ひとことの勇気
朦朧としたまま帰宅し、ベットへと倒れ込むとぎゅっと瞳を閉じた。悠里の頭に 浮かんだのは今日起こった出来事。いつものように過ごしていた筈の日常に爆弾を 放り投げられた気分だ。あの時の言葉がずっと頭の中でリフレインしている。 『おれと付き合って下さいっ!!』 そんな事を言われたのは初めてだ。もちろん悠里だって今まで誰とも付き合ったことが ない訳ではない。だけれども、面と向かってそんな風に言われたのは初めてだった。 真っ赤に染まった顔を隠すように枕へ顔を埋める。早鐘を打つ心臓に負けないようにと シーツを握りしめ、混乱する自分の頭を何とか宥めようとした。なのに瞼に浮かぶのは あの情景ばかり。 私、どうしたらいいんだろう…? とりあえずの返事は保留とも言える『まずは友達から』なんてありきたりなものだ。 だけど学生時代とは違う。相手は同僚で、しかも同じ教科の担当。職員室だけでなく 語学準備室でも顔を合わせる。それどころか、自分に近い年齢ということもあって 一番親しい存在。どんな顔をして明日から会えばいいのだろうかと悠里は再び顔を 赤く染めた。 返事を先延ばしにしたのは相手の好意に応えようと、努力しようということだけ ではない。自分の中に少なからずある相手への好意がどういう類の好意なのか、 それを探るための時間が欲しかったのだ。 くるりと体勢を変え天井をまっすぐと見ると大きく息を吐き出す。枕をぎゅっと 抱きしめながら、あの場面を思い出そうとする。 真田先生はずっとって言ってた。ずっとってどれくらい前なんだろう? いつからそんな風に思ってたんだろう? 今まで親切にしてくれたのは、好きだから? 枕を抱きしめた力を更に強くすると口をまっすぐに結ぶ。 ううん、違う。真田先生はそんな人じゃない。 そんな感情がなくても、先生は親切にしてくれた筈よ。 きっと今と同じように誰にでも親切にしてくれた筈だもの。 ──真田先生はそんな人じゃない? …私に先生の何がわかるの?今まで先生が自分の事どう思ってたか知らなかった 私が先生の何を知ってるって言うの? 大きく吐き出されたため息に瞳を閉じる。今はただ混乱する頭の中をどうにか 鎮めようと深呼吸を繰り返した…。 それから一週間── 意識しないようにしようと思えば思う程、意識してしまい、とても以前のようには 振る舞えない状態が続いていた。それ故にここ2、3日は真田を避けるようにして 過ごしている。今日は丁度真田が研修で学校に来ていない為、言葉は悪いが いつもよりは伸び伸びとしていた。 5時間目の授業を終えて、語学準備室へと戻ると真田の席に人影があった。一瞬 研修から戻って来たのだろうかと身構えたのも束の間、その人影が卒業生の斑目で ある事に気づくとほっと胸をなで下ろす。 「瑞希くん、大学の講義終わったの?」 「…うん」 眠そうな表情で頷く斑目に笑いかけると自分の席につく。教材を机に置いた後 思わずため息が漏れた。 「…大きなため息」 「あはは、ちょっとね。授業が終わったから一息って感じかな」 「…幸せ、逃げちゃうよ?」 「えっ?」 斑目の口から出た言葉はいつもため息をつく度に繰り返される真田の常套句だった。 「…真田先生なら、そう言う」 たった一言、ほんの一言、斑目が真田の名前を出しただけなのに大きく動揺してしまう。 急激に存在を主張し出す心臓に胸を押さえながら、力なく顔を俯かせた。 「先生、最近元気ないね…」 「そ、そんな事ないわよ?私はいつも通り元気、元気」 空元気を出しながらそう答えるが、まっすぐ見る斑目の視線に耐えられず、再び ため息をついた。 「…って、瑞希くんにはバレバレよね」 「…うん。先生が何で元気ないのか、わかってる」 それもその筈、先週のあの告白劇に半分以上付き合っていたのだから、知らない訳が ない。あの後も普通に接してくれる斑目の存在にどれだけ救われたことか。斑目と 居る時ならば、真田とも今まで通り接していられた。この一週間、彼が毎日のように 語学準備室に現れるのを有り難いとこれ程思ったことはない。 「…あのね、先生。深く考えないで、答えて。…先生は真田先生のこと嫌い?」 首を左右に振って答えとする。それだけは間違いない。絶対に違うと言い切れた。 「じゃあ……好き?」 「…わからないの」 「…どうして?」 斑目はあくまで静かに聞き返してくる。この一週間、考えてもまだ結論は出ていない。 