思わず触れる





珍しくこの時の語学準備室は静かだった。もちろんいつも騒がしい訳ではないが
大抵は賑やかであることが多い。では何故普段は賑やかな語学準備室が静かなのか。
それは現在室内には2人しかおらず、その2人はテストの採点をしている最中で
あったからだ。流石の真田もこの時ばかりは騒がしくない。彼は無意識だったろうが
時折嬉しそうに頷いたり、答案を見てため息をついたり、独り言を呟いていた。
それはやはりテストの採点中であった悠里も同じことである。
ようやく全員分の採点を終えた真田は伸びをすると席から立ち上がる。
その表情はまるで全日程分のテストが終わった生徒たちのような晴れ晴れとした
表情だった。

「南先生、そっちは終わった?」
「はい、あと一人で終わりです」
「じゃあ、おれもキリついたし、お茶にでもしよっか?」
「いいですね。そうしましょうか。もう少し待って下さいね…この採点が終わったら
お茶淹れますから」
「あー、いいよ。おれが淹れるから」
ポットの方へと歩き出すと机にかじりついていた筈の悠里が突然立ち上がる。
「わ、南先生!?」
「私が淹れますから、ちょっと待ってて下さいって言ってるじゃないですか。もう…」
茶筒を取ろうとしていたところを先回りされてしまう。少しだけ怒ったような
悠里に驚いていると背中を押され、自分の席へと座らされる。
「真田先生、この前お茶淹れようとして茶葉を床にばらまいたでしょう」
「う…!それどうして南先生が知ってるんだよ…」
悠里が授業をしている間にお茶を飲もうとして茶筒を豪快に開けた結果、盛大に
ばらまいたのはつい先日の事だ。しっかり掃除をしたつもりだったのに何故
彼女に知られてしまったのか。不思議に思い首を傾げると悠里がやっぱりと呟く。
「真田先生だったんですね。…ポットの近くにまだいくらか残ってたんです」
「う…」
すっかり彼女のペースになってしまい、口を尖らせる。再び机に向かった悠里を
見ながら、別にお茶くらい淹れられるのになと呟いたがすぐに駄目ですとの答えが
返ってきた。

仕方なく椅子に座ったものの暇だ。何をするでもなしにすぐ近くの席にいる
悠里の横顔を眺める。テストの答案と睨めっこしている彼女は時折微笑むと
手が綺麗な丸を描く。そして答案に小さな文字を書き込むと顔を上げて伸びをした。
採点が終わったのだ。彼女の表情の変化を楽しんでいた真田はつられるように
自分の表情も明るくなっていた。そして不意に振り向いた悠里が笑った所為で
その頬は薄く赤色に染まる。
「お待たせしました。お茶淹れますね」
「あ、うん」

鼻歌を歌う悠里の後ろ姿を見ながら机の引き出しを開く。すぐ目の付く場所には
映画のチケットが2枚。毎日悠里を誘おうとしては失敗していた。照れてしまって
肝心な事が言えなかったり、タイミング悪く他の人に邪魔されたりと連戦連敗で
ある。そして今日もまたチケットを見て意を決すると一人頷いて気合いを入れた。
「あ、あの…!」
「真田先生どうぞ」
話しかけようと目をつぶって立ち上がった所にちょうど悠里がお茶を持ってくる。
いつもこの調子で何故か上手くいかないのだ。しかも今日は受け取ろうとして手を
出したのが拙かった。ほんの少し触れた指先に動揺して湯飲みの水面が揺れる。
当然その水面はほんの少しの揺れでなく、大きな揺れでこぼれたお茶が手や
服を濡らしていった。
「わわ!ごめん!」
「私はいいですけど…大丈夫ですか?」
湯飲みをお盆へ戻し、ハンカチを取り出すと真田の手や服を拭いていく。途端に
硬直する真田に悠里は不思議そうに顔を上げた。そこにあるのは耳まで真っ赤な
彼がただオロオロしているだけである。
「真田先生?」
「な、なな、何でもないよ!」
「?」
笑って誤魔化したものの、未だに真田の心臓は早鐘をうっている。散々練習した筈の
デートへ誘う為の台詞もすっかりさっぱり頭の中から消え去ってしまっていた…。




<あとがき>
本当はもう少し続きを書こうかなとも思ったのですが、敢えてこの長さで。
真田はやっぱりこんな感じで中々言い出せないのがいいんだと思います。
生徒よりもよっぽど青いのがこの人らしいというか(苦笑)

いろいろお題5と10の配布処さまより2人の関係(1)5題より「思わず触れる」を
お借りしました。