遠藤 辰雄

真打ち中の真打ちの登場だ。悪役以外何者でもないこの顔は、観た事のないという人はいないだろう。数々の任侠映画や時代劇で何度斬られたか本人でさえ判らないほど殺されているはずだ。一時期の『水戸黄門』などでは、ほとんど毎週のように黄門様に怒られていたんじゃないだろうか。

この人は必ず黒幕である。殺される場合でも怒られる場合でも、必ず最後(または最後から二番目)。それはこの人が持つ一種独特の大物の風格のおかげだろう。観ている方は不思議なもので、悪役を殺すにしても自分の中に悪役の序列があるのか、最後に殺されるべき人が最後に殺されないと何となく落ち着かない気持ちになってしまうのである。これは、自分の中で「この人は悪役!」と決めつけている人が良い役をやっていると、言いようのない違和感を感じてしまうのに似ているかもしれない(決して悪役俳優が良い役を演じる事が間違っているという訳ではない。勿論悪役の役者が良い役を演じている時の違和感も映画を観る上の楽しみでもある)。話がそれてしまったが、その意外性も楽しめる(『必殺!』最高!)としても、この人はまさに最後に殺されるべき風格を持った悪役であった。

この人の出ている映画を観ていて『仁義なき戦い』シリーズで明石組舎弟(元若頭)の相原重雄役は非常に面白い役柄だったのではないか。なぜ面白いと感じたのか?この映画の登場人物は全員が悪党である。ヤクザ映画なのだから当たり前のことだ。そんな悪党の中にこの人が入ると、なぜか何とも頼もしい男に見えてくる。こういった映画を観ていると自分もワルになったような気になるものだ。そんな時に頼もしく思えるというのは、なぜ我々がこの人が最後に殺されるベき大物悪役と感じるかの答えでもあるのではないだろうか。

これは今と昔の俳優を比べる話で必ず出てしまうのだが、最近こういった風格のある俳優がほとんどいないという事はとても嘆かわしいことだと思う。何度も言うが、映画の楽しみは映画そのものを楽しむだけではない。その映画に出演している『いつもの顔』に出会う事も映画を楽しむことの一つなのだ。しかし最近は『いつもの顔』に出会う機会があまりにも少ない。それは邦画をあまり観なくなったせいだけではないはずなのだが……。