嫌いかと聞かれれば、そうでないと答えられる。 では好きかと聞かれれば…はっきりとは頷けなかった。 「単純に好きか嫌いかの2つで分けたら…嫌いじゃないもの…そうするとやっぱり …好き、なんだと思う」 そう言うのがやっとだった。斑目はゆっくりと立ち上がると冷蔵庫からお茶を取り 出して悠里の目の前へと置く。差し出されたお茶は最近ずっと気に入って飲んでいる 紅茶だ。彼の視線は優しく、お茶を飲んで落ち着いたらいいと言ってくれている ように思えた。もちろん、それは悠里の勝手な思い込み、希望なのだが。 「…うん。真田先生を嫌う人はそんなにいないと僕も思う」 「でもね…それがどういう『好き』なのか、私の事なのに自分でもわからないの」 「…そっか」 そう言ってうな垂れると相槌を打っていた斑目がくすりと笑った。 「瑞希くん?」 「……僕の正直な気持ち、言ってもいい?」 何故か楽しそうな斑目は肩に乗っているトゲーと指で遊んでいる。頷きながら 彼が何を話し出すのだろうと次の言葉を待った。 「僕はね、これでも真田先生の事好きで、南先生の事も好き。…もちろん、だから こそ、毎日2人に会いに来てる」 彼の珍しいストレートな好意に顔を赤らめると小さな声でありがとうと呟く。斑目は その言葉に一瞬目を細めただけで頷くと再び言葉を続けた。 「本当だったら…僕、先生達を独り占めしたい」 「え…?」 「…僕、結構独占欲強いから」 「瑞希くん…」 「…だから、本当はずっと、こんな風でいられたらって…そう思う。でも、 いつまでもこのまま一緒だなんて、無理だって事もわかってる」 先程の彼の宣言通り、これは斑目の正直な気持ちなのだろう。時折嬉しそうに、 そして寂しそうにゆっくりと一つ一つの言葉を紡いでいた。天才と呼ばれる 頭脳を持つ彼は少しだけ子どもっぽい所がある。それは去年一年過ごしてきて、 もう十分わかっていた。 「…僕の我が儘を通してもいいなら、2人とトゲーと一緒に居られるのが僕に とってのベスト。でも、それが無理なら…2人にはいつも笑っていて欲しい。 2人が並んで笑っていてくれたら…それでいい」 「瑞希くん…」 「…僕の希望は、先生が真田先生に頷いてくれたらって思う。…ここまでが 僕の気持ち。…ここからは、僕が客観的に見た先生たちの事」 そう言うと一呼吸置いて表情を正した。世界でも類をみない天才と言われる 彼の客観的な考察はいつも驚かされることが多かった。何を言われるのだろうかと 興味や恐怖の入り交じった複雑な表情で黙って頷き返す。 「…真田先生はすごく分かりやすいよ。去年、先生が高等部へ転任してから ずっと好意を持ってたから」 不意に先週聞いた言葉が思い出された。『ずっと』と言っていたことを。 彼の言う『ずっと』は出会いの頃からという事だったのかと、思わず目を 見開いた。そんな自分を見て斑目がくすりと笑うと違うよ、と言葉を付け足す。 まるで心の中も見透かしているかのようだった。 「…それは、あくまで恋愛感情じゃない部分での好意。…流石に去年はずっと 先生たちと居たわけじゃないから、いつ恋愛感情としての好意に変わったのか までは、はっきりわからないけれど」 冷静な第3の目である斑目はそこで一旦言葉を区切ると再び表情を正す。 「…僕がセンター試験を受ける、受けないで問題になっていた時には…もう十分 過ぎるくらい恋愛感情は持っていたみたい。…ふふ、あのね。真田先生、本当は 告白するずっと前から先生のこと、デートには誘おうとしてたんだよ」 「ええっ!?」 「…先生の天然さ加減と…僕の妨害で、実現しなかったけど」 「……それ、本当に?」 恐る恐る聞くと笑いながら頷かれてしまい、恥ずかしい気持ちで一杯になる。 そんな場面あっただろうかと一生懸命思い出そうとするが、どの場面の会話が その事実に相当するものなのか皆目検討がつかなかった。確かに先週の告白劇 でも、斑目がそんなことを言って驚いたが、それは最近の事と思っていたのである。 「ん…?瑞希くん、今、僕の妨害って言わなかった?」 「…うん、言ったよ」 「どういう意味なの、それって?」 「そのまま。…さっき言ったよね。僕は独占欲、強いよって」 「で、でも…」 「先生を独り占め、したかったから。…あと、真田先生に意地悪すると、反応が 楽しくて、つい」 悪びれないその言葉に思わず笑いかけたが、表情を引き締める。