網走地名行



佐藤和美


 地名の由来が忘れられると、伝説がうまれるという。「網走」という地名の由来もそうである、チパシリ伝説と呼ばれているのがそれである。昔、白い大きな鳥が“チパシリ、チパシリ”と鳴いて飛んだとか、帽子岩の上で神様が“チパシリ、チパシリ”といって踊った等の伝説がある。
 明治24年に刊行された永田方正著『北海道蝦夷語地名解』では次のように書かれている。
 Chipashiri 我等ガ見付タル岩
昔シアバシリ沼ノ岸ニ白キ立岩アリ笠ヲ豪ブリテ立チタル「アイヌ」ノ如シ「アイヌ」等之ヲ発見シテ「チバシリ」ト名ケテ神崇シ木幣ヲ立ツ後チ「アバシリ」ト改称スト云フ比ノ白石崩壊シテ今ハ無シ名義国郡ノ部ニ詳ニス参照スベシ或云フ比ノ岩神自ラ「チパシリ」「チパシリ」ト歌ヒテ舞ヒタリ故ニ地ニ名クト或ハ云フ一鳥アリ「チパシリ」「チパシリ」ト鳴キテ飛ブヲ以テ地ニ名クト「アイヌ」口碑相伝フル処大同小異アリ
「アバシリ」は語源的には「アパシリ」A-pa-sir(われらが見つけた土地)とか「アパシリ」Apa-sir(入口の土地)などといわれる。しかしこれらの伝説や語源説はすべてまちがいで、「チパシリ」Cipa-sir(幣場(ぬさば)のある島)が正しい語源である。「チパシリ」Cipa-sirとは網走川の川口に近い海の中にあったもので、現在では帽子岩と呼ばれて、網走港の防波堤の一部になっている。「チパ」Cipaは「イナウサン」Inaw-san(幣場)の古語であるため、その意味が忘れられた。そのため「チパシリ」Ci-pa-sir(幣場のある島)は異分析されて、「チパシリ」Ci-pa-sir(われらが見つけた土地)と解されるようになった。さらに「チ」Ci(われら)は同じような意味である「ア」A(われら)にかえられて、「アパシリ」A-pa-sir(われらが見つけた土地)となったのである。

mapion  網走市内にある天都山からは網走周辺の風景が一望できる。オホーツク海、網走湖、藻琴山、知床半島の山なみ等々が見える。以下、天都山の展望台にいるつもりで網走周辺の地名を考えてみたい。なお天都山とは「天の都のような山」という意味の日本語である。展望が良いため、そのように名づけられたのである。

 天都山からはいろいろな風景が見えるが、まずは目の前に広がるオホーツク海について書くことにする。「オホーツク」というのはアイヌ語ではない。「オホーツク」Okhotskはツングース語の「オカタ」Okata(川)を語源としている。この「オカタ」Okataが「オホタ」Okhotaに変化し、それにロシア語の地名接尾辞「スク」sk(町)がついて、「オホーツク」Okhotskとなったのである。オホーツクは元来は町の名だったが、海の名に転用されて、その海の名の方が有名になってしまった。「アバシリ」を日本語化したアイヌ語というなら、「オホーツク」はロシア語化したツングース語といえるだろう。

 オホ−ツク海沿岸は砂がたまりやすく、海跡湖が多い。網走周辺にあるサロマ湖、能取湖、藻琴湖、涛沸湖等すべて海跡湖である。砂のたまりやすいオホーツク海沿岸だが、その中にも例外はあって、能取岬はきりたった崖である。「ノトロ」Not-oroは「岬の所」という意味。ここも展望のよい所である。
 アイヌは自分達の生活圏にだぶらないように地名をつけている。「トー」to(湖・沼)が生活圏内に一つしかないような場合にはただ単に「トー」toと呼び、二つあるような場合には「ポロト」Poro-to(親である湖)「ポント」Pon-to(子である湖)と呼んだり、「ペンケト」Penke-to(上の湖)「パンケト」Panke-to(下の湖)と呼んだりした。網走周辺のサロマ湖、能取湖、網走湖、涛沸湖はそれぞれ単に「トー」toと呼ばれていた。このことはそれぞれの湖周辺は生活圏を同じくしていなかったということでもある。
 アイヌ語で山を意味する単語に「ヌプリ」Nupuriと「キム」Kimがある。遠くからその姿だけを見ているような山を「ヌプリ]Nupuri、裏山のように実際の生活にかかわっている山を「キム」Kimという。つまり生活圏外の山が「ヌプリ」Nupuri、生活圏内の山が「キム」Kimなのである。海にもこのような区別があり、生活圏外の海を「アトゥイ」Atuy、生活圏内の海を「レプ」Repという。「レプ」Repは普通は「沖」と訳されている。礼文島の語源の「レプンシリ」Rep-un-sirを「沖にある島」という具合にである。

