2度目の2年生。今考えれば、どん底だったと思います。
  「何もしていないのだったら」と、友人の勧めで高校のオケ「ワグネル」に手伝いにいくことにしました。この時、「ヴァイオリンを弾くとはこんなに楽しいことなのか」と痛感したのです。それと同時に、長年背負わされている「慶應」に嫌気が差してきていたことも事実です。
当時、エスカレーター式に特別苦労もせずに慶応大学に行くことは自分にとって良いことではない、と感じ始めました。親に相談すると、国立(こくりつ)なら、と言うことで芸大を目指すことにしました。ヴァイオリンさえ上手く弾ければよいというものではないので、毎日ピアノ、聴音、ソルフェージュ、楽典に明け暮れました。
  ラグビーで培った粘り強い反復練習が功を奏し、51年4月に東京芸術大学音楽学部器楽科(ヴァイオリン専攻)に入学できました。そして、1年生の頃から徐々にプロオケのコンマスをエキストラとして勤め始めます。
  そして、55年4月東京芸術大学大学院に入学し、同時に東京フィルハーモニー交響楽団コンサートマスターに就任しました。昭和57年4月に同大学院を修了し、昭和59年9月から1年間文化庁芸術家海外派遣研修員としてフライブルク国立音楽大学(ドイツ)に留学することになるのです。
  今、考えれば、“慶應”にいるからこそ出来た自由な発想と、悲運の負傷がヴァイオリニストになっていくファクターでありました。