そうではない、 それが聞きたいことの本質ではないと気づいたからだ。 「話、戻すね。…真田先生の好意は周囲もみんな知ってたから、二階堂先生たちは 応援する側にまわってたみたい」 真田と親しい二階堂の名前に頷くと、その言葉が複数形だった事に首を傾げた。 二階堂が真田を応援するというのはよく分かるのだが、複数とはどんな人たちを 指しているのかわからない。 「衣笠先生も、鳳先生も…それから九影先生だって、真田先生を応援してたよ」 自分たちの周りがそんな風に動いていたことを彼に指摘されるまで気づかなかった なんてと一瞬気が遠くなる。どれだけ自分は周りを見ていなかったのか、そう 思うとため息が漏れてしまうのだ。 「葛城先生は…ちょっと特殊。あの人だけはあんまり気づいてなかったみたい。 …だからいつも先生と真田先生の間に入ろうとする葛城先生を、二階堂先生たちが 引きはがしてたから」 そう言われれば、何かと葛城が絡んでは二階堂達が彼を引きずっていくという場面が あったような気がした。てっきり葛城の暴走具合を見かねてのことだと思っていたのだが、 どうやらそれだけではなかったらしい。 「周囲に応援されるくらい、真田先生の好意は露骨だね。…肝心の先生には 伝わってないけれど。…ここまでが、真田先生の観察結果」 一度口を結んだ斑目がお茶を口にする。今までこんなにも彼が話し続けたことが あっただろうか。元来無口に近い──とは言っても斑目の無口は面倒であるという その一点によるものだが、ともかくそんな彼が長時間自分の考えを話すのは 珍しい。つまり、それだけ自分のためにしてくれているのだと思うと申し訳ないような 気持ちになる。そして、一息をついた彼が再び口を開いた。 「次は、先生。…年齢が近くて、気さく、しかも同じ教科担当だから、他の先生たち よりも真田先生とは仲良し」 他人から見て自分はどう見えているのだろうと思いながらじっと話に耳を傾ける。 もしかしたらそこから自分の気持ちが見えてくるかもしれないと何かを期待しながら 頷いて、続きを促した。 「…そうだね…去年一年は普通の同僚の一人。去年は先生、手一杯だったから」 不意に斑目が笑う。手一杯の意味ははっきり言わずとも悠里には分かっている。 目の前にいる斑目を始めとしたB6たちのことだからだ。 「だからね、そういう意味で余裕がなかった。…でも、4月からは違う。真田先生も 一年の担任になって同じ学年を受け持ってる。そしてやっぱり同じ教科担当。だから …去年よりずっと真田先生と話す機会が増えた。…ここまであってる?」 「ええ」 「…じゃあ、続けるね。…少なくとも、同僚・友達レベルとしての好意は見て取れるよ。 でも、それ以上なのかは…僕にはわからない。だって、僕が知っている先生は…いつも 3人でいる時の先生だもの」 「3人でいる時…?」 「そう、3人。あ、トゲーも入れて3人と1匹だけど…」 緊迫した空気に少しの余裕を持たせるように斑目が笑う。肩に乗っていたトゲーが 楽しそうに小さな手を振っていた。 「…僕が居ると、『先生』になるから」 それは不思議な言葉だった。『教師』である自分にとって『先生』という単語は 当たり前過ぎて、観察の妨げとなる理由として成り立たない気がした。不思議に 思って首を傾げると自分の心の中を読んだように斑目が再び口を開く。 「…あのね『南先生』として、『真田先生』への好意はわかるよ。…でも『南悠里』 個人として『真田正輝』個人への好意は『生徒』だった僕には…わからない。 …僕が『生徒』であった事実がある限りは、ね」 「瑞希くん…それって…?」 「…きっと、先生には当たり前過ぎること…なんだろうね」 少しだけ寂しそうに笑った斑目はトゲーと相槌を打っている。 「…『生徒』の前では、常に『先生』だから。…だから、例え…僕が異性に対する 好意を貴女に持っていたとしても…貴女は『南悠里』として僕をを見ることは…ない」 悠里はただ息を飲むことしか出来なかった。確かに言われてみれば、生徒がいる時と そうでない時の自分は違う気がした。例え『元』だとしても斑目は自分の生徒。 この先どれだけの時間が経ったとしても、それは覆らない。そして彼が場に居る ならば、自分は教師としての仮面を無意識に被ってしまうだろう。それは何も 斑目だけに限ったことではなく、今まで受け持ってきた全ての生徒に対して 言えることだった。 