『地名の世界地図』批判 Ver.2.02

佐藤和美

 この文書は文藝春秋から発行されている文春新書の21世紀研究会編『地名の世界地図』14刷(2001年12月10日発行)について間違い・疑問点・修正点等をまとめたものである。(刷数の表示がないのは14刷である。)なお、作業は継続中であり、これが間違い・疑問点・修正点等の全てではない。


全体に対して。

この本の間違い・疑問点の多さを考慮し、増刷を中止して全面的に見直しをかけた後、新版として出版すべきである。
著者名が書かれていない。文責不明である。
全体的に推敲不足の文章である。
特殊アルファベットをほとんど使用していない。
参考資料を無批判に使うべきではない。
固有名詞の仮名表記・アルファベット表記の方針があいまいである。一貫性がない。
P14 サルディニア島Sardegna (カナが英語、アルファベットが現地語)
P22 ミレトスMiletus (カナが現地語、アルファベットが英語)
いたるところに「発見」という言葉が使われている。文字列検索を行って全てをチェックすべきである。
一冊の本の中では用語は統一すべきである。
「インディアン」、「インディオ」という言葉は使っていいのか。
「小アジア」、「アナトリア」のあたりを指すのに「トルコ」という言葉を使うのは不適切である。(例 P22「当時、トルコ北部には、アマゾンの国があると考えられていた。」)
「イスラム教」は「イスラーム」がよい。
文章を修正する場合は、「木に竹を接ぐ」ようなやりかたをしないこと。文章を削除した場合、その後に無意味な文字を入れて穴埋めしないこと。
最近では「オスマントルコ」は「オスマン帝国」と表記する。最近の「世界史」の教科書でも見てみればいい。それにしても『常識の世界地図』では「オスマン帝国」なのに、『地名の世界地図』で「オスマン・トルコ」なのは、修正するのがめんどくさいのか。
『世界史事典』(旺文社)
「これまでオスマン-トルコ帝国と記述されることが多かった。しかし近年の研究で、君主(スルタン)がトルコ人でイスラーム国家だが、多民族と多宗教を包摂し、高級官僚も民族・宗教の別なく登用したところから、単にオスマン帝国と記述されるようになった。」


P1
「平らな大地」
「平らな大地の国」

「平らな大地」とは変な日本語である。P71では「平原」という言葉がでてくるが、そちらのほうがいい。

P3
「「平らな大地の国」は、一七九五年に次いで、二度目の亡国を経験したのである。」

P71
「近年では、ナチス・ドイツの電撃作戦とソ連軍の侵入によって、わずか四週間でポーランドは再び消滅してしまった。」

P247
「しかし一九三九年、ナチスドイツとソ連の侵攻によって、再び国は消滅。」

一九三九年の場合、国際社会がポーランドの消滅を承認したわけではないので「亡国」とは言いがたい。
「ナチス・ドイツ」と「ナチスドイツ」で不統一である。

P3
「古代ギリシア人は、言葉の通じない異国の野蛮な民族のことをバルバロイとよんだ。現在、北アフリカに分布するベルベル人は、そうよばれた人びとの歴史を、民族名として受けついでいる。」

P27
「この地には文化的ではない人びとが暮らすというので、バルバリア(言葉の通じない野蛮人の国)とよんだ。」

P155
「ちなみに「ベルベル」とは、ギリシア人がギリシア語の通じない「野蛮人」という意味でよんだバルバロイに由来する。」

P210
「ところが、そのよび名、ベルベルBerberは、彼らの言葉が古代ギリシア人には理解に苦しむ言葉に聞こえたので、バルバロイ(理解できない言葉を話す未開人)とよばれたことによる。バーバリアン(野蛮人)の語源である。」

「バルバロイ」はギリシア語を話さない異民族すべての蔑称であり、「野蛮人」、「未開人」の意味はない。

『大辞林』 バルバロイ
[(ギリシヤ)barbaroi]
〔わけのわからない言葉をしゃべる者の意〕古代ギリシャ人が異民族一般に対して用いた蔑称。

P3-4
1刷「古代ギリシア人は、アフリカのベルベル人をバルバロイ(言葉が通じない人=野蛮人)とよんだ。このちょっと失礼な名称は、今度は、古代ローマ人によって、ガリアにもちこまれた。ギリシア文化を模範としたローマ人は、その地で出会った言葉の通じない部族をバルバロイとよんだのである。その名は、ドイツ南東部の地方名としていまも残っている。ババリア(バイエルン)である。しかも、この名のたどる道筋はそれだけでは終わらなかった。アフリカ、ギリシア、ローマを経てガリアにもちこまれたこの名は、さらに意外なものの名前として今日にいたっている。バルバロイ、野蛮人という名をもつお菓子、ババロアである。」

「ババロアbavarois」は「ババリア地方風の菓子」の意味だが、「Bavaria」の語源が「barbaroi」だという根拠はなんなのか。

14刷「古代ギリシア人は、言葉の通じない異国の野蛮な民族のことをバルバロイとよんだ。現在、北アフリカに分布するベルベル人は、そうよばれた人びとの歴史を、民族名として受けついでいる。そしてこの蔑称ともいえる言葉は、三〜四世紀の絶世の美女と伝えられる殉教処女バルバラの名になる。異国に布教する困難の物語が、この美女によって演出されたとも考えられる。しかも、この名のたどる道筋はそれだけでは終わらなかった。キリスト教がヨーロッパに、海を越えて新大陸アメリカに伝わるうちに、野蛮人がいつしか美しい聖女のイメージに転化したのだ。そしてこの名は、さらに意外なものの名前として今日にいたっている。バルバラという女性名の愛称でよばれ、子どもに夢を与えるおもちゃ、バービー人形である。」

削除したスペースをうめるために『人名の世界地図』のネタを流用という安易なことをしている。
「Berber」の語源が「barbaroi」だという根拠はなんなのか。

http://www.m-w.com/
Berber
Etymology: Arabic Barbar

P4
「そして、ウラジオストックと名づけられたこの都市の意味するところは、「東方を征服せよ」なのである。」

P74
「一八六〇年に建設されたロシア最東南の都市ウラジオストックは、その意味が「東方を征服せよ」であり、ロシアの姿勢を明確にあらわしたものだった。」

P82
「オジョニキゼ(共産党運動家)→ウラジカフカス(カフカス人の占領地)」

「ウラジオストック」と「ウラジカフカス」の同じ「ウラジ」に、違う訳語をあてている。「ウラジカフカス」が「カフカスの領地」なら、「ウラジオストック」は「東の領地」である。
「最東端」、「最南端」などとはいうが、「最東南」とはいわない。
「ウラジオストック」よりも「ナホトカ」のほうが南東にある。
「オジョニキゼ」でいいのか。
「カフカス人の」ではなく、「カフカスの」とすべきである。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
ウラジボストクVladivostok
この都市は、1860年にロシアの軍事基地として建設され、コーカサス地方にあったウラジコーカサス市「コーカサスの領地」の地名を借用して、ウラジボストクと命名された。この地名は、ロシア語のウラジvlade(nie)「領地」とボストクvostok「東、東洋」を合成し、「東洋の領地」の意味を持つ。この地方は清国領であったが、1858年のアイグン条約によって、ロシアに割譲されたため、このような地名が与えられた。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
ウラジカフカス
「【旧称】ザウジカウ Dzaudzhikau(1944〜'54)、オルジョニキーゼ Ordzhonikidze(1955〜'90)」

P5
「モスクワ(沼沢地の川)」

P73
「モスクワMoskvaとはモスクmosk(沼沢地)とフィン語のva(水)で「沼沢地の川」を意味する。」

P258
「モスクワMoskva 一二世紀の呼称、ナモスコに由来する。前置詞naとMoskva「モスクワ川」で「モスクワ川のほとり」。「モスク」そのものには、「沼沢地の川」という意味がある。」

「モスク」、「モスクワ」どちらが「沼沢地の川」なのか。矛盾している。
「水」を「川」と訳すのは拡大解釈ではないのか。

P12
「フェニキアPhoeniciaの語源は明らかではない。古代エジプト語で、ケペニィあるいはケベンとよばれていたものが、ギリシア、ローマと経るにしたがって転訛し、ラテン語の地名接尾辞-iaがつけられてフェニキアになったと考えられている。」

P16
「また、ローマ人からポエニPoeniとよばれたカルタゴ人は、前一四六年、ローマとの数度にわたる戦いののちに滅びた。ちなみに、ポエニとはラテン語でフェニキア人のことであり、そのフェニキアも、ポエニにラテン語の地名接尾辞-iaがつけられたもので、「ポエニ人の地」を意味する。」

『民族の世界地図』P233
「レバノンの「白」に対して、フェニキアは「深紅(不死(フェニックス)の鶏冠の色)」という色名であるところが面白い。」

フェニキアの語源は「不明」なのか、それとも「深紅」なのか。矛盾している。
「ポエニ」は何語だと言いたいのか。矛盾している。
ラテン語「ポエニ」を「フェニキア人」という意味だとしていいのか。

田中秀央編『羅和辞典』(研究社)
Poenī
「Phoenicia人から出たといわれるCarthagoの住民。」

P12
1刷「現在の首都ベイルートBeirut(井戸)やトリポリTripoli(三つの町)、サイダーSayda(漁場)といった都市を設けたように、彼らが東奔西走して建設した地中海の主要な地域、都市には、フェニキア起源の名前をみることができる。」

「トリポリTripoli(三つの町)」はギリシア語起源で、フェニキア語起源ではない。

14刷「現在の首都ベイルートBeirut(井戸)やトリポリTripoli(三つの町)、サイダーSayda(漁場)といった都市は彼らが設けた。彼らが東奔西走して建設した地中海の主要な地域、都市をいくつか紹介しておこう。」

P14
1刷「現在の首都パレルモPalermoは、」

パレルモは首都ではない。

14刷「現在のパレルモPalermoは、」

P14
「現在のパレルモPalermoは、古くはパンホルムス。パン(すべての、万能の)とホルムス(碇泊地)で、「万能の港」とよばれていた。」

「パンホルムス」はギリシア語である。フェニキア人がギリシア語の地名をつけたと言いたいのか。

P14
「チュニスTunisはフェニキアの美の女神タニスにちなんだものだそうだ。」

P286
「チュニジア共和国(中略)首都チュニスの名に由来。フェニキアの女神タニトフ Tanitkhが、アラビア語読みではトゥノス、フランス語でチュニスと転訛したという。」

P286
「チュニス(中略)タニトフ女神Tanitkhを守護神として祀ったことから、地名もこの女神の名前に由来する。」

「タニス」と「タニトフ」で矛盾している。
「アラビア語読みでは」ではなく「アラビア語では」だろう。
「美の女神」といえるのか。

P14
「ラテン語でカルタゴ・ノバCarthage Nova、」

「ラテン語でカルタゴ・ノワCarthago Nova」である。

P14
1刷「前二二五年頃……  千三百年後……  一五三三年」

千三百年後ではない。

14刷「前二二五年頃……  約千七百年後……  一五三三年」

正確には「一七五七年後」だが、十の位で四捨五入すれば「千八百年後」である。「約千七百年後」としていいのか。

P14
「また前二二五年頃には、地中海世界に勢力を拡大しつつあったカルタゴがスペイン沿岸の各地に都市を建設するようになった。」

前二二五年は第一次ポエニ戦争(前264-前241)でのカルタゴの敗北の後であり、「地中海世界に勢力を拡大しつつあったカルタゴ」は不適切である。

『大辞林』
ポエニせんそう【―戦争】
ポエニ(Poeni)はラテン語でフェニキア人の意〕ローマと、フェニキア人の植民市カルタゴとの三回にわたる戦争。第一次(前264-前241)、ローマがシチリアからカルタゴ勢力を駆逐、属州とする。第二次(前218-前201)、カルタゴの将ハンニバルがアルプスを越えてイタリア半島に侵入し、カンネーの戦いなどに勝利したが、ザマの戦いで大スキピオに敗れる。第三次(前149-前146)、ローマの小スキピオがカルタゴを包囲、壊滅させた。

P15
1刷「サルディニアはサルドSardo(足跡)、その島に初めて上陸したことを記念した名がつけられた。」
14刷「サルディニアはサルドSardo(足跡)、一説では、その島に初めて上陸したことを記念した名がつけられた。」

こういうのを与太話と言うのだろう。1刷と比較すると「一説では、」が追加されているが、そういう小手先の修正ですましていていいのか。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
サルジニア
「すなわち、その起源は、島の形で、遠くから見ると足に似ており、カルタゴ人がサラドsarad「足」と呼んだのが地名化した、とする説が有力である。」

P15
「スペイン領に入ると、バレアレス諸島Balearesがある。「西アジアの豊穣神バール Baleの島々」の名が示すように、フェニキア人たちはここに故郷の神を持ち込んだのだ。このバール神信仰はフェニキアの植民地を通じてヨーロッパの民間信仰に広まっていった。」

「バール」は「Baal」である。「Bale」としたのは「Baleares」の語源だとしたいために、意図的にスペルを変更したのか。
「フェニキア人たちはここに故郷の神を持ち込んだのだ。このバール神信仰はフェニキアの植民地を通じてヨーロッパの民間信仰に広まっていった。」というのは事実なのか。

『EXCEED英和辞典』
Baal
n. (pl. Ba・al・im) バール神 ((古代セム人の豊穣の神)); (時にb-) (ヘブライ人から見て)邪神; 偶像 (idol).

P16
「ポルトガルのリスボンLisbonも、前一二〇〇年にフェニキア人が建設した都市である。」

P16
「フェニキアは前一二〇〇年頃におこった国だが、」

P248
「リスボン Lisbon 自称はリズボアLisboa。前一二世紀にここを殖民都市としたフェニキア人がアリスイボAlisibbo「良港」と名づけたことによる。」

P248
「マルタ共和国 Republic of Malta 前二〇〇〇年頃、フェニキア人が地中海貿易の中継基地とするために入植した。」

「フェニキア」は「国」ではない。
「前一二〇〇年」と「前二〇〇〇年」で矛盾している。
フェニキアは「前一二〇〇年頃におこ」ると同時にリスボンも建設したのか。
「Alisibbo」が「アリスイボ」になるのか。

P16-17
「古代ギリシア人たちが認識していた世界は、エーゲ海とエジプトや西アジアとの交易を通じて知った地中海東部、そしてギリシアの西のイオニア海とイタリア半島南部だった。」

P25
「ギリシア人の足跡はロシアの黒海北岸にまでおよんでいる。一九四五年に第二次世界大戦の戦後処理が話し合われた会談の地ヤルタは、二世紀に彼らが建設した町である。」

P204
「黒海は、前八世紀頃からギリシア人が植民都市を建設して交易を行っていた。」

ギリシア人は黒海沿岸を知っていたのか、知らなかったのか。矛盾している。
ヤルタはロシアではなくウクライナである。

P17
「古代ローマ人が、このヘレネス(ギリシア人)と出会ったのは、ギリシアの西、靴の形をしたイタリア半島のかかとの部分で、その地でグライコイとよばれていた人びとを、ローマ人は(ラテン語で)グレーキ Graeciとよんだ。」

P240
「日本語の「ギリシア」はラテン語のグレキアが訛ったもの。ペロポネソス半島に居住したグラエキ族Graecia「高地の人、名誉の人」の名が語源とされるが、定かではない。」

「グレーキ」、「グラエキ」どちらなのか。
「Graeci」は「グラエキ」である。
「グラエキ族」がなぜ「Graecia」なのか。これは地名ではないのか。
「Graeci」は「ペロポネソス半島」、「イタリア半島のかかとの部分」のどちらに居住していたと言いたいのか。

P18
「イオニア海Ioniaも、ヘレンの三人の息子のひとりイオンIonの名に由来する。」

イオンはヘレンの孫である。

呉茂一『ギリシア神話』(新潮社)
「一方ヘレーンはニンフのオルセーイスとの間に、ドーロス、クスートス、アイオロスの三人を儲けた。それぞれドーリス族(ドリアンとふつうに呼ぶが、それは正しくない)、イオーニア族、アイオリス族の祖と呼ばれる。へレーンはのち三人の子に所領を頒(わ)けたが、そのうちクスートスはペロポンネーソス半島を分配され、二人の子イオーンとアカイオスによって、さらにイオーニア族とアカイオイ族との祖になった。」

P18
「オリンピア(中略)この地名は、ギリシア語ではないがインド・ヨーロッパ語族のものとわかっているので、太古に、はるか東の文化が影響したと考えられるものの、意味などはわかっていない。」

意味がわかっていないのにどうして「インド・ヨーロッパ語族」だと言えるのか。
「太古に、はるか東の文化が影響した」とはどういう文化が影響したというのか。意味不明。

P20
「カーラント(currants)」

「currant」だろう。

P20
「ナポリは、英語読みではネープルズNapoles。」

「英語読みでは」ではなく「英語では」だろう。
「Napoles」は「Naples」の間違い。

『EXCEED和英辞典』
ナポリ
Naples ((イタリア南部の都市)).

P21
「動物の革をなめして」

「動物の皮をなめして」の間違い

『大辞林』
かわ【革】
〔「かわ(皮)」と同源〕毛を取り除いてなめした獣の皮。

P22
「このときの筆記用の革を、ギリシア人はペルガメネ、ローマ人はペルガメナスとよぶ。羊皮紙を意味するパーチメント(perchment)は、こうしたペルガモン以来の歴史に由来する。」

ラテン語で「羊皮紙」は「pergamēnum」である。
「perchment」は「parchment」の間違い。

田中秀央編『羅和辞典』(研究社)
pergamēnum
羊皮、羊皮紙。

『EXCEED英和辞典』
parchment
n. 羊皮紙(類似の紙), 羊皮紙の文書[写本], (模造羊皮紙の)証書, 卒業証書.

P22
「イズミールの北にあるレスボス島は、女性の同性愛がさかんだったというのでレスビアンの語源になったが、」

「北西」とすべきである。
「女性の同性愛がさかんだった」というのは疑問。

『大辞林』
レスビアン [lesbian]
〔レズビアンとも。女性をたたえた詩で名高いギリシャの女流詩人サッフォーの生地レスボス島から〕女性の同性愛者。レズ。→サッフィズム

サッフィズム [sapphism]
女性の同性愛。サフィズム。レスビアン。〔女流詩人サッフォーがエーゲ海のレスボス島に住み、少女を集めて詩や音楽を教えていたことから生まれた俗説による〕

サッフォー [Sapphō]
(前612頃-?) 古代ギリシャの女流詩人。エーゲ海のレスボス島生まれ。若い女性の個人的な体験をもとに、簡明で率直な詩を数多く書いた。後世長く愛好されローマの詩人に大きな影響を与えた。パピルス文書の断片・古典著作家の引用が現存。サッポー。

P22
「ミレトスMiletusは、前十一世紀頃の古い町で、音楽、預言などを司る神ミレトスが建設したといわれる。」

ミレトスは人間で、「音楽、預言などを司る神」ではない。
「預言を司る」などという神が存在するのか。

P23
1刷「バビロニアの名は、バビリBabili(神の門)に由来、」

P146
1刷「バビロンBabylonもバベルも同じアッカド語のbab(門)とel(神)からなり、」

「Babili」と「bab el」で矛盾している。

P23
14刷「バビロニアの名は、バブエルBab-el(神の門)に由来、」

P146
14刷「バビロンBabylonもバベルも同じアッカド語のbab(門)とel(神)からなり、」

「Bab-el」は「バブ・エル」、「バベル」などと仮名表記すべきではないか。

P24
「その先はボスポラス海峡Bosporusである。(中略)ボース(雌牛)とポロス(渡し場)で、「雌牛の渡し場」。これは、ゼウスが妻ヘラの嫉妬から逃すために恋人のイオを雌牛に変身させてこの海峡を渡らせた、という伝説による。」

呉茂一の『ギリシア神話』とかなり違いがあるようだが。

呉茂一『ギリシア神話』(新潮社)
「へーラーは正面からゼウスの行動を掣肘することはできないので、これを見過したが、その代わりに凶悪な虻を牝牛の耳へ押し込み、絶えまなく螫(さ)しつづけさせた。その苦しみにイーオーの牝牛は狂乱して諸国をあてもなく迷い歩いた。まず西へ行ってイオニア海の辺を辿り、イリュリアを過ぎ、ハイモス山からエウローパとアシアを隔てる狭い瀬戸を渡った。この時からこの瀬は、ボースポロス(牝牛の渡り)海峡と呼ばれることになった。」

