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「ピアニスト佐山雅弘」レポート
 
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「ピアニスト佐山雅弘」レポート
国際交流基金バンコク日本文化センター 高野佳男氏

(2001年1月4日サイト掲載)
2000年10月に行われたカンボジア〜タイにおけるPONTA BOX公演の世話人、国際交流基金バンコク日本文化センターの高野佳男氏によるレポートです。
『あまりにすばらしい分析なのでちょっと難しいけど興味のある人に読んでもらいたくて』と2001年当時佐山さんより文章の提供がありました。その後の小原孝氏との共演(クラシック演奏)や2003年11月リサイタルといった活動を思い起こすと、未来へつながる興味深い内容でもあります。(2005.10.17)
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※ファンサイトへのレポート掲載について、高野氏御本人より了解を得ています。なお、文章の無断転載・引用は固くお断りいたします。
 
佐 山 雅 弘 様

先日はご多忙のなかをタイとカンボジアまでご公演のためにお運びいただき、まことにありがとう存じました。各公演ともたいへんな反響で、ムエイタイ(タイ式キックボクシング)を除き、私が当地でこれまでに経験したいかなるイベントよりも熱い興奮で会場内が満たされておりました。(ムエイタイでは地元の観客の大半が勝敗に賭けていますので、ボクサーの一打一打に歓声が挙がるなど、まるで原始宗教の儀式のような雰囲気になります。PONTABOXの名演をもってしましても、さすがにそこまで異様な熱気は生み出しませんでした。もっとも、全盛期のボブ・マーリィーのコンサートなどは宗教儀式なみの高揚感に包まれていたかもしれません。)


PONTA BOXの皆様をバンコクの空港でお送りしてから、PONTA BOX THE BESTに耳を傾け各地でのご公演を思い出す一方、(これは明らかに佐山さんからの影響かと存じますが)バッハをよく聴くようになりました。最初はグールドの新旧録音による『ゴールドベルク変奏曲』、続いてオルガンの『前奏曲』と『コラール』(ヘルムート・ヴァルヒャ演奏)、そして『マタイ受難曲』(マウエルスベルガー指揮)といったような順番で聴きました。アンドラーシュ・シフの演奏で『半音階的幻想曲とフーガ』も聴きましたが、なかばをすぎたところで、ふと「これはジャズだ」と思いました。
多少の装飾音を加えるなどの工夫はあるのかもしれませんが、意図としては厳格に楽譜に忠実な演奏が、結果としてはたいへん自由な響きをもって聞こえてきました。こうした印象はバッハの作品からはよく受けますが、他の作曲家、例えばベートヴェンの作品でも感じることがあります。ベートヴェンは、演奏家に自由な解釈の余地を多く残したバロックの時代の作曲家にくらべると、はるかに楽譜への指示が多くなっていると聞きますが、同じ曲でも演奏家によってまったく異なる世界が現出される場合があります。最後のソナタ(作品111)の第2楽章で、フリードリッヒ・グルダとヴィルヘルム・ケンプの演奏(前者はフィリップス、後者はドイツ・グラモフォン)、特に第2変奏を比較しますと、あまりの違いに驚きますが、いずれもがベートーヴェンが最後に到達した人生に関する深い知恵と諦念を表現しているように思われ、演奏家の自由な想像力と厳密な思索、そして両者を統一して表現する高度の技術に感嘆せざるをえません。


コンケーンでの滞在中、佐山さんのお部屋でバカボン鈴木さんや大森てるみさんとともにお話しをできましたのは、もっともなつかしく貴重な思い出ですが、様々な話題が出ましたなかで、私が(今考えますと汗顔の至りですが)ベートーヴェンのピアノ・ソナタをめぐり園田高弘氏と諸井誠氏が往復書簡の形式で分析を行ったことを挙げ、そのなかで園田氏が演奏論なるものを否定していることを述べましたが、あらためて該当する箇所を参照すると次のようになっていました。

また[諸井氏が]私にもっと演奏論をしてはどうかという意見もあると聞きますが、演奏論ということがいったいどういうことであるのか、実のところ私にはよく理解できません。常づねどうしていわゆる「演奏論」なるものが横行するのか、そこにどのような価値を見出す必要があるのかを不思議に思ってさえいます。

これはどだい私も含めて日本人の音楽に対する考え方、見方、その体験の仕方、受けとり方がすべて好奇心に駆られた好奇的観察に[基づいていることに]私は疑問を持っていることにもよりますが、これが音楽するものにとって素直に作品と対話することを[いかに]妨げているかははかり知れぬものがあると思うのです。極端に言うならば好奇的観察に終始することで、音楽を音楽することの大切さを失っている音楽家がひじょうに多いということで、これが音楽に対してどれほど回り道をしなければならない結果になっているかは、諸井君にはよくご想像できるでしょう。(園田高弘・諸井誠「往復書簡 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ分析と演奏」(音楽之友社、1971年)102頁)