「…だから、僕も…貴女を『南悠里』個人でなく、『南先生』として見てる」 「瑞希くん…それは例え…よね?」 普段と違った様子の斑目にまさかと思いながら、震える声を紡ぎ出す。先程からの 彼の言い回しには引っかかる部分があった。頭の中で組み立てられた推測を 否定しようと、彼の言葉を待つ。 「…例えとして…適切、じゃなかったね」 返って来た言葉は先程の言葉を完全に否定出来る要素はあるようでない。 受け取り方によっては否定も出来るが、単にかわされたとも取れるものだ。 「…脱線したね。僕にはっきりとわかるのは同僚・友人レベルの好意まで。 異性としての好意は…はっきりわからないと言うのが結論」 話を戻すのはこの話題にこれ以上を触れさせないための防衛手段か、それとも 偶然かと黙って斑目を見つめる。途端に語学準備室の空気がぴりりと張り詰めた 気がした。 「…僕は」 沈黙を破ったのは斑目の方だった。 「…僕は、狡くて…弱いから…これ以上は言えない」 それは悠里が待っていた答えではなかった。無理にとも言える形で聞き出した 言葉は聞かなければ良かったと思うものだったのだ。 「ごめんなさい…僕、喋りすぎた…。貴女を困らせたいだなんて、思っていないのに。 …本当に、ごめんなさい」 無言で首を左右に振る。言葉をどう紡いで良いのか、わからなくて、まるで子どもの ようにただ首を振ることしか出来なかった。 「…本当は…知ってる。…だけど、僕が言ってはいけないことだから。貴女の心は どこにあるのか…貴女自身が知るべきことだから…。よく、考えてみて…? 『南悠里』の心の中、ちゃんと…向き合って…?」 「瑞希くん…私…」 「…ごめんなさい。僕、忘れ物があるから…大学に、戻らなきゃ…」 「わ、私…あのっ…」 「…謝らないで。…僕、『南先生』が大好きだから」 強調される先生という単語。彼の表情は背を向けられているため、はっきりとは わからない。ただ、その表情が曇っているだろうことは容易に推測出来た。 「…僕は、ずっと何があっても、南先生の生徒だから…。だから…これまでの ように、一緒に居させて…」 ドアを開け、出て行く背中を見送ると呆然と立ちつくす。一週間前の告白劇とは また違った意味で混乱していた。 瑞希くんが…? そんなの…そんなのって…。 足に力が入らなくなり、床へとへたり込む。考えもしなかった事態にただ呆然と するしかなかった。 どれだけ床に座っていただろうか。自分の机の上の携帯電話が電話の着信を 告げる。手探りで携帯電話を手に取ると惰性のまま操作を行う。通話ボタンを 押して、もしもしと相手に告げる。 「先生」 静かな声が耳に響いた。肩が大きく揺れ、窓枠に捕まりながら立ち上がると グラウンドを見る。視線の先には確かに先程別れたばかりの斑目がいる。視線が 交わる前に思わず窓の下へと隠れると電話の向こうで深呼吸をしているのが わかった。 「…まずはごめんなさい。僕、先生を試した。僕がああ言ったら、先生はどんな 反応するだろうって、試したんだ。…怒られても仕方ないことをしたって思ってる。 だから…ごめんなさい」 彼の言葉に気持ちが軽くなると同時に大きな疑問が浮かんだ。同じ事を仙道が もししていたら、烈火の如く怒っただろう。彼ならばどんな悪戯でもやりかねない。 でも、今こうして謝っているのは斑目だ。何の意味もなくそんなことをするような 人物ではない。少なくとも高等部にいた時はそうだった。そして、電話の向側で 言いづらそうに再び深呼吸をしている斑目の言葉を待つ。 「それから…僕がどうして、そんな事をしたのかは……先生の反応を見て、心を 探るつもりだったから」 「私の心を…?」 「…うん。先週と同じ状況での反応で、先生が真田先生をどう思ってるのかわかると 思ったんだ」 「…え…」 意外な返答に言葉を失う。先程の反応はあくまで斑目への反応だ。それで何故 わかると言うのだろうか。 「…結論から言った方がいい?それとも説明?…結論からだと先生が混乱しそうだね。 じゃあ、説明からするね…?」 向こうに顔が見えていないのに、頷いて彼の言葉を待った。斑目もまた電話の向こうで 悠里が頷いていると推測して一呼吸おく。 「…じゃあ、説明…するね。僕が先生に気持ちを打ち明けた時、凄く困った顔してた」 電話の向こうで小さな笑い声のようなものが聞こえる。それは楽しんでいる 笑い声なのか、そうでないのか声だけでは悠里に判別は出来ない。 