P24
1刷「一九二三年にトルコ共和国が独立したあとも、」
1刷「イスタンブールが正式名称となったのは独立後七年たった一九三〇年である。」

オスマン帝国がトルコ共和国にかわっただけで、「独立」は不適当。

14刷「一九二三年にトルコ共和国が成立したあとも、」
14刷「イスタンブールが正式名称となったのはその後七年たった一九三〇年である。」

「正式名称」とはどういう意味か。「イスタンブール」の正式名称はトルコが決めるのではないか。

P25
「ヤルタのあるクリムKrym(英語名クリミア)半島の西側には、港湾都市として栄えたオデッサOdessa(ギリシアの英雄オデッセウスに由来)がある。」

オデッサはクリミア半島にはない。
「オデュッセウス」だろう

『大辞林』
オデュッセウス [Odysseus]
「オデュッセイア」の主人公。イタカ王。ペネロペの夫でテレマコスの父。トロイ戦争で活躍したギリシャ神話の英雄。有名なトロイアの木馬を発案し、トロイアの陥落を導いた。ユリシーズ。

P25
1刷「もともとのオデッサは黒海東岸のブルガリアに建設されていた。」

「東岸」は「西岸」の間違い。

14刷「もともとのオデッサは黒海西岸のブルガリアに建設されていた。」

P25
「これは古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)という名によってカウカソスCaucasusとよばれていた。」

P64
「一説では、前六世紀から前三世紀にかけて黒海沿岸でさかえていた遊牧国家スキタイの言葉クロウカシス(白い雪)に由来するという。」

「定説」なのか、「一説では」なのか。矛盾している。

P25
1刷「白人、ヨーロッパ人を意味するコーカソイドの語源である。」

コーカソイドにヨーロッパ人という意味はない。

14刷「白色人種を意味するコーカソイドの語源でもある。」

P25-26
「黒海沿岸には、この他にも、古代ギリシア時代に由来する興味深い町がある。現在はギレスンとよばれているが、当時はケラススCherasus(赤い実)とよばれていた。この地方特産の甘くて赤い実のなる林があることで知られていたからである。だからこの木の実も、ケラススとよばれるようになった。それを前七四年、ローマの将軍ルクルスがたいそう気に入り、ローマに持ち帰って栽培するようになって以来、ローマではこの実はケラシア、のちにフランス語でスリーズといった。さらにノルマン系フランス語でシェリーズ、そう、英語のチェリーcherry(サクランボ)である。」

「ケラスス」はラテン語であり、ギリシア語ではない。
「ケラスス」のスペルが間違っている。「cerasus」である。
本当に「赤い実」という意味があるのか。『英語語源辞典』(研究社)では語源不詳になっている。根拠はあるのか。
「ケラスス」が「赤い実」という意味だとしておきながら、「だからこの木の実も、ケラススとよばれるようになった。」とその実の名が地名に由来するかのように書いている。
「ケラシア」は俗ラテン語(の推定形)である。前七四年に使われていたのか。
フランス語、「ノルマン系フランス語」、英語、みな「リー」と伸ばしてるが、チェリー」という日本語訛りにあわせたのか。
「ノルマン系フランス語」となぜわざわざ「系」を入れているのか。

田中英央編『羅和辞典』(研究社)
cerasus
「サクラ(桜)の樹」

寺澤芳雄『英語語源辞典』(研究社)
cherry
「ME cheri、chiri(e) □ ONF cherise(F cerise) < VL *ceresia(It. ciliegia/Sp. cereza)(neut.pl.) ← ceresium=LL cerasium ← L cerasus cherry tree □ Gk kerasos(cf.LGk.kerasia) ←? Sem. (cf. Akkad. karsu stone fruit)」
ME:Middle English
ONF:Old Norman French
F:French
VL:Vulgar Latin
LL:Late Latin
L:Latin
Gk:Greek
LGk:Late Greek
Sem.:Semitie
Akkad.:Akkadian
It.:Italian
Sp.:Spanish
<:発達
□:借入
←:派生
←?:語源不詳

P26
「南フランスで、ギリシア人が開拓した地名をみてみよう。マルセイユMarseilleは、すでにフェニキアが建設していた町を、前六〇〇年頃、ギリシア人が奪い取ったものである。フェニキア語で「植民地」を意味するマサリアに由来するといわれている。」

「開拓した地名」とはどういう意味か。
「ギリシア人が開拓した地名」とやらには「フェニキアが建設し」た「フェニキア語」に由来する地名も含まれるのか。

P26
「モナコも、フェニキア人の入植によってはじまったといわれる。それをギリシア人が吸収して、ヘルクリス・モナイコス・ポルトス(ヘラクレスの隠者の港)とよばれたが、のちにモナイコス(一人だけのすみか)だけが使われるようになり、モナコとよばれるようになった。」

P249
「モナコ公国(中略)前四世紀頃にギリシア人がヘラクレス神殿を建立し、ヘルクリス・モネコス・ポルトスHerculis Monaeci Portus「ヘラクレスの隠者の港」とよんだ。のちにモネコスmonoecus「一人だけのすみか」に省略されて、モナコとよばれるようになった。」

ここに書いてあるのはラテン語のようだが、ギリシア人がラテン語で地名をつけたのか。
「ヘルクリス・モナイコス・ポルトス」と「ヘルクリス・モネコス・ポルトス」で矛盾している。 「モナイコス」と「モネコス」で矛盾している。
「Herculis Monaeci Portus」が「ヘルクリス・モネコス・ポルトス」でいいのか。
「monoecus」が「モネコス」でいいのか。

P26
1刷「カンヌCannesは「葦」だから、おそらく当時は葦原が広がる浜辺だったのだろう。」

葦は海岸に生えるのか。

14刷「カンヌCannesは「葦」だから、おそらく当時は葦原が広がる土地だったのだろう」

P26
「エーゲ海と、その海岸線沿いにあるフェニキア」

フェニキアがエーゲ海に面しているというのか。

P27
「ポセイドンの妻リビュエにちなんで」

P291
「ポセイドンの妻リュビア女神」

「リビュエ」、「リュビア」で矛盾
リビュアを「女神」と言えるのか。

P28
「三年目に「ヘラクレス」の柱を通ってエジプトへ戻ってきた、とある。」

「「ヘラクレス」の柱」ではなく、「「ヘラクレスの柱」」だろう。

P28
1刷「そこで彼らが不思議に感じたこととして報告しているのが、周航中は太陽が常に右手にあった、ということだ。インド洋を南下した船団はまもなく南半球に入るが、南半球にあっては、太陽はいつも右手に見えることになる。うそではないのだ。」

向いている方向、時刻を指定しないと無意味。

14刷「そこで彼らが不思議に感じたこととして報告しているのが、周航中は太陽が常に右手にあった、ということだ。インド洋を南下した船団はまもなく南半球に入るが、東から西へ向かう船からは、太陽は右手に見えることになる。うそではないのだ。」

向いている方向、時刻を指定しないと無意味。
「南下」とは「東から西へ向かう」ことではない。

P29
「全人類は同朋である」

「同胞」であるの間違いだろう。

P29
「大王亡きあとも、大王に仕えていた」

意味不明。

P32-33
1刷「前133年までのローマ帝国」の図

時期と範囲が不一致。

14刷「ローマ帝国の最大版図」

P32-33
「西暦五〇年頃、現在のドイツ南西部を流れるライン川上流で発見した温泉に、ローマ人たちは、時の皇帝アウレリウスの名にちなんで「アウレリウスの泉」と名づけた。」

西暦五〇年にマルクス・アウレリウスは存在しない。

『大辞林』
マルクスアウレリウス [Marcus Aurelius Antoninus](121-180) 古代ローマ皇帝(在位 161-180)。五賢帝の一人。寛大な統治政策を行なったが、異民族の侵入・ペストの流行に苦慮。ストア哲学に傾倒し「自省録」を著した。哲人皇帝。

P33
1刷「アーヘンArchen」

スペルミス。

14刷「アーヘンAachen」

P35
「そしてローマ時代、前一三三年にトルコ西部のペルガモンがローマに降伏したことで、ペルガモンを中心としたトルコ西部が属州「アシア」(東)とされ、はじめてアジアの名につながる行政上の地名が登場する。東(アス)にラテン語の地名接尾辞「イア-ia」がつけられ、アシア(東の地)とされたわけだ。」

ラテン語以前に、すでにギリシア語として成立していた。

下宮忠雄・金子貞雄・家村睦夫・編『スタンダード英語語源辞典』(大修館書店)
Asia
「アジア[紀元前7世紀にAsiaはギリシア人がLydia(小アジア西部の国、今のトルコの西方)の沿岸を指すのに用いられた。紀元前6世紀末Herodotos以後、もっと広い地域を指すようになったもの。]」

P34
1刷「国後島のセルノボドスク(硫黄泉の町)は旧地名も東沸、」

「東沸」が温泉と関係あると言いたいような文脈だが、アイヌ語で「トープツ」は「湖の口」という意味である。この東沸はアイヌ語「湖の口」と考えるべきだろう。

14刷「国後島のセルノボドスク(硫黄泉の町)、」

P36
「ギリシア神話では地母神、豊穣神とされるエウロペが、」

ギリシア神話のエウロペは「地母神」でもないし、「豊穣神」でもない。

『大辞林』
エウロペ
ギリシャ神話の女性。テュロス王の娘。白い牡牛に姿をかえたゼウスの背に乗ったまま海を渡ってクレタ島に上陸し、ミノス・ラダマンテュス・サルペドンを生む。のち、クレタ王妃。牛は牡牛座となった。

P36
「地名としては、エーゲ海と黒海を結ぶボスポラス海峡でアジアとヨーロッパが分断されたわけだが、」

マルマラ海、ダーダネルス海峡のことを忘れている。

P38
「アジアの語源となった言葉アスassuは、ヨーロッパ諸語では「東」という言葉の語源になった。」

「ヨーロッパ諸語」とはなにか。意味不明である。
「アスassu」が「ヨーロッパ諸語では「東」という言葉の語源になった。」というその根拠は何か。

P39
「オストostにラテン語の地名の接尾辞-iaがつけられ、「オーストリア」となったのである。」

「ost」に「-ia」がついたら「ostia」であり、「オーストリアAustria」にはならない。

P39
1刷「エストライヒÖstreich」

P239
1刷「エステライヒ」

「エストライヒ」と「エステライヒ」で矛盾している。

P39
8刷「エスタライヒÖsterreich」

P239
8刷「エストライヒ」

「エスタライヒ」と「エストライヒ」で矛盾している。

P39
14刷「エスタライヒÖsterreich」

P239
14刷「オーストリア共和国 自称はゲルマン語系の言葉 ost「東方」と mark「辺境地」から転訛した「エステライヒ」。

「エスタライヒ」と「エステライヒ」で矛盾している。
「Ostmark」が「Österreich」 に「転訛」することがありえるのか。

P39
「エストニアも「東の国」という意味だ。自国ではエスティEstiとよんでいる。」

P239
「エストニア共和国 自称はエスティEesty。意味は「東の」。」

「Esti」と「Eesty」で矛盾している。
エストニア語はウラル語族であり、印欧語族ではない。「ヨーロッパ諸語」などというわけのわからない言葉を使っているのはそのためか。

P42
1刷「大航海時代を迎えたポルトガルでも、西の海に沈んだアトランティスの伝説は根強かったようで、彼らは、その島をアンティリアとよんだ。」
「そのため、複数の島々からなるこれらの島々を、複数形でアンティルズAntilles(アンティル諸島)とよぶようになった。」

P224
1刷「オランダ領アンティルNetherlands Antilles 大西洋に実在すると信じられていた伝説の島の名で、ヨーロッパの「前方にある島」の意。」

P42では「アンティル」の語源が「アトランティス」であるかのようなニュアンスで書いてあるが、P224では「「前方にある島」の意」だとある。

P42
14刷「また大航海時代のポルトガルでは、ヨーロッパの前方、大西洋の沖合いには伝説の島があると信じられており、彼らは、その島をアンティリアとよんでいた。」
「そのため、これらの島々を、アンティルズAntilles(アンティル諸島)とよぶようになった。」

P44
1刷「ここであげたカルパティア山脈Carpathianとは、古代スラブ語のコルバトCorwat(山脈)に由来している。」

P235
1刷「カルパティア山脈 Carpathian 古代スラブ人の言葉でchorvat、あるいはchrbat「山脈」に由来する。」

「Corwat」は「chorvat」、「chrbat」のどちらともスペルが違う。

P44
14刷「ここであげたカルパティア山脈Carpathianとは、古代スラブ語のコルバトChorwat(山脈)に由来している。」

P235
14刷「カルパティア山脈 Carpathian 古代スラブ人の言葉でchorwat、あるいはchrbat「山脈」に由来する。」

説が二つあるなら、P44でも二つ書くべきである。

P44-45
1刷「ケルトの居住地」の図

P64
1刷「現在、アルバニアという国には、前一〇〇〇年頃、先住民のケルト人に替わって移住してきたインド・ヨーロッパ語系の人々が住んでおり、」

P44-45の「ケルトの居住地」の図ではアルバニア付近はケルト居住地になっていない。

14刷「ローマ軍侵攻以前のケルトの居住地」
イベリア半島の一部、ヴェネツィアのあたりが追加。

P44
1刷「ケルトCeltとは、その意味が、「石おの」であるように、古代人の名称である。」

「celt」は「石斧」という意味があるが、「Celt」とは語源が違う。
「ケルト」を「古代人の名称」と言い切っていいのか。

14刷「ケルトCeltとは、言葉をはじめとした共通の文化的特質をもつ人々の名称である。」

P44
「また一部は、イベリア半島にも分布していた。」

P44
「西端のガロンヌ川」

「また一部は、イベリア半島にも分布していた。」は1刷になく、「西端のガロンヌ川」は1刷にある。つまり「また一部は、イベリア半島にも分布していた。」を追加したのに、「西端のガロンヌ川」を直すのを忘れているので、矛盾が生じているのである。

P46
「現在、ここはトルコの首都アンカラなのだが、地名の変更は第一次世界大戦に敗れた後、一九三〇年におこなわれた。また一九三二年には、敗戦国の分割を狙うギリシアに対抗するため、コンスタンティノープル(イスタンブール)からこのアンカラへ首都が移された。」

「一九三二年」は「一九二三年」の間違い。
首都が移された時点では「アンゴラ」である。文章の修正が必要である。
首都移転の理由が「敗戦国の分割を狙うギリシアに対抗するため」は疑問。オスマン帝国からトルコ共和国に変わったため、遷都したと考えるべきだろう。
「コンスタンティノープル(イスタンブール)」は「イスタンブール」がよい。

P46
1刷「シテ島のシテciteは「市」、」

14刷「シテ島のシテcitéは「市」、」

P246
1刷「シテ島のシテciteは「市」。」

14刷「シテ島のシテcitéは「市」。」

P46
1刷「セーヌ川もケルト語のsog(ゆったり)とhan(川)で「ゆったりと流れる川」」

P200 1刷「セーヌ川はケルト語でSeine(ゆったりと流れる川)だ。」


「sog han」と「Seine」で矛盾している。

P46
14刷「セーヌ川もケルト語のsog(ゆったり)とhan(川)で「ゆったりと流れる川」」

P200 14刷「セーヌ川はケルト語のsog(ゆったり)とhan(川)で「ゆったりと流れる川」だ。」


P47
「CaerLudd」

P241
「Caer Ludd」

「CaerLudd」と「Caer Ludd」で矛盾している。

P47
「ロンデニウム Londinium」

P241
「ロンデニウム Londinium」

「Londinium」は「ロンデニウム」ではなく「ロンディニウム」である。

P47
「イギリス国教会の総本部、カンタベリーCantaburyの大司教は戴冠式の重責を担うことで知られているが、この名は、実はカントワラCantwara(ケルト人)と「城塞都市」を意味する地名接尾辞-buryからなり、「ケルト人の都市」が本来の意味なのである。」

P140
「カンタベリー(イギリス)「ケルト人の城塞都市」。」

「Cantabury」は「Canterbury」の間違い。
「カントワラCantwara」は「ケルト人」ではなく「ケント人」である。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
カンタベリーCanterbury
「イングランド東部の都市。754年の記録に、この都市はカントワラブルグCantwaraburgと記されている。この古名は、カントワラ「ケント人」とブルグ「城壁都市」の合成地名であった。ケント人は広くこの地方に住み、カンタベリーがその中心地であった。現名は古名の転訛したもの。」

下宮忠雄・金子貞雄・家村睦夫・編『スタンダード英語語源辞典』(大修館書店)
Canterbury
「カンタベリー(英国Kent州の都市)[Canter+bury「町(→BOROUGH)」-Canter-Cantwara「Kentの住民」]」

P47
1刷「ケルト人の居住地」の図
1刷「しかし、結局、ブリテン島もローマの支配するところとなり、」

スコットランドが抜けている。
文章も修正が必要。

14刷、図でスコットランドを追加。

文章が修正されてない。

P48
「ゲルマン民族の一派アングロ・サクソン人」

アングルとサクソンは別の部族である。

P48
「最終的に、ブリトン人はアングロ・サクソンに敗れ、ウェールズ地方、コーンウォール半島、マン島、そしてアイルランドに押し込められたが、」

スコットランドが抜けている。

P48
「ブリテン島とアイルランドの間にあるマン島は、ケルトの言葉で「小さい島」を意味する。」

P248
「マン島(中略)島の規模そのままに、先住民のケルト語で「小さい」という意味。」

「小さい島」と断定していいのか。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
マン島
「島の古名はモナピスMonapis、メナビアMenaviaと称し、ケルト語のメンニンmennin「中間、中心」を語源とする地名であった。その由来は、島が大ブリテン島とアイルランド島の中間点に位置することによる。」

寺澤芳雄『英語語源辞典』(研究社)
Man,the Isle of
OIr.Manu(原義)(the)small(island)//Mannin(原義)centre of the Irish Sea. ラテン語Mona(原義)'MOUNTAIN'

OIr. Old Irish
// 異なる語源を併記する場合の区切り

P51
「西ゴート族(中略)415〜711年、西ゴート王国を建国。」

「415〜711年」「建国」は不適当。

P51
「バンダル族(中略)429〜534年、バンダル王国を建国。のち、東ゴート族と合流して東ローマ帝国をおこす。」

「429〜534年」「建国」は不適当である。
バンダル王国は東ローマ帝国に滅ぼされた。

『世界史事典』(旺文社)
ヴァンダル王国
「東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスにより滅亡させられた。」

P51
「ブルグント族(中略)443〜534年、ブルグント王国を建国。ロンバルド族と合流し、フランク王国をおこす」

「443〜534年」「建国」は不適当である。
ブルグント族はフランク王国に征服された。

『世界史事典』(旺文社)
ブルグント族
「フランク王国と交戦し、534年征服された。」

P51
「アングル族・サクソン族(中略)449〜1066年、イングランド王国を建国。」

「449〜1066年」「建国」は不適当である。

P51
「フランク族(中略)481〜843年、フランク王国を建国。」

「481〜843年」「建国」は不適当である。

P51
「東ゴート族(中略)493〜555年、東ゴート王国を建国。」

「493〜555年」「建国」は不適当である。

P51
「ロンバルド族(中略)568〜774年、ロンバルド王国を建国。のち、フランク王国をおこす」
「568〜774年」「建国」は不適当である。
ロンバルド族はフランク王国に征服された。

『世界史事典』(旺文社)
ロンバルド族
「フランク王国のカール1世(大帝)に敗れて、774年併合された」

P52
「スカンディナビア半島の南にあるゴトランド島Gotlandは、その名も「ゴート族の国」である。」

ゴトランドを「ゴート族の国」と断定していいのか。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
ゴトランド島
「この地名の語源についていくつかの説が出されているが、次の説が有力である。すなわち、ドイツ語のゴェトGÖtt「神」とラントland「島」が合成された地名で、「神の島」を意味するというものである。古くはこの島が異教徒の礼拝場であったので、ゲルマン族がこのように名付けたのだ、と説明されている。」

P52
「地質学でいうゴトランド紀とはこの島の地層による。」

「ゴトランド紀(シルル紀の別称)」としたほうがよい。

『大辞林』
ゴトランドき【―紀】
〔Gotland〕シルル紀のこと。〔この時代の地層が分布するゴトランド島にちなむ名称〕

P53
「バンダルシアVandalicia」

仮名とアルファベットが不一致である。

P54
「彼らが去ったあと、中世にいたっても、」

すでに中世である。

『大辞林』
ちゅうせい【中世】
(1)歴史の時代区分の一。古代に続き、近代に先行する時期で、封建制を基礎とする。西洋史では、五世紀の西ローマ帝国滅亡から、一四〜一六世紀のルネサンス・宗教改革までの時期をさす。かつては暗黒時代とも呼ばれた。日本史では封建制の時期を前期と後期に分け、後期は近世と呼び、前期のみを中世と呼んで、鎌倉・室町時代をこれに当てる。

P54
「ゴシック・ロマンス」

普通は「ゴシック・ロマン」である。

P54
「また、北ヨーロッパで使われた武骨な手書き書体はゴシック体として、本書にも使われているが、これに対して、ちょっとおしゃれに斜めに傾けた書体はイタリックItalicとよばれている。」

