右手と、左手
「さ、真田先生!」 焦ったような彼女の声に走る速度を緩めながら、後ろを振り返る。息が上がり、 頬を紅潮させた彼女に気づくとそのまま足を止めた。特別教室の並ぶ廊下は 授業中ということもあって静かだ。存在する音と言えば、部屋から僅かに漏れて いる授業中の教師の声くらいである。 「ご、ごめん。大丈夫?」 自分の声と彼女の息づかいが響いている廊下。先程まで職員室で九影とふざけて 会話していたのが嘘のように静かだった。彼女の息づかいが普段通りになって 来たところを見計らって、もう一度声をかけようとしたその時、突然大きな 明るい声が廊下に響く。 「やっぱりマサちゃんだー!あ、センセもいるー!」 「へ?悟郎…?」 視聴覚室のドアを開け、場違いなまでの明るい声を出したのは風門寺であった。 楽しそうに笑った風門寺は自分たちを見るとおもむろに視聴覚室から出て 来ようとする。授業中だというのに全く気にしていない様子なのは流石B6と 言うべきだろうか。もちろん感心している場合ではない。教師として彼の行動は 注意すべき事だ。 「風門寺くん、今は授業中ですよ」 「えへへ、もうショウちゃんったら、いくらゴロちゃんでもそれくらいは 知ってるよー。でもー、ゴロちゃんってば、ポペラっとマサちゃんとセンセを 見つけちゃったんだもーん!」 「そんなものは席を離れる正当な理由になっていません。いいから早く席に 戻りなさい」 「そうだぞ、二階堂先輩の言うとおりだろ。ほーら、席に戻れって」 出て来ようとする風門寺のすぐ隣に二階堂がやって来た途端、眉間に深い皺を刻んだ。 もちろん、それは生徒である風門寺が簡単に言うことを聞きそうにないからという 事に違いないのだが、どうも厳しい視線がこちらにも向いている様な気がして ならない。何か問題になるようなことをしただろうかと首を傾げる。もしかしたら、 先程まで廊下を走っていたのが良くなかっただろうかと思考を巡らせていたその時。 誰かが自分の手を引っ張った。振り返ると風門寺たちの担任である彼女が顔を 真っ赤にして何かを訴えようとしている。 「え?南先生、何?どうしたの?」 「あー!!マサちゃん、センセと手繋いでるー!!ズルいー!何でマサちゃん、 センセと手繋いでるのさ!まだゴロちゃんだってセンセと手繋いだことないのに!! ぶー、ポペラズルいの〜〜〜!!」 「お、ブチャがサルと何やってンだよっ!教師たる者、授業中にンなことしてて いいのかよォ?不謹慎って奴じゃねェのかァ!クククッ!」 「ええ!?」 むくれる風門寺の言葉に視聴覚室から別のB6である仙道がやって来る。慌てて自分の 左手の在りかを捜すと、視線の先で確かにしっかりと彼女の手を握っている。 「真田先生、南先生。プライベートでしたら何をしていても構いませんが、今は 職務時間中で、ここが学校だということを忘れないように。それから風門寺くんと 仙道くん。2人とも早く席に戻りなさい。スライドの続きはまだあります。君たちの 所為で授業が中断されてしまっているでしょう」 そう言った二階堂がぴしゃりとドアを閉めると部屋の中から風門寺と仙道の声が 僅かに聞こえていたが、すぐにそれどころではなくなった。 自分の左手は未だに彼女の手を握ったままだ。その場に立ち尽くしていると おずおずと彼女が声をかけてくる。 「あの…真田先生…?」 「あ、ああ…うん。とりあえず行こっか」 「え…あ、あの…」 手を握ったまま歩き出すと、戸惑ったような彼女の声が聞こえた。それもその筈だろう。 先程二階堂に注意されたばかりだというのに、自分の手は彼女の手を離そうともしない。 二階堂の言うことは最もだと思っている。ここは学校で、今は仕事中なのだから。 だけど、それとは別に彼女の手を離したくないと思う自分がいる。 それは当然自分が彼女に好意を持っているからだ。好意、もちろん同僚教師として 問題児集団であるclassXを任されている彼女への同情も含まれている。だが、その 好意は一般的な同僚教師に抱くものだけではないことも、もう自分でも十分自覚していた。 所謂同僚教師への好意だけでなく、南悠里という一人の女性への好意。 そして好意から生まれてくる彼女を独占したいという気持ち。 まさに自分の左手はその独占したいという心の奥底の気持ちを如実に表していた。 戸惑った彼女が真っ赤になって自分を見ている。心臓があり得ないくらい騒ぎ立てて いた。少し強引に手を引いて、どれだけか歩くと彼女を振り返る。彼女は変わらず 困ったような、それでいて恥ずかしそうな顔をしていた。 「…やっぱ、嫌?」 「え?」 本当はもっとちゃんと気持ちを伝えたいのに、伝えられなくて。だけどただ、彼女を 見てるだけでは、もう物足りなくて。彼女に触れたい、という気持ちだけが先走った 結果が今の状況だ。 「おれと手を繋ぐの、嫌?」 「…え、あ…あの…」 彼女に何も伝えていないのに突然こんなこと言えば混乱するのは当然だろう。だけど、 口にしてしまった言葉を今更取り消すことも出来ない。握った手を離さないまま その場で視線を交わし合う。 「…な、なんて言われても困るよね!」 「真田先生…?」 一度、彼女が痛くない程度に力を込めた後、手を離す。自分の手の中にあった か細い彼女の手がするりと滑り落ちていった。手の中にあったぬくもりを名残惜しく 思っても、もう一度手を伸ばす訳にはいかない。 「じゃあ、いつまでも廊下に居たって寒いし、語学準備室に行こう」 彼女の不思議そうな視線から逃れるように背を向けて歩き出す。自分の気持ちを 全部伝えきることが出来ないのならば、この状況に不満をもつのは卑怯だ。 ちらりと後ろを振り返りながら、その場をようやく動き出した彼女にほっと胸を なで下ろす。 今はまだちゃんと言えないけれど…。 いつか、ちゃんと言うよ。 静かな特別教室が並ぶ廊下を歩きながら、一人力強く頷く。窓の外に見える青空を 横目にしながらゆっくりと歩き出した。 君にちゃんと気持ちを伝えるから。 だから…だから、もし君が頷いてくれるなら…。 今度はちゃんと普通に手を繋ごう。 右手と、左手。 繋いで一緒に歩こうね…? <あとがき> 青春キングの本領発揮なお話となりました。青春キングとは私が勝手に真田に つけたあだ名ですが、生徒よりも余程青春してますよね、この人(笑) ついでに真田って結構手を繋ぐの好きそうなイメージです。 capriccioさまの三六五題より「右手と、左手」をお借りしました。 |