「…さっきも言ったけど、僕の場合『生徒』だった過去があるから余計に混乱したみたい。 先週もいきなりの事で先生は驚いて、困っただろうけど…僕の時とは違った筈だよ」 こっそりと窓枠に捕まりながら顔を覗かせるとグラウンドの方へ視線をやる。 斑目は悠里に背を向けており、こちらの視線には気づいていないようだった。 再びしゃがみ込みながら顔を隠すと彼の次の言葉を待つ。自分でもわからない 心の中を彼はどう説明するのだろうかと思いながら。 「…だって僕の時の困ったは、断るための言葉を探してたから。だけど、真田先生の 時は違う」 彼の言葉に一瞬息を飲むと、心臓が早鐘を打ち出す。 「だって、先生は…」 言葉を続けようとした斑目の声に誰かの声が重なる。聞き覚えのあるその声に そっと窓を覗く。斑目の隣に立っているのはいつもと違った黒いスーツを 着込んだ真田だ。 「…ごめん。子犬がうるさくて…」 斑目の声に被さるように『誰が子犬だ!』という声が聞こえてくる。 「み、瑞希くん!」 「…何?」 「…あ、あのね…今日はもう帰られますかって聞いて貰える?」 「………うん」 突然の自分の言葉にほんの数秒の間はあったが、電話の向こうにいる斑目が 少しだけ笑った気がした。もちろん、それは単なる自分の推測で、どちらかと言えば 悠里の希望に近いのだが。 漏れ聞こえてくる声は先程のように斑目を怒る声ではなく、驚いたような声だ。 斑目の電話の相手が自分だとわかったからかもしれない。そしてその後に続く 言葉を推測した上での驚きかもしれなかった。 「…帰れるって」 「お話があるのでお時間頂けますかって言って貰ってもいい?」 「うん…わかった」 面と向かって言えばいいのに、わざわざ電話の向こう側にいる真田への言づてを 頼む。そんな臆病過ぎる自分を励ますように頷くと背筋を伸ばし、立ち上がった。 いつもの前向きさで向き合おう──そう思ったのだ。 自分自身の心と自分への好意を真っ直ぐぶつけてきたあの人へ。 斑目のくれたヒントが自分の気持ちへの扉。そこから先は自分自身で理解すべき ことだ。心の中の霧が晴れたような、すっきりした気持ちに思わず笑みがこぼれる。 この一週間、何をモタモタしていたのだろうと自分を笑う余裕まで出て来た。 「…先生、校門で待ち合わせだって」 「うん、ありがとう。それから…伝言ゲームみたいな事させてごめんね」 「ううん…それくらい、平気」 「じゃあ、また今度ね」 「…うん、多分、明日また来る」 「うん、待ってるね」 携帯電話のボタンを押すとポケットへしまい込む。足はもう更衣室へと向かっていた。 途中ですれ違う生徒たちへ、いつもよりもずっとにこやかに挨拶を返しながら、早足で 廊下を歩く。悠里の心はもう既に校門へと飛んでいた…。 悠里との通話を終えた斑目はあたふたとしている真田を校門へと追いやると 小さく、でも深いため息をついた。 「これで…いい」 彼の微笑みは何処か寂しげであった。肩に乗っているトゲーが気遣うように 鳴くと今度は何かに満足したように微笑む。 「…大丈夫。…僕、2人が、好きだもの」 遠く視線の先には校門があり、丁度真田の元へ悠里がやって来たところだった。 「…トゲー」 肩に乗っていたトゲーを左の手の甲へと誘う。トゲーの小さな瞳が斑目を見上げた。 「…上手く…いくといいね…?」 2つの小さくなっていく背中にそう呟くと自宅へ戻るべく歩き出した…。 校門から歩き出してからというもの、何を話して良いのかわからず無言が続いていた。 普段の2人なら、他愛もない話をしているだろうがお互いがお互いを意識してしまい 沈黙が流れてしまっていたのである。 悠里も先程までは意気込んでいたが、いざ本人の前となると萎縮してしまって思うように 出来なかった。どうしようと思いながら、ちらちらと隣を歩く真田を盗み見る。真田も 真田で話があると言われた時点で先週の告白劇の事についてだとわかっているようだった。 真っすぐ歩いているようでいて意識が別の所にいっている所為か、ふらりと悠里の体が 揺れる。その瞬間、ほんの少しだが肩が真田の腕に触れた。 「…きゃ!…ご、ごめんなさい!」 「え?南先生?」 真っ赤になりながら俯くと大き過ぎる心臓の音に胸の辺りをぎゅっと押さえる。ほんの少し 触れただけなのに何も考えられなくなる程ドキドキしていた。 「大丈夫?」 「は、はい…」 真田の気遣うような声に小さな声で返事する。