 常呂川の東側で少し海に出ている所があるが、ここは「ポンノツ」Pon-not(子である岬)と呼ばれていた。この地名は能取岬と組になっている地名で、能取湖岬は「オンネノツ」Onne-not(親である岬)とも呼ばれていたのである。この二つの地名からこの二つの「ノツ」notが一つの生活圏にあったということがわかるのである。
 なお常呂川の語源は「トコロペツ」To-kor-pet(湖を持つ川)で、常呂川は古くはサロマ湖に流れこんでいたという。サロマ湖の語源は「サロマペツ」Sar-oma-pet(葦原にある川)である。この湖は単に「トー」toと呼ばれていたために、湖に流れこんでいる佐呂間別川の名が和人により転用されたのである。

 アイヌ語で岬を意味する言葉には、「ノツ」notとか「エトゥ」etuなどがあるが、これはアニミズムによる考えからきている。「オンネ」onne(親である)と「ポン」pon(子である)と同じで、「ノツ」notと「エトゥ」etuもアニミズムによる地名なのである。「ノツ」not「エトゥ」etuは「岬」という意味で使われているが、実は「ノツ」notは「あご」、「エトゥ」etuは「鼻」というのが、元来の意味である。つまり大地は生きていると考え、その月出ている所が、「ノツ」not(あご)であり「エトゥ」etu(鼻)なのである。

 アイヌ語地名の語尾によくでてくる単語に、「ペ」pe「プ」p「イ」iがある。これらはすべて「者」という意味で、これもアニミズムによる。実際は川の名であることが多い。 以下例をあげる。
 オコタンペ 「オコタンペ」  O-kotan-pe
       (川尻に部落のある者)
 帯広    「オペレペレケプ」O-perperke-p 
       (川尻がいく条にも分かれている者)
 松前    「マトマイ」   Mat-oma-i
       (女のいる者)
「オ」oは普通「川尻」と訳されるが、これもアニミズムによるもので、実は「陰部」というのが元来の意味である。なお興部の語源は「オウコッペ」O-u-kot-pe(陰部がたがいにくっついている者)である。つまり「性交している者」という意味なのである。二つの川の川尻が合流しているために、名づけられたのであった。

 オホーツク海沿岸には内陸部と違う別の土器文化があった。それがオホーツク式土器と呼ばれているもので、それを作った人々をオホーツク式土器人と呼んでいる。網走市内にあるモヨロ(最寄)貝塚はオホーツク式土器の遺跡である。「モヨロ」の語源は「モヨロ」Moy-oro(入江の所)。天都山からはモヨロ貝塚の木のしげっているのが見える。それは網走港の近く、“入江の所”である。

天都山からは能取湖も網走湖もよく見える。網走湖につきでている呼人(よびと)半島もよく見える。呼人の語源は「ヨピト」Yopito<I-opi-to(それを捨て去った沼)で、元来は呼人半島によって網走湖と別れている沼を呼んだものである。天都山からは見えないが、その先には女満別がある。女満別の語源は「メマンペツ」Mem-an-pet(泉池のある川)である。

 天都山からは知床半島の山なみもよく見える。斜里岳、海別(うなべつ)岳、羅臼岳 ……。そして網走と斜里の間を砂浜特有のカーブがつないでいる。オホーツク海沿岸は海跡湖が多いと何度かふれたが、網走・斜里間にある海跡湖の藻琴湖と涛沸湖も見える。藻琴湖の語源は「モコト」Mokoto<Mokot-to<Mokor-to(眠っている湖)。涛沸湖の語源は「トープツ」To-put(湖の口)で、元来は湖の水が海に流れだす所をいったものだが、湖はただ「トー」toと呼ばれていたために、和人が湖の名に転用したのである。なおこの「プツ」put(口)というのも、アニミズムによる。

 オホ−ツク海と濤沸湖によってはさまれているあたりが、北海道の原生花園で最も有名な小清水原生花園である。小清水の語源だが、これはアイヌ語を誤訳したものなのである。「小清水」は「ポンヤンペツ」Pon-yan-petを「ポン」pon(小さい)「ヤム」yam(冷たい)「ペツ」pet(川)と解して訳したものなのだが、アイヌ語では「ヤムワッカ」Yam-wakka(冷たい水)とはいうが、「ヤムペツ」Yam-petとはいわない。稚内の語源も「ヤムワッカナイ」Yam-wakka-nay(冷たい水の川)である。つまり「小清水」は誤訳でついた地名なのである。止別は古くはヤワンペツといった。この語源は「ヤワアンペツ」Ya-wa-an-pet(内地の方にある川)で、斜里よりも手前にある川なので、このように名づけたという。「ポンヤンペツ」Pon-yanpetは止別の支流という意味で、すなわちPon-ya-wa-an-pet(子である止別川)である。

 北海道には他にも誤訳でついた地名がある。有名な地名では旭川がそうである。旭川市内を流れている忠別川が、旭川の地名の元になったのだが、忠別の語源は「チウペツ」Ciw-pet(波の川)で、これを「チュプペツ」Cup-pet(日の川)とまちがえて、旭川としたのである。旭川と命名したのは永田方正だったようだ。
 尾岱沼(おだいとう)も誤訳である。尾岱沼の語源は「オタエトゥ」Ota-etu(砂の岬)なのだが、語尾の「トゥ」tuを「ト−」to(湖・沼)とまちがえて、「沼」の字を当てて「とう」と読んでいる。「砂の岬」がいつのまにか野付湾(尾岱沼)のことになってしまったのである。

(1986・1・11)




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