「ゴシック」の説明はこれでいいのか。

上田浩史『ワールド・ワード・ウェブ』(研究社)「ホントにフォント」
http://www.wedder.net/kotoba/font.html
「15世紀の中頃にドイツのGutenberg(グーテンベルク)がヨーロッパで初めて活版印刷を発明した時に用いた書体は、アルファベットに髭状の装飾を施したいわゆるドイツ文字でした。本来はこの文字こそがGothic(ゴシック)と呼ばれたフォントでした。」
「20世紀になるとアメリカで、serif(セリフ=フォントを構成する線の端にある飾り)のない書体、sans serif(サンセリフ)が開発されます。ローマン体よりもさらにシンプルなこのフォントはその創作者によってAlternate Gothic(オルタネート・ゴシック=ゴシックに代るもの)と命名されました。この長い名前の前半部分が略されたのが今日ゴシック体と呼ばれているフォントで、「MSゴシック」もその仲間というわけです。」

P55
「フランクフルトFrankfurtも、フランコ(フランク族)とフルト(渡し場)で」

わざわざ「フランク」でなく「フランコ」としているのは意味があるのか。(元ネタを引用しているだけか)

P56
「ラグビー発祥の地とされるバーミンガム南西の都市ラグビー Rugby。」

ラグビーは「バーミンガム南西」ではない。地図をよく見ること。

P57
「一世紀にイギリスがローマの属州となったとき、この地方は先住民ブリトン人のなかでもエブロスという名がもっとも多かったので、ローマ人たちはそれを彼らの集団の名前だと思い込み、そのままエブロスEburosと記録した。」

「イギリス」をどういう意味で使っているのか。国名以外で「イギリス」を使うときは注意が必要である。
ヨーク市のラテン語名は「エブロスEburos」ではない。

田中秀央編『羅和辞典』(研究社)
Eborācum
Britanniaの町(現 York)

P58
「デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、イギリス北部、アイスランドに広がっていた北ゲルマン人たちは、八世紀末頃からは、バイキングViking(入り江の人びと)とよばれるようになる。」

「イギリス北部」とはスコットランドのことか。「イギリス」をどういう意味で使っているのか。国名以外で「イギリス」を使うときは注意が必要である。
ノルマン人のアイスランド移住は九世紀後半から。「八世紀末」にはアイスランドには「広がってい」ない。

P58
「オスト・マーク」

「オストマルク」とすべき。

P58
「このスベリ族は、北ゲルマン民族のなかでも、白い皮膚、金髪、長身という身体的特徴を有する、もっともゲルマン的な特徴を保ってきたといわれる。」

それはアドルフ・ヒトラーの意見か。

P59
「北ゲルマン(ノルマン)人の移動と建国」 「マジャール人=バルカン半島からフランク王国に侵入。」

マジャール人は北ゲルマン(ノルマン)人ではない。また、フランク王国は既に分裂している

P60
「そしてスカンディナビア半島に沿って北へ進み、グリーンランドにいたるノルレベクNorreweg(北航路)があり、」

グリーンランド「発見」はアイスランド経由である。

『世界史事典』(旺文社)
グリーンランド
「10世紀末にアイスランド経由でノルマン人(ヴァイキング)が到達し、1721年以来デンマーク領となる。」

P60
1刷「ケーベンハウンKobenhavn。」

P243
1刷「コペンハーゲン Copenhagen デンマーク語ではケーベンハウンKobenhavn。ケベンKoben「商人」とハウンhavn「港」で「商港」。」

P60
14刷「ケーベンハウンKφbenhavn。」

P243
14刷「コペンハーゲン Copenhagen デンマーク語ではケーベンハウンKφbenhavn。ケベンKφben「商人」とハウンhavn「港」で「商港」。」

P60
「古代北欧神話の創造神オーディン」

「創造神」というべきか疑問である。

『大辞林』
オーディン[Odin]
古代チュートン族の神。北欧神話の最高神。元来は嵐の神。のち軍神・農耕神・死者の神とされた。オディーン。ウォータン。

P60〜61
「スウェーデンの首都ストックホルムStockholmは、スカンディナビア半島の本土ではなく、氷河によって形成されたフィヨルド(入り江)を利用して建設された。スウェーデン最古のこの町は、一二五五年、メーラレン湖の入り江にある小島に建設され、やがて都市へと発展した。」

P242
「ストックホルムStockholm 一四の島からなる港湾都市。一二五三年、スベリエ人がガラムスターデン島に丸太で城塞を築いたことから、stock「杭」とholm「島」で、「杭の島」と名づけられた。」

建設年が「一二五五年」と「一二五三年」で矛盾している。
「ガラムスターデン島」は「ガムラスターデン島」の間違い。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
ガムラ-スターデン島
「スウェーデンの首都ストックホルム市外中央にある小島。」

P61
「フランク王国が九世紀のはじめに分裂して勢力を弱めると、」

フランク王国の分裂は九世紀中頃で、九世紀はじめではない。

『大辞林』
カロリングちょう【―朝】
〔(ドイツ) Karolinger〕フランク王国後期の王朝。メロビング朝の宮宰ピピンが751年に創始し、その子カール大帝の時に最盛期となる。843年の王国三分に伴い王統も三分、987年西フランクの断絶により滅亡。

P63
1刷「しかし、そこに住むことになったマジャール人は、他からどうよばれようと、今日でも自称は「マジャール」であり、国名はマジャール・オルスザック Magyar-orszag(マジャール人)である。
 マジャールとは、ムガール(モンゴル人)が転訛したものと考えられ、ペルシア語で「強い人」を意味する。彼らがアジアからの移住者であることは、その名前の表記が私たちと同じように姓から書くことからもわかる。
 マジャール人は、騎馬民族としての攻撃力をいかしてドイツなどに勢力を拡大したが、やがてドイツでは中世騎士団が組織され、九五五年にはドイツがマジャール人に勝利した。しかし、彼らの別称ウイグールUigurs(おそらくウイグル地方からやってきたと思われていたので)が、やがてオグルOgre(人食い鬼)という怪物の語源になるほど、ヨーロッパ人に強い恐怖心を与え続けた。」

ウイグールとは中国のウイグルか。だとしたら、方向違いではないか。

14刷「しかし、そこに住むことになったマジャール人は、他からどうよばれようと、今日でも自称は「マジャール」であり、国名はマジャーロルサーグ Magyarország(マジャール人)である。
 マジャールとは、一説では、ムガール(モンゴル人)が転訛したものと考えられ、ペルシア語で「強い人」を意味する。彼らがアジアからの移住者であることは、その名前の表記が私たちと同じように姓から書くことからもわかる。
 マジャール人は、騎馬民族としての攻撃力をいかして東フランク王国などに勢力を拡大したが、やがてヨーロッパでは騎士団が組織され、九五五年にはマジャール人に勝利した。しかし、彼らは紀元前一〇〇〇年頃、ボルガ川流域にいた遊牧民オノグル族Onogurとかかわりのあったウゴル族Ugrianの一派であったことから、それがやがてオグルOgre(人食い鬼)という怪物の語源になるほど、ヨーロッパ人に強い恐怖心を与え続けた。」

「Ogre」ではなく「ogre」である。
「ogre」の語源が「Onogur」・「Ugrian」と関係あるという根拠はなにか。

http://www.m-w.com/
ogre
Etymology: French, probably ultimately from Latin Orcus, god of the underworld

P63
1刷「アルバニアAlbaniaという地名を辞書で引いてみると、バルカン半島北東部にある国名であるとともに、」
14刷「アルバニアAlbaniaという地名を辞書で引いてみると、トルコ語で「山脈」を意味するバルカン半島北東部にある国名であるとともに、」

P64
「アルバニアとは、雪の色であるアルブスalbus(白)とラテン語の地名接尾辞-iaからなる言葉である。」

P65
「ところで、「アルバニア」は英語名で、」

P238
「アルバニアとは「白い土地」。一般的には、白い石灰岩性の地質から、ラテン語のalbus「白」が語源と考えられている。」

「アルバニア」は何語に由来するといいたいのか。
「白」では「雪」と「石灰岩」で矛盾している。
「白い土地」といえるのか。
アルバニアは「バルカン半島北東部」にあるのではない。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
アルバニア
「国民の多くは山岳地帯に小集落を築き、外部と隔絶した生活を営む。この小集落をオルバolba「村」という。中世より俗称として用い始められたアルバニアArbeniaの地名は、このオルバを語源とし、オルバニア「村落の国」の地名が生じ、それがアルベニアに転訛、またアルバニアになった、との仮説が出されている。この転訛には、カスピ海西岸にあった別の古代国家アルバニアとの音の類似が影響したのではとの説も考えられている。」

P64
「古代ギリシア人、古代ローマ人は、彼らをイリュリアとよんでいた」

「イリュリア」は地名である。民族呼称としては「イリュリア人」とすべきである。

P64
「一九一三年、この地方がトルコから独立するとき、北部はスラブ化し、現在のユーゴスラビアのモンテネグロMontenegroとなった。(中略)一八七八年、オスマン・トルコがロシアに敗れたあと、モンテネグロとして一時独立を果たすが、第一次世界大戦後、その他のスラブ系の国々と合併してユーゴスラビアの一地方になり、一九八九年にはじまった東欧革命で分裂したあとは、セルビアとともに新生ユーゴスラビアを構成している。」

アルバニアの独立は1912年。
モンテネグロは「一九一三年」、「一八七八年」どちらに独立したといいたいのか。
「一時独立」は不適当である。
連邦を構成している国に対して、「一地方」は不適当である。
「分裂した」のがなにか、書いてない。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
アルバニア
「1912独立を宣言。」

『世界史事典』(旺文社)
モンテネグロ
「1389年のコソヴォの戦い以来、トルコ(オスマン帝国)支配下の自治国であったが、その衰退に乗じて独立をはかり、1878年のサン-ステファノ条約とベルリン会議で独立を承認される。」

P64
1刷「それは、この地方をスラブ語でクルナ・ゴラ(針葉樹林の黒い山)とよんでいたからで、」

「クルナ・ゴラ」ではない。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
モンテネグロ
「【別称】ツルナ-ゴラCrna Gora」

14刷「それは、この地方をスラブ語でツルナ・ゴラ(針葉樹林の黒い山)とよんでいたからで、」

P65
「時の皇帝トラヤヌスはダキア制圧にのりだし、一〇一年には征服してしまう。」

「一〇一年」はダキア遠征のはじまった年であり、征服完了は一〇六年である。

『世界史事典』(旺文社)
ダキア
「106年、トラヤヌス帝の遠征によってローマの属州(プロヴィンキア)となった。」

P65
地図

1刷「ルーマニアのアミカケが誤り(ドナウ川以東の黒海沿岸部が抜けている)」

14刷 修正されている。 P67
「このときまで千三百年間、さまざまな民族の侵入、圧迫を受けながらも、彼らはラテン語系の言葉を絶えることなく使い続けていたのである。」

「千三百年間」というのはどこからでてきた数字なのか、起算点が不明である。ローマのダキア放棄から数えているのなら計算間違いである。

P70
1刷「スラブ人の国」
1刷「南スラブ民族の国」

用語不統一。

14刷「南スラブ人の国」

P71
「ポーランドの正式な名称はポルスカPolska(ポーレ人の国)である。ポーレとは、中世高地ドイツ語のポーラニン(ポーレの人びと)に由来し、古スラブ語のポリエpolie(平原)という意味である。」

P247
「ポーランド共和国 自称はポルスカPolska。中世、高地ドイツ語のポーラニンpolanin「ポーレ(平地)の人びと」に由来する。

「高地ドイツ語」から「古スラブ語」に入ったと言いたいのか、「古スラブ語」から「高地ドイツ語」に入ったと言いたいのか。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
ポーランド
「東欧の人民共和国。ポーランド語地名はポルスカPolska、ポーランドは英語およびドイツ語地名。
 ポーランド人は言語的にみて、西スラブ語族に属する民族である。10世紀頃、オーデル川とビースワ川の間にひろがる平原地方に統一国家を建て民族的統一をなしとげた。彼らは西方に住むゲルマン人から、ポーランPolanと呼ばれ、その国は、ポーランにランドland「国」を合成して、ポーランド「ポーラン人の国」と呼ばれた。民族名ポーランの語源は、スラブ古語のポリエpolie「平原、農牧地」(現代ロシア語のポレpole「平原、農牧用地」)で、彼らが農耕民族であったことに由来する人種名である。」

P71
ポーランドは「一四〜一八世紀には、逆に地の利をいかして勢力を拡大し、ロシアを脅かす存在となったこともあったが、一七九五年にはロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、国が消滅してしまったのである。」

P247
「一五世紀におこったポーランド王国は、」

「一四」と「一五世紀」で矛盾している。
「一四〜一八世紀には、逆に地の利をいかして勢力を拡大し」て、「一七九五年」(一八世紀)に「国が消滅し」たのか。

P71
1刷「三週間」

修正もれ。

14刷「四週間」

P72
P78
地図

アゾフ海が水面になっていない。
「カムチャッカ半島」と誤記されている

P73
「一四八〇年、モスクワ人たちは」

「モスクワ人」とはなにか。

P74
「その後、一八八〇年頃には、太平洋、日本海にいたるまでの広大な地域を支配するにいたった。」

「一八八〇年頃」に何があったのか不明である。

P75
「東部の広大な地域は「大ロシア」、ウクライナは「小ロシア」とよばれていた。」

普通は、ウクライナを「小ロシア」、それに対して(ヨーロッパ・)ロシアを「大ロシア」とよぶ。

P75
「ちなみに西スラブでも端にあるということから、「辺境の国」とよばれたウクライナは、」

P252
「ウクライナUkraine 東欧、西スラブ地域の国からみて東の端にあるため、ウクライナ語のu(地名接頭語)とkrai「辺境」とna(地名接尾辞)で「辺境地帯」。」

「辺境の国」と「辺境地帯」で不統一。
「na」を「地名接尾辞」としているのなら、「u」は「地名接頭辞」とすべきではないか。
ウクライナ語は東スラヴ語に属する。

『大辞林』
ウクライナ-ご【―語】
ウクライナの公用語。インド-ヨーロッパ語族のスラブ語派東スラブ語群の一。小ロシア語。

P75
1刷「ロシア語でビエロロシアByelorussia、そして独立した現在は、スラブ語でベラルーシBelarus「白ロシア」である。」

「ビエロロシア」でよいのか。
「スラブ語」は不適当。

14刷「ロシア語でビエロルシアByelorussia、そして独立した現在は、ベラルーシBelarus「白ロシア」である。」

P75-76
1刷「ちなみに、日本でサハリンを「樺太」と書くのは、江戸時代、ここに中国人が多く住んでいたので唐人(からと)とよばれていたことによるが、」
「江戸時代、ここに中国人が多く住んでいた」という根拠はあるのか。

14刷「ちなみに、日本でサハリンを「樺太」と書くのは、一八〇九年、間宮林蔵によってサハリンが島だと確認される以前、沿海州まで勢力を及ぼしていた清の一部と考えられていたため唐太とよばれていたからのようで、」
「沿海州まで勢力を及ぼしていた清の一部と考えられていたため」という根拠はあるのか
「太」はどういう意味だと言いたいのか

P77
「一九〇五年〜一七年のロシア革命は、」

連続したわけではないので「一九〇五年・一七年のロシア革命」などとしたほうがよいだろう。

P77
「皇帝は、新しい、西欧化した都市を目指し、モスクワからそこに首都を移すことも考えていた。」

ピョートル自身によって遷都された。

P80
1刷「モスクワの西北にあるトベリTverは、一九三二年に死んだソビエト連邦最高会議議長のカリーニンを記念してカリーニンとされたこともあった。」
14刷「モスクワの西北にあるトベリTverは、一九三二年に死んだソビエト連邦最高会議幹部会議長のカリーニンを記念してカリーニンとされたこともあった。」

カリーニンが死んだのは1946年である。

『コンサイス外国人名事典』(三省堂)
カリーニン
「1875〜1946」

P82
「ペレストロイカ以降、変更された主な地名」

例えば「スターリングラード」などのスターリン批判による変更を含んでいる。

P82
1刷「ドゥシャンペ」

P256
1刷「ドゥシャンペ Dusanbe」

「ドゥシャンベDushanbe」がよい。

『大辞林』
ドゥシャンベ [Dushanbe]
タジキスタン共和国の首都。電機・繊維・食品などの工業が発達。旧称、スタリナバード。

P82
14刷「ドゥシャンベ」

P256
14刷「ドゥシャンベ Dushanbe」

P82
「スターリン山(共産主義峰)→イスマイル・サマディ山(聖イシュマルの山)[タジキスタン]」

P214
「パミール高原の西端にあるタジキスタンのイスマイル・サマディ山Ismail Samadi(聖なるイシュマエルの山)は、六〇年代のソビエト連邦時代には共産主義山(コミュニズム山)、さらにさかのぼってスターリン時代には、ここがソビエトの最高峰ということからスターリン山とよばれたこともあった。」

「聖イシュマルの山」と「聖なるイシュマエルの山」で不統一。
「共産主義峰」と「共産主義山」で不統一。
「スターリン山(共産主義峰)」の書き方が不適当。「共産主義山/峰」→「スターリン山」→「イスマイル・サマディ山(聖なるイシュマエルの山/聖イシュマルの山)」のようにすべき。

P83
「第4章 大航海時代が「世界」を発見した」

ここでも「発見」を使用している。
この本全体に「発見」を文字列検索してチェックする必要がある。

P83
「イースター島のモアイ(中略)オランダ人が1772年4月5日、キリスト教の復活祭イースターに発見したことから名づけられた。海に向かって立つ巨石像モアイはアジア起源の遺跡であることがわかっている。」

「1772年」は「1722年」の間違い。
島民はモンゴロイドで、アジアから長い期間をかけてこの島に来た。(一世代、二世代のような短い期間ではない。)しかし、モアイはアジアにはなく、イースター島にのみある。それでも「アジア起源の遺跡」といえるのか。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
イースター島
「1722復活祭(イースター)の日にオランダのロッヘフェーンが発見し命名。」

P84
1刷「映画ですっかり有名になったカサブランカは、一五一五年にポルトガル人が海賊対策として建設した都市だ。ポルトガル語のカサcasa(家)とブランコblanco(白)で「白い家」を意味する。カサブランコは、のちにスペインに支配権が移り、スペイン語化したためカサブランカとなった。」

14刷「映画ですっかり有名になったカサブランカは、一五一五年にポルトガル人が海賊対策として建設した都市だ。ポルトガル語のカーザcasa(家)とブハンコbranco(白)で「白い家」を意味する。カーザブハンコは、のちにスペインに支配権が移り、スペイン語化したためカサブランカとなった。」

P85
「マディラ諸島」

「マデイラ」の誤記

P86
「マディラ」

「マデイラ」の誤記(数箇所あり)

『EXCEED英和辞典』
Madeira
n. マデイラ ((大西洋上モロッコ西岸沖のポルトガル領の諸島およびその主島)); (またm-) マデイラ白ワイン ((ポルトガル領Madeira島産の白ワイン)).