そう言えば高校の時、初めて付き合った 男の子と一緒に歩いた時もこんな風だった。まだその頃は付き合っていなくて、偶然 一緒になった帰り道、落ち着かない悠里が彼にぶつかってしまって、しどろもどろに なりながら謝った記憶がある。本当にあの頃と何も変わらない。友達にも学生時代から 変わらないなんて言われるが、これでは反論も出来ない。 「あ、あの!」 「は、はいっ!!」 覚悟を決めたように息を吸い込むと真田の方へと向き直る。緊張を含んだ、いつもよりも 大きな悠里の声に、やはりいつも以上に大きな真田の声が被さった。お互いに緊張して いる所為で足を止めて気をつけの姿勢で向き合うという状態である。 お互いの頬は真っ赤に染まっており、悠里が学生時代から持っている小説や少女漫画でも 中々お目にかかれないくらい初々しいシチュエーションだ。端から見てれば、悠里も 微笑ましいなと思っただろう。だが何せその雰囲気を醸し出している本人なので、悠里に そんな事を考える余裕はない。 声をかけたものの、次の言葉が出て来ず、時間だけが過ぎていく。視線を彷徨わせた その先に公園を見つけると、咄嗟に真田の服を掴み指をさした。 「こ、公園!寄っていきませんか!?」 「あ、はいっ!」 唐突なこの流れはおかしな流れなのだが、緊張している悠里はそれが不自然な流れだと 気づいていないし、真田もまた気付いていない。 今にも外に漏れでてしまいそうなくらいの大音量の心音を誤魔化すように小走りで 公園へと入っていく。袖を引っ張られたままの真田が慌てたように声をあげたが、 すぐに同じ速度で走り出す。 夕方の児童公園は何処か寂しげで、オレンジ色の情景の中、風に揺れるブランコを 見つけるとお互いに顔を見合わせた。少し前の緊張していたことを忘れて、笑うと 童心に戻ったかのようにブランコの鎖を掴み飛び乗る。 「ブランコなんて久しぶりだ」 「私もです」 ブランコを立ったまま風を切るように漕ぐ。笑いながら漕いでいたのも束の間、再び 沈黙が流れる。それは決して悪いものでなく寧ろ心地よいもののように感じた。 風の音とブランコが紡ぐきしむ音。 「子ども用だから重いのかな、おれたち」 「そうですね」 ブランコから飛び降りた真田は今度は普通にブランコに座るとゆっくり漕ぎながら、 遠くを見ている。 「あの…」 「あのさ…」 同時に紡がれた言葉にお互い顔を見合わせる。遠慮がちに悠里が顔を覗くような 仕草を見せると真っ赤になった真田が手の平を上に向けて続きを促した。ブランコに 座り直し大きく息を吸い込む。 「私…色々考えたんです」 真っ直ぐ前を見ながら悠里は自分を奮い立たせた。隣でブランコを漕いでいた真田は 漕ぐのを止めるとじっとこちらを見ている。見つめられていると思うと瞳を閉じて しまいたくなったが、慌てて頭を振ると覚悟したように力強く頷いた。 「去年、高等部に転任してから一年過ごして、最近になって…ようやく余裕が出て 来たんです。…去年は私、いっぱいいっぱいでしたから」 B6たちを始めとするclassXの生徒たちを思い浮かべると、そんなにも前のことでは ないのに何だか懐かしくなる。 「真田先生」 「は、はいっ!」 「ありがとうございます」 「南先生?」 本当は感謝の気持ちをいつ伝えようかと思っていた。卒業式の時に伝えられれば、 きっと良かったのだろうが、中々言えなくて、延ばし延ばしでここまで来てしまった。 「私、真田先生をはじめとして、たくさん先生方に助けられてたと思うんです」 「南先生…」 「だから、ちゃんとお礼が言いたくて」 ブランコから立ち上がると深々と頭を下げる。 「わ、いいよ!南先生、顔上げて!」 慌てて立ち上がった真田が恐縮したように自分の方へと手を伸ばしたり、引っ込めたり している。 「本当にありがとうございます」 「あ、いや…その、別にそんなに気にしないでよ。B6の奴らと一緒にやっていくのって 並大抵のことじゃ出来なかったろうし、あれくらい別に何てことないからさ。おれだけ じゃなくて、多分他の先生たちも一緒だと思うから…。…だから、その、顔上げて くれないかな」 照れくさいのか顔を横に向けながら、髪を混ぜ返す真田に頷き返すと小さく微笑む。 「私、真田先生には特に助けて頂いていたんです」 「…え?」 「瑞希くんの月末試験もそうでしたけれど…それ以外でも」 外されていた視線が交差する。