私自身はごく浅薄な好奇心をもって音楽に接するものですので、上記の園田氏の言葉はまことに耳に痛いのですが、なおしばらく同書のなかから園田氏が演奏と解釈について記した言葉を引いてみます。

私には分析は、それによって作品解釈のひとつの手がかりを得ることの便法でしかなく、それが作品形成の原理を探ることであるとか、作品の生命力の解明にかかわりがあるとかは、とても考えられません。(79頁)

一見複雑に見える作品にあっても、その「作品形成の原理」を探れば、驚くほど単純な因子に還元することができ、そこにある「反復」「統一」の原理を探ることが「作品の生命力の解明」になるという考えは疑問であって、私はその計算し意図されたものが音楽の生命にかかわりがあるのではなくて、その計算させたものがなんであるかが音楽の生命にかかわりをもつのだろうと思いますし、この二つのことがらは絶対に同一でないものだと思います。(154-5頁)

私は藝術にはまったくの門外漢ですが、園田氏が「音楽の生命にかかわりをもつ」ものに関して述べた内容は、おそらく文学や絵画についても当てはまるように思われます。ここで問題にされているのは、「反復」や「統一」などの「作品形成の原理」よりも、それを計算し意図した主体、すなわち作曲家(作家、画家)の人間そのものです。そして、こうした「原理」に(外見上は)数学的な厳密さで一定の法則性が働いているのが認められるにしても、(内面的には)同様の原理を別の藝術家がまったく異なる事情や状況のもとに見出すことがあるようです。


さて、PONTABOXの演奏を聴きながら、適当な表現ではないかもしれませんが、私は佐山さんの演奏にある種の「古典性」を感じ取りました。Pooh SongやDream A Whileは美しいバラードで、ロマンティックな楽想に満たされています。しかし、センチメンタルな(感傷におぼれた)感じからはほど遠いものでした。
Pooh SongはWinnie the Poohの主題による変奏曲ともいえますが、以前にどこかで変奏曲は速度に変化を出すことが重要であると読んだことがあります。モーツァルトは変奏曲の作曲に際してテンポそのものをかなり自由に動かしたそうですが、ベートーヴェンは通常テンポそのものは変えずに音符の密度を変えることで速度感に変化を与えた(『熱情』第2楽章など)とのことです。(もっともベートーヴェンも作品109の最終楽章では速度変化を存分に用いていますが。)
当然、速度変化を使用したほうがロマン的な情緒をより多く喚起することになります。Pooh Songはロマンティックな楽想にもかかわらず、実際の演奏ではテンポの移動もさることながら、それ以上にテクスチャーの密度や音域に変化をもたせることで表現に多彩な変化を与えていたように思われました。

このことはSandwichやOriental Daybreakなどの軽快なビートの曲でも同様で、上述の方法のほかにも、ポンタさんのドラムにより佐山さんが演奏されるメロディーの音符価値が変化するような効果が生じ、その部分のテンポが速まっているように聞こえても、実際のテンポは一定していたということなどがありました。こうした演奏は結果として、感傷や情緒的なものに頼らずに感情の表現を行うことになり、(私の語感としては)「古典的」な風格をそなえるにいたります。ビル・エバンスは(佐山さんとともに)このような意味での古典性を獲得していたピアニストで、彼のいわゆるロマンティシズムやリリシズムが感傷に堕することは稀でした。

皆様がバンコクからご帰国になった翌日の日曜日に、佐山さんがやはりコンケーンのお部屋でオスカー・ピーターソンを聴いていらしたことを思い出し、The Oscar Peterson Trio at the Stratford Shakespearean Festivalを久々に聴きました。全体を聴き、ピアニストとしての佐山さんがピーターソンに近い資質をおもちなのではないかという印象を受けました。
明晰で強靭な打鍵、テイタムのアラベスク・スタイルを思わせる細かい譜割りによる多彩な曲想の変化、そして情緒に溺れない感情表現、これらの特質が佐山さんにもピーターソンにも共通して見出されたのでした。(他の楽器では、チャーリー・パーカーが典型的ですが、佐山さんのお部屋で鈴木さんがかけたレッド・ガーランドの『マンテカ』が、まるでパーカーのようなフレージングであったのは強く印象に残っています。)

「ピアニスト佐山雅弘における古典性」とでもいうべき拙い感想を申し上げましたが、ほんの短い期間にお会いし限られた曲目のご演奏を拝聴しただけですので、まったくの誤解に基づいているのではないかと危惧いたします。私の理解は浅く雑駁なものですが、確実に申し上げられるのはPONTA BOXの皆様とともにあった1週間は私の人生でも最良の時のひとつであり、ご演奏やお話を通して絶えず精神が鼓舞され、プノンペンで始まった精神の運動が今も続いているということです。またいずれかの日にご演奏を拝聴できますのを楽しみにしております。

最後に、いつもご健康にめぐまれご活躍されますことと、Above Horizonのご完成とご成功を心よりお祈り申し上げます。

2000年10月14日
国際交流基金バンコク日本文化センター
高 野 佳 男 拝
 
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