P86
「その結果、一四二七年、デ・セゼルによって発見されたのが、リスボンの西、約一五〇〇キロの沖に浮かぶ九つの島であった。彼はその島々にアソーレス(タカ)と名づけた。現在のアゾレス諸島Azoresである。」

一四二七年に到達したのは「デ・セゼル」なのか。
「発見」という言葉を使っている。
「リスボンの西、約一五〇〇キロ」でよいのか。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
アゾレス諸島
「リスボンの西1500km付近から西北西に約560kmにわたり点在。」
「1427頃ポルトガルのエンリケ航海王の命令を受けたディオゴ=デ=シルベスが到達。」

P87
1刷「コートcote(海岸)」

14刷「コートcôte(海岸)」

P87
「d'lvoire」

「d'lvoire」は「d'Ivoire」の間違いである。

P89
1刷「一四八七年、バルトレメウ・ディアスは、それまでの誰よりも思い切って南下した。南に進むほど激しくなる嵐に押し流されそうになりながらも南下すると、アフリカ大陸の東に海が広がっていることがわかった。彼は、この嵐にちなんで、その岬をカボ・トルメンソトCabo tormentoso(嵐の岬)と名づけた。」

「バルトレメウ」は「バルトロメウ」の間違い。
「嵐の岬」への到達は一四八八年である。
「tormentoso」で「トルメンソト」になるのか。
「アフリカ大陸の東に海が広がっていることがわかった。」は不合理な表現。

『大辞林』
ディアス[Bartholomeu Dias]
(1450頃-1500) ポルトガルの航海者。1488年アフリカ南端の岬を発見し、嵐の岬と命名(のち喜望峰と改められた)、インド航路を開く端緒となる。バルトロメウ=ディアシュ。

14刷「一四八八年、バルトロメウ・ディアスは、それまでの誰よりも思い切って南下した。南に進むほど激しくなる嵐に押し流されそうになりながらも南下すると、アフリカ大陸の東に海が広がっていることがわかった。彼は、この嵐にちなんで、その岬をカーボ・トルメントーゾCabo tormentoso(嵐の岬)と名づけた。」

「アフリカ大陸の東に海が広がっていることがわかった。」は不合理な表現。

P90
「一四九七年、ポルトガルの航海者バスコ・ダ・ガマがこの岬をまわり、インドへ到達したのだ。」

出発は一四九七年だが、インドへの到達は翌年の一四九八年である。

『大辞林』
ガマ[Vasco da Gama]
(1469?-1524) ポルトガルの航海者。1497年からの航海でヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、大陸東岸を経て、翌年インドのカリカットに達する。1524年インド総督となるが、同年没。バスコ=ダ=ガマ。

P90
1刷「彼らは喜望峰をまわって、羅針盤の針が北東に切り替わる最南端の岬をアガラスAgulhas(針)とよんだ。」
14刷「彼らは喜望峰をまわって、羅針盤の針が北東に切り替わる最南端の岬をアグーリャスAgulhas(針)とよんだ。」

「羅針盤の針が北東に切り替わる」という表現はどんなものか。一般的には羅針盤の針はつねに南北を指すはずだが。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
アガラス岬
「この地名はポルトガル語のアグーリアagulha「針」が語源。ポルトガル人の船乗りたちは、この近くへ来ると、船の羅針盤の磁針が異常にずれることに気付いた(磁針の偏差)。そのため、この岬をアグーリア「針」の岬と呼びその地名を英語化したのが現名である。」

P90
1刷「ポルトガル人が最初に行き着いたインド西南海岸には、その地の人がコジコデKozhikodeとよぶ地方があった。しかし彼らの耳には、聞き慣れないこの地名はカリカットCalicutと聞こえたという。そのため、そこはカルカッタとなり、ここで織られていた薄地平織りの光沢のある綿布はキャラコ(calico)という名で世界に広まった。」

「カリカット」と「カルカッタ」は全く別の地名である。

14刷「ポルトガル人が最初に行き着いたインド西南海岸には、その地の人がコジコデKozhikodeとよぶ地方があった。しかし彼らの耳には、聞き慣れないこの地名はカリカットCalicutと聞こえたという。そして、ここで織られていた薄地平織りの光沢のある綿布はキャラコ(calico)という名で世界に広まった。」

「コジコデ」は「コジコーデ」がよいだろう。

『大辞林』
カリカット[Calicut]
インド南西部、マラバル海岸にある港湾都市。1498年バスコ=ダ=ガマが到達し、インド航路を開いて以来、西欧勢力の対インド貿易基地。現在コジコーデという。

P90
「一四八八年、バルトロメウ・ディアスがポルトガルを出発したのと同じ年、」

バルトロメウ・ディアスの出発は一四八七年である。

『世界史事典』(旺文社)
バルトロメウ=ディアス
「1487年ジョアン2世の命でアフリカ西岸の探検に向かい、」

P91
1刷「ボンベイもポルトガル語が影響した地名である。」

「ボンベイ」は「ムンバイ」に変更になっている。

『大辞林』
ムンバイ[Bombay]
ボンベイの現地音名。

14刷「ムンバイの旧名ボンベイも、ポルトガル語が影響した地名である。」

P91
「現地名は猟師たちに信仰のあったムンバ・デビ女神に由来するムンバイムMumbaimだったが、」

「ムンバ・デビ女神」は不適当である。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
ボンベイ
「この地名は、都市の原住民コリ族Kolj漁民の崇拝した女神ムンバ・デビMumba Devi「ムンバ神」が語源である。」

P91
「アメリカ命名秘話」

「秘話」ではない。

P91
「彼はこの考えをもって、スペイン・カスティリーヤの女王イサベルを説得し、」

スペイン統一後であり、「カスティリーヤ」は不要である。

『世界史事典』(旺文社)
スペイン
「1479年両国は「カトリック両王」の結婚により合併、」

P92
「彼のアメリカ大陸発見は、やはり大航海史上、最大、そして最高の発見だった。」

「発見」を2回使用している。
コロンブス以後、南北アメリカ大陸はヨーロッパ諸国の植民地となった。たいした「最大、そして最高の発見」である。

P92
「フランスのストラスブール大学」

当時はストラスブールはフランスではない。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
ストラスブール
「1201自由都市となり、1681フランスに編入。」

P93
「エスパニュラ」

「エスパニョ(ー)ラ」の誤記。

P94
1刷「アメリカスAmericus」

「Americus」はラテン語では「アメリクス」。

14刷「アメリクスAmericus」

P94
「アメリカスの国」

「アメリクスの国」の誤記。

P94
1刷「インディースIndies」

「インディース」は何語か。スペイン語では「インディアス」だったと思うが。

14刷「インディアスIndias」

P95
「スペインの探検家ファン・ポンセ・デ・レオンは、」

P222
「フロリダFlorida 一五一三年四月二日、スペイン人の探検家フアン・ポンセ・デ・レオンが上陸。」

「ファン・ポンセ・デ・レオン」と「フアン・ポンセ・デ・レオン」で矛盾している。

P96
「中世のフランス詩『ローランの歌』のなかに、カリフォルヌCaliforneという想像上の国が出てくる。一五一〇年頃のスペインの作家モンタルボによるこの物語では、カリフォルヌはインド諸島の奥深くにあるカリフォルニアCaliforniaという島になった。」

「中世のフランス詩『ローランの歌』」を「一五一〇年頃のスペインの作家モンタルボ」が書いたのか。
「一五一〇年頃」でいいのか。
「モンタルボ」でいいのか。

木村正史編著『アメリカ地名語源辞典』(東京堂出版)
カリフォルニア
「州名は1500年頃にスペインのガルシア・オルドニェス(Garcia Ordóñez de Montalvo)が書いた空想物語『エスプランディアンの偉業』(Las Sergas de Esplandián)の中にある California という島にちなんでいる。」

P97
「結果として、アゾレス諸島の西約二〇〇〇キロ、西経四六度を越えるあたりで新たに線引きされることとなった。」

本当に「アゾレス諸島の西約二〇〇〇キロ」なのか。

『大辞林』
トルデシリャスじょうやく【―条約】
〔Tordesillas〕1494年スペインとポルトガル両王が定めた東西分割協定。ベルデ岬諸島の西方三七〇レグア(約2070キロメートル)の西をスペイン、東をポルトガルとした。1500年発見のブラジルをポルトガル領とする根拠となった。

P97
「実はこのとき、ポルトガルはすでにブラジルを発見しており、」

根拠は何か。

P98
「一五一五年、スペインの探検家バルトロメウ・ディアスは、」

ディアスはすでに死亡している。

『大辞林』
ディアス[Bartholomeu Dias]
(1450頃-1500) ポルトガルの航海者。1488年アフリカ南端の岬を発見し、嵐の岬と命名(のち喜望峰と改められた)、インド航路を開く端緒となる。バルトロメウ=ディアシュ。

P99
1刷「Riodela Plata」

単語にわけていない。

14刷「Rio de la Plata」

P99
「一五二六年、スペインの宮廷に仕えていたイギリスの航海士セバスティアン・カボットが、ふたたびこの入り江にたどりついた。そのとき銀の飾りを身につけた先住民に出会ったことから、彼はこの入り江をラプラタ川 Rio de la plata(銀の川)とよんだ。」

P232
「ラプラタ川(中略)一五二六年、イタリア人カボットが河口で銀が産出すると思って命名した。」

「イギリス人」と「イタリア人」で矛盾している。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
ラ-プラタ川
「1516ソリスが探査」

P99
「一八八三年に独立したとき、スペイン本国の圧政を忘れるため、プラタ(銀)はラテン語で同じ「銀」を意味するアルゼンタムargentumに変えられ、国名はアルゼンチンArgentinaとなった。」

P232
「アルゼンチン共和国 Argentine Republic (中略)一八一六年の独立時には、スペイン語で「銀」を意味するラプラタ合衆国だったが、」

独立年が矛盾している。
ラテン語「アルゼンタム(argentum)」は「アルゲントゥム」とすべき。
「スペイン語で「銀」を意味するラプラタ合衆国だったが、」は推敲が必要である。
「ラプラタ合衆国」とはなにか。

『大辞林』
アルゼンチン[Argentine]
「1816年スペインから独立。首都ブエノスアイレス。正称、アルゼンチン共和国。」

P99
ブエノスアイレス「一五三五年、この地に最初に移住したのは、スペイン人のペドロ・デ・メンドーサだった。」

P232 「ブエノスアイレス Buenos Aires (中略)一五三六年、スペイン人のメンドーサが建設。

建設年が矛盾している。

P101
1刷「クック諸島は一七七三年にクックが発見したものだが、クック山のほうは本人の記録にみあたらない。一七世紀半ばにオランダ人タスマンが来航したとき、はじめてここを探検したクックの業績を記念して、あらためて山の名に残したものと思われる。」

なんで一八世紀(一七七三年)のことを一七世紀の人が記念に残すのか。

14刷「クック諸島は一七七三年にクックが発見したものだが、クック山のほうは本人の記録にみあたらない。一九世紀半ばになってイギリス人の入植がはじまると、はじめてここを探検したクックの業績を記念して、あらためて山の名に残したものと思われる。」

P101
「クリスマス島は、一七七七年のクリスマスの日に発見された」

P293
「クリスマス島 一七七七年、クックがクリスマスの日に発見したことにちなんで名づけられた。」

http://www.britannica.co.jp/search/item?m=0+1+3&rgid=033558001567
「クリスマス島(中略)1777年クリスマス・イブに J.クックが来航し命名。」

P101
「ニューカレドニアNew Caledoniaのカレドニアとは、クックの故郷スコットランドのローマ占領時代のケルト語で「森」を意味する。」

P295
「ニューカレドニア New Caledonia 一七四四年、ここを訪れたクックが、故郷スコットランドの古代ローマ時代の名称カレドニアにちなんで名づけた。カレドニアはケルト語で「森」を意味する。」

P102
「ヨークシャーの日雇い労務者を父とするクックは」

「一七四四年」は「一七七四年」の間違い。
クックはヨークシャー生まれ。ヨークシャーはイングランド。クックの故郷はスコットランドではない。
「ニューカレドニアNew Caledoniaのカレドニアとは、クックの故郷スコットランドのローマ占領時代のケルト語で、「森」を意味する。」は推敲が必要である。
この文章だと「カレドニア」が「スコットランド」の古名だということがわからない。
「ケルト語で、「森」を意味する」とは「Caledonia」がケルト語で「森」っていう意味だということか。「Caledonia」には「-ia」がついているので、不適切な書き方である。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
ニュー-カレドニア
「1774クックが到達。」

http://www.britannica.co.jp/search/item?m=0+1+3&rgid=032224002751
クック
Cook,James
[生] 1728.10.27. ヨークシャー,マートンインクリーブランド

『大辞林』
ヨークシャー[Yorkshire]
「(1)イギリス、イングランド北東部、ペニン山脈の東麓にあたる地方。」

P102
1刷「ソシエテSociete諸島」

14刷「ソシエテSociété諸島」

P102
「もとは英語のソサイエティSociety(協会)で、」

一般的には「ソサエティ」である。

P102
「国王立協会」

通常は「王立協会」と訳す。

P102
「最後に、太平洋の島々はオセアニアOceaniaとなづけられているが、(中略)その大洋州はさらに細分化されてミクロネシア(小さな島々)、メラネシア(黒い人の島々)、ポリネシア(多くの島々)と名づけられている。」

この「最後に、」の使い方は不適当。
オーストラリアのことを忘れている。オーストラリアは大陸であり、「島々」でないし、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアのどこにも属さない。

P102
「オーストラリアAustraliaは、ラテン語で南の方角をしめすオーストラリスaustralis(南)に地名接尾辞の-iaがつけられたものだ。」

P292
「australis「南」」

「オーストラリス」は「アウストラリス」とすべきである。
「australis」は「南」ではなく「南の」である。

P103
「一五世紀に大航海時代を迎えたとき、海の冒険者たちが、幻の南大陸を求めたことは想像に難くない。しかし、やがてアフリカ、南アメリカが知られて、」

アフリカは昔から知られていた。(他のページに書いてあることに気がついていないのか。例えばP27を見てみればいい。)

P103
1刷「トーレス海峡」
1刷 図「トレス海峡」

P301
1刷「トレス海峡」

表記が統一されていない。

P103
14刷「トーレス(トレス)海峡」

P104
「この未知の大陸オーストラリアを発見したのは、オランダ人だった。インド洋を経由してきた彼らはオーストラリアの西岸に上陸し、そこをニューオランダと名づけた。」

P240
「日本語の「オランダ」はポルトガル語を経た独特の言い方。」

オランダ人は「ポルトガル語を経た独特の言い方」の日本語を使って「ニューオランダ」と命名したのか。

P104
「オランダ南部の町ゼーランドZeeland(海の地)にちなんで、ニューゼーランド Nieuw Zeeland と名づけた。」

P295
「ニュージーランド New Zealand オランダ南西部ゼーランド地方の名にちなんだもの。」

「南部」と「南西部」で矛盾している。
「町」と「地方」で矛盾している。
「Nieuw Zeeland」は「ニューゼーランド」でいいのか。

P108
1刷「稚内(ヤム・ワッカ・ナイ「冷たい飲み水の川」のヤムの省略されたもの)」
4刷「稚内(ヤム・ワッカ・ナイ「冷たい(飲み)水の川」のヤムの省略されたもの)」

「ワッカ」は「飲み水」ではなく、「水」である。知床半島の「カムイワッカの滝」の水は硫黄のため飲めない。

14刷「稚内(ヤム・ワッカ・ナイ「冷たい水の川」のヤムの省略されたもの)」

P108
「岩内(イワウ・ナイ「硫黄の多い川」)」

「イワウ iwaw」(硫黄)+「ナイ nay」(川)で「硫黄の川」であり、「多い」という言葉は出てこない。

P108
1刷「江別(エ・ペツ「胆汁のような色の川」)」

「エ」に「胆汁のような色」という意味はない。

14刷 削除されている。

P108-109
1刷「古平(フルー・ピラ「赤い崖」、」

アイヌ語で「赤い」は「フルー」ではなく「フレ」である。

14刷「古平(フレ・ピラ「赤い崖」、」

P109
「古代、アイヌは北日本にも広く分布していたので、アイヌ語の地名は本州にも多くみられる。やはり東北に多いが、関東、関西にもあるとする研究者も多い。」

「関東、関西にもあるとする研究者」とはどんな研究者か。バチラーやバチラーの説を孫引きしたような「研究者」では話にならない。

P109
1刷「実は、聖徳太子が法隆寺を建立した斑鳩の地名もアイヌ語だとする説がある。一般的に、斑鳩は、ハトを「いかる」とよんでいたことにちなむとする。しかしハトは日本中にいるが、「いかるが」という地名は聖徳太子ゆかりの地の他にはみられない。そこで、アイヌ語の「イカルカ」(山の頂、物見をするところ)がその語源だとする研究者がいるのだ。」
アイヌ語に「イカルカ」などという単語は存在しない。「イカルガ」、「物見をするところ」というのは「インカルシinkar-us-i」(いつも眺める所)のことを言いたいのか。

14刷 削除されている。

P109
「たとえば、柳田国男によれば、東日本に分布する堂満や当間(当麻)という地名もアイヌ語起源(トマム、トマン「沼、沼地」)であるという。」

アイヌ語に「トマムtomam」(湿地、泥炭地、沼地)という単語はあるが、「トマン」というアイヌ語は存在しない。
当然のことながら「東日本に分布する堂満や当間(当麻)という地名」が全てアイヌ語「tomam」に由来するとはかぎらない。個々に堂満・当間・当麻を全て調べたわけではないだろう。
いくら柳田国男の説とはいえ、無批判に引用しないこと。

P109-110
1刷「また、定かではないが、富士山もアイヌ語起源だといわれることがある。アイヌの火の女神で、家の中心(暖炉)に座っていた神の名がフチ(おばあさん)である。バチェラーの『アイヌ語英和辞典』では、彼女の名の発音はフチまたはフジとされている。江戸時代まで噴火が確認されている富士山と火の女神の連想はそれほど不自然ではないのかもしれない。」
「フチ」の発音に関して、金田一京助は次のように書いている。(「北奥地名考」1932年)
「若し語原が、説者のいう如くアイヌ語のhuchiであったならば、国語にクヂ(またはクジ)となっていた筈で、国語にハ行音でフジとなる為には、その語頭音は必ずやpかfでなけれだならない。それは上代の国語の音には[h]音がなく、外国の[h]音はこれが為にみな[k]音に取り込まれる例であったからである。現今のフジであるからとて、huchiをその語原に見立てたのは、国語の音韻史を無視した失考だった。」

14刷 削除されている。

P109-110
「彼のこの説によって、アイヌ語の地名が白川以南にも残っている可能性が認められるようになってきた。」

この前後の文章の参考にしたと思われる谷川健一『日本の地名』(岩波新書)には次のように記述されている。

「ともかくも、柳田はアイヌ語地名を白河以北にとどめて考えてはない。それどころか東日本に分布する堂満や当間という地名がアイヌ語であるとしている。これからしても、柳田が単一民族国家の考えに基礎を置いた一国民俗学に加担したものではないことが確かめられる。そこで私どもは、アイヌ語地名が白河以南にも残存する可能性を原則的に認める必要がある。その上でアイヌ語地名の取扱いには思いつきや語呂合せを避けた慎重な取扱いが要求されよう。」

「アイヌ語地名が白河以南にも残存する可能性を原則的に認める必要がある。」を「アイヌ語の地名が白川以南にも残っている可能性が認められるようになってきた。」とするのは曲解のしすぎではないのか。

P110
「千島列島のクリル島は、千島アイヌ語のクル「人」がロシア語化したものだ。」

なにを根拠にこう言いきるのか。根拠があるなら見せてもらいたい。
北海道アイヌ語でも「クル kur」は「人」の意味だから、わざわざ「千島アイヌ語」という必要はない。
「Kuril」の「kur」がアイヌ語なら「il」はなんだと言うのか。
「クリル島」は「クリル列島」の間違いか。(P109の地図は「千島(クリル)列島」になっている。)

P110
1刷「また、千島そのものも、アイヌ語のチカップ(日の出る所)に由来する。」

アイヌ語「チカプcikap」は「鳥」という意味である。「チカップ」がなんで「日の出る所」になるのか。「東」は「チュプカcupka」であるが、「チュプカ」と間違えたのか。 「チシマ」と「チカップ」では「チ」しか同じではないが、それで「由来する」なんて言っていいのか。

14刷「また、千島そのものも、もともとアイヌ人がチュプカ「東」、つまり「東の島々」と読んでいたものと、のちに北海道を含めて漠然と「蝦夷が千島」という名称がもちいられていたことから、列島を千島とよぶようになったと考えられる。ちなみに「蝦夷が千島」は多くの島、といった意味であった。」

「アイヌ」はアイヌ語で「人間」という意味である。そのため「アイヌ」に「人」はつけない。「アイヌ人」とは言わない。
アイヌ語「チュプカ cupka」は「東」という意味で「東の島々」という意味はない。
「読んでいた」は「呼んでいた」の誤記である。
「チュプカ」と「千島」がどのように結びつくといいたいのか意味不明である。

P110
「北方四島の色丹(シコタン)はシ・コタン「大いなる村」(シ「大きな」コタン「村」)、」

なぜ「大きな村」が「大いなる村」になるのか。

P110
「国後(クナシリ)はクンネ・(アン・)シリ「黒い島」(クンネ「黒いところ」アン「ある」シリ「島」)である。」

「クンネ kunne」は「黒い」であり、「黒いところ」という意味はない。
「アン an」(ある)は不要である。

P110
「また、いくつか説があるが、択捉(エトロフ)はエト・オロ・プ「盛り上がる先のある場所=岬の(多く)あるところ」、つまりエト「鼻、先端」オロ「その所」プ「盛り上がる」が有力のようである。」

「鼻、先端」は「エトゥ etu」であり「エト」ではない。
「p」、「pu」に「盛り上がる」の意味はない。
「鼻、先端」+「その所」+「盛り上がる」でなんで「盛り上がる先のある場所」になるのか。
「盛り上がる先のある場所」でなんで「岬の(多く)あるところ」になるのか。
こんな説が「有力」なのか。

P110
「同じく、歯舞(ハボマイ)はアプ・オマ・マイ「氷のあるところ」(アプ「流氷」オマ「ある」イ「所」)またはハポ・マ・イ「母の泳ぐところ(=母なるところ)」(ハポ「母」マ「泳ぐ」イ「ところ」)などの説がある。」

「アプ・オマ・マイ」は「アプ・オマ・イ」の誤記である。
「アプ apu」は「流氷」という意味で「氷」ではない。かってに「氷」に変えないこと。
「母の泳ぐところ」がなんで「母なるところ」になるのか。
「母の泳ぐところ」で地名になるのか。語呂合わせにしか思えない。

P110
「樺太では、中南部のトマリは「港」という意味で、北海道沿岸、本州沿岸にもトマリとつく地名は、いくつか知られている。」

アイヌ語の「トマリ tomari」は日本語の「泊り」が入ったと言われている。そのことを知っているのか。
「トマリ」は樺太と北海道で意味の差はない。わざわざ「樺太では」と断る必要はない。

