最新のニュースへもどるイメージ
〜古墳軍ニュース〜【2004/09/21】
取材は進めどなかなか追い付かないデータ整理と更新。放置して鮮度が落ちては惜しい情報を何とか救済すべく設置したコーナーです。古墳をめぐる最近の動向などを随時掲載・更新しますのでお見逃しのないように。
→バック
ナンバー


◆ 埼玉県大里郡大里町下田町遺跡現地説明会 ◆
現在は荒川右岸の堤防上。もちろん当時の河道とはかなり違っています
右が北。左下、12、14、15、16号墓のある部分が今回の公開範囲。12号墓は土盛残存に気づかずに分断された。
大きく掘り下げた調査区域で、しかも堤防にはばまれほぼ無風。夏の調査は相当辛かったのでは…
公開区域全景。向こう側の既に調査済の区域ではスーパー堤防とその上の施設群の築造が進んでいる。
大きくて浅い溝はどういう用途だったんでしょう?
溝跡に切られた住居跡。右側にかまど跡がある。説明員氏の背後の矢板の高さが遺跡が埋没していた深さである。
こんなふうにまだ上げていない土器などが多数見られました
かまど跡と貯蔵穴。土器はほとんどが土師器で須恵器はごく一部の住居跡から出ているだけ。
白く囲われた部分が四隅の周溝
16号方形周溝墓。四隅が切れる形のものとしてはやや大型。いくつかの住居跡の下にあった。
調査区域の向こう側は既に埋め戻されてます
15号方形周溝墓。やはり四隅が切れていてやや小型。溝の上部から土器出土。
わずかに盛土が残る珍しいものですが、前回調査で一部を切り落としてしまって…
12号方形周溝墓。一辺約20mと大型。深い溝が全周し珍しく盛土が一部残存。住居跡と切り合いは無し。
なにか真ん中に挟まってるように見えますが、遺物ではなさそう
12号墓盛土断面の状態。主体部は不明。周溝の最下部と中程からの土器出土で年代絞込みに期待。
12号方形周溝墓だけは、重なって検出される住居がないとか
住居同士の切り合いのわかる箇所。建てられる方角にはかなり幅があることがわかる
こうして皆で住居跡内をうろうろするわけです
土器などがまだ取り上げられていない住居跡。須恵器が蓋だけ残されていたりもする。
ポンプを動かして排水し続けているものもありました
このような井戸跡があちこちにある。今回の範囲ではないが奈良前期の井戸跡からは木製黒漆塗壺鐙が出た。
大人数を相手に奮闘する説明員の方。お疲れさまでした
遺物の説明会風景。遺構の多さに比べれば全体的に少なめだが方形周溝墓からの出土物はさらに少ない。
赤く着色されているのが見えます。他に線刻の施されたものもあり
11号方形周溝墓出土の土師器器台。底が丸い土器をのせるためのもの。後の埴輪に近い役割か。
こうしたものが各住居にそれぞれ備えられていたらしい
住居跡から出た石製模造品。剣・鏡・勾玉の三種の神器を模したとされるもの。剣はかなりスーパーデフォルメ版。
甕の右に見える須恵器壺(部分)は入れてあった漆がわずかに残ってました
溝跡から出た須恵器大甕。全体に大雑把なハケ目あり。口縁部はしっかり多段形に作られている。
広大な調査区域です
北西から遺跡全域。左が荒川、右上が和田吉野川。既に調査も終盤、やがて遺跡地も再び地下に眠ることになる。

 
2004年9月4日取材
 埼玉県立埋蔵文化財センター主催の現地説明会である。下田町遺跡とその遺物などについては発掘調査速報展で接してはいたが、やはり現地を見てみたい。雲の多いいまひとつの天候の下、勇んで出かけた古墳軍である。
 到着したのはひろびろとした田んぼの果ての堤防際。調査終了区域には既に新しい施設の建物が見えている。いくらか雲が晴れて気温が上がる中、町長の挨拶のあと現地へ。掘り下げた窪地にある発掘現場は風がなく、じわりと暑かった。
 メインの「盛土の残っている方形周溝墓(12号墓)」は、一辺が20mもある大型のもので、四隅が切れていないタイプ。想像していたより周溝は深く、全体に端正な印象だ。残念ながら主体部は検出されなかった。他に夥しい数の住居跡や井戸などの遺構があり、遺物もよく残っているという。弥生から中世にかけての複合遺跡ということで、時間をかけて丁寧な調査が行われているようだ。


扉へもどるイメージ
扉ページへ