『広辞苑』のアイヌ語

佐藤和美

 この文書は『広辞苑第五版』(岩波書店)で紹介されているアイヌ語について、間違い・疑問点を指摘するものである。
 なおここでふれなかったアイヌ語には疑問の余地がないということではないので、念のため。


謝辞
UEJさん(コトバ雑記)に項目の選定に関してご協力をいただきました。感謝します。


全体に関して
後記には執筆協力者の一覧が載っているが、その担当分野の中には「アイヌ」も「アイヌ語」もない。これでちゃんとしたアイヌ語解釈ができるのか。


あきあじ
「アイヌ語アキアチップの転という。「秋味」と当てる」

アイヌ語に「アキアチップ」という単語は存在するのか。

以下の辞典に該当なし。
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館
萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂
知里真志保『分類アイヌ語辞典・動物編』平凡社


アシカ
「アイヌ語」

アイヌ語に「アシカ」という単語は存在するのか。

以下の辞典に該当なし。
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館
知里真志保『分類アイヌ語辞典・動物編』平凡社

なお、萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』(三省堂)には「as-ka」(縦糸)という項目がある。


うとう【善知鳥】
「アイヌ語で突起の意」

アイヌ語に「ウトウ」という単語は存在するのか。

以下の辞典に該当なし。
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館
萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂
知里真志保『分類アイヌ語辞典・動物編』平凡社

なぜ「突起」が鳥の名になるのか。
「アイヌ語で突起の意」とは「エトゥetu」のことか。「エトゥetu」が「うとう」に訛ったと言いたいのか。「エトゥetu」が「うとう」に訛るということがありえるのか。


江戸
「古今要覧稿に「江所(江に臨む所)」の意とし、アイヌ語源説では宇土・烏頭と同じく出張ったところの意とする」

ここではアイヌ語が示されていないが、「出張ったところ」とは「エトゥetu」のことか。もう少しまともな表現ができないのか。
「エトゥetu」が「宇土・烏頭」に訛るということがありえるのか。


おんこ
「(アイヌ語から)[植]東北地方でイチイ(一位)のこと。」

アイヌ語に「オンコ」という単語は存在するのか。

以下の辞典に該当なし。
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館
萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂
知里真志保『分類アイヌ語辞典・植物編』平凡社


からむし【苧・枲】 「「むし」は朝鮮語mosi(苧)の転か、あるいはアイヌ語 mose(蕁麻)の転か」

なぜ「からむし」の「むし」だけ語源を他言語に求めるのか。


コロポックル
「アイヌ語。フキの葉の下に住む人の意」

「コロポックル」は「コロkor」(フキの葉)+「ポクpok」(下)+「クルkur」(人)で、「住む」という言葉は含まれない。


さけ【鮭・C】
「アイヌ語サクイベ(夏の食物)からとも、サットカム(乾魚)からともいう」

田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
sakipe サキペ【自動】[sak-ipe 夏・食物(魚)] 夏の漁をする。
satkam サッカ【名】[sat-kam 乾いた・肉] (=sat kam サッカ)干し肉。

「サクイベ」とか「サットカム」とか、もう少しまともな表記はできないのか。
「サクイベ」、「サットカム」は「鮭」と意味に差があるが。
「サクイベ」、「サットカム」が「さけ」に訛ることはありえるのか。


さる【猿】
「またアイヌ語に、猿をサロ・サルウシという」

田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(草風館)では「猿」として「saru」、「saro」があるが、日本語から入ったとされている。


しなのき【科木】
「「しな」はアイヌ語で「縛る」の意」

田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(草風館)
sina
「…をしばる」

確かにアイヌ語に「シナ」(…をしばる)という単語はある。だがどうして「しばる」が木の名になったと言いたいのか。アイヌ語では「しなのき」は「シナ」などとは呼ばれていない。単なる語呂合わせか。


シャモ
「(アイヌ語シサム(隣人)の転か)アイヌが非アイヌ系日本人を指していう称。」

「シャモ」の訳には普通「和人」があてられる。「非アイヌ系日本人」では正確ではない。


利根川
「トネはアイヌ語 tanne(長い、の意)からか」

「タンネ」だけでは地名にならない。
「タンネ」が「タネ」に訛ることはありえるが、「トネ」に訛ることがありえるのか。
北海道の「長い川」、石狩川、十勝川、沙流川、天塩川、のような「長い川」は、アイヌ語では「タンネペツ」とは呼ばれていない。


根室
「アイヌ語の樹林の意のニムオロから」

アイヌ語に「ニムオロ」という単語は存在するのか。

以下の辞典に該当なし。
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』草風館
中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』草風館
萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』三省堂


やつ【谷】
「関東地方でいう。特に鎌倉辺に地名として多く現存。アイヌ語からか」

田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(草風館)
yaci ヤチ
「湿った泥」

日本語の「やつ」とアイヌ語「ヤチ」では意味が違う。
アイヌ語「ヤチ」が、日本語では「やつ」、「やち」、「やと」、「や」などになることがありえるのか。

山田秀三『関東地名物語』(草風館)P47
「私はアイヌ語地名ばかり四十年も調べてきたのであったが、アイヌ語の方では低湿地をニタッとかトマといい、そこに葭芦などが茂っている意味ではサである。ヤチという地名は見たことがない。どうしてそんな説が出たか全く見当がつかない。」


ルイベ
「アイヌ語で、溶けた魚、または食物の意」

「ルru」は「溶けた」ではなく、「溶ける」である。
「「溶けた魚」、または「溶けた食物」の意」と言いたいのか、「「溶けた魚」、または「食物」の意」と言いたいのか。後者だとしたらどうしようもないが。


(2004・1・4)

(伝言板より)

「うとう」佐藤和美 (2004/01/04 17:04)

『広辞苑』の「うとう」の項の内容に関して以下のページを見つけました。

http://ww5.et.tiki.ne.jp/~koremaru/chimei/nenpoxx/nenpo12/MNZK.htm


(「言葉・思いつくままに」より)

「「猿」アイヌ語語源説」佐藤和美 (2006/02/19)

『『広辞苑』のアイヌ語』から

さる【猿】
「またアイヌ語に、猿をサロ・サルウシという」

田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(草風館)では「猿」として「saru」、「saro」があるが、日本語から入ったとされている。

----------------------------------

遅まきながら気がついたんですが、北海道(ブラキストン線の北側)には野生の猿は生息してませんね。「サル」がいなければ、「サル」という言葉はないでしょう。


「『広辞苑第六版』のアイヌ語」佐藤和美 (2008/01/12)

『広辞苑第五版』のアイヌ語の間違い・疑問点に関しては、「『広辞苑』のアイヌ語」にまとめてありますが、『広辞苑第六版』が出版されたので、第五版と比較してみました。

あきあじ
五版:「アイヌ語アキアチップの転という。「秋味」と当てる」
六版:「「秋味」と当てる」

アシカ
五版:「アイヌ語」
六版:[削除]

うとう【善知鳥】
五版:「アイヌ語で突起の意」
六版:[削除]

江戸
五版:「古今要覧稿に「江所(江に臨む所)」の意とし、アイヌ語源説では宇土・烏頭と同じく出張ったところの意とする」
六版:「古今要覧稿に「江所(江に臨む所)」の意とする」

おんこ
五版:「(アイヌ語から)[植]東北地方でイチイ(一位)のこと。」
六版:「[植]東北地方でイチイ(一位)のこと。」

からむし【苧・枲】
五版:「「むし」は朝鮮語mosi(苧)の転か、あるいはアイヌ語 mose(蕁麻)の転か」
六版:「「むし」は朝鮮語mosi(苧)の転か、あるいはアイヌ語 mose(蕁麻)の転か」

コロポックル
五版:「アイヌ語。フキの葉の下に住む人の意」
六版:「アイヌ語。フキの葉の下に住む人の意」

さけ【鮭・C】
五版:「アイヌ語サクイベ(夏の食物)からとも、サットカム(乾魚)からともいう」
六版:「アイヌ語サキペ(夏の食物)からともいう」

さる【猿】
五版:「またアイヌ語に、猿をサロ・サルウシという」
六版:[削除]

しなのき【科木】
五版:「「しな」はアイヌ語で「縛る」の意」
六版:[削除]

シャモ
五版:「(アイヌ語シサム(隣人)の転か)アイヌが非アイヌ系日本人を指していう称。」
六版:「(アイヌ語シサムまたはシャモルンクル(ともに和人の意)の転か)アイヌが非アイヌ系日本人を指していう称。」

利根川
五版:「トネはアイヌ語 tanne(長い、の意)からか」
六版:[削除]

根室
五版:「アイヌ語の樹林の意のニムオロから」
六版:「アイヌ語の樹林の意のニムオロからともいう」

やつ【谷】
五版:「(関東地方でいう。特に鎌倉辺に地名として多く現存。アイヌ語からか)低湿地。やち。やと。(地名としては、「や」ともいう)」
六版:「(関東地方で)低湿地。やち。やと。特に鎌倉辺に地名として多く現存し、地名としては、「や」ともいう。」

ルイベ
五版:「アイヌ語で、溶けた魚、または食物の意」
六版:「アイヌ語で、溶ける食物の意」

私の指摘した点はかなり改善されてますね。(まぁ、「改善」というよりは、単純に削除しただけの項目のほうが多いですが)
それにしても「根室」の「ともいう」を追加しただけというのは情けないですね。アイヌ語をちょっとかじれば、「アイヌ語の樹林の意のニムオロからともいう」などとは絶対書かないと思いますが。


「Re:『広辞苑第六版』のアイヌ語」佐藤和美 (2008/01/13)

『広辞苑』のアイヌ語
>後記には執筆協力者の一覧が載っているが、その担当分野の中には「アイヌ」も「アイヌ語」もない。これでちゃんとしたアイヌ語解釈ができるのか。

『広辞苑第六版』の後記に載ってる、執筆・校閲協力者の中には次の方々がいました。

上杉一紀[北海道地名]
中川裕[アイヌ]

『広辞苑』のアイヌ語が改善されたのは中川裕さんのおかげかな?

「根室」の「アイヌ語の樹林の意のニムオロからともいう」は「北海道地名」担当の上杉一紀っていう人の責任かな?


「鮭アイヌ語語源説について」佐藤和美 (2008/01/14)

『広辞苑第六版』
さけ【鮭・C】
「アイヌ語サキペ(夏の食物)からともいう」

鮭アイヌ語語源説についてですが、中川裕さんは次のよう書いています。

前田富祺監修『日本語源大辞典』(小学館)157ページ
テーマで探る言葉の由来 アイヌ語
かなりあやしいもの
サケ
「アイヌ語の sakipe は「夏の食べ物」の意でマスを指す。サケは夏ではなく秋に川をのぼるので、 cukipe (発音はチュキペ)「秋の食べ物」と言う。金田一京助は江戸期に和人がサケとマスを区別せずに、 sakipe を日本語風になまったシャケンベという名称で呼んだのが語源だと説くが、ではいつからサケとマスを区別するようになったのか? 名称のすり替えが気になる語源説である。」

『広辞苑第六版』の「鮭」の項の記述に中川裕さんはどれだけかかわっているのでしょうか?


「『広辞苑』の「ユーカラ」」佐藤和美 (2008/10/13)

『広辞苑』第五版には「ユーカラ」は次のように出ていました。

『広辞苑』第五版
ユーカラ【Yukarアイヌ】
(物真似する意という)アイヌに口承されてきた叙事詩の一。孤児として育った少年ポイヤウンペが、両親の仇討や許嫁の奪還のために敵と交える激戦の数々の物語。節をつけて語る。広義には女性、自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩を含む。ユカラ。

田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』(草風館)からです。
yukar
1 [自動]ユーカラ(英雄叙事詩)を歌う。
2 [名]ユーカラ、英雄叙事詩。
3 (語構成要素として)[自動](1)ものまねする(人の言った言葉も仕草もそっくりにまねする)。(2)[<(1)]叙事詩を歌う。

「ユーカラ」には、確かに「物真似する」という意味はあるようです。でも『広辞苑』「ユーカラ」の項に「物真似する意という」とあるからには、叙事詩をさす語義よりも、「物真似する意」という語義のほうが古い必要があります。『アイヌ語沙流方言辞典』の語義で1、2よりも3(1)のほうが古いという根拠はあるのでしょうか? 私には『広辞苑』第五版の「物真似する意という」というのは、間違いとは言えないまでも、本当にそうなのか疑問でした。

さて、「ユーカラ」、第六版ではどうなったでしょうか。

『広辞苑』第六版
ユーカラ【Yukarアイヌ】
アイヌに口承されてきた叙事詩。孤児として育った少年ポイヤウンペが、両親の仇討や許嫁の奪還のために敵と交える激戦の数々の物語。節をつけて語る。広義には女性、自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩を含む。ユカラ。

「物真似する意という」は削除されていました。めでたし、めでたし。



Copyright(C) 2004,2008 Satou Kazumi

BACK