P110
「また、樺太南部のポロナイスク(敷香)は、ポロ「大きい」、ナイ「川」、ロシア語のスク「渡場集落」の合成語で、「大きな渡し場のある村」という意味で、アイヌ語に起源があるといわれている。」

ロシア語「スク sk」に「渡場集落」という意味があるのか。
「大きい」+「川」+「渡場集落」がなんで「大きな渡し場のある村」になるのか。

P110
1刷「ただし、樺太の場合は、北緯五〇度線がアイヌ語地名の北限であるとの興味深い報告もある。」

北緯五〇度線はかつての日露国境だが、なにをいいたいのか。

14刷 削除されている。

P111
「韓国の首都ソウルは「みやこ、首都」を意味する固有の韓国語であり、漢字にあてはめることはできない。」

「漢字にあてはめることはできない」ではなく、「漢字にあてはめない」である。

P111
「紀元前の檀君朝鮮」

伝説である。

『大辞林』
だんくん【檀君】
朝鮮の伝説上の始祖。平壌に降臨して開国し、1500年間国を治めたのち、箕氏(きし)朝鮮に国を譲ったという。

P114
「日本では、韓国の首都というと、いまだに「京城」というイメージが強く残っている。」

そういうことはない。

P114
1刷「京城駅(現在のソウル駅)や朝鮮銀行、すでに取り壊された旧朝鮮総督府などは、いまでも東京駅や上野の博物館などにみられるような西洋風の建物が日本によって建設された。」

推敲が必要である。

14刷「京城駅(現在のソウル駅)や朝鮮銀行、すでに取り壊された旧朝鮮総督府など、いまでも東京駅や上野の博物館などにみられるような西洋風の建物が日本によって建設された。」

P115
1刷「紀元後一〇八年に漢の武帝が衛氏朝鮮を倒し、」

「紀元前一〇八年」の間違い。

『大辞林』 えいしちょうせん【衛氏朝鮮】
古朝鮮の王朝の一。紀元前二世紀初め、燕(えん)の亡命者衛満が箕子(きし)朝鮮を滅ぼして建国。都は王険城(現在の平壌)。漢の武帝の朝鮮遠征(紀元前108年)で滅びた。衛満朝鮮。

14刷「紀元前一〇八年に漢の武帝が衛氏朝鮮を倒し、」

P115
1刷「漢四郡を楽浪郡を置いてからは、その首都となった平壌には」

楽浪郡は漢四郡の一つ
平壌は楽浪郡の「首都」か。

『大辞林』
らくろう【楽浪】
前漢の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼして設置した四郡の一。現在のピョンヤン付近に政庁を置き、朝鮮の北西部を支配した。三世紀初め南半を帯方郡として分離、313年頃高句麗(こうくり)に滅ぼされた。

14刷「漢四郡の一つとして楽浪郡を置いてからは、その首都となった平壌には」

平壌は楽浪郡の「首都」か。

P116
「朝鮮の古語を訓読して」

意味不明である。

P117
「高句麗は日本語で「こうくり」と読むほか「こま」とも読む。一般に「こま」というと「高麗」だが、「高麗」とは「山高くして水麗し」から来た言葉ともいわれるが、高句麗の漢字訳と考えられる。」

「高句麗の漢字訳」とはどういう意味か。意味不明。

P118
「朝鮮半島を英語でKoreaとよぶのは、高麗王朝に由来する。もともとは十三世紀にモンゴルが日本を制圧しようとしたとき、最初朝鮮半島に侵入したモンゴルが、高麗Koryo(コリョ)をKorea(コリア)と誤って西欧に伝えたためであるといわれる。」

日本を征服しようとして、高麗を征服したわけではないだろう。
推敲の要あり。

P120
1刷「日本でも大ヒットしたザ・フォーク・クルセイダーズの「イムジン江」は、」

フォーク・クルセイダースの「イムジン江」は大ヒットなどしていない。レコードは発売中止になった。
フォーク・クルセイダー「ス」である。

14刷「日本でもはやったザ・フォーク・クルセダースの「イムジン江」は、」

「クルセダース」ではない。
曲名としては「イムジン江」ではなく「イムジン河」である。

P122
1刷「黄山(ホワンサン)」
1刷「黄山(ホワンシャン)」

「山」のルビが統一されていない。「シャン」がよいだろう。

14刷「黄山(ホワンシャン)」

P122
「秦の始皇帝を暗殺しようとした漢の張良が隠れたといわれる場所だ。」

暗殺しようとした時点では漢に仕えてはいない。

『世界史事典』(旺文社)
張良
「韓の貴族の出身。始皇帝の暗殺失敗後、劉邦(高祖)に仕えて秦を滅ぼし、」

P123
1刷「北京は一般的には「ペキン」と発音するが、これは一七世紀の発音であり、」

「一般的には」とは、どこでの「一般的」か。中国で「一般的に」「ペキン」と発音するわけではないだろう。
「ペキン」は南の方の方言がヨーロッパ語に入ったというのが一般的な説だと思うが。

14刷「北京は一般的には「ペキン」と発音するが、これは一七世紀に中国を訪れた西欧人による発音であり、」

P124
「一九二七年、首都が南京に移ったとき一時北平の名が復活したが、」

P269
「北京(中略)一九二八年、国民政府時代には北平となったが、」

「一九二七年」と「一九二八年」で矛盾している。

P124
「南京(ナンキン)」

「ナンキン」は「ペキン」同様、中国語の発音ではない。

P125
「ところで、中国にも東京という地名があることはご存知だろうか。
 発音はトウキョウではなくトンジンまたはトンチンであるが、漢字表記は東京である。」

「京jing」を「ジン」または「チン」としているのに、「東dong」は「ドン」または「トン」としなくていいのか。

P125
「モンゴル系の契丹は、九三八年、南京を東京と改めた。その故址が今の遼寧省遼陽市にあった。また、モンゴル系の遼は、五京道のひとつにも東京の名がつけられている。」

「遼」は「契丹」の国号なのに、「モンゴル系の契丹」と「モンゴル系の遼」が出てくるのは疑問である。

『大辞林』
きったん【契丹】
五世紀以降内モンゴルのシラ-ムレン河流域に現れた遊牧狩猟民族。モンゴル系でツングースとの混血種といわれる。一〇世紀耶律阿保機(やりつあぼき)が諸部族を統一し、のち征服王朝遼(りよう)に発展した。キタイ。

『大辞林』
りょう【遼】
中国、契丹(きつたん)族の耶律阿保機(やりつあぼき)が建てた国(916-1125)。モンゴリア・中国東北部・華北の一部を支配、宋から燕雲十六州を奪い淵(せんえん)の盟を結ぶ。金と宋に挟撃されて滅んだが、王族の耶律大石が中央アジアに逃れて西遼を建国した。

P126
「知恵の神、文殊師利菩薩」

菩薩を「神」と言ってよいのか。

P127
「ロプノール」

「ロブノール」とすべき

『大辞林』
ロブノール[Lob Nor]
中国、新疆ウイグル自治区タリム盆地東端の砂漠にある塩湖。タリム川が注ぐが排出河川はない。古来、砂丘の変化によってタリム川の河道が移動するため、湖の位置・形が定まらず、「さまよえる湖」と呼ばれる。西岸に楼蘭の遺跡がある。ロブ湖。

P128
「同じくトルコ系遊牧民の言葉で、チュルク語起源の地名に、」

何を言いたいのか。意味不明の文章である。

P128
「タクラマカン沙漠はウイグル語で「一度迷い込むと出られない」。」

P209
「人があえて足を踏み入れなければならなかった沙漠には、シルクロードのルートともなったタクラマカン沙漠がある。この沙漠は砂沙漠であるため、常にその地形を変え、迷いやすくなっている。その意味も「迷い込むと出られない」である。」

P259
「タクラマカン沙漠 Takla Makan 「死の沙漠」。ウイグル語Takkiri「死」とmakan「果てしなく広い地域」で、「一度迷い込むと出られない」。つまり、生きては帰れない場所を意味する。」

もとの意味が「死」+「果てしなく広い地域」なら、なんでかってに「迷い込むと出られない」にするのか。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
タクラマカン
「タクラマカン(塔克拉瑪干)とは、ウイグル語で「砂の海」を意味する。
 また、地名前半のタクラは、チュルク語のタクラ「平らな」とする説もある。しかし、後半のマカンがチュルク語では説明できない。」

P129
「一二世紀半ば、チンギス・ハンがあらわれるまで、」

P130
「一二世紀が終わる頃、モンゴルのなかからあらわれた指導者テムジンによって、」

「一二世紀半ば」と「一二世紀が終わる頃」で矛盾している。

P129
「一二世紀半ば、チンギス・ハンがあらわれるまで、中央アジアの草原は、古代には北狄(北方の未開人)の土地だったが、前三世紀には、トルコ系ともモンゴル系ともいわれる遊牧騎馬民族が匈奴という国をおこすまでになった。中国人たちは彼らを「胡人」、その国を「胡国」とよんだ。つまり野蛮人、未開人の国という意味だが、「胡瓜」、「胡桃」、「胡麻」など、胡人によって中国にもたらされた珍品は少なくない。」

推敲を要する。
時代によって、「胡」の指す意味は違っている。そのことを気がついているのだろうか。

『大辞林』
こ【胡】
中国で、漢以前には北方の匈奴(きようど)の称。のちには西域民族の総称。えびす。

P129
1刷「その匈奴も、後一世紀には漢の武帝に敗れて南北に分裂し、北匈奴は後漢に滅ぼされ、」
「後一世紀には漢の武帝」だってさ。(笑)

8刷「その匈奴も、前一世紀には漢の武帝に敗れて南北に分裂し、北匈奴は後漢に滅ぼされ、」
14刷「その匈奴も、前一世紀に後漢との攻防で南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏、」

「前一世紀に後漢」だってさ。(笑)

『詳説世界史』(山川出版社)
「匈奴の圧迫をうけた漢では高祖が匈奴に敗れて和親策をとったが前2世紀後半には武帝が反撃にでて、匈奴を北にしりぞけ、西域にも進出した。このため匈奴は内陸貿易の利を失っておとろえ、前1世紀なかごろ東西に分裂した。匈奴が中国文化の影響をうけ鉄器時代に入ったのは、このころからである。東匈奴は漢と結んで西匈奴をカザフ草原に破った。
 こうして1世紀なかごろ、匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢にしたがい、一部は長城付近で農耕生活に入った。北匈奴は1世紀末に後漢の攻撃をうけ、一部はイリ地方からカザフ草原をへて西進した。」

P129
「黒海北部、ボルガ川下流域あたりでフン族になったといわれている。」

定説にはなっていない。

『大辞林』
フン[Hun]
アジア内陸地帯の遊牧騎馬民族。四世紀に西進し、西ゴート族を圧迫して民族大移動の発端をつくる。五世紀前半のアッティラ王の全盛期には、カスピ海からライン川にまたがる大帝国を築いた。匈奴と同一かは不明。フン族。

P129地図
1刷「ロブ・ノプール」
1刷「新彊ウィグル地区」

「ロブノール」だろう。
「新彊ウイグル自治区」だろう。

『大辞林』
ロブノール[Lob Nor]
中国、新疆ウイグル自治区タリム盆地東端の砂漠にある塩湖。タリム川が注ぐが排出河川はない。古来、砂丘の変化によってタリム川の河道が移動するため、湖の位置・形が定まらず、「さまよえる湖」と呼ばれる。西岸に楼蘭の遺跡がある。ロブ湖。

14刷「ロブノール」
14刷「新彊ウイグル自治地区」

「新彊ウイグル自治区」だろう。

P130
「中央アジアは、(中略)そして十世紀はじめには、モンゴル系の契丹(キタイ)族の遼となり、一二世紀はじめには、女真(ジェルチン)族の金の領域となった。」

遼や金を「中央アジア」にあったと言えるのか。
「ジェルチン」は「ジュルチン」の間違い。

『世界史事典』(旺文社)
女真
「ジュルチンの音訳で、」

P130
「モンゴル帝国の地名につく「汗」は、モンゴルの君主の称号「ハン」の当て字で、君主の名前がそのまま地名となっている。」

キプチャク汗国、イル汗国は違う。
「モンゴル帝国の地名」は不適当である。例えば「イルハン国」を「モンゴル帝国の地名」と言って何の疑問も持たないのか。

『大辞林』
イルかんこく 【―汗国】
〔Il〕チンギス=ハンの孫フラグがイラン・小アジアを中心に建てた王朝(1258-1353)。タブリーズに都した。ガザン汗時代(1295-1304)にイスラム教を国教とし、全盛時代を迎えた。〔「伊児汗国」とも書く〕

キプチャクかんこく 【―汗国】
〔Kipchak〕チンギス-ハンの子ジュチの子孫の王朝。モンゴル帝国の四汗国の一。ジュチの子バトゥがキルギス草原に南ロシアのキプチャク草原一帯を加えて建国(1243-1502)。都はサライ。一四世紀前半に最盛期を迎えたが、一五世紀、領内に小国が分立。欽察汗国。金帳汗国。

P130
「このうち、中国を支配したフビライ・ハンは中国風に国号を「元」とした。彼はさらに東へと侵攻を試み、朝鮮半島を制圧したあと、日本へ向かった。」

高麗の降伏は一二五九年であり、フビライが大ハンになったのが一二六〇年、元の成立はその後の一二七一年である。

『世界史事典』(旺文社)
高麗
「1231年に始まるモンゴルの侵入は二十数年にわたり、ついに1259年元に降伏し、元の日本遠征の負担を負った。」

『大辞林』
フビライ[Khubilai] (1215-1294) モンゴル帝国の第五代皇帝(在位 1260-1294)。元の初代皇帝(在位 1271-1294)。チンギス-ハンの孫。大都(北京)に都を遷し、1271年国号を元と称した。南宋を滅ぼし中国を統一、安南・ビルマ・ジャワを従え、高麗を服属させたが、日本遠征には失敗。世祖。フビライ-ハン。クビライ。〔「忽必烈」「忽比烈」とも書く〕

『大辞林』
げん【元】
中国の王朝(1271-1368)。フビライ(世祖)が建国。都は大都(北京)。1279年、南宋を滅ぼし、中国本土を中心にモンゴル・チベットを領有、高麗を服属させ、モンゴル至上主義の原則に立つ専制官僚支配を行う。紅巾(こうきん)の乱を契機に、漢族の朱元璋(しゆげんしよう)(明の太祖)により滅亡。

P130
1刷「しかし、日本の北の間宮海峡が「タタール海峡」と名づけられているところをみると、もしかしたらモンゴル(タタール)は、北からも日本への侵攻をはかっていたのかもしれない。」

「間宮海峡の確認」は十九世紀である。なにを考えてこういう文章を書いているのか。

14刷「ちなみに、日本の北の間宮海峡が「タタール海峡」と名づけられているのは、一八世紀、このあたりを探検したフランス人がタタール人の住地の一部とみなしていたからである。」

P131
「彼らはロシア以西のヨーロッパではタタールTatarsとして知られていたので、ギリシア神話の残酷なタンタロス(Tantarus)と結びつけられ、地獄の使者として怖れられたのだった。」

「タンタロス」は「タルタロス」との混同か。
「Tantarus」はスペルミス。

『大辞林』
タンタロス[Tantalos]
ギリシャ神話で、小アジアの一地方の王。ゼウスの子。神々の怒りを買ったため地獄に落ち、永劫の飢渇に苦しんだ。

『大辞林』
タルタロス[Tartaros]
ギリシャ神話で地下の最奥にあるとされた仕置きの地。冥府よりも下にあり、ティタン神族がオリュンポス神族との戦いに敗れてここに幽閉され、タンタロスなど罪人が落とされた。

P131
「一二三六年、タタールはキエフ公国などロシアの諸公国を支配下におき、」

「一二三六年」でいいのか。

『世界史事典』(旺文社)
キエフ公国
「1240年モンゴルのバトゥに滅ぼされ、キプチャク-ハン国の支配下に置かれた。」

P131
「チンギス・ハンが亡くなり、帝国が分裂したことで東西への圧力が衰えたモンゴルだったが、」

「チンギス・ハンが亡くなり、帝国が分裂」というのは事実誤認。
前ページ(P130)には「一二二七年、チンギス・ハンが亡くなると、」とあり、このページ(P131)には「一二三六年、タタールはキエフ公国などロシアの諸公国を支配下におき、」とある。それでも「チンギス・ハンが亡くなり、帝国が分裂したことで東西への圧力が衰えたモンゴルだったが、」と平然と書いている神経が信じられない。

『世界史事典』(旺文社)
モンゴル帝国
「フビライ=ハンの即位に反対するハイドゥの乱を契機として四ハン国は完全に独立し、モンゴル帝国は分裂した。」

P131-2
「さらに東アジア、インド、中国へと軍を進めていった。」

「中国」と書いているのだから「東アジア」は不要である。

P132-3
地図

キエフ(ウクライナの首都)の位置が違う。
ベラルーシの国境線がない。
モルドバの国境線が間違っている。
(P254上図と比較してみればよい。)
「ビザンツ帝国」の位置が不適当である。(この当時、イタリア半島はビザンツ帝国ではない。)
「キルギス」の位置が間違いである。
「間宮海峡」を記入している意味はあるのか。

P132
「一五二六年、ティムールの直系の子孫で、チンギス・ハンの血をひくといわれるバーブルはインドに侵入し、ムガール帝国をおこす。この帝国は約二世紀にわたって続いたが、」

「1526-1858」なのだから、「約二世紀」ではない。

『大辞林』
ムガルていこく【―帝国】
〔Mughal〕インドのイスラム帝国(1526-1858)。北インドに侵入したバーブルがロディー朝を倒し、1526年創始。その孫アクバルが帝国の基礎を確立、インド・イスラム融合文化が繁栄した。アウラングゼーブの時代にインド南部まで達し、領土は最大となるが、しだいに土侯が割拠するとともにヨーロッパ列強が支配を強め、1858年イギリス東インド会社に滅ぼされた。

P133
「ムガール帝国は一八一九年、イギリス東インド会社との戦争に敗れて支配権を失ってしまうが、」

「一八一九年」とは何なのか。

P134
「インドとヨーロッパの最初の出会いは、前三二五年、ペルシアを越えてやってきたアレクサンドロス大王のギリシア軍がインダス川に到達したときだった。大王はサンスクリット語で「川」をあらわすヒンドゥhinduにちなんで、その川をインダスIndusと名づけた。その命名によって、この地方がインドIndoとよばれるようになったのだ。」

P199
「インダス文明をもたらしたインダス川も、サンスクリット語で「川」を意味するヒンドゥーhinduがそのまま川の名となったもので、これもただ「川」である。今日ではパキスタンを流れる川だが、かつてこの地をも含めてインドという名は、このインダスに由来する。」

P263
「インドはインダス川のサンスクリット語名sindhu「水、大河」に由来する。ペルシア語のHinduを経て、アレクサンドロス大王の遠征でギリシア語Indosとなった。」

「インドとヨーロッパの最初の出会いは、前三二五年」でいいのか。
「アレクサンドロス大王のギリシア軍」でいいのか。マケドニア軍ではないのか。
インダスの語源はサンスクリット語なのかペルシア語なのか矛盾している。
サンスクリット語とペルシア語はともにインド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派に属する言語である。サンスクリット語がペルシア語に入ったなどとする必要はない。
「ペルシア語のHinduを経て、」の「Hindu」は「hindu」
ギリシア語で「インダスIndus」なのか「Hindu」なのか。矛盾している。
「ヒンドゥ」、「ヒンドゥー」で表記が不統一。
「かつてこの地をも含めてインドという名は、このインダスに由来する。」は推敲が必要である。

『世界史事典』(旺文社)
アレクサンドロス
「前327年インドに侵入したが、」

P134
1刷「インディースIndies」

P94と同様。

14刷「インディアスIndias」

P136
1刷「ジャカルタDjakarta(勝利の城塞)という意味をもつ。」

P196
1刷「〜カルタ -karta 「都市」の意。ジャカルタ(インドネシア)「勝利の都市」。」

P264
1刷「サンスクリット語でジャイア・ケルタJaiakerta「勝利の地」」

「城塞」、「都市」、「地」。訳語がばらばらだが。
「Djakarta」、「Jaiakerta」。スペルが違う。
「ジャイア・ケルタ」なら、「Jaia kerta」のはずだが。


P136
14刷「ジャカルタJakarta(勝利の都市)という意味をもつ。」

P196
14刷「〜カルタ -karta 「都市」の意。ジャカルタ(インドネシア)「勝利の都市」。」

P264
14刷「サンスクリット語でジャイア・ケルタJaia kerta「勝利の都市」」

「karta」、「kerta」。スペルが違う。

P136
1刷「一八五八年、フランスが、現在のベトナム、ラオスあたりを領有し、」

仏領インドシナは清仏戦争の結果だが、「一八五八年」は「一八八五年」の間違いか。

『大辞林』
しんふつせんそう【清仏戦争】
ベトナムの支配権をめぐる清国とフランスとの戦争(1884-1885)。清軍は敗北し、天津条約によって清国はその宗主権を放棄し、フランスの保護国化を承認した。

