ディックの作品と映画『ブレードランナー』
              池田 博明 
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 1982年7月19日発行 学級通信Spinning Wheel 151¢18号より
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             ディックの世界       池田博明

 フィリップ・K・ディックが亡くなった。1982年3月2日、53歳だった。
 昨年、『人間喜劇』のサローヤンが亡くなり、今年、ディックが亡くなる。愛読している作家が亡くなっていく。

 フィリップ・K・ディック、翻訳が出るたびに期待して読み、いつもその期待を裏切らない作家だった。
 最初に読んだのは、友人に薦められた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』。次に大学の図書館で早川書房の世界SF全集の『宇宙の眼』を読んだ。面白かった。

 芥川龍之介に『薮の中』という小説がある。夫婦づれを野盗が襲う。夫は死に、野盗は捕らえられる。裁きの場で、女、野盗、夫の霊がそれぞれ三者三様の自分に都合のいい主張をして、真実がどこにあるのかが分からなくなってしまうという話である。

 この短編を原作として黒澤明監督が『羅生門』という映画を作った。大変すぐれた映画で、ベネチア映画祭のグランプリも受賞した(この映画で木こりを演じた志村喬も今年鬼籍に入られた)。

 客観的な真実というものは存在しないのではないか。
 真実は相対的なものである。ある事件を十人の人が目撃したとすれば、その人たちの語る真実は十人十色になるだろう。どれかひとつを選び出すことは、誰にもできないことなのではないか。
 そこで、歴史を再現しようとする時に、ひとつの事件をAさんの解釈、Bさんの解釈といった具合に、いろんな解釈を取捨選択せずに並列することで、現実の多面性を表現しようとする方法が現れる。こういった方法をRASHO―MON的方法とよぶそうである。下層の都市生活者をオスカー・ルイスはこの方法で描き、『ラ・ビーダ』(みすず書房)を発表した。
 あれか、これかではなく、あれも、これもという姿勢である。
 すべてが真実なのだ。

 話を個人に移してみよう。

 私達は、時々夢を見る。夢というのは脈絡を欠いた奇妙な世界である。論理的でない。飛躍がある。目覚めた時に私達は感ずる。妙な夢だったな、と。
 夢の方が真実だったなどとは、普通は考えない。しかし、である。私たちの心の内には普段から、自分でもそれとは気がつかない「無意識」の世界がある。意識で捉えることの出来る世界はほんの少しで、私達の行動を支配しているのは、広大な「無意識」の世界なのである。この「無意識」の世界は、「夢」や「言い間違い」を通して探ることが出来る。精神分析学はそこから始まった。 

 私達の精神の内には、現実のいろんなものが入っている。知らずに入っているそれらのために、私達の考えは影響を受けている。自分が持っていると思っている正しい考えも、実は個人的偏見に過ぎないのかもしれない。

 ディックの『宇宙の眼』は、個人的偏見がいかに世界像を歪めるかを描き出している。『死の迷宮』も同様である。ディックの世界では、個人の意識が他者の意識に干渉する。意識同士が凄絶な戦いをする。『宇宙の眼』『死の迷宮』はもとより、『ユービック』『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』『火星のタイム・スリップ』も、そうである。

 ディックの描く近未来には現実味はない。つまり経済的基盤や科学的妥当性などは考慮されていない。彼の好む道具立ては、SFがスペース・オペラ(宇宙冒険活劇)と侮られていた時代のものである。宇宙船、ロケット、アンドロイド、オートメーション等、マンガの様にゴタゴタしている。

 しかし、それでも一向にかまわないのである。やがて、それらは渾然一体として、現実と幻想の、意識と無意識の垣根を超えたグロテスクなイメージを結ぶのである。

 私達の精神、いや内宇宙は広大無辺である。
 
 ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は映画化されて、『ブレードランナー』として、現在公開中である。
監督は『エイリアン』のリドリー・スコット。主演は『スター・ウオーズ』『レイダース』のハリソン・フォード。映画は上出来である。『スター・ウオーズ』級の特殊撮影・設定。『レイダース』級の活劇。そして、ディックの世界が持っている俗っぽさや無秩序が、映画的なイメージの豊かさとなって表現されている。