オレンジ色に染まっていた公園は徐々に闇に のまれようとしていた。照明灯が2、3回瞬き真っ白な灯りを灯す。 思い出せば、いつもそうだった。 初めてB6に会い、彼らの個性に押されて、これからどうしようかと思案にくれて いた時、職員室で笑って応援してくれたこと。 最初の中間テストでの試験問題の作成時に相談にのって貰ったこと。 …数え出したらきりがない。 「私、たくさん真田先生に助けられました」 ゆっくりと言葉を紡ぐと今度ははっきりと微笑む。先週伝えられた言葉に今度は ちゃんと応える番だと悠里は思っていた。 「本当にどれだけお礼をしても足りないくらい…いっぱい、いっぱい助けられたんです」 もしかしたら、些細なことだって思うかも知れない。 でも、後で振り返れば、積み上がったその些細なものは大きくなっている。 少なくとも、自分にとってそれは些細なことじゃない。 それは大事な支えになっていたから。 「だから、先週の先生の言葉に…私はわからなくなってしまったんです」 真っ直ぐに飛び込んできた好意は混乱を呼び込んだ。感謝の気持ちと平常から抱いて いた好意が混ざり合ってしまい、そこから自分の気持ちを探れなくなったのである。 でもそれはきっかけにしかすぎなかった。実際、混乱をきたしたのは悠里の心の奥底、 無意識の下にあった気持ちが起こしたものだった。そう、悠里はここに来て、ようやく 自覚したのである。無意識の下にあった気持ちはいつでも表面へと出たがっていた。 故に告白されたことによる驚きが起爆剤となり、悠里の中で反乱を起こした。 自覚しろと自分自身に働きかけたものだったのである。 「…いいえ、先生の言葉はきっかけだったんです。わからなくなったのは、多分 私自身の所為」 「南先生…?」 「私、きっともう気づいていたんです」 悠里は笑うとまっすぐ真田を見た。今までになく悠里はすっきりした気分で、 そして…幸せだった。 「真田先生」 「は、はいっ!」 「先週のお話、ですけど…」 「……はい」 絡まっていた糸は解けた。すっきりとシンプルな一本の糸。その糸の先には 悠里の本当の気持ちがある。 「えっと…『はい』」 「…え?」 「あ、やだ。わからないですよね…!えっと…その…」 真っ赤になった悠里が口ごもる。そして深呼吸をするともう一度笑った。今度こそと 小声で呟くと一人頷く。 「好き、です。私を…真田先生の彼女にして下さい」 「え…あ、は、はいっ!!」 悠里の言葉に間があったかと思うと、次の瞬間真田の声が公園に響いた。真っ赤に なった真田は悠里の言葉に頷いておきながら、信じられないといった表情を見せて いたが、徐々に今の言葉を理解し表情が明るくなっていく。 「み、南先生!それ、ホントだよね!?う、嘘じゃないよねっ!?」 「…はい」 再確認する真田に照れながら頷いて俯く。俯いた視線の先に少し大きな手が伸びてきて、 悠里の手を包み込んだ。 「やった!!あーもう、ありがとう、南先生!」 「え、あの、真田先せ…」 悠里が言葉を言い終えるよりも先に唇が触れ合う。間近にある彼の瞳が自分の身に何が 起きているのか、教えてくれているようだった。 「おれ、君のこと絶対大事にするからっ!」 「……は、はぃ…」 目の前の真田は自分がした事、言った事の大胆さには気づいていないようで、それが 悠里によりいっそうの羞恥心をもたらしていた。 「この一週間さ、ずっとドキドキしてて、もう気が気じゃなかったんだよ。気のせいか、 ここ2、3日先生に避けられてるような気がしてさ」 「あ、そ、それは…!」 「あー、いいって、いいって!今、こうして先生とちゃんと話が出来て、しかも彼女に なってくれたんだから!」 先週あれだけ肝心な話をするのに手間取った割にストレートな好意をぶつけてくる。 だが、普段の彼の性格を思えば、それは非常に彼らしいと言えた。何処か少年めいた 笑顔を見せた真田が優しく目を細めると静かな声が公園に響いた。 「あのさ…改めて、言わせてくれる?」 「真田先生?」 笑っていた真田の瞳に真剣な色が加わる。真一文字に結んだ口が開かれると先週とは 違った雰囲気の中、彼の言葉が紡がれた。 「…南先生、大好きだよ」 「は…はい…」 真っ直ぐ見つめる視線に思わず頬が熱を持つ。恥ずかしくも嬉しい言葉に心臓は爆発 してしまうのではないかと思うほど五月蝿い。 