14刷「一八八七年、フランスが、現在のベトナム、ラオスあたりを領有し、」

「領有」としては一八八五年の方がよいのではないか。

P136
1刷「第二次世界大戦で日本がこの地を支配すると、「シャム」を正式名称にしようとの動きもみられたが、戦後、みずからの選択で「タイ」という国名を選んだ。」

タイになったのは一九三九年。

14刷「一九三二年には、専制君主制から立憲君主制に移行し、一九三九年には国名もシャムからタイ王国にあらためた。」

P137
1刷「面白いのは、太平洋沿岸にあって、往来がしやすかったという理由もあろうが、同じインドシナ半島にあっても、カンボジアはインドの影響を強く受けているのに、ベトナムには中国の影響が強いことだ。」

「太平洋沿岸」は「南シナ海」の間違い。
意味不明の文章である。

14刷「面白いのは、南シナ海に向いていて、往来がしやすかったという理由もあろうが、同じインドシナ半島にあっても、カンボジアはインドの影響を強く受けているのに、ベトナムには中国の影響が強いことだ。」

意味不明の文章であることにかわりなし。

P137
1刷「はるかに南の国」

P272
1刷「はるかに南の国」

「越の南」ではないのか。

P137
14刷「越の南の国」

P272
14刷「越の南の国」

P138
1刷「交跡」

「交趾」の誤記

『大辞林』
こうし【交趾・交阯】
前漢の武帝がベトナムのトンキン地方に設置した郡名。一〇世紀にベトナムの独立後も中国はこの国を安南または交趾と称した。こうち。コーチ。

14刷「交趾」

P138
「国名のマレーシアは、マレー半島の名にちなんだもので、そのマレーには、インド南部のドラビダ語でマラヤ(山地)という意味がある。」

P273
「マレーシアMalaysia サンスクリット語のmalaya「山地」に由来する。」

「ドラビダ語」と「サンスクリット語」で矛盾している。

P139
「その後、一七八六年、イギリスがインドを統治するようになると、」

一七八六年になにがあったのか不明。

P139
「そして、一八二六年には、イギリス東インド会社がマレー半島を支配下におき、一八六七年にはイギリス直轄の「海峡植民地」となった。」

一八二六年、イギリス領インドの管轄下に「海峡植民地」成立。本国直轄に移行したのが一八六七年。

『世界史事典』(旺文社)
海峡植民地
「マラッカ・ペナン・シンガポールを合併して1826年に成立し、イギリス領インドの管轄下に置かれた。1867年にはイギリス本国の直轄領となり、シンガポールのイギリス総督が統治を行った。」

P139
「一九六三年にはシンガポールとボルネオ(カリマンタン)島のイギリス領を加えてマレーシアが独立したが、」

P273
「マレーシア(中略)一九五七年、独立」

「一九六三年」と「一九五七年」で矛盾している。

『大辞林』
マラヤれんぽう【―連邦】
〔Malaya〕1948年イギリスの保護のもとに、マレー半島南部に設立された連邦国家。57年独立。63年マレーシア連邦結成に際し、その中心となる。

マレーシア[Malaysia]
「マレー半島南部とカリマンタン島北部から成る立憲君主国。1963年マラヤ連邦・サバ・サラワクなどが結成した連邦国家。一三州から成る(結成当初参加したシンガポールは65年分離・独立)。ゴム・スズの世界的な産出国。マレー人のほか中国系人・インド系人が居住し、民族構成は複雑。主要言語はムラユ語と英語。イスラム教を国教とする。首都クアラルンプール。」

P140
「【ペルシア語系】
〜アバド -abad 「都市」の意。イスラマバード(パキスタン)「イスラム都市」、アシハバード(トルクメニスタン)「うるわしの都市」。」

P257
「アシハバードAshkhabad トルクメン語のウスハuskh「愛しい」とアバード「集落」で「愛しい町」。」

P164 「パキスタンのイスラマバード(イスラム教の町)のように、」

「〜アバド」と「〜アバード」で不統一。
「〜アバド」の訳語が「都市」、「集落」、「町」で不統一。
「アシハバード」の「〜アバド」がペルシア語とトルクメン語で矛盾している。
「アシハバード」の意味が「うるわしの都市」と「愛しい町」で矛盾している。
「イスラム都市」と「イスラム教の町」で不統一。

P140
「【ペルシア語系】
サマルカンド(ウズベキスタン)「石の町」。」

P164
「「町」のようなレベルの地名接尾辞にはトルコ系の「〜ケント」(タシケント=石の町)や「〜カンド」(サマルカンド=石の町)がある。」

「〜カンド」が「ペルシア語系」と「トルコ系」で矛盾している。
「石の町」と断言していいのか。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
サマルカンド
「サマルカンドの語尾のカンドは、イラン語kand「村、都市」とみられるところから、この地名はイラン系地名とされる。しかし、語頭のサマルの意味が解明されていない。
(1)伝説ではアラブ人の王シャマルShamarが都市を占領、自らの名にちなみ、シャマルカンドと命名した、とされる。しかし、アラブ人がこの地方を占領したのは、アレキサンダー大王の時代よりはるかに後世であり、語源説としては正しくない。
(2)音声の近似から、チュルク語のサマルsamar「酒杯」が地名になったのではないか、とする説がある。そうすると、「酒杯の町」となるが、これは根拠のない説である。
(3)イラン語のアスマラasmara「石の」を語源とする説が最有力で、今後の研究が待たれる。」

P140
「〜ドルフ dorf」

「-dorf」である。

P140
「ウイリアムの都市」

「ウィリアムの都市」の誤記

P145
「シオンそのものがヘブライ語のtsiyon(丘)という意味で、しばしばシオニズム(シオン運動)とよばれるエルサレム復帰運動は、一八九六年、オーストリア・ハンガリー系のユダヤ人テオドール・ヘルツルがはじめたものだ。
 結局、ユダヤ人が三千年前の故郷に戻りはじめたのは一九世紀になってからだ。」

「ヘルツル」、「ヘルツェル」どちらがよいのか。
「一八九六年」は「一八九七年」がよい。
「戻りはじめた」年は何年か。「一九世紀」でいいのか。

『世界史事典』(旺文社)
シオニズム
「反ユダヤ運動に刺激され、1997年、ヘルツェルがシオニスト団を結成して世界に拡大した。」
ヘルツェル
「1896年『ユダヤ人の国家』を著し、97年第1回世界シオニスト会議をバーゼルで開催した。」

木下康彦・木村靖二・吉田寅『詳説世界史研究』(山川出版社)
シオニズム運動
「1897年のシオニスト会議においてパレスチナを目的地に選ぶまでは、アフリカやアルゼンチンなどの候補地があがっていた。」

P145
「前二七〇〇年頃、ティグリス川上流に、アッシュールAsshurという町ができた。
アッシリア人が、最高神アッシュールを祀ったことから、この名がつけられた。意味は「アジア」と同じで、東を意味するAssuに由来し、「日の出の地」ということだ。」

どう主張したいのか。神の名によるのか。「日の出の地」の意味なのか。それとも神の名が「日の出の地」なのか。

P146
1刷「そして前三三二年、アレクサンドロス大王が亡くなると、」

「前三二三年」の間違い。

アレクサンドロス [Aleksandros]
(前356-前323) マケドニアの国王(在位 (前336-前323))。フィリッポス二世の子。遠征軍を率いてペルシャを滅ぼし、インドのパンジャブ地方まで進出。ギリシャとオリエントを含む空前の大帝国を建設し、東西文化の融合を図りヘレニズムの下地を作る。凱旋(がいせん)後急逝し、帝国は分裂した。アレキサンダー大王。

14刷「そして前三二三年、アレクサンドロス大王が亡くなると、」

P147
「ギリシアの正式な国名が Hellenic Republic であるように、」

ギリシアの正式な国名は英語なのか。

P147
「セレウコス王国」

「シリア王国」、「セレウコス朝」であって、「セレウコス王国」とは言わない。

『大辞林』
セレウコスちょう【―朝】
ヘレニズム時代にアレクサンドロス大王の部将セレウコス(Seleukos)一世(前358頃-前280頃)が建てたシリア王国の王朝(前305?-前63?)。首都はアンティオキア。インダス川に及ぶ広大な版図をもち、プトレマイオス朝と対抗した。

P148
1刷「アレフorf」

「orf」で「アレフ」なのか。

14刷「アレフaleph」

P148
1刷「ゴルゴダ」

「ゴルゴタ」の間違い。

『大辞林』
ゴルゴタ[Golgotha]
イスラエル、イエスが十字架の刑に処せられたエルサレム郊外の丘。カルバリア。

14刷「ゴルゴタ」

P153
1刷「エジプト人は自国を「エジプト」とはいわず、「ミスル」という。エジプト方言では「マスル」という。」

論理矛盾のある文章である。

14刷「エジプト人は自国を「エジプト」とはいわず「ミスル」、または方言で「マスル」という。」

P154
「エジプトの首都カイロにも、興味深いエピソードがある。
九六九年、新首都建設予定地でくわ入れ式をおこなう際、」

P276
「カイロCairo 九六八年に建設される。」

「九六九年」と「九六八年」で矛盾している。

『大辞林』
ファーティマちょう【―朝】
エジプトのシーア派イスラム王朝(909-1171)。チュニジアに興り、969年エジプトを征服して、新都カイロを建設。アッバース朝に対抗してカリフを称し、東地中海貿易を独占した。アイユーブ朝により滅亡。

P159
「メキシコ第二の都市グアダラハラは(中略)マドリード北部の町の名に由来する」

「マドリード北部」でいいのか。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
グアダラハラ
「グアダラハラ州の州都。マドリードの北東54km、標高680mの高原に位置。」。

P160
1刷「ペルシアは、一九三五年、古代からの国名であるペルシアを捨てて、イランとした。」

P161
1刷「ペルシアからイランへと国名を変えることとなる一九二五年を迎えたわけだ。」

イランになったのは「一九三五年」なのか、「一九二五年」なのか。矛盾している。

P161
14刷「ペルシアからイランへと国名を変えることとなる一九三五年を迎えたわけだ。」

P161-2
「アリアナ Ariana (アーリア人)がペルシア語に「転訛」したイラン Iran を国名にしたのだった。サンスクリット語でaria,arya(高貴な・偉大な)という意味である。」

P263
「イラン・イスラム共和国(中略)イランは、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人の名にちなんだサンスクリット語のアリアナAryana「高貴な人びと」が転訛したもの。」

サンスクリット語とペルシア語はともにインド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派に属する言語である。「転訛」ではなく「同根」とすべきである。

P163
地図

「クルディスターン地方」の位置が不適当である。

『大辞林』
クルディスタン
[Kurdistān]
トルコ・シリア・イラン・イラク・アルメニア・アゼルバイジャン・グルジア・トルクメニスタンにまたがる山岳地帯。クルド人の居住地で独立の気運が強く、半独立的な地方となっている。

P163
1刷「バングラデシュ」

P213
1刷 図「バングラディシュ」

P260
1刷 上図「バングラディッシュ」

不統一である。
P213
14刷 図「バングラディシュ」

P260
14刷 上図「バングラデシュ」

不統一である。

P164
「ソビエトはこれらの地域を併合するにあたって」

「併合」したのは帝政ロシアである。

P165
「ニューヨーク(アメリカ合衆国) 1609年、オランダ西インド会社のハドソンが探検。」

1609年には「オランダ西インド会社」は存在しない。

『大辞林』
にしインドがいしゃ 【西―会社】
(1)アフリカ西岸とアメリカ沿岸との貿易独占を目的として1621年設立されたオランダの会社。立法・行政・軍備などの権限をもち、植民地獲得を進めてスペイン勢力打倒には成功したがイギリスに敗れ、74年解散。

P166
「U.S.$はアメリカ合衆国政府が発行している貨幣、U.S.Armyはアメリカ軍のことだが、通常アメリカとよんでいるアメリカ合衆国United States of Americaは、合衆国the United Statesの名でとおっている。」

「army」は「陸軍」である。「U.S.Army」は「アメリカ陸軍」である。
推敲の要あり。

P166
「アメリカ大陸も、イギリスの支配下にあった。」

意味不明である。

P167
「一八一二年の米英戦争で、」

「一八一二年」は米英戦争の始まった年である。

『世界史事典』(旺文社)
米英戦争
「1812〜14年、ナポレオン戦争中に起こった戦争。」

P168
「共和制とは、世襲的な君主制に対して、合議制の機関があり、主権が複数の人間の手にある政治形態をいう。」

日本は「合議制の機関があり、主権が複数の人間の手にある」が、共和制の国か。

P168
「一方、ラテン・アメリカの人びとにいわせると、合衆国民は北アメリカ人(North Americans)なのだそうだ。」

「North American」という英語を使う必然性がない。アルファベットを使いたいならスペイン語でも使えばいい。

P168
「アメリカ大陸発見の真の功労者クリストファー・コロンブス」

こういう文章に対してどうコメントしたらいいのだろうか。

P168
1刷「フランスが北米の領土をすべて失う一七五五年以降、」

P170
1刷「下の図 1803年フランスより買収」

矛盾している。

P168
14刷「フランスが北米の領土を一時失う一七七五年以降、」

「一七七五年」は「一七六三年」の間違い。

『大辞林』
フレンチ-インディアンせんそう【―戦争】
七年戦争に関連し、北アメリカ植民地で行われたフランス・インディアンの連合軍とイギリスとの戦争(1755-1763)。パリ条約により、敗れたフランスは植民地を失い、イギリスの北アメリカ支配が確立した。

P169
「アメリカ合衆国は、一七八三年に独立、」

通常は、1776年(独立宣言の年)を実質独立の年とする(1783年はパリ条約でイギリスが独立を承認した年)

『大辞林』
アメリカ-がっしゅうこく【―合衆国】
「〔United States of America〕北アメリカ大陸の中央部(四八州)とアラスカ・ハワイなどを領土とする連邦共和国。五〇の州・コロンビア特別区(首都)から成り、ほかにプエルトリコ・グアム・サモア・ウェークなどの島やパナマ運河地帯などの海外領土がある。1607年からイギリスの植民地経営が始まったが、1776年東部の一三植民地が独立を宣言、83年パリ条約でイギリスが独立を承認。以後、西へ領土を広げ、一九世紀半ばに太平洋岸に達した。」

P170
地図
「アイオア」

P219
地図
「アイオア」

P219
「アイオア」

P305
「アイオア」

「アイオア」は「アイオワ」の誤記

『大辞林』
アイオワ[Iowa]
アメリカ合衆国の中西部の州。ミシシッピ・ミズーリ両河の間に位置し、コーンベルトの中心。州都デモイン。

P173
「この地域は、一七四一年、ロシアにやとわれたデンマーク人探検家ベーリングによって発見された。その名残りは、「ベーリング海峡」などの名にみられる。」

P251
「ベーリング海 Bering ロシア皇帝ピョートル一世に派遣されたデンマーク人探検家ベーリングが、一七二八年に発見したことによる。」

「発見」を使用している。
「一七四一年」と「一七二八年」で矛盾している。
一七四一年は死亡の年。

『大辞林』
ベーリング[Vitus Jonassen Bering]
(1681-1741) デンマークの航海者。ロシア海軍に入り、カムチャツカ探検隊隊長として、1728年北アメリカ大陸とアジア大陸の間の海峡(ベーリング海峡)を確認。

P173
「一五八二年、ヨーロッパからシベリアに入ったロシア人は、当初、極寒の地には見向きもしなかったが、ヨーロッパの貴族社会で毛皮の需要が高まるや、帝国の主力輸出品となった毛皮の獲得にのりだしはじめた。シベリア先住民からの買い付けだけでは間に合わず、」

ロシアはシベリア先住民からの「買い付」などしていないはずだが。ヤサク(毛皮税)などといって搾取しただけだろう。

ロシア人のシベリア征服
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dewaruss/on_russia/siberia.htm

P173
「そして、その動きがさらにエスカレートして、ロシア人はとうとうベーリング海峡を渡ってしまったのだ。しかし、当時のアメリカ合衆国にとって極寒の地アラスカは、何の関心もない土地だった。」

アメリカ合衆国はまだ存在していない。(ベーリングのベーリング海峡到達は1728年、アメリカ合衆国独立宣言は1776年。)

P174
「しかしこれは、一七八六年、ロシア皇帝として即位したアレクサンドル一世の名にちなんだものだ。」

アレクサンドル一世の即位は一八〇一年。

『大辞林』
アレクサンドル [Aleksandr]
ロシアの皇帝。
(1)(一世)(1777-1825)(在位 1801-1825)。ナポレオン軍を退却させ、ウィーン会議で神聖同盟を結んだ。

P174-5
「最初にオクラホマに足を踏み入れたのはスペインの探検家でコロナードで、一六世紀前半頃のことだった。一六八二年にはフランス人のラ・サールがここを訪れ、フランス領だと主張した。それを一八〇三年、合衆国が買い取ったのだ。」

「一六世紀前半頃」の「頃」は不要である。
1763年と1800年のことが抜けている。

『世界史事典』(旺文社)
ルイジアナ
「歴史的にはミシシッピ川流域の広大な地域名 1682年、この地域を探検したフランス人ラ=サールがルイ14世にちなんで命名。七年戦争後の1763年のパリ条約でミシシッピ川以東はイギリス領、以西はスペイン領となった。前者は、アメリカ独立戦争後の1783年のパリ条約で、イギリスからアメリカ合衆国に割譲された。後者は、1800年ナポレオン1世がフランス領としたが、03年アメリカに売却された。」

P176
「四六番目に独立した州オクラホマ」

「州」になることがなぜ「独立」なのか。

P176
1刷「シカゴChikago」

スペルミス。

『大辞林』
シカゴ [Chicago]
アメリカ合衆国、イリノイ州のミシガン湖に臨む都市。プレーリーと炭田・油田をひかえた同国第三の都市で、小麦・トウモロコシ・牛・豚・羊などの集散・加工が盛ん。農業機械・鉄鋼などの工業も発達。また、水陸交通の要地。〔「市俄古」とも書く〕

14刷「シカゴChicago」

P178
「ルイジアンヌLouisiane」

「Louisiane」では「ルイジアンヌ」とは読まないだろう。

P178
「しかし、一七五五年にはじまったフレンチ・インディアン戦争で不利になったフランスは、一七六二年、この地域をスペインに譲渡し、このときから地名もLuisianaとつづられるようになった。」

「この地域」というあいまいな言葉を使っているが、ミシシッピ川の東岸と西岸で歴史が違う。
「一七六二年、この地域をスペインに譲渡し」たのか。

『世界史事典』(旺文社)
ルイジアナ
「歴史的にはミシシッピ川流域の広大な地域名 1682年、この地域を探検したフランス人ラ=サールがルイ14世にちなんで命名。七年戦争後の1763年のパリ条約でミシシッピ川以東はイギリス領、以西はスペイン領となった。前者は、アメリカ独立戦争後の1783年のパリ条約で、イギリスからアメリカ合衆国に割譲された。後者は、1800年ナポレオン1世がフランス領としたが、03年アメリカに売却された。」

P179
「一七七八年、独立戦争で勝利した一団が、」

「独立戦争で勝利した一団」とはどういう団体か。意味不明。
イギリスが独立を承認したパリ条約は一七八三年である。

『大辞林』
アメリカ-がっしゅうこく【―合衆国】
「〔United States of America〕北アメリカ大陸の中央部(四八州)とアラスカ・ハワイなどを領土とする連邦共和国。五〇の州・コロンビア特別区(首都)から成り、ほかにプエルトリコ・グアム・サモア・ウェークなどの島やパナマ運河地帯などの海外領土がある。1607年からイギリスの植民地経営が始まったが、1776年東部の一三植民地が独立を宣言、83年パリ条約でイギリスが独立を承認。以後、西へ領土を広げ、一九世紀半ばに太平洋岸に達した。」

P181
「英語の地名が一四州ある(……インディアナ……)。」

P220
「インディアナIndiana スペイン語で「インディアンの土地」。」

「英語」と「スペイン語」で矛盾している。

P182地図
1刷「カーシッジ」

P183
1刷「カーセージCarthage」

「カーシッジ」と「カーセージ」で不統一である。

14刷「カーシッジ」

P183
「マサチューセッツ州セーレムSalem(エルサレム)は、オレゴン州など、大きな町でも十数カ所、小さな町や村まで入れると三十から四十もあるといわれる。」

「マサチューセッツ州セーレム」が他の州にあるわけない。もしあったとしたら、それは「マサチューセッツ州」のセーレムではない。

P190
「オフェール」

新共同訳聖書では「オフィル」である。

P190
「アメリカ、アフリカ,アジア、ユーラシア、オーストラリアの、いわゆる五大陸の」

「ユーラシア」は「ヨーロッパ」+「アジア」だが、なぜ「アジア」と「ユーラシア」があるのか。

『大辞林』
たいりく【大陸】
(1)地球上の広大な陸地。普通、ユーラシア(ヨーロッパ・アジア)・アフリカ・北アメリカ・南アメリカ・オーストラリア・南極の六大陸をいう。