 ふり続く雨、片時も離せないカサや合羽、巨大な広告(なんと“コカ・コーラ”や“ワカモト”!)。

 安っぽい探偵事務所のような警察署。
 巨大なピラミッドのようなタイレル社のビル。
 捨てられ、廃虚となったアパート。玩具の人形。
 25歳の老化病の青年。
 チャイナ・タウン。屋台。スネーク・ダンス。

 映画のチラシには「すぐまじかのリアリスティックな未来」とあるが、「リアリスティック」とは、とても思えない。しかし、ディック・ワールドとしての豊かさを持ちえている。昨年『アルタード・ステーツ』を見たとき、ケン・ラッセル監督こそ、ディックの映画化にふさわしいと思った。したがって、『ブレード・ランナー』を見る前には不安があったのである。だが、見て、これはこれでいいと思えた。ディックの世界にある象徴性や不確実さは薄れてしまい、わかりやすくなりすぎてしまっている。

 しかし、わかりやすさはこの映画では失敗となっていない。原作とはかなり異なっているが、テーマはよく出ている。
 原作の冒頭を紹介しよう。
 「ベッドわきの情調(ムード)オルガンから、自動目覚ましが送ってよこした小さな快い電流サージで、リック・デッカードは目をさました。びくっとして起きなおりー急に目がさめると、いつもびくっとなるー七色のパジャマ姿でベッドから出て、大きく伸びをした」

 機械の設定と人間描写。冷たい機械と暖かい人間。その交錯に興味があれば、面白く読めるだろう。願わくばディックの傑作『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』をケン・ラッセル監督の映画で見たい。

 読みかけの『暗闇のスキャナー』『ヴァリス』『聖なる侵入』(当時はサンリオSF文庫)を早速読むことにしよう。

【追記.2000年5月】 映画『ブレードランナー』の公開当時の印象批評を再掲した。クラスの高校生に宛てた学級通信の一節である。 この年に私が最も評価した映画はジョン・ランディス監督のアメリカ映画『狼男アメリカン』とこの『ブレードランナー』であるが、 学級通信以外では仲間うちのベスト・テンでしか主張していない。どちらの作品も映画雑誌ではベスト・テンの圏外作品であった。【写真は狼男アメリカン】

狼男アメリカン
 公開当時の私の印象はその後も変化していない。ただ,もっと「キッチュ感覚」(「キッチュ」とは,まがいもの,ニセモノのこと)を高く評価すべきだったと反省している。
 公開当初、アメリカでも日本でもほとんど評価されなかった『ブレードランナー』はやがてカルト映画となり,アメリカでの評価が逆輸入されてきて、日本での評価も高まった。最初、日本で評価されなかったのは、この映画にはディックの小説に親しんでいないと理解できないところがあったからだろう。どちらかというと純文学系の見方を映画に適用していて、SF分野を軽蔑している映画評論家が多いことの現われともいえよう。
 アメリカでの再評価を鵜呑みにして、手のひらをかえすように「傑作ですね」と言い替えた日本の著名な批評家が何人もいる。映画評論家という稼業には、その程度のいい加減なひとが多い。業界に寄生する御用評論家だからである。もっときちんと「私は最初評価を誤った。それはなぜか」と自分に問うとか、「みんながいいというけれど,自分はいいと思わない」とか、自説を貫いて欲しいものだ。そうしたら別に『ブレードランナー』を批判していたとしても、その人の見方を高く評価できたのに。     
 『ブレードランナー』以降では、バーホーベン監督『トータル・リコール』(原作がディックの「追憶売ります」)やギリアム監督『未来世紀ブラジル』、ゼメキス監督『バック・トウ・ザ・フューチャー2』などディック的世界の傑作映画がある。   
                              池田博明記

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