「だから、おれの彼女になって下さい」 「…はい」 見上げた視線の先にはこれ以上ないくらい幸せそうな彼がいる。 好き──たったひとことに込められた気持ちは計りきれない程大きくて、温かくて 優しい。触れ合った唇、繋いだ手、交わす視線、何もかもが幸せを与えてくれた…。 「な、何ぃっ!?」 聖帝学園高等部の職員室にエコー付きの驚愕の声が響く。そこには昼休みを過ごして いる教師たちが騒音の元である葛城と目の前で怒っている真田、そしてその真田の後ろに 庇われている悠里を見ていた。 「な、何、ウソ言ってるんだよ!子猫ちゃん、ウソだと言ってーーー!!」 「え…あ、その…えーっと…」 縋り付くように悠里の元へと近づくとすぐに真田が前に出てそれを阻止する。悠里は 悠里で葛城の言葉にどう返していいのか、迷っていた。視線は自然と助けを求める ように真田の方へと向けられる。 「いいよ、おれから言ってあげるからさ」 「何、子猫ちゃんとベタベタしてんだ、真田ーー!!」 「ベタベタなんかしてねぇし!…いやしたいけど、ここ一応学校だしなぁ」 「さ、真田先生っ!?」 ぽそりと漏らした真田の本音に真っ赤に頬を染めながら、慌てて彼のジャケットの裾を 引っ張った。 「うん?何?」 「…な、何じゃないです。全部周りに聞こえてます…」 「え!ほ、ホント!?」 呟きが漏れていたことに悠里の言葉でようやく気づくと、急に顔を真っ赤に染め、 ごめんねと照れながら笑って誤魔化す。この時点で真田は周りのことは殆ど見えて いないようだった。恐らく彼の中で幸せの方が勝ってしまっているため、実際気に していない訳ではないのだろうが、結果的に周りが見えていない状態になっていた。 「そこーー!だから職員室でベタベタすんなっての!!っていうか!お前なんかに 子猫ちゃんはずぅぇーーーーーったい、渡さ…」 エコーをかけた葛城が大声でわめき立てるが、言い終わる前に背後へ鳳が笑顔のまま 立った。もちろん鳳の手には葛城にとっての凶器、出席簿がある。そして鳳の纏う雰囲気を 察したのか、真っ青になった葛城は振り向くと大声で悲鳴をあげると飛び上がりながら 器用にも土下座をした。普段からの記憶に基づき、彼の意志とは関係なく体が勝手に 動いているようである。最早それは条件反射だと言ってもいいだろう。 「葛城先生は同僚の幸せを喜ぶことも出来ないのかい?」 「だ、だって真田が…!」 「ふふ、駄目ですよ?せっかくの幸せを邪魔しては」 笑顔のまま怒っている鳳の隣に、衣笠がやはり笑ったまま葛城を見下ろしている。 葛城は普段からオアシスだ、天使だと言っている衣笠にそう言われると言葉も返せない。 泣きつこう歩き出したところで襟首を捕まえられる。当然そういうことをするのはもっぱら 九影の役目と決まっていた。 「…ったく、あんま、手間かけさせんなよ」 「太郎さんまでっ!!」 「九影先生だけでなく、君以外は全員真田先生と南先生の味方ですが、それが何か?」 冷ややかに、けれども静かに怒ったように二階堂が葛城を一瞥する。それでなくとも 仲が悪い2人の間に一瞬火花が散りかけたが、鳳の出席簿による攻撃で葛城は昇天。 そのまま九影が廊下へと引きずっていく。 「…ということですから、安心なさい」 「私達はずっと君たちの味方だからね」 「ふふ、大丈夫ですよ。真田くんを見守る会はこれから2人を見守る会になりますから」 二階堂、鳳、衣笠の言葉に2人は顔を見合わせると顔を真っ赤に染めたまま、曖昧に笑って 会釈する。 「ねえ、南先生」 「はい?」 「おれを見守る会って何?」 「…さぁ、私にもちょっと…」 妙に好意的な同僚達の温かい視線の中、自分たちについて小声で話しながらお互いに 首を傾げた…。 <あとがき> 色々と長くなってしまいましたが、ようやく真田ED後のお話を書くことが出来ました。 前半に瑞希が舞台を広げたり、中々自分の気持ちを言い出さない担任にハラハラ しましたが、何とか無事まとまったようで何よりです(苦笑) サイト内最長のSS(2007年10月現在)となりましたが、最後まで読んで頂きありがとう ございました。 ゲーム内にあったT6内の真田くんを見守る会は見事2人がまとまった後はきっと 2人を見守る会になるといいなぁと勝手に新しい会を発足させてしまいました。 もっとも役割は以前と同じく主に葛城から2人を守ることだと思いますが。 もちろん、会長は以前と同様二階堂でお願いします(笑) |