P194
「なかでもリスともサルともつかないレムールとよばれるリステナガザルの仲間が、インド洋を隔ててインドやマレー半島に生息していることが注目されたことがあった。」

「レムール」は「リステナガザルの仲間」か。
「インド洋を隔ててインドやマレー半島に生息している」のはなにか。

きつね-ざる【狐猿】
霊長目キツネザル科の哺乳類の総称。原猿類。原始的なサルで、口先が狐のようにとがる。体長24〜56センチメートル、尾長22〜65センチメートル。雑食性で樹上生活をする。マダガスカル島と付近の島特産。近似種を合わせレムールともいう。

げんえんるい【原猿類】
霊長目原猿亜目の哺乳類の総称。原始的なサル類で、平爪(ひらづめ)のほか、鋭い鉤爪(かぎづめ)をもつ。多くは夜行性。キツネザル科・コビトキツネザル科・インドリ科・アイアイ科・ロリス科・メガネザル科に分けられる。擬猴(ぎこう)類。原猴類。

しんえんるい【真猿類】
霊長目真猿亜目の哺乳類の総称。比較的進化の進んだサルで、指の爪はすべて平爪で、第一指が他の四指と離れやや内側を向き、細かいものをつかむことができる。オマキザル・オナガザル・ヒトニザルの三グループに大別される。

てなが-ざる 【手長猿】
霊長目テナガザル科の哺乳類の総称。類人猿に属する進化の進んだサルである。顔面は無毛で黒い。体は細く、前肢が非常に長い。尾はなく、尻だこがある。頭胴長50センチメートル内外で、体は灰色ないし灰褐色・黒色など。樹上にすみ、昆虫や果実を食べる。シロテテナガザル・フクロテナガザルなど。東南アジアの森林に分布。ギボン。

P194-5
「地質学的には、インドはマダガスカルと隣同士だった陸地が北上してアジアにぶつかり、エベレストができたとされているのだから、」

「エベレスト」は「ヒマラヤ山脈」とすべきである。

P196
「〜トン-ton 「集落」の意。キングストン(ジャマイカ)「王の荘園」。
「〜タウン-town、〜トン-ton 「町」の意。」

「〜トン」が重出している。
「〜トン」が「集落」なら、「キングストン」は「王の集落」だが、なぜ「王の荘園」なのか。
「〜トン」の訳語を「集落」、「町」どちらかに統一すべきである。

P196
「イワノボ(ロシア)「イワン大帝の町」。」

「イワン大帝」は 「イワン雷帝」の間違いだろう。

P198
1刷「太古、人類は川に沿った場所で農耕をはじめ、協力して豊穣をめざすなかで言語が発達し、しだいに社会のしくみが確立していった。」

農耕よりも先に言語があったと思うが。

14刷「太古、人類は川に沿った場所で農耕をはじめ、協力して豊穣をめざすなかで、しだいに社会のしくみが確立していった。」

「灌漑農耕」とすべきである。
例えばマヤ文明は川とは無関係の文明である。そういうことを考えながら記述すべきである。

P198
「四大文明」

「四大文明」は現在では使わない。

P198
「いちはやく牧畜、農耕がはじまったティグリス・ユーフラテス川の流域は、」

本当か。

『詳細世界史研究』(山川出版社)
農耕の起源
「農耕・牧畜の起源については西アジアが単一の起源をなした、という説と、ユーラシアのいくつかの地域、それにアフリカとアメリカで相前後してそれぞれ独自に発生したという説がある。」

P198
1刷「ところで、この二本の川は、上流から土砂を流し続けて海岸線を埋め、古代文明が発祥してから約三千年後(それでも紀元前一世紀)には、合流した。そして、そこに新しい名前がつけられた。そのとき、すでにこの地域はアラブ圏になっていたので、その名もアラビア語でシャット・アル=アラブ川(シャットShatt「大河」に定冠詞のal「アル」とアラブarab)。「アラブの大河」である。」

紀元前一世紀の頃は、メソポタミアはアラブの勢力圏ではないはずだが。

14刷「この二本の川は、上流から土砂を流し続けて海岸線を埋め、古代文明が発祥してから約三千年後(それでも紀元前一世紀)には、合流した。そして、そこに新しい名前がつけられた。紀元後に勢力を拡大してきたアラブによって、その名もアラビア語でシャット・アル=アラブ川(シャットShatt「大河」に定冠詞のal-「アル」とアラブarab)。「アラブの大河」である。」

推敲が必要である。
「al-」の「-」は不要だろう。

P198〜199
「このとき、反西欧化をめざすホメイニ師が国家の主導権を握ろうとしていたので、」

「握った」の誤りである。

P199
1刷「かつて長江は揚子江(ヤンツーチアン)のよび名で知られていたが、これは河口近くの揚州にちなんだ局地的な日本特有の言い方だった。」

「日本特有」ではないだろう。

14刷「かつて長江は揚子江(ヤンツーチアン)のよび名で知られていたが、これは河口近くの揚州にちなんだ局地的な言い方だった。」

P199
1刷「長江だけを「江」というのは、「江」が長江そのもの、長江だけにもちいる漢字だからだ。」

P261の「長江」のとなりは「チュー江」となっている。こういうのは「江」がつくのが「長江」しかないのを確認してから書くべきである。

14刷 該当部分削除。

P199
「ナイルはイル(川)に、ナという冠詞がついただけ、つまり「川」なのである。」

「ナイル」は近代の英語での発音による。つまり古代エジプト語ではない。それを古代エジプト語で説明しようというのはナンセンスである。語源を考える上で基本的なことである。これが理解できないなら、語源のことは書かないほうがいい。

牧英夫編著『世界地名ルーツ辞典』(創拓社)
ナイル川
「語源は、セム=ハム語系の「川」を表す普通名詞ナガルnagalとされている。この名詞がギリシャ人に伝えられ、ギリシャ地名ネイロスNeilosとなり、ラテン語に入ってニルスNilusとなり、現代英語のナイルNileになった。」

P200
「ドイツ北部のエルベ川Elbeもゲルマン語で「流れ」「川」、」

P237
「エルベ川Elbe 「川」。印欧祖語ではalb「流れ」、」

「ゲルマン語」と「印欧祖語」で矛盾している。
印欧祖語などの推定形には語頭に「*」をつける。「alb」が推定形なら「*alb」とする。

P200
1刷「またスペインのイベリア半島の語源にもなっているエブロ川Ebroはイベリア語で「川」、」

イベリア語とは何か。

14刷「またスペインのイベリア半島の語源にもなっているエブロ川Ebroはバスク語で「川」、」

P200
1刷「黒海に流れ込む川で共通していることは、インド・ヨーロッパ語族で「川」を意味する接頭辞のDoかDaが必ずついていることだ。ドナウ川Donauもドン川Donも、その意味するところはやはり「川」、ドニエプル川Dneprは「北の川」ということだ。」

「Dnepr」には「Do」も「Da」もついてない。「DoかDaが必ずついている」の直後に「Dnepr」があるのは、どんなものか。「d」、「n」がついているとしたほうがいいのではないか。

14刷「黒海に流れ込む川で共通していることは、インド・ヨーロッパ語族で「川」を意味する接頭辞のDoかDaがついていることだ。ドナウ川Donauもドン川Donも、その意味するところはやはり「川」、ドニエプル川Dnepr(dan+apris)は「北の川」ということらしい。」

「インド・ヨーロッパ語族」では文意がとりにくい。
「Do」、「Da」に「川」の意味があるのか。
「dan+apris」は何語か。
ドン川は黒海に流れ込んでいない。アゾフ海に流れ込んでいる。P254の地図を見てみればよい。

P201
「新大陸アメリカでも、インディアンの言葉が残るミシシッピ川Mississippiは「大きな川」である。」

P222
「ミシシッピMississippi インディアンの言葉で「偉大な川」。」

「大きな川」と「偉大な川」で不統一である。
(「大きな」と「偉大な」では意味に違いがある。)

P202
「一五一九年、アメリカの南端まで来たマゼランは、そこのインディアンが厚い革の靴をはいていたため、「大きな足」を意味するスペイン語「パタゴニア」と名づけた。そしてさらに南へ向かい、東から西への水路に行き着く。のちの「マゼラン海峡」である。」

P232
「マゼラン海峡 Magellan 一五二〇年、ポルトガルのマゼランが発見したもの。」

「南端」の「さらに南」があるわけがない。
「インディアン」は不適当。(「インディオ」さえ使っていない。)
「東から西への水路」でいいのか。どう見てもマゼラン海峡は「東から西への水路」には見えない。
『大辞林』には「最狭部3キロメートル」って書いてあるが、こういうのを「水路」というのか。
マゼランが「マゼラン海峡」に到達したのは1520年である。1519年ではない。
ここ(P232)でも「発見」を使用している。

『大辞林』
マゼラン-かいきょう【―海峡】
南アメリカ大陸の南端とフエゴ島との間にある海峡。最狭部3キロメートル。太平洋と大西洋とを結ぶ。1520年ヨーロッパ人として最初にマゼランが発見し通過した。強風と複雑な水路のため航行が困難。

P203 1刷「褐色の桂藻」

「桂藻」は誤字。

『大辞林』
けいそう-るい【珪藻類・ケイ藻類】
細胞膜に特殊な構造のケイ酸質の殻を生じ、褐色の色素を有する単細胞の微小な藻類。淡水・鹹水(かんすい)・土壌中に広く分布し、種類が多い。殻の形が筆箱状のものと円盤ないし円筒形のものとに大別される。単独または群体で浮遊するもの(プランクトン)と、集合して着生生活をするものとがあり、前者は魚の餌(えさ)などとして重要。ケイ藻。

14刷「褐色の珪藻」

P204
「古代エジプト時代、砂漠をいいあらわす言葉はデシュレ(赤)から派生したデシュレトである。砂漠を越えた外国もデシュレトとよばれていたから、砂漠の向こうにある海の呼称は「赤い砂漠に囲まれた海」、つまり「紅海」なのである。
 ギリシア人たちはそれをそのまま意訳してエリュトラErythraeiといい、」

P279
「エリトリア State of Eritrea(中略)紅海の語源となったギリシア語のエリュトレムerythraeum「赤い」に地名接尾辞-iaがつき、「赤い土地」。」

古代エジプト時代の言葉が語源だという根拠はなにか。古代エジプト時代の言葉とは何語のつもりか。
砂漠は赤いか? 紅海は砂漠で囲まれているか? 「赤い砂漠で囲まれた海」は赤いか?
「erythraeum」と「Erythraei」で矛盾している。
「Eritrea」の語尾は「-ia」ではないが、「地名接尾辞-iaがつき」と言えるのか。
『大辞林』
こうかい【紅海】
〔Red Sea〕アラビア半島とアフリカ大陸との間にある細長い海。南部はバベルマンデブ海峡を経てインド洋に、北部はスエズ運河を経て地中海に通じる公海。藍藻の繁殖で海水が赤く見えることからいう。

P204
「黒海は、前八世紀頃からギリシア人が植民都市を建設して交易を行っていた。」

推敲を要する。

P204
1刷「Russhoe More」

スペルミス。

14刷「Russkoe More」

P206
「この聖書の記述から、死海はSea of Loto(ロトの海)ともよばれていた。」

「ロト」は「Lot」である。

『EXCEED英和辞典』
Lot
n. 【聖】 ロト ((Abrahamの甥;滅亡するSodomから逃れた)).

P208
「アラブは、アラビア語で「遊牧民」のことだ。一説では、「アラブ」はヘブライ語起源ともいわれるが明らかでない。」

アラビア語もヘブライ語もセム語族なのを知っていてこういうことを書いているのか。

P208
「ナフード沙漠Nefud」

P259
「ナフード沙漠 Nefud アラビア語の nefud「砂」」

「ネフード砂漠Nafud」だろう。

『EXCEED英和辞典』
Nafud
n. (the 〜) ネフード砂漠 ((アラビア半島北部の砂漠)).

P211
「モンMontは「山」を意味するもので、カナダのモントリオールMontrealも、「王の山」(レアルréal「国王の」)などがある。」

推敲が必要である。
「réal」は「royal」の間違い。

P212
「ヒマラヤ山脈の西、カラコルム山脈Karakorumは、」

「北西」とすべき

P212
カラコルム山脈「この山脈にある高峰K2はヒマラヤ第二の高峰で、」

カラコルム山脈はヒマラヤの一部ではない。

P212
「ゴドウィン・オースチン山Godwin-Austin」

「Godwin-Austin」は「Godwin-Austen」の誤記

『EXCEED英和辞典』
Godwin Austen
ゴドウィン・オースチン山
Mount 〜
((K2の別称)).

P213
1刷「また中国では、カラコルム地方に住むウイグル人は、パキスタン、アフガニスタンのようなイスラム化された国に隣接することもあって、イスラム教の信者が多かった。 そのためチベット語でこのカラコルム地方を「クラックロ」とよんでいたのを中国人が「回回」と表記したため、この地方からもたらされたイスラム教が「回教」と表記されるようになったのである。」

中国語では「回回」は「huihui」で、「クラックロ」に「回回」を宛てるとは考えられない。一般的には「ウイグル」に宛てた「回鶻」から、ウイグルの宗教ということで「回教」と言われているはずだが。

14刷「また中国へは、このカラコルム地方を通る交易路を通じて、イスラム教が伝わった。トルコ、イラン、アラブ人などが中国を訪れ、移り住んだ者もあったことが知られている。カラコルム地方のウイグル人もイスラム教の影響を強く受け、信じる者が多かったために、一三世紀の元代には、ウイグル(回)人にちなんで、イスラム教徒は「回回」、イスラム教は「回教」と表記されるようになったのである。」

P215
「大索引」

本文の関連ページが記されていないので「索引」ではない(巻末に本物の「索引」がついている)

P217〜219
「アメリカ合衆国(米国)United States of America 最初の発見者はイタリアの探検家クリストファー・コロンブスだが、彼は生涯、そこをインドと疑わなかった。わずかに遅れて訪れた同じイタリアの探検家アメリゴ・ベスプッチAmerigo Vespucciが、」

P93に「コロンブスの航路」の図があるが、コロンブスは現在のアメリカ合衆国の範囲には足を踏み入れていない。足を踏み入れていないのに「発見」できるわけがない。
「インド」は不適当。(「そこをアジアと疑わなかった」がよい。)

P221
1刷「一八四六年、メキシコ戦争でアメリカが勝利し、」

「アメリカ-メキシコ戦争」ではないのか。

『大辞林』
アメリカ-メキシコせんそう【―戦争】
アメリカ領土の西部拡張により起きたメキシコとの戦争。アメリカのテキサス併合により両国関係が悪化し、1846年開戦。48年の講和で、ニューメキシコ・カリフォルニア・アリゾナなど西部の広範な地域がアメリカ領となる。米墨(べいぼく)戦争。

14刷「一八四六年、アメリカ・メキシコ戦争でアメリカが勝利し、」

「一八四六年」は開戦の年。「アメリカが勝利し」たのは一八四八年。

『大辞林』
アメリカ-メキシコせんそう【―戦争】
アメリカ領土の西部拡張により起きたメキシコとの戦争。アメリカのテキサス併合により両国関係が悪化し、1846年開戦。48年の講和で、ニューメキシコ・カリフォルニア・アリゾナなど西部の広範な地域がアメリカ領となる。米墨(べいぼく)戦争。

P222
「バージニア Virginia バージンvirginに地名接尾辞の-iaがついて、「処女地」。エリザベス一世Elizabethの「the Virgin Queen of England(イギリスの処女王)」、また、彼女の幼名バージニアVirginiaに由来する。」

日本語で「処女地」とは「開拓されていない土地」のことである。「Virgin」+「ia」を「処女地」と訳すのは問題である。

『大辞林』
しょじょ-ち【処女地】
(1)まだ開墾されていない土地。

P224図
1刷「トリニダード・トバコ」

間違い。

14刷「トリニダード・トバゴ」

P225
1刷「一五二四年にスペイン領となるまではマヤ文明が栄えていた。」

この時期にはマヤ文明は存在してはいたが、栄えてはいなかった。

14刷「一五二四年にスペイン領となるまではマヤ文明が続いていた。」

P225
1刷「中央アメリカ」に「グリーンランド」がある。

14刷「北アメリカ」に変更。

P226
1刷「サンホセ San Jose」

14刷「サンホセ San José」

P226
「サンホセ(中略){聖ヨセフ)」

カッコを間違えている。

P226
1刷「ホセ Jose」

14刷「ホセ José」

P227
1刷「航海の守護神「聖クリストファルスの祝日」」

神ではない。
「クリストファルス」は「クリストフォルス」ではないか。

14刷「航海の守護聖人「聖クリストフォルスの祝日」」

P227
「セントクリストファー・ネイビス Saint Christopher and Nevis(中略)ネイビスは発見したときに雲のかかっていた山をイギリスの最高峰ベンネビスに見立ててLas Nieves「雪」とよんだことから。」

「雲のかかっていた山」をなぜ「雪」とよぶのか。
「Nevis」は「ネイビス」でいいのか。「ニービス」または「ネビス」が妥当ではないのか。

P227 「セントビンセント・グレナディーン諸島(中略)聖ビンセンチオはブドウ作りの守護神」
「守護神」ではなく「守護聖人」である。

P227
1刷「ドミニカ共和国 Dominican Republic 首都サントドミニコの名による。」

14刷「ドミニカ共和国 Dominican Republic 首都サントドミンゴの名による。」

P228
1刷「ドミニカ国 Commomwealth of Dominica」

スペルミス。

14刷「ドミニカ国 Commonwealth of Dominica」

P228
「トリニダード・トバゴ共和国 一四九八年、コロンブスが訪れる。トリニダード島とトバゴ島の名からなる。トリニダードは島の南東端にあるトリニティ、スペイン語のトリニダッド「丘陵」に由来する。三つの山の景色に感動したコロンブスが、三位一体を意味するトリニダッドと名づけた。」

「丘陵」、「三位一体」どちらが語源と言いたいのか。

P228
「ニカラグア共和国 Republic of Nicaragua (中略)一八二一年、独立。一九二三年、中央アメリカ連邦に加わるが、一九三八年に再独立。」

「一八二一年」の独立の意味が違う。
「一九三八年」ではなく「一八三八年」である。

『世界史事典』(旺文社)
ニカラグア
「1821年グアテマラ総督領の一部としてスペインから独立。23年中央アメリカ連邦を結成し、38年連邦から分離して単一国家となる。」

P228
「ハイチ共和国(中略)一八〇四年の独立にあたって、現地の言葉が国名になった。中南米最初の独立国。世界ではじめての黒人共和国。」

P229
「ポルトープランス(中略)一八一一年独立後も、この名を使い続けている。」

独立の年が「一八〇四年」と「一八一一年」で矛盾している。
「中南米最初の独立国」とあるが、アステカ、インカは国ではないのか。

『世界史事典』(旺文社)
ハイチ
「1804年独立を宣言し、」

P229
1刷「パナマ共和国 Repabulic of Panama」

スペルミス。

P229
14刷「パナマ共和国 Republic of Panama」

P230
「メヒクトリMexictli」

http://department.monm.edu/span326/Axoltl/levinson.htm
によれば、Mexictliの音写は「メシクトリ」である。

P230
1刷「インカ語で銅鉱山のある山はアンタanta「銅」。」

「インカ語」という言葉が存在するのか。

14刷「インディオの言葉で銅鉱山のある山はアンタanta「銅」。」

P232
「アルゼンチン共和国 Argentine Republic(中略)一八一六年の独立時には、スペイン語で「銀」を意味するラプラタ合衆国だったが、」

「ラプラタ合衆国」とはなにか。
推敲が必要である。

P237
1刷「エルベ川 Elbe「川」。アーリア語でalb「流れ」、」

「アーリア語」でよいのか。

14刷「エルベ川 Elbe「川」。印欧祖語ではalb「流れ」、」

P237
1刷「ライン川 Rhein 「川」。ケルト族の言葉ri「流れ」とn「川、水」からなる。フランス名はラン川Rhin、オランダ名はライン川Rijn、英名はライン川 Rhein。」
14刷「ライン川 Rhein 「川」。ケルト族の言葉ri「流れ」とn「川、水」からなる。フランス名はラン川Rhin、オランダ名はライン川Rijn、英名はライン川 Rhine。」

ほとんどの項目のアルファベットは英語だが、なぜ「ライン川」はドイツ語なのか。本として統一すべきだろう。

P237
1刷「アイスランド共和国 Republic of Iceland 自称はイースランドIsland。」

14刷「アイスランド共和国 Republic of Iceland 自称はイースランドÍsland。」

P238


アゾフ海が海の色に塗られていない。
モルドバの国境が間違っている。

P239
「オーストリア共和国(中略)一二八二年以降、神聖ローマ帝国の帝位を独占したハプスブルク家の中心地として繁栄した。」

「一二八二年以降」ではなく「一四三八年以降」である。

『大辞林』
ハプスブルクけ【―家】
〔Habsburg〕オーストリアなど中部ヨーロッパを中心に勢力をもった名門王家。1273年ルドルフ一世が同家より初めて神聖ローマ皇帝に即位。1438年から帝位をほぼ独占、カール五世がスペイン王を兼ねた一六世紀前半に最盛期となる。1556年スペイン系とオーストリア系に分裂し、スペイン系は1700年断絶。オーストリア系はマリア=テレジアの時にハプスブルク-ロートリンゲン家と改称、1806年神聖ローマ帝国皇帝を退位しオーストリア皇帝を称したが、1918年カール一世が退位して帝位を失った。

P240
「オランダ王国(中略)一八一〇年、王国となるが、」

「一八〇六年」の誤り。

『世界史事典』(旺文社)
オランダ王国
「1.ナポレオン1世がオランダ占領後に建てた王国 彼の弟ルイが国王(在位1806〜15)となった。ナポレオン3世はこの国王ルイの子。」

P240
1刷「ギリシア共和国 Hellenic Republic(Greece) 自称はエラスEllas。ギリシア民族の祖とされる女神ヘレンの名に由来する。」

ヘレンは女神ではない。

14刷「ギリシア共和国 Hellenic Republic(Greece) 自称はエラスEllas。ギリシア民族の祖とされるヘレンの名に由来する。」

P240
1刷「アングルAnglo」

スペルミス。

14刷「アングロAnglo」

P240
1刷「略字のUKはUnited Kingdom「王国」のことで、」

「王国」は「連合王国」。

14刷「略字のUKはUnited Kingdom「連合王国」のことで、」

P241
「サンマリノ共和国(中略)一二六三年、世界で最初に共和制を布いた国である。」

例えばローマは帝政になる前は、共和政ではなかったか。

P241
1刷「ジブラルタルGibraltar 七一一年、この地を占領したイスラム教徒ターリク・イブン・ザイドにちなんで名づけられたターリク山(ジェベル・アル・ターリク)が転訛した。アラビア語でジェベルdjebelは「山」という意味なので、「ターリクの山」となる。一五〇一年、スペイン領になり、一七一三年、イギリスの植民地。」

「ジャバル」とすべき

14刷「ジブラルタルGibraltar 七一一年、この地を占領したイスラム教徒タリク・イブン・ザイドにちなんで名づけられたターリク山(ジァベル・アル・タリク)が転訛した。アラビア語でジァバルjabalは「山」という意味なので、「タリクの山」となる。一五〇一年、スペイン領になり、一七一三年、イギリスの植民地。」

P242
「その動物はドイツ語でベールbar「熊」。」

ドイツ語で熊は「Bär」である。

P243
「デンマーク王国(中略)第二次世界大戦では中立を維持したが、ナチス・ドイツに占領される。」

占領されたのに、中立を維持したというのか。

P244
1刷「ドイツ連邦共和国(中略)フランス語ではアルマーニュAllemague。」

スペルミス。

14刷「ドイツ連邦共和国(中略)フランス語ではアルマーニュAllemagne。」

P244
1刷「一九一八年、ワイマール共和国となるが、第一次世界大戦で敗北。」

第一次世界大戦後、ワイマール共和国が成立したはずだが。

14刷「一九一八年、第一次世界大戦で敗北し、ワイマール共和国となる。」

ワイマール共和国の成立は一九一九年。

『大辞林』
ワイマール-きょうわこく【―共和国】
ドイツ革命に伴い成立したドイツ共和国(1919-1933)の通称。社会民主党・中央党・民主党が連立内閣を結成、ワイマール憲法を制定。政局は常に不安定で保守勢力が根強く残り、世界恐慌の直撃をうけ、ナチスの政権獲得で消滅した。

P244
「ノルウェー王国(中略)一九〇五年、独立。」

P244
「[首都]オスロ(中略)一九二五年、スウェーデンとの連合を解消し、オスロの名が復活した。」

ノルウェーの独立は一九〇五年であり、その首都オスロが「一九二五年、スウェーデンとの連合を解消し、オスロの名が復活した。」というのは、不適切な表現である。

http://www.britannica.co.jp/search/item?m=0+1+7&rgid=017013005210
オスロ
ノルウェーの首都。旧称クリスチャニア Christiania (1624〜1877) ,Kristiania (77〜1924) 。

P245
1刷「ハンガリー Republic of Hungary 自称はマジャールMagyar。モンゴル人をさすペルシア語のムガール「強い人」が転訛したといわれる。」

根拠はなにか。

14刷「ハンガリー Republic of Hungary 自称はマジャーロルサーグ。一説では、モンゴル人の別称のムガール「強い人」が転訛したといわれる。」

「一説では」とは便利な言葉である。間違いでもなんでも説さえ存在すればいいわけだから。

P245
1刷「ハンガリー共和国(中略)一九八九年、共和制へ移行。」

「複数政党制」の誤記か

『データブック オブ ザ ワールド 2001年版』二宮書店
ハンガリー
「1989年10月社会主義労働者党(共産党)は一党支配を放棄しハンガリー社会党と改称。」

14刷「ハンガリー共和国(中略)一九八九年、共産党独裁が終了。」

P245
「フィンランド共和国 Republic of Finland 自称はフィンランド語でスオミSuomi「沼沢地」。フィンランドは英語訳。fen「湖沼」とlandで「湖沼の国」を意味する。」

「フィンランド」が英語訳だという根拠は何か。

牧英夫編著「世界地名ルーツ辞典」(創拓社)
「フィン人なる人種名は、2世紀のギリシアの地理学者プトレマイオスの地理書にも記されている古いものである。しかし、その語源は知られていない。」

P245
「フランス共和国(中略)ローマ帝国滅亡後は、」

「ローマ帝国」ではなく「西ローマ帝国」である。

P246
「一七八九年、フランス革命で共和制を樹立」

共和制は1792年から。

『大辞林』
フランス-かくめい 【―革命】
「1789〜99年にフランスで、ブルボン王朝の圧制下にあった市民が、啓蒙思想の影響、アメリカ合衆国の独立に刺激されて起こしたブルジョア革命。バスティーユ襲撃に始まり、人権宣言の公布、立憲君主制の成立を経て、92年に第一共和制を樹立し、翌年ルイ一六世を処刑。ジャコバン派による恐怖政治、テルミドール反動後の総裁政府の時代を経て、ナポレオンの政権掌握により終結。」

P246
「パリ(中略)六世紀に建国されたフランク王国の時代から、」

フランク王国の建国は五世紀である。

『大辞林』
メロビングちょう【―朝】
〔(ドイツ) Merowinger〕フランク王国前期の王朝。フランクの一派サリ族の長メロビスに王国名の由来をとり、孫のクロービスが481年創始。七世紀頃から宮宰が実権を握り、751年カロリング朝にとってかわられた。

P246
「ブルガリア共和国 Republic of Bulgaria(中略)「大河」を意味するボルガに地名接尾辞-iaがつけられた。」

P251
「ボルガ川 Volga 「湿地の川」。スラブ語のブラガvlaga「湿った」に由来する。またはフィンランド語のバルゲvalge「白く輝く」との説もある。」

「ボルガ」の語源が矛盾している。
「Volga」に「-ia」をつけても「Bulgaria」にはならない。

P246
1刷「ベルギー王国(中略)英語ではベルギウム。」

英和辞典で発音記号をよく見ろ。

14刷「ベルギー王国(中略)英語ではベルジャム。」

P247
「ボスニア・ヘルツェゴビナ(中略)一九四五年、旧ユーゴスラビアの一共和国となるが、」

すでにユーゴスラヴィア王国の一部だった

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
ボスニア・ヘルツェゴビナ
「'18ユーゴスラビアの一部となり、'46共和国を形成。」

P248
「カステラ、ボタン、タバコ、コップ、パン、テンプラなどはポルトガル語に由来する。」

「コップ」はオランダ語に由来する。

『大辞林』
コップ [(オランダ) kop]
水・ビール・ジュースなどを飲むのに用いる、円筒形のガラス製の容器。

P248
「マルタ共和国(中略)ローマ帝国、イスラム帝国、オスマン・トルコ帝国の支配下に置かれる。一五三〇年には十字軍のヨハネ騎士団(のちのマルタ騎士団)が領有。」

P248
「バレッタ Valletta オスマン・トルコの支配を脱した、一五六五年、対トルコ戦のための城塞を建設した騎士団長バレットValletの名にちなんで名づけられた。」

オスマン帝国がマルタを領有していたことがあるのか。
「バレットVallet」でいいのか。塩野七生『ロードス島攻防記』(新潮社)では「ジャン・ド・ラ・ヴァレッテ・パリゾン」だが。

『世界史事典』(旺文社)
マルタ
「地中海制海権の推移とともにフェニキア・ギリシア・カルタゴ・ローマに支配され、さらに東ローマ(ビザンツ)帝国(395)・イスラーム帝国(870)・シチリア(1090)・ナポリ(1193)に属した。1530年ヨハネ騎士団がこの地に定着。」

P251
「ウラル山脈 Ural トルコ語族(タタール語)では、ウラル「帯」。ちなみにウラル語族コミ人はイズiz「石」とよんでいたが、」

トルコ語族などという語族はない。
「ウラル語族コミ人は」という記述は不適当である。

P255
1刷「ウズベキスタン共和国(中略)ロシア革命後、一九二四年に共和国となり、一九二二年、ソ連の結成に参加した。」

時系列が逆。

14刷「ウズベキスタン共和国(中略)ロシア革命後、一九二四年ソ連の結成に参加した。」

P256
1刷「ビシュケク(中略)一九二六年、ロシア革命後には、フルンゼFrunzeとよばれていたが、これは革命後の国内戦争で中央アジアを開放した、この地出身の軍人の名前。」

推敲の要あり。
「開放」は「解放」の間違い。

14刷「ビシュケク(中略)一九二六年、ロシア革命後には、フルンゼFrunzeとよばれていたが、これは革命後の国内戦争で中央アジアを解放した、この地出身の軍人の名前。」

推敲の要あり。

P256
「タジキスタン共和国(中略)ロシア革命後、一九三六年に共和国となり、ソ連の結成に参加した。」

「一九三六年」は「一九二九年」の間違い。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
タジキスタン
「'29年共和国となる。」

P257
「ベラルーシ共和国 Republic of Belarus ベラルーシ人の名による。」

「ベラルーシ人の名による」とはどういう意味か。意味不明。

P258
「天山(テンシャン)山脈 Tianshang」

「天」は「tian」なので「ティエン」である。
「山」は「shang」ではなく「shan」である。

P258
「ユイ山 Yushang」

「山」は「shang」ではなく「shan」である。

P259
「アナトリア高原 Anatoria」

「Anatoria」は「Anatolia」の間違い。

『大辞林』
アナトリア [Anatolia]
小アジアの別名。

P260
下図

「イエメン」の国境が間違っている。(北イエメンの国境か。)

P261
1刷「長江Changkong」

「Changkong」のスペルが疑問。

14刷「長江Chang Jiang」

「長江Changjiang」だろう。

P261
「黄河Huangke」

「河」は「ke」でなく「he」である。

P262
「サナアSan'a 標高二三六〇メートルの高地にある。意味はエチオピア語で「砦に守られた(場所)」。言い伝えでは『旧約聖書』のノアの息子セムが建設したとされているが、実際には、六世紀、アラブの侵攻に備えてキリスト教徒が建設した。以後、ペルシア、イスラム、オスマン・トルコの支配におかれる。」

標高は「二三六〇メートル」でいいのか。
六世紀はイスラーム成立前だが、「アラブの侵攻に備えてキリスト教徒が建設した」とはどういう意味か。
ペルシアは支配していない。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
サナー(サヌア)
「標高2200m」
「古代のヒムヤル王国の中心地。」

ヒムヤル王国
「古代南アラビアのヒムヤル族がイエメンに建てた国 元来サバー王国に従っていたが、前115年ごろ支配権を握り、ザファールを王都とした。その後南西アラビアを統一し、インド洋と紅海の貿易を独占して乳香・丁子・胡椒などを扱った。3世紀に全盛となり、4世紀にエチオピアの侵略を受けたが、のちに主権を回復。このころ、キリスト教とユダヤ教が伝わって宗教紛争が起こり、最後の王であるズー=ヌワースはユダヤ教に改宗してキリスト教徒を迫害したため、再びエチオピアの侵略を受けて525年ごろに断絶した。」

P263
1刷「インドネシア共和国 Republic of Indoneshia」

スペルミス。

14刷「インドネシア共和国 Republic of Indonesia」

P265
1刷「大韓民国 Republic of Korea 古代朝鮮に存在した馬韓、辰韓、弁韓の「三韓」に由来する。(中略)六七六年、新羅が統一王朝をおこし、一三九二年、李氏という朝鮮となる。」
14刷「大韓民国 Republic of Korea 古代朝鮮に存在した馬韓、辰韓、弁韓の「三韓」に由来する。(中略)六七六年、新羅が統一王朝をおこし、一三九二年、李氏朝鮮となる。」

「大韓民国」が「カタール」と「カンボジア」の間にある。
「大韓帝国」という国号に由来する、としたほうがいいのではないか。
「六七六年、新羅が統一王朝をおこし」とあるが、高句麗が滅んだのは668年である。
「李氏という朝鮮となる。」は日本語のつもりか。

『世界史事典』(旺文社)
大韓帝国
「1897年に改称された朝鮮の国号」

『大辞林』 こうくり【高句麗・高勾麗】 古代朝鮮の一国。中国東北部にいた扶余(ふよ)族の一支族が建国(?-668)。313年、楽浪郡を滅ぼし朝鮮北部を領有、427年平壌に遷都。広開土王(好太王)以下三代(四世紀末から六世紀)が最盛期。唐・新羅の連合軍に滅ぼされた。高麗(こま)。 P265
「朝鮮民主主義人民共和国(中略)一九四八年、ソ連、中国の支援で金日成が独立を宣言。」

「朝鮮民主主義人民共和国」が「カンボジア」と「キプロス共和国」の間にある。
1948年にはまだ中華人民共和国は成立していない。

P268
1刷「スリ・ジャナワルダナプラ・コッテ」

間違い。

14刷「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」

P268
「東ティモール」

「東ティモール」が「タイ王国」と「台湾」の間にある。

P269
「中華人民共和国 People's Republic of China チュンホアレンミングンホワグオと発音する。」

「共」のピンインは「gong」である。

P269
1刷「秦の音読みChinに、」

「音読み」は不適当。「Chin」のスペルも確認要。

14刷「秦の発音Chinに、」

「秦」のピンインは「qin」である。

P269
1刷「北京(中略)清代には京都となったが、」

「北京」を「京都」といったことはない。

14刷「北京(中略)一九二八年、国民政府時代には北平となったが、」

P269
「トルコ共和国(中略)トルコはチュルクが英語で転訛したもので、英語のターキー(シチメンチョウ)の語源ともなった。」
「チュルク」という発音が英語で「トルコ」になったというのか。英語では「トルコ」ではなく「ターキーTurkey」である。

『大辞林』
「トルコ [(ポルトガル) Turco]」

P269
1刷「日の元の国」

一般的には「本」。

14刷「日の本の国」

P270
「アルファベット表記のジャパンJapanは、「日の出の国」を福建語でジペンクオJih-pen-kuoとよび、唐代にはクオ「国」を省略してジーペンといったため。」

「アルファベット表記のジャパンJapan」ではなく、「英語のジャパンJapan」だろう。
唐代の根拠資料、それ以前の福建語の根拠資料は何か。

P271
「マナーマ Manama アラビア語で「休職所」。」

「休職所」とはなにか。

P271
1刷「バングラデシュ人民共和国 People's Republic of Bankladesh」

スペルミス。

14刷「バングラデシュ人民共和国 People's Republic of Bangladesh」

P271
「フィリピン共和国(中略)一八九八年、独立するが、アメリカ、日本が領有。」

日本は「占領」とすべきである。

P272
1刷「バンダルスリブガワン Bandar Seri Bagawam」

14刷「バンダルスリブガワン Bandar Seri Begawan」

P272
1刷「ブガワン Bagawam(ブガワン陛下)」

14刷「ブガワン Begawan(ブガワン陛下)」

P272
「ハノイ Hanoi 中国語で「河内」と書くように、」

「中国語」ではなく、「漢字」だろう。

P272
「マカオ特別行政区(中略)ポルトガル領のときの国名で、」

「国名」ではないだろう。

P272
「マカオ特別行政区(中略)航海の守護聖女といわれた阿媽(あま)を祀る阿媽閣廟があったことから、阿媽港(アマガオ)とよばれていた。」

「守護聖女」は不適当である。
「アマガオ」は何語の発音か。

P273
「ミャンマー連邦(中略)一七三五年、アラウンバヤ朝が成立。」

「一七三五年」は「一七五二年」の間違い。

『大辞林』
アラウンパヤーちょう【―朝】
アラウンパヤー(Alaungpaya 1714-1760)が開いたビルマ最後の王朝(1752-1885)。タイのアユタヤ朝を攻め占領。三次にわたる英緬(えいめん)戦争に敗れ滅亡、英領インドに併合された。コンバウン朝。

P274
1刷「ラオス人民民主共和国(中略)一九九五三年、独立。」

14刷「ラオス人民民主共和国(中略)一九五三年、独立。」

P275
「エチオピア高原(中略)別称アビシニアは「混血の地」。」

P279
「エチオピア連邦民主共和国(中略)前十世紀には王国がおこり、一九四一年まで国名はアビシニアだった。この名は、アラビア語のhabash「黒い」に地名接尾辞の-iaがつけられ、ポルトガル語化したもの。」

「混血の地」と「黒い」で矛盾している。

P277
地図

「ウルミエ湖」とはなにか。

P281
「ギニアビサウ共和国(中略)……獲得した。中世……」

「。」ではなく「、」である。

P281-2
1刷「コンゴ共和国(中略)一九六〇年に独立、コンゴからザイールに。」

コンゴ民主共和国(旧ザイール)と混同

14刷「コンゴ共和国(中略)一九六〇年に独立。」

P284
「セントヘレナ島(中略)ポルトガル人J・ノバ=カステリャが発見した日が、ローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナの誕生日だったため。」

「だったため」どうだというのだ。

P289
「マリ共和国 Republic of Mali 十一〜十六世紀にさかえた黒人によるマリ帝国の名にちなんだもの。」

「十一〜十六世紀」ではないだろう。
「帝国」ではないだろう。

『世界史事典』(旺文社)
マリ王国
「1240〜1473 西スーダン(サハラ地方)の大部分を支配したイスラーム王国」

P291
1刷「リベリア共和国(中略)一九四七年、最古の黒人国家として独立。」

「一九四七年」は「一八四七年」の間違い。
例えば「ガーナ」とか「ハイチ」をどのように考えているのか。

『世界史事典』(旺文社)
ガーナ王国
「8世紀以前〜1076年、サハラ砂漠西部の南縁にあった黒人国家。」

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
リベリア
「1847独立を宣言し、ハイチに次ぎ、世界で2番目の黒人独立国家となる。」

14刷「リベリア共和国(中略)一八四七年、黒人国家として独立。」

P292
「レユニオン(中略)のち、バナパルト島、ブルボン島、などと名前が変わり、一八四八年、現在の名前になった。」

「バナパルト島」ではなく「ボナパルト島」だろう。

『コンサイス外国地名事典』(三省堂)
レユニオン
「レユニオン島(旧称ブルボンBourbon島・ボナパルトBonaparte島)」

P292
「クック山脈Cook「クック船長」。クックの死後、五二年たってから、(一八五一年)、彼を讃えてつけられた。」

「クック山脈」ではなく「クック山」である。(P101では「クック山」になっている。)
クックの死後五二年は、一八五一年ではない。

『大辞林』
クック[Cook]
(1)〔James C.〕(1728-1779) イギリスの軍人・探検家。1768年から三回太平洋方面の大航海を行い、未知の海域・島を明らかにした。また、オーストラリアの領有宣言を行うなど、その後のイギリスの太平洋方面進出の基を築いた。キャプテン-クック。

P293
1刷「北マリアナ諸島(中略)国名は、」

「北マリアナ諸島」は国名ではない。

14刷「北マリアナ諸島(中略)地名は、」

P293
1刷「アピア Apia アピアン環礁Apaiang Atollの名に由来。環礁atollはモルジブ語。」

「モルジブ」とは方向違いだが。

14刷「アピア Apia マレー・ポリネシア語の「村」という意味の言葉に由来するとの説があるが不明。」

P303
1刷「新彊ウィグル自治区」

「新彊ウイグル自治区」だろう。

14刷「新彊ウイグル自治区」

(2003・9・28)


(注)
間違いだらけの「地名の世界地